帖佐宗辰覚書
年月日未詳 / 冊子 626-627頁
帖佐宗辰は、徳川家康が上杉征討で関東へ出陣中に石田三成が反乱し、西国大名を動員した経緯を記す。島津義弘(惟新)は家康と事前に申し合わせがあったため石田方への加担をためらったが、供人数不足でやむなく石田方に属し、伏見城の鳥居元忠攻撃に参加した。
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年月日未詳 / 冊子 626-627頁
帖佐宗辰は、徳川家康が上杉征討で関東へ出陣中に石田三成が反乱し、西国大名を動員した経緯を記す。島津義弘(惟新)は家康と事前に申し合わせがあったため石田方への加担をためらったが、供人数不足でやむなく石田方に属し、伏見城の鳥居元忠攻撃に参加した。
年月日未詳 / 冊子 656頁
九月十五日申刻頃、島津義弘(惟新)以下が飢えていたため、本田源右衛門が京都に詳しい帖佐宗辰へ五十人分の食事調達を命じた。宗辰は村で不穏な相談を聞き、島津方の指物を見付けて本隊を追ったが、村人に襲われて切り抜ける過程で従者五人のうち三人が戦死し、二人が行方不明となった。
年月日未詳 / 冊子 656-657頁
十六日、帖佐宗辰は相模国の者を装い、石田方の敗兵を追って道に迷ったとして、村の亭主に五十人分の粥を頼んだ。島津義弘(惟新)を柴籠の陰に隠して座敷を避け、供衆を通常の一行のように見せ、粥ができると全員で食し、所持する銀子一枚を礼として渡した。
年月日未詳 / 冊子 657頁
伊勢国境へ向かう道を知る者がなく、関所も多いため、一行では切腹の時機まで議論された。帖佐宗辰は在所の者を案内人に求めるよう進言し、捕らえた道行人に一部を案内させた。案内人が先を知らないと辞退したため、伊勢平左衛門が交替して案内人探しに向かった。
年月日未詳 / 冊子 659頁
関ヶ原の乱戦後、島津義弘(惟新)が一行に鎧を脱ぐよう命じたが、帖佐宗辰は義弘の危機に備えて鎧を残し、愛宕大権現へ無事帰郷後の奉納を誓った。甲・小具足だけを捨て、堺浦まで鎧を着て供奉し、船に乗せて持ち帰った。
年月日未詳 / 冊子 659-660頁
慶長十六年夏、文右衛門が島津義弘(惟新)存命中に再会したいとして薩摩へ下り、帖佐宗辰に取り次ぎを頼んだ。本田源兵衛を介して上聞に達し、義弘は文右衛門を召して関ヶ原当時を語り、加治木に留めて饗応した。文右衛門は入道して「一作」の名を与えられ、褒美を受けて帰った。
年月日未詳 / 冊子 627頁
鳥居元忠を攻め滅ぼした後、石田三成は家康の帰還を見越して美濃へ進み、大垣に布陣した。島津義弘(惟新)も陣を置いたが、偵察兵から家康軍が野山を埋める大軍だとの報告を受け、西軍敗北を予測する。十四日夜、大垣に少人数と火縄・竹を残して大軍に見せかけ、関ヶ原へ退いて陣を取った。
年月日未詳 / 冊子 657頁
同日夕方、退路を知る者がなく進路を評議した。伊吹山へ入る案に対し、伊勢平左衛門らは落人が山へ向かうことは敵も予想するとして、かえって海道を進む案を示した。島津義弘(惟新)は道筋を進み、危難に遭っても運命の尽きる時だと覚悟を述べ、海道退却を選んだ。
年月日未詳 / 冊子 657-658頁
