大口諏訪社段銭反米日記
元亀三年七月吉日 / 冊子 290頁
大口諏訪社の造営・祭祀に充てる段銭と反米の負担を記した日記。各負担者の田地面積に応じて銭・米を割り当て、本文では人名の多くを省略しつつ、十八町分として銭三百二十文・米五斗八升などの集計を掲げる。
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元亀三年七月吉日 / 冊子 290頁
大口諏訪社の造営・祭祀に充てる段銭と反米の負担を記した日記。各負担者の田地面積に応じて銭・米を割り当て、本文では人名の多くを省略しつつ、十八町分として銭三百二十文・米五斗八升などの集計を掲げる。
二月廿七日 / 冊子 108頁
地頭新納加賀の遠行に伴い、当地の仕置に特に注意するよう命じた覚書。法度違反、喧嘩の下知への不服従、地域の妨げとなる者があれば身分を問わず速やかに届け出て、後任地頭が定まるまで警戒するよう求める。本文末の日付は十二月廿七日と読め、目録の二月廿七日と相違する。
年月日未詳 / 冊子 764~767頁
寛永十五年二月二十八日の原城本丸攻撃における大口衆の戦功を列挙した注文。槍働き、首級、太刀打ち、負傷、戦死などを人名ごとに記し、福崎新兵衛尉・仁礼左近・三原大蔵・松下源五左衛門尉ら証跡人も付記する。
永禄十年十二月廿九日 / 冊子 178頁
永禄十年十二月二十九日、市山口の足軽が評議なく大口城下へ進んだため、球磨・大口勢が数手に分かれて攻撃したことを記す。西原川口で市来家利・平田加賀守・伊集院久慶が防戦したが多勢に敗れて戦死し、敵は市山城下まで迫ったものの、弓・鉄砲で多数を負傷させられて大口へ退いた。
永禄十年十二月廿九日 / 冊子 178頁
永禄十年十二月二十九日、市山口の足軽が無評議で大口城麓へ近づいたところ、球磨・大口勢が大軍で出撃したことを記す。市来家利・平田加賀守・伊集院久慶は西原川口で戦ったが討死し、敵は市山まで追撃したものの鉄砲で大きな損害を受けて大口へ退いた。
永禄十一年正月廿日 / 冊子 181~182頁
永禄十一年正月二十日、大口方の兵約三千が堂崎へ出た際、義久・義弘ら若武者が方位・時日を考えずに敵へ向かい戦闘となった記事。敵の多勢に押されて島津軍は敗れ、多数が戦死・負傷した。義弘は前後左右を囲まれながら何度も返し合わせて戦い、大河を渡って曽木へ退いた。
永禄十一年五月上旬 / 冊子 198頁
永禄十一年五月上旬、山野・羽月・平泉の番替を大口方が狙って伏兵を仕掛けたため、日新が山野を相良方へ渡して一時和睦するよう勧めたことを記す。味方を多く失えば戦いの進め方が悪くなるとして、天意が巡れば敗れても後に勝てるとの判断から、相良氏との和議を成立させた。
永禄十一年五月上旬 / 冊子 198頁
永禄十一年五月上旬、山野・羽月・平泉の番替えが行われる時機を狙い、大口城から野伏が仕掛けられたことを記す簡潔な覚書。
永禄十一年五月 / 冊子 198頁
本文ではNo.460記事の前半と同文のため省略される譜中記事。大口方の勢力が増して島津方の戦死者が多くなったことから、日新の意見に従い、山野を相良氏へ渡して和睦を成立させた内容に当たる。
永禄十一年八月九日 / 冊子 199~200頁
永禄十一年八月九日、大口方が前約に背いて堂崎の通路へ陣を築き、伊東義祐も相良氏と結んで飯野桶比良へ陣を構えたことを記す。加久藤・馬関田の百姓が敵方へ心変わりしたため、義弘が飯野の守備を固め、桶比良攻撃を企てたが長雨で実行できなかった。島津方の武士が伊東陣を嘲る狂歌を陣下へ立てた。
永禄十二年正月廿日~五月六日 / 冊子 212頁
本文は「全上」とのみ記され、直前のNo.480と同文であることを示す省略記事。和睦破綻後、家久を囮として戸神尾・稲荷山の伏兵へ大口方を誘い、百三十六の首級を得て敵勢を削いだ内容に当たる。
永禄十二年五月六日~九月 / 冊子 219頁
戸神尾・稲荷山に二段の伏兵を置き、家久と大野・宮原勢が大口・相良勢を破って百三十六首を得たとする雑本の記事。八月十八日に大口城を包囲し、敵の降参後、九月に城内で太平の祝宴を行ったことも記す。
