肥後盛次外二百二十一名連署起請文
元和五年二月七日 / 冊子 687~691頁
前書を欠くため誓約の具体的内容は不明だが、天照大神以下多数の神仏を勧請し、違反すれば重い神罰を受けると誓い、肥後盛次ら二百二十二名が連署した大規模な起請文。
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元和五年二月七日 / 冊子 687~691頁
前書を欠くため誓約の具体的内容は不明だが、天照大神以下多数の神仏を勧請し、違反すれば重い神罰を受けると誓い、肥後盛次ら二百二十二名が連署した大規模な起請文。
寛永四年八月七日 / 冊子 40~42頁
島津家久が、御目見・祝儀・進物、衣服や道具の贈答、又三郎の養生、家臣間の書状・礼儀、参勤や上洛時の対応など、多岐にわたる家中の取扱いを条目ごとに指示する。
二月十六日 / 冊子 325頁
二月十六日、浜田経重が家中に残した置文。公務の勤め、言動と礼法、争論回避、武士道、飲酒、奉公人への扱い、信仰、親族関係などの日常規範を箇条書きで戒める。
(寛永六年)十一月廿六日 / 冊子 126~127頁
帝王の譲位と院御所、京都での諸評判を伝えるとともに、数寄屋で用いる茶碗・薄茶器、掛物、書状の取次、寺沢兵庫頭への縁組など、国許へ報じるべき諸事項を列挙した条書。
(寛永八年)十二月十九日 / 冊子 253頁
江戸から国元への連絡覚書。上洛時の供衆は騎馬二十~三十騎ほどとし、追加の駄乗馬衆を後から召し寄せる準備を指示する。牧野内匠の照会に対し、江戸に詰める夫婦・父子の証人衆と知行高を書き上げた経緯、高力摂津守の所望品、薩州から黄門様・兄弟への年頭の樽と肴、美々津への船配置ができないこと、能の際に縁へ敷く幅広の毛氈の送付を伝える。
年月日未詳 / 冊子 305頁
伊集院頼久が谷山から退いた後、吉俊ら家臣が、乱逆を続けて国を乱すべきでなく、兵革を止めて国家を保つべきだと進言し、和睦を勧めた記事。
文明五年三月廿六日 / 冊子 476頁
島津立久の御屋形入りに際して行われた犬追物の手組として、島津氏一族と家臣を組別に列挙したもの。
年月日未詳 / 冊子 480~481頁
薩摩を行脚した僧の見聞を基に、国内各地の城郭・地名・領主・家臣・寺社を地域別に列挙した雑録。各城や郷をどの氏族が支配し、どの家臣・寺院が関係したかを由緒とともに記しており、中世薩摩の地域構成、在地勢力の配置、寺社との結び付きを検索できる地誌的記事。
文明六年八月廿三日 / 冊子 481頁
文明六年八月二十三日の犬追物について、島津氏一族と家臣を組別に配し、各人の得点を記した手組。
明応七年七月二十八日 / 冊子 573~574頁
入来院本村諏訪社での座敷順を定めた日記。参列する家臣・座衆を左上・右上・左下・右下の四区画に分け、本村誠方・加賀守らの名を席次に従って配列し、祭礼・寄合における家中と諏訪社座衆の序列を具体的に示す。
文亀三年七月廿四日 / 冊子 580頁
文亀三年七月二十四日に催された犬追物の編成表。島津忠昌家臣ら参加者を複数の組に分け、各組の射手名、持分、人数を列挙することで、競技当日の対戦・射礼の組合せと、家中武士が担った役割を確認できるようにした手組書。
年月日未詳 / 冊子 581~583頁
文亀四年二月十四日、島津忠昌が正八幡宮へ初社参した際の随兵名簿。御屋形に供奉した伊地知越右衛門以下の家臣を組・役割ごとに列挙し、人数、太刀・弓・打刀などの装備を記す。大規模な社参行列の編成、家臣序列、武具構成を具体的に示す。
永禄十二年十月九日 / 冊子 227頁
島津義久が肝付兼盛の軍忠を比類ないものと賞し、親類や年来の家臣十人が戦死・粉骨したことに感心して、大隅国曽於郡内の上三蓋堂名を宛行った文書。速やかな知行と今後の戦功を命じる。
