島津氏久宛行状
正平十二年四月廿八日 / 冊子 5頁
島津氏久が比志島太郎に、大隅国肝付郡内木志良村の地頭弁分と羽見村地頭職を兵粮料所として宛行い、一族らへ分配して先例どおり知行し、軍功を励むよう命じた宛行状。
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正平十二年四月廿八日 / 冊子 5頁
島津氏久が比志島太郎に、大隅国肝付郡内木志良村の地頭弁分と羽見村地頭職を兵粮料所として宛行い、一族らへ分配して先例どおり知行し、軍功を励むよう命じた宛行状。
正平十四年四月十九日 / 冊子 14頁
島津氏久が野崎太郎左衛門尉の忠節を受け、柏原保東方を兵粮料所として預け置き、先例どおり領知してさらに軍功を尽くすよう命じた文書。
延文五年八月廿二日 / 冊子 19頁
島津道鑑(貞久)が、本田兼阿跡の薩摩国山門院内葉成河地頭代官職を兼阿の孫・本田金太郎へ宛行い、先例どおり沙汰して知行するよう命じた下文。
貞治元年十月十七日 / 冊子 30頁
足利義詮が若松孫太郎に、同年三月三日の薩摩国宮里城合戦で挙げた軍忠について島津大夫判官の注進を受け、神妙と賞して今後も戦功を挙げるよう求めた感状。
貞治元年十月十七日 / 冊子 30頁
足利義詮が薩摩郡司弥太郎に、同年三月三日の薩摩国宮里城合戦で挙げた軍忠について島津大夫判官の注進を受け、神妙と賞して今後も戦功を挙げるよう求めた感状。
貞治三年七月廿五日 / 冊子 40頁
北郷道明が犬太郎丸へ日向国北郷三分一を永代譲与し、公方御公事は惣領宮次郎丸の支配と先例に従って勤仕させることを定めた譲状。
応安二年十二月十四日 / 冊子 53頁
兼阿が父子契約により、重代相伝の大隅国肝付郡岸良村弁済使職を証文とともに鍋太郎丸へ永代譲与し、子孫の領知を定めた譲状。
応安五年五月廿日 / 冊子 61頁
今川了俊が、島山治部太輔入道が味方として肥後国へ出陣したことを伝え、早急に同心・合力して忠節を尽くすよう土持左衛門太郎へ命じた軍勢催促状。
応安五年十二月十一日 / 冊子 63頁
今川了俊が、日向国飫肥郡内北郷を兵粮料所として定め置き、異議があれば改めて沙汰すると土持三川守太郎へ伝えた書下。
応安七年八月廿二日 / 冊子 70頁
比志島範平が嫡子孫太郎に、薩摩国満家内の比志島名・西俣・河田・城前・上原薗の惣領職と関係文書を譲り、名内の一部水田は弟犬一丸へ分与するよう定めた譲状。
応安七年十一月廿二日 / 冊子 72頁
沙弥観了が犬太郎母に、薩摩国満家院内の村の所領を一期の間譲り、その死後は犬太郎丸が処置するよう定めた譲状。
永徳三年十二月廿四日 / 冊子 123~124頁
渋谷重頼が向殿太郎入道に、父の譲状どおりの知行を承認し、所領に違乱・妨げが生じた場合には扶持を加えると約した安堵状。
至徳三年十二月十三日 / 冊子 131頁
鴨守長が子の下主太郎に、上財部の日光神の正祝職を重代相伝の職として譲り、公方のための祈祷に精誠を尽くすよう定めた譲状。
明徳四年十月廿八日 / 冊子 149頁
息長道辰が、重代相伝した弥勒寺領内柿木園の六段を代銭三十貫文で浜四郎太郎兼教へ永代売却し、子孫にわたる所有を認めた沽却状。
応永二年二月廿七日 / 冊子 158頁
島津元久が波見太郎に、求二郷内の岩切跡を給分として宛行い、先例どおり領掌するよう命じた宛行状。
応永三年十一月十六日 / 冊子 166頁
島津伊久(久哲)が武光三郎太郎に『伊兼』の名字を与えた書出。
応永三年十一月廿七日 / 冊子 167頁
宮里信正が、薩摩国宮里郷内ひろつぼ三反大坪の所領を、はきの六郎太郎入道へ永代に譲り、子孫まで知行するよう定めた譲状。
応永八年十月九日 / 冊子 203頁
島津元久が野口太郎兵衛尉へ、大隅国姫木中城村一所を野口氏重代相伝の居屋敷として宛行い、後日の証拠とした宛行状。
応永十二年二月十五日 / 冊子 217頁
島津元久が野口太郎兵衛尉へ、大隅国守護所本職について、先例を守って沙汰するよう命じた書下。
応永十九年二月廿一日 / 冊子 264頁
島津久豊が野崎太郎に、大隅国肝付内野崎の三十町を給分所として宛行い、先例どおり領知するよう命じた宛行状。
文安六年二月九日 / 冊子 419頁