〔慶長五年〕正月廿六日 / 冊子 709頁
新納忠元が樺山権左衛門尉へ、芦北方面から百姓を帰還させる件について、残留者は現地で不忠を働いた者で帰れないと申し立てていることや、出家まで百姓として日記に載せる扱いに疑問を呈した書状。出水・大口双方の縁者を調べ、境目の事情に即して帰還を相談すべきだとする。本文注は編年を誤り慶長五年の文書と指摘する。
(慶長九年)三月十二日 / 冊子 928頁
島津忠恒が島津義弘へ、川内までの道筋は難しいとし、新弥太の病状が快方に向かえば大口へ向かう予定を述べる。関係者と相談して判断し、指示どおり面会・出立の調整を進めると伝えた。
(寛永十年)十一月五日 / 冊子 392~393頁
伊勢貞昌が国元家老へ、大口・高岡などへの移封、地頭所の交換、加増、知行人の配置と家臣の処遇について、関係者に伝達して実施するよう求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 415頁
大口青木村裏の茶を求摩衆が毎年摘んでいたことから、求摩側が当地を自領と主張し、大口側と国境争論になったため、伊勢貞昌が島津久元・川上久国へ書状を送ったことを記す。
(寛永十一年)三月晦日 / 冊子 415~416頁
伊勢貞昌が島津久元・川上久国へ、大口青木村裏の茶地をめぐる求摩側との国境争論について双方の主張を示し、上使の裁定までは先例どおりに扱って争いを止めるよう求めた書状。
十一月十八日 / 冊子 148頁
入来院重高が下村左衛門尉に、船の建造について大口・高尾野両所と相談するよう求めた書状。自身の帰宅後に木材・軍役人数などを具体的に決めるとし、年内は日数がないため無理に進めず、改めて指示すると伝える。
慶長十一年四月吉日 / 冊子 69~70頁
新納忠元が署判した知行目録。内門二つ分の役分を含む総高百七石余を掲げ、外小屋敷三つと高九拾九石余の定役など、知行高と負担を列記する。
承応三年二月二十七日 / 冊子 241~242頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0503
大口横目衆が、新納忠清死去後の地頭未定期間について、大口衆中へ当地の仕置に入念し、法度違反・喧嘩・地域の障害となる者があれば身分を問わず早急に届け出るよう命じた達書。
(寛永15年)正月5日 / 冊子 561~562頁/原整理番号 573
大口地頭仮屋に伝来した鹿児島賦所手形。島原加勢の人数を定め、鉄砲・弓・鑓、飯米、水船などを準備して指定どおり差し出すよう命じる。寛永十五年正月五日付。
永禄十一年八月十九日~永禄十二年三月十八日 / 冊子 200~201頁
永禄十一年八月十九日、大口勢が堂崎の通路に陣を構え、伊東勢も桶比良に進出して加久藤・馬関田の村々へ放火した。貴久・義久は菱刈表から援兵を送り、伏兵で誘い出そうとしたが大雨で失敗した。のち大口方が田中河内に伏兵を置き、番替え中の川上丹波守・堀之内某を討ち、救援した是枝大膳坊も戦死した。長陣に疲れた相良方は出水感応寺の僧を介して和議を求めた。
永禄十二年三月十八日~五月六日 / 冊子 213頁
本文はNo.480記事の後半と同文のため省略される。羽月守備と、家久を囮に戸神尾・稲荷山の伏兵で大口方を破り、百三十六の首級を得た合戦の内容に当たる。
永禄十二年五月六日 / 冊子 217~218頁
五月六日、家久を一番の伏兵大将として戸神尾に、大野・宮原勢三千騎を稲荷山に置き、番替え部隊を餌に大口・相良勢を誘った。敵が荷物を奪おうと戸神尾へ殺到すると、家久の合図で伏兵が起こり、前田豊前守を太刀初めとして敵を崩し、百三十六首と捕虜一人を得た。家久の装束・武具・月毛の馬を詳しく描き、その姿を摩利支天のようだと称える。
永禄十二年五月六日 / 冊子 219~220頁