元亀元年春~元亀二年正月一日 / 冊子 232頁
元亀元年春、渋谷党の降参後、入来院・東郷両氏から差し出された諸地を義久が再配分し、家久を隈城地頭に任じ、串木野も与えて移住させた。翌年元旦、家久は家臣全員を甲冑姿で出仕させ、敵が祝日の油断を狙うことに備えた。
年月日未詳 / 冊子 305~306頁
山田越前入道利安らが豊後から帰国する途中の動向と、戦後に龍伯のもとへ出仕した経過を記す。太平寺で召し出され、諸家臣とともに御供・拝領を受ける記事が続き、敗戦後に家臣団の秩序を立て直す主従関係が具体的に表れる。
天正16年10月13日 / 冊子 418~419頁
「嵐香御祓之事」として、月・江・菊・天・気などの語に対応する祓詞と、町田左京亮・伊集院掃部助ら家臣名を列記した儀礼関係の記録。 季節語・歌語のような語句と担当者を組み合わせた一覧で、島津家中の祓・献詠に関わる構成を知る手掛かりとなる。
天正18年7月28日 / 冊子 477頁
入来院本村諏訪社の座敷における左右の席次を、役職・人名ごとに列記した定日記。 御座、衛門尉、東兵部少輔など二十数名の配列が分かり、地域家臣団の序列と祭礼・会合運営を知る資料。
年月日未詳 / 冊子 587頁
島津義久が、秀吉への背反を理由に処刑された歳久を実の弟として嘆き、涙を拭って遺書を読んだ心情を記す。 義久は歳久の書状を自害の直前に右筆へ書かせたものと考え、歳久に従った家臣十四人が前言に違わず戦死したことも記録する。政治的処罰の裏側にある兄弟の悲痛を伝える重要記事である。
(天正20年)7月18日 / 冊子 595~596頁
島津歳久(晴蓑)が近習衆へ、自分は病で手足も不自由であり、秀吉に反逆する意図はなかったと弁明する遺書。島津家累代を守るため自分一人が自害すると家臣へ繰り返し伝えたが、家臣が承諾しなかった事情も記す。 病身の当主と従臣との葛藤、処断直前の心情を本人の言葉で伝える重要な史料である。
天正20年7月26日 / 冊子 598頁
島津義久が袈裟菊丸へ、歳久の妻子・袈裟菊丸と母ら三人、さらに家臣までが今回の取り扱いに従って宮之城を下城すれば、以後の安全を保障すると誓約する。 約束に違反した場合は梵天・帝釈天をはじめ日本六十余州の神々から罰を受けると明記する。幼い後継者と一族を安心させ、籠城を終わらせるための義久側の起請文である。
年月日未詳 / 冊子 791頁
文禄三年七月二日、北郷忠虎が都城を出発して再び朝鮮へ渡り、島津義弘に従ったと記す。これ以前の戦闘で忠虎の家臣には多数の戦死者が出ていた。 大きな人的損害を抱えながら再渡海した北郷勢の動向を短く伝える家譜記事。
年月日未詳 / 冊子 913頁
北郷氏が日向都城など十五か所・六万九千石から、薩摩祁答院三万七千石へ所領替えとなった経緯を記す。 長千代丸と一雲法印の移住、家臣団の随従・残留、旧領との関係調整まで述べ、豊臣政権下の大規模な国替えが家中に与えた混乱を具体的に伝える。
年月日未詳 / 冊子 32頁
本田助之丞家蔵文書に収める、近衛信輔が庄内都城で興行した和歌会の作品群。「松蔭新涼」「秋日同詠松蔭新涼和歌」などを題に、近衛信輔、龍伯、大蔵少輔長治、左衛門尉長家ほか島津家臣らが、松陰・秋風・露・涼しさを詠んだ。
年月日未詳 / 冊子 33頁
近衛信輔が西国から帰洛する折、大隅富隈で催した和歌会の懐紙。「当座薄露」「寄鏡神祇」などの題で近衛信輔と島津家臣らが詠み、慶長元年七月六日の帰京出立時の歌も収める。公家と島津家中の文芸交流を示す和歌資料。
四月□ / 冊子 97~99頁
朝鮮における島津義弘の本陣警固を、一番以下の番組ごとに編成した番帳。南郷覚右衛門尉をはじめ多数の家臣名を列挙し、黒丸・白丸の印を付して役割を区別する。