平家教が亀太郎丸へ、横峰村・くきさこ・芝引・しもたかう・上原などの所領と屋敷を列挙して末代の財所として譲った譲状。
天正十一年四月十日 / 冊子 752頁
島津義久が城拾郎太郎へ、元服の件を使節から聞いて喜び、希望どおり取り計らうこと、今後さらに親密にすることを望み、祝儀として馬一疋を贈った書状案。
(天正15年)2月2日 / 冊子 291~292頁
島津義久が佐多久太郎へ、年頭の祝意と飯野での年越し番の辛労をねぎらい、近日中の境目出張に備えて軍勢を催促するよう求めた書状。必要人数や期限の細目は老者衆から伝えるとしており、出陣準備の実務を示す。
文禄4年3月28日 / 冊子 872頁
義弘が、四名の者について朝鮮での在陣以来の辛労は比類なく、島津家への奉公としてこれ以上ないものだと評価した書状。 祢占七太郎に対し、今後はその功績を十分に心得て処遇するよう求める。個人名を列挙せず、四名をまとめて顕彰・取次した点に特徴がある。
(慶長四年)七月廿八日 / 冊子 409頁
樺山久高が平田太郎左衛門尉に示した覚書で、城内の普請、間仕切りや竹坂、諸口の番衆、板城戸、城近辺の山林伐採禁止、弓鉄砲、城屋敷、蔵米・財部・福島に関する事項などを箇条書きにする。普請と警備・物資管理を怠らず、諸事を監督するよう命じる。
慶長五年十月十日 / 冊子 594頁
島津義弘(惟新)が桂太郎兵衛尉へ、関ヶ原合戦で奮戦し、伊勢・近江・伊賀・大和・河内・和泉を経る帰国路でも片時も側を離れず奉公したことを賞し、知行二十石を与える。
年月日未詳 / 冊子 248頁
元亨四年十一月十日に島津貞久が北志嶋孫太郎へ与えた判物について、花押は貞久が道鑑と改称した頃のものとみられ、対象地は島津氏知行地内であったことを注記した覚書。
十月十一日 / 冊子 276~277頁
島津勝久が、前日の使者の申し入れ、女房と鹿児島方面の事情、本田・肝付越前守らの動向、海上と船の手配について樺山助太郎へ伝えた書状。
七月七日 / 冊子 277頁
肝付久兼が、樺山助太郎の滞留と辛労をねぎらい、帰宅・出頭の時期や使者による申し入れを伝えた書状。後続の契約条項は枝番No.635-2として分離した。
慶長六年二月八日 / 冊子 749頁
島津忠長が、祁答院・宮城は当時空城であるため、今回の軍事行動中に妻子を置き番を務めたいとの申出を認める。又吉との先約を踏まえ、求めがあればいつでも返上すると証した。
慶長八年十一月十八日 / 冊子 917頁
島津忠恒が桂忠康へ、宇喜多秀家の上洛警衛を命じたところ、怠りなく即座に出立して任務を果たした忠節を賞する感状。功績を永く忘れないとして、信国作の脇指を与えた。
十月廿八日 / 冊子 545頁
山田氏が代官として上府し、諸事満足な状況になったことを喜ぶ。今後は代官一人に任されるのか、上方の意向がどうだったかを尋ねた沙弥幸阿書状。
応永卅五年九月二日 / 冊子 342頁
島津犬太郎丸が宮古若狭守久種に、薩摩国薩摩郡宮古村十町を名字の地として先例どおり知行させた宛行状。
正平十三年八月十二日 / 冊子 6~7頁
島津道鑑(貞久)と師久が、道鑑の重代所領である薩摩郡内勧童・永利両名の地頭職を永利又太郎友秀へ永代に譲り渡し、子孫を含む第三者の違乱を禁じた連署去状。所領の落着後は日次公事を停止すると記す。
正平十三年八月十二日 / 冊子 11頁
島津道鑑(貞久)と師久が、道鑑の重代所領である薩摩郡内勧童・永利両名の地頭職を永利又太郎友秀へ永代に譲り渡し、第三者の違乱を禁じた連署去状。本文はNo.20と同文のため省略される。
延文六年五月廿八日 / 冊子 20頁
島津師久が薦野太郎次郎宗泰に、薩摩郡時吉名内の水田三町を給分として宛行い、別紙坪付と先例に従って知行するよう命じた下文。
宝暦九年七月朔日 / 冊子 727頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2201
宝暦九年七月朔日付の加冠仮名書出は、伊集院萬太郎の加冠に際し、半之丞と称するよう定める。本文に「御判」と記す。
宝暦九年七月朔日 / 冊子 727頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2202
宝暦九年七月朔日付の加冠仮名書出は、嶋津安太郎の加冠に際し、主水と称するよう定める。本文に「御判」と記す。