羽月城を守る新納忠元・肝付兼寛から伏兵策への同意を求められた家久が、五月六日に戸神尾・稲荷山へ兵を伏せた。敵が城から出なかったため家久は大口城下で鉄砲を放って挑発し、雲霞のように追う敵を戸神尾西へ誘導、自ら敵首を取った。合図で伏兵が四方から攻め、百三十六人を斬り一人を捕虜として大口方を弱体化させた。
年月日未詳 / 冊子 328~330頁/原整理番号 371
寛永十五年二月二十八日未刻、肥前有馬原城本丸で鑓を働かせた大口衆を中心に、手負、首取得、射撃、屏越、戦死などを列記した注文。高城七郎左衛門尉、肱岡左近丞、松下惣左衛門尉、濱川西市丞らの手負と各証跡人を記し、続く『首注文』では松木平兵衛、小城弥左衛門尉、寺師刑部左衛門尉、帖佐喜兵衛、原田新兵衛らについて首一つずつと証跡人または無証跡を区別する。さらに敵への弓射、敵の鑓・道具の取得、屏越、加賀守鑓場・本丸での戦死を記す。本文に作成者、宛所、差出日はなく、目録年月日欄も空欄。編者注は『旧記雑録後編五』二一四三号文書と同文とする。
年月日未詳 / 冊子 393~394頁/原整理番号 118
大口麓の愛宕について、天正二年に地頭忠元が建立したと伝える由緒帳の抄録。私家代として名寄高に加えた四石分の務米を祭米に用い、毎年六月二十四日に茶を立ててきたという。検地などの際にも妨げられなかったとし、宝殿・石櫃籠所の寸法と村中の修理、愛宕山勝軍院薬師寺の山号寺号を記す。萬延元年二月に別当が御郷士年寄衆へ届けた内容で、他の条項は省略している。
年月日未詳 / 冊子 403~404頁/原整理番号 135
大口郷に残る天正五年六月の請用日記。地頭と家中の請用を分け、米・酒米・味噌・もち米や、干物・鮑・海老・塩・鯛・飛魚・鰹、宿賃などの数量と銭を列記する。濱之市での干物代も含む。地頭参会時の祭事入用は行数を省略し、久仰が別に写し置いたとしている。
年月日未詳 / 冊子 168頁
慶長十三年、新納忠元が年頭祝儀のため加治木へ参上し、八月には家久へ月毛の馬を献上した。家久は帷子三領・酒二樽を与え、忠元の長年の武功と忠勤を称賛して、八十三歳の老齢をいたわったことを記す勲功記。
天正二年令月吉日 / 冊子 327頁
藤原忠元が武運長久と子孫繁栄を祈って大口の愛宕軍神を建立・勧請した棟札で、天正二年令月吉日の年紀を持つ。
年月日未詳 / 冊子 354頁/原整理番号 399
旧伝集は、島原一揆の城攻めで討死した者は、鉄砲・弓・槍の三種の武器による傷で大方が死亡し、それ以外の深手や、手などを突然切り落とされる例はなかったという伝承を記す。大口衆の黒木三右衛門が若年に島原へ出陣し、長命して語った話だという。
年月日未詳 / 冊子 371頁/原整理番号 79
大口と眞幸の敵を圧迫し、伊東の楠比良の陣も崩れたことを記す。八月十八日から大口を包囲して秋作を妨げ、求麻・八代・大口の兵が出るたびに戦ったため、敵は疲弊して和平を申し入れた。菱刈方の命を助け、九月中旬に大口の番衆を引くと籠城側も降った。城内で太平を祝い、鎌田尾張守の働きを賞し、諸城に地頭を置いて軍勢を帰したという。
文永三年二月八日 / 冊子 258頁
大口小苗代薬師文書。本文は『本書第六六七号文書ト同文ニツキ省略ス』との注記のみで、No.667と同文であることを示す。
元亀三年五月四日 / 冊子 266頁
元亀三年五月の木崎原合戦で、新納忠元が大口から兵を直ちに差し立てて島津義弘を援けたとする。後日、飯野城移徒の祝席へ向かう途中で盗賊を討ったため遅参した忠元に対し、義弘は事情を聞いて賞賛した。また祝いの席で火に通じる名を避けた刀を用いた心配りから、武事に限らず万事に配慮する人物と重ねて褒めたという逸話を載せる。
天正八年二月吉日 / 冊子 647頁
島津義久が肥後矢崎城出陣の際に立てた誓願に基づき、勝利後、大隅国一山のうち浮免五反を大口苗代薬師へ新寄進した坪付。市来宗左衛門先・樋渡し・奈良木・比良田などを掲げ、老臣五人が連署する。
天正十二年五月一日~二十一日 / 冊子 885~890頁