案内人が見つからない折、萩の中から現れて南へ歩く狐と、畑から南へ飛ぶ鳩を、源氏の氏神が帰国路を示した徴と受け止め、三度拝して道案内を祈った。南へ進むと、白髪・白髭で大小の刀と鉈を帯びた在所の男に会い、身分を隠して紀伊国の者と称し、伊吹山下の道を聞いた。妻子を先へ遣ったとして同行を断られると、刀を抜き、案内すれば礼をするが拒めば命を取ると迫った。男が承諾すると大小の刀を取り上げ、島津義弘(惟新)の前へ連れて行った。
年月日未詳 / 冊子 658頁
案内人の名を文右衛門といい、関ヶ原山中から摂津国境の堺浦まで島津義弘(惟新)一行を導いた。義弘は古木綿の道服と破れた菅笠で下人に変装し、粗末な食事や絶食に耐え、山坂を徒歩で越えた。文右衛門は木を切り渡して道を作り、十九日夕方に堺浦へ着くと過分の銀子を与えられて帰された。
年月日未詳 / 冊子 658-659頁
関ヶ原敗戦後、大坂で囲われた御前様・御懐様・宰相様について、真言宗僧の仙秀坊が奉行所へ働きかけ、御免書を得て下向の準備を整えた。立花飛騨守の助力で九月十九日夜に出船する予定のところ、堺へ到着した島津義弘(惟新)から川口で待つよう連絡があり、立花も同行して川口へ下り、義弘の船へ乗り移って帰国した。
年月日未詳 / 冊子 659頁
慶長十四年頃、関ヶ原で案内した文右衛門が馬の爪打二つを島津義弘(惟新)へ進上した。義弘は文右衛門を加治木へ召し、一つは本人へ返す旨を示したうえで、助宗作の品二つを褒美として与えた。
明応7年~宝暦年間(系中) / 冊子 518~528頁/原整理番号 27-4
大隅国郡智尾権現の社家・丸氏について、明応7年の智尾権現上棟文に見える建部弟子丸宗弘(治部左衛門尉)を起点とし、宗元・源次・宗益・宗辰・宗重・宗武・弘之・弘中・弘充・宗方・宗時・宗意・宗茂・宗信・宗祐・宗門・宗安・盈隆らへ続く系譜。備前守らが島津忠隆・貴久期の志布志城・蒲生城などの戦いで討死したこと、宗益が日向福島警衛、河辺野間名三百斛など合計六百斛余の領知と地頭職を得たこと、宗辰が朝鮮出兵で軍功を挙げたことを記す。宗重以後は綱久・綱貴らへの奉公、京都御蔵奉行、琉球在番、江戸供奉・茶屋勤、智尾権現社殿の修造、各村の地頭職・御目付役・小姓役などを詳細に列挙する。宝暦年間には琉球在番からの帰帆が暴風で損傷しながら帰着して賞された記事があり、別系には肥前島原の一揆時の動員、日向国真幸院吉田地頭職六百斛、家久看病、朝鮮軍功感状などが見える。鹿児島の大火で宗茂宅と家伝・武具が焼失した際、宗茂が官庫へ納めていた模写を根拠に証判・感状を再下付された経緯も記す。各人の生没年・年齢・法名、母・妻の出自、女子の婚姻、養子、分家、無嗣断絶を併記し、盈隆と養子・後裔までを収める。
至徳元年11月26日~慶安元年9月28日(犬追物記録)/後続系譜は元文4年まで / 冊子 469~479頁/原整理番号 15-1
島津氏久・忠国・立久・忠昌ら歴代当主の時代から、至徳元年十一月二十六日以降に行われた犬追物について、実施日、飫肥・福島・志布志・鹿屋・江戸王子などの会場、平田氏と伊地知・島津・北郷・本田・種子島氏らの手組を年代順に列挙し、慶安元年九月二十八日までを記録する。平田家が本名字『小松』を称さなかった事情、丸内二つ引を陰陽に見立てた陣幕紋として太郎左衛門代まで用いた由緒も付す。後半は平田氏諸流の系譜で、渋谷勢退治・平松岩剣・新納山城・高麗陣などでの戦死・戦功、知行・地頭職、婚姻・養子、没年・法名を記し、御記録所の照会に応じて旧記・系図・聞書を突き合わせた系図改訂記事を経て元文四年まで続く。