宝暦十年三月二十五日 / 冊子 752頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2300
重豪の三月二十五日付の加冠仮名書出で、嶋津熊太郎の仮名を「太郎次郎」とする。本文には「御判」と記される。
安永六年酉十月二十八日 / 冊子 539頁/原整理番号 1500/整理ID 1500
加冠に際して半之丞とすべき旨を記す。安永六年酉十月二十八日、重豪公御判。伊集院亀太郎の名と半之丞の名を記す。
元治元年甲子8月18日茂久御判;子9月5日感状授与注 / 冊子 377頁/原整理番号 540の4/整理ID 540-4
先月十九日の長州勢襲来で、亡父野村勘兵衛が隈之城一組の物主として公家御門を警衛し、多数の敵と遭遇して防戦し戦死した働きに感じ入り、切米十五石・金五枚を宛てて優證する感状。元治元年甲子八月十八日茂久御判、野村熊太郎殿宛。子九月五日にこの感状を与えたとの注を持つ。親族宛軍賞通知との対応を示すが、同額の記載を重複支給と判断しない。
(天正20年)10月 / 冊子 610頁
島津義久(竜伯)が、朝鮮への軍勢・兵糧輸送を優先するため上洛を延期したと伝え、船がないことを理由に渡海を遅らせれば処罰対象になると厳しく警告する。 船を購入してでも、まず千五百人ほどを早急に渡海させ、番衆と兵糧も確実に送るよう命じる。島津領内における兵員・船舶・食糧調達を具体的な人数付きで督促した軍役書状である。
(慶長二年)五月十一日 / 冊子 101頁
島津忠恒が、赤国方面の軍役と朱印による人数割当てを受け、家中の人員・馬・兵糧・船を点検して渡海準備を整えるよう三名に命じた書状。海上での遅滞を避け、現地の必要に応じて配分することも指示する。
萬暦廿五(慶長二)年五月廿七日 / 冊子 103頁
中山王尚寧が三名に、これまで音信がなかったものの、朝鮮在番から無事帰朝したと聞いて喜び、今後は親しく交誼を結びたいと伝えた書状。琉球の産物を別紙のとおり贈る。
十月廿二日 / 冊子 267~268頁
島津忠恒が十月廿二日付で薩摩の重臣らへ出した書状。明の大軍が蔚山・順天・泗川の三道へ分かれ、泗川城を数十万騎で包囲したため、長期籠城を避けて出撃し数万を討ち取ったと詳報する。白狐・赤狐が戦場を走ったことを神仏の加護として記し、順天の敵船焼討ち、再開された和平交渉、帰朝の見込みを伝え、留守居衆に油断なく相談するよう命じる。
慶長三年十一月廿三日 / 冊子 288~291頁
石田三成が島津三殿の蔵入支配を総合的に定めた覚書。台所飯米等を除く米の払い出しを止め、旧来の納入実績が低い代官は所領物成を押さえて交代対象とし、納入実績に応じ口米・勘米を与える。人身売買の禁止と売られた者の返還、奉行・代官の職務と算用の徹底、京都借銀の米による返済と借状回収、上様蔵入・浮知・三殿物成の別蔵・封印を命じる。さらに破損船と他国商船の扱い、銭の唐国流出禁止、大豆販売、諸夫割付、用木伐採の許可制まで規定する。
(慶長三年)十一月廿四日 / 冊子 291頁
八十島助左衛門佐が旅庵の来訪に礼を述べ、算用・免合について石田三成へ詳しく申し入れ、条書を送ったので関係者へ伝えるよう依頼する。朝鮮では帰国船出発予定の十・十一日ごろ、小西行長の居城が敵船約五百艘に包囲されたため、島津義弘が播州飾磨の古城を引き払い、十七・十八日に後詰へ向かい、諸将も救援したと報じる。結果は未詳ながら勝利を期待し、続報を約す。
(慶長十八年)九月十七日 / 冊子 413~414頁
慶長十八年九月十七日、比志島国貞・伊勢貞昌が、悪党による夜間放火の企てを報じ、陸奥守の人員を見廻りに当て、山中警戒と処罰を徹底するよう命じた連署状。
五月廿三日 / 冊子 164頁
奥入りが決定したため兵員・馬を早く渡海させるよう八木民部左衛門尉らに命じ、伊集院忠棟が上洛した場合は三人で事情を聞いて尽力するよう求めた。少しでも油断すれば国家滅亡に至ると強く警告した書状。
五月十一日 / 冊子 164頁
朝鮮在陣の大名へ秀吉朱印状が出され、島津勢の軍役を千人とする命令を受けたため増員を求めた。浜市・帖佐・鹿児島から兵員と馬を集め、七月中に必ず参陣させ、軍勢を整えても遅参すれば無意味なので直ちに出船させるよう三人へ厳命した書状。