年月日未詳 / 冊子 123~124頁
『殉国名薮』から、慶長二年の唐島・南原など朝鮮出兵中に戦死した島津家臣を、七月十五日、八月十五日、同廿八日、十一月十八日などの日付ごとに列挙する。小字で人物の所属や戦死事情を注記する。
年月日未詳 / 冊子 175~182頁
「殉国名数抄」として、慶長の役で戦死・病死した島津家の家臣、諸士、従者らを列挙した戦没者名簿。氏名だけでなく、所属地・役職、親子・兄弟・孫などの家系関係、戦没地や年月日、蔚山・泗川・南原などでの戦死、船中・陣中での病死といった事情を小字で付記する。無姓氏の兵や朝鮮陣没者を含む、多数の犠牲者を家ごとに記録した史料である。
年月日未詳 / 冊子 200頁
徳川家康が島津義久の私宅を訪れ、朝五時から夜四時まで滞在して帰ったとの記事。続いて、慶長三年に義久が伏見にいた際、石田治部少輔と相談して島津家の雑事に関する法度条目を作成し、家臣らへ与えたことを記す。
十月十九日 / 冊子 599-600頁
黒田如水(円清)が伊那因幡へ、宮崎城を攻め取った働きを称え、徳川家康へ報告すると伝える。小倉を受け取った後に筑後へ進み、高橋・柳川・筑紫へ使者を置いて当月中に薩摩へ赴く予定を示し、捕えた島津家臣数人は使者に託して島津方へ返すよう依頼する。
年月日未詳 / 冊子 746頁
島津家久譜に、近衛信尹から書状を賜ったことを記す記事。関ヶ原合戦後、島津家臣らが京都へ逃れて生死も不明となった際、信尹が朝廷へ取り次いで救助したため、忠恒が謝礼の書状二通を京都へ送った経緯を述べる。
(慶長七年)七月十六日 / 冊子 826-827頁
島津義弘が忠恒へ、上之山城普請を見分した所見を伝え、兵部少輔にも意見を含めたと述べる。城・屋形の移転や普請方法、家臣の配置と費用負担について独断を避け、関係者の意見を聴いて慎重に決めるよう諫めた。
年月日未詳 / 冊子 840頁
北郷久村譜は、慶長七年八月の野尻で伊集院忠真を討った際、島津右馬頭が率いる軍勢に久村が加わったことを記す。忠真方の激しい抵抗を破って攻撃し、久村の家臣十余人が戦死した。
(慶長十六年)六月六日 / 冊子 338~339頁
慶長十六年六月六日、荒木元満が島津家久に、家臣の忠節・不和、使者の扱い、献上馬と馬具、下着の者、幕府への取り次ぎなどについて詳しく報告した書状。
寛永五年四月十二日 / 冊子 60頁
島津家久が、高岡地頭職を島津久元へ申し渡し、久元が帰国するまで現地の者が諸事を慎重に処理するよう命じる。また比志島国隆の不行跡を条書で周知し、旧家臣が他所で奉公することを認め、隣国との紛争を起こさないよう指示する。
寛永九年六月吉日 / 冊子 281~285頁
寛永九年六月の島津氏出陣賦。第一番から第五番までの部隊ごとに出陣時の指揮者・相付衆・家臣名を列挙し、弓・鉄砲・鑓・騎馬の数量、旗本や供衆、各組の編成を定めた大規模な軍役・動員名簿。
年月日未詳 / 冊子 334~351頁
寛永九年の高帳写。島津氏家臣・役人・外城担当者を知行高順に列記し、各人の石高、役職・官途・配置先を記す。高禄層から百石前後までの多数の家臣、人数合計、出水・阿久根・水引・各外城の衆中や軍役人数も収録する。
年月日未詳 / 冊子 445~446頁
寛永十一年八月中旬、島津家久が国元へ帰還したことと、従駕した家臣に関する記事を記す。
寛永十一年十一月廿六日 / 冊子 458~460頁
島津家久が北郷忠貞へ、三万石に応じた出陣時の馬二十騎と、諸士から出す馬六十騎を整える一方、定数外の馬の飼置きや飼犬十疋を超える飼育、華美な衣裳や京都物、大酒を禁じ、家臣の疲弊防止、公正な処罰、学問・行儀、領主の模範、北郷家の繁栄と島津家への忠節を求めた教訓条書。
正月廿八日 / 冊子 185~195頁
入来院氏領内の給地を、給地人ごとに田畠・屋敷・門・浮免などの地目と町・反・升単位の面積で列記した反町付帳。家臣団に加え寺社領・神領なども記し、末尾で田畠五百六十一町余、籾大小二万二千八十七俵余と総計する。入来院氏の知行構成、家臣団編成、寺社領と村落景観を復元できる基礎史料。
年月日未詳 / 冊子 320~321頁
『日新記』の記事。家臣の子弟が遊惰に流れないよう、学問・書道・武勇・軍学・兵術・歌舞・音楽など各自の才能に応じた修業を命じ、仏経禅衣にも通じて一芸を身につけ、主君に奉仕するよう奨励したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 331頁
加世田保泉寺の客殿改築に際し、島津忠良自ら山田山へ入り、数十人の杣人に楠木を伐らせ、十六日間仮の草庵に滞在した記事。一族・家臣も集まって工事に尽力し、改築後の保泉寺を日新寺と称した。
文明六年十月十八日 / 冊子 482頁
文明六年十月十八日、肝付での参会時に行われた犬追物について、参加者を組別に配し各人の得点を記した手組。
文亀四年三月廿二日 / 冊子 584頁
文亀四年三月二十二日の犬追物について、島津備前守・豊後守ら各組の射手名と持分を列挙した手組書。
天正16年2月13日 / 冊子 379頁
世上が大きく変転しても島津義弘とその子孫へ二心なく忠貞を尽くし、他方から謀略の誘いがあれば直ちに言上すると誓う。 讒者の讒言を聞いた場合も速やかに報告して釈明し、偽りがあれば神罰を受けるとした起請文前書の案。
(天正16年)9月3日~10月14日 / 冊子 388頁
龍伯が九月三日早朝に京都を辞して大坂へ向かい、十月十四日亥刻に鹿児島の居宅へ帰着したことを記す島津義久譜の記事。帰国した龍伯を、重臣・旧臣から老若の家中まで残らず喜んで迎えた。豊臣政権への服属と在京を終え、島津家当主が領国へ戻った時点を簡潔に伝える。
文禄3年6月 / 冊子 793頁
文禄三年六月、島津義弘が朝鮮から国元へ伝えた覚書の一節。国元の軍役を百石につき五人と定め、全員を渡海させるとの話を前年春以来聞いていたと記す。 しかし現在まで一人も渡海せず、軍役を実行する手はずさえ整っていないと厳しく批判する。朝鮮在陣軍の兵力不足と、領国側の動員命令が実行されなかった状況を数量基準とともに示す史料である。
(寛永九年)六月十三日 / 冊子 285頁
水野勝成ら五名が島津家久に、加藤忠広の領国召上げに伴い加藤家中の者が退去するため、彼らが薩摩領内へ来た場合には宿を貸して休ませても差し支えない旨を伝えた連署書状。追而書では家久父子の無事を承知したことも述べる。
年月日未詳 / 冊子 296~301頁
軍功に対する御感状・給付を望む者百八十三人を、名乗りと家督、親子・一族の討死、軍功などの注記を付して列挙した交名。
元治元年正月(天皇賞)/2月(幕府賞)/去歳7月戦闘への言及 / 冊子 327頁/原整理番号 461/整理ID 461
島津氏家譜。元治元年正月、天皇が軍功を賞して御馬一匹を賜り、前年七月の英国船来航時の対応と神州の威武を称える勅を下したと記す。茂久は在国していたが旨を伝えて賞し、家臣の尽力にも判金十枚を賜ったとする。実父久光・茂久の二代で恩を受けたと述べ、二月には幕府が大小二刀を賜り藩屏の任を尽くした労を賞したと記す。三種の賞と月を分け、称賛は家譜の叙述として整理する。
大永七年十二月二日 / 冊子 647~648頁
新納忠勝が、大永三年以来続く兵乱で一族・家臣が相次いで戦死したことを神前に訴えた願文。敵方の平定、残る家臣の安全、家運の再興と今後の軍利を祈り、忠勝自身が神仏へ奉仕して報恩することを誓って戦争終結への願いを示す。