天正十二年五月一日から二十一日までの日記。覚兼は荒廃した温泉山を巡拝し、大村・長崎・南蛮僧側からの使者や質人問題に対応した。島原・三会の番衆配置、有馬方諸城の警固、神代氏の質人を八代へ送ることを調整し、五月十七日に有馬を出帆、佐敷・大口・飯野を経て宮崎へ帰着した。帰国後は馬追・参詣・饗応を記す。確定版標題は『土井覚兼日記』だが、本文標柱は『上井日記』である。
承応二年十二月十五日 / 冊子 241頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0499
伊地知主膳正に付けられた松坂金右衛門と家族三人が当地へ移ったため、新納加賀守方の人別帳から除くよう大口衆へ求め、切支丹宗門ではないことを保証した人別請取手形。
八月十二日 / 冊子 491頁/原整理番号 624-2
鎌田政慶が、召し置いた人数の名書には主取の名と派遣先を記し、この状を確認後に順次回送するよう命じる。郡山以下十三か所の御曖衆中を回覧先とし、十四日未刻に大口へ次渡したとの追記がある。
七月朔日 / 冊子 469頁/原整理番号 598
長崎への黒船来航により、隠岐守・馬場三郎左衛門・高木摂津守・日根野織部からの連絡次第で人数を差し出すため、遠方の南潟衆を来る五日に向田へ集合させるよう命じる。山田民部少輔は出水へ赴き、高奉行から人数賦書立が届くので各人を見分して受け取るよう付記する。
永禄十年十一月廿四日~永禄十二年五月 / 冊子 172頁
永禄十年十一月二十四日、義弘が般若寺越から馬越城へ押し寄せ、城兵を多数討って攻略した結果、横川・本城・曽木・湯尾・羽月・平和泉・青木・市山が同日に島津方へ入ったとする覚書。大口城は球磨の援軍を得て永禄十二年五月まで抗戦したが、援軍が引き揚げて開城し、新納忠元が地頭となったこと、各地から住民が移されたことも記す。
永禄十二年五月六日・廿五日 / 冊子 217頁
永禄十二年五月六日の大口戸神尾・稲荷山伏兵戦に参加した島津一門・諸将を列挙する交名。島津義久・貴久・家久、新納忠元、肝付兼寛、大野駿河守、宮原景種、前田豊前守らを掲げ、同月二十五日の祁答院長野城攻めで勇功を挙げた比志島氏、新納久鏡、鎌田政年らも付記する。
元亀三年八月廿五日 / 冊子 290~291頁
大口郷篠原村の天満天神木像を納める厨子の裏書。像は高さ七寸五分で、新納武蔵が建立したとの伝承を記し、当旦那藤原忠元、大宮司久甫、大工宇戸藤助藤原忠重の名と、元亀三年八月二十五日の造立を記載する。
天正三年九月廿八日 / 冊子 439~440頁
大口泉徳寺本尊の勝軍地蔵木像・光背・蓮台の寸法を記し、大檀那新納忠元・忠恒の武運長久と家門繁栄を願って華厳意曇が造立した旨を刻む。確定版年月日は天正元年だが、本文銘文は天正三年乙亥菊月二十八日と読める。
明治2年十月10日知政所(年は朱書) / 冊子 705頁/原整理番号 922の3/整理ID 922-3
薩州伊佐郡内の大口・羽月・山野を合郷して牛山郷、隅州菱刈郡内の本城・曾木を合郷して太良郷、同郡の馬越・湯之尾を合郷して菱刈郷と称するよう定める。原「菱刈七ヶ郷」が小郷であること、兵隊編制・治事上の理由を挙げ、旧名の由緒によって合郷と名称を命じ、地頭と関係先へ通知する。朱明治二巳十月十日、知政所。伊佐郡と菱刈郡の原区分、三組の合郷対応を保持し、七郷全てを菱刈郡へ移し替えず、人口・兵員数・現代自治体との一致や実施完了は補わない。
年月日未詳 / 冊子 365~366頁/原整理番号 70
馬越城を攻め落とし、五百余騎を討ち取ったとする覚書。その日のうちに周辺の八城が島津方へ参じたが、大口は求麻から入った八千余騎とともに籠城した。翌年五月六日の戸神の戦いで相良方の入番兵を破ると加勢も引き退き、籠城側は薩摩へ城を下した。忠元が大口の地頭を命じられ、各地から兵や移住者が集まったことも記す。
年月日未詳 / 冊子 378~379頁/原整理番号 91
長峯の諏方大明神について、忠元の勧請、男女二体の神体、社殿と附属社、祭礼の運営を記す由緒調帳。大口への移住年と建立年には記載の食い違いがあるとし、古帳を参照している。嘉永三年の火災で神体と古札を失い再興したが、延宝年間の棟札写は残った。七月十八日の祭礼、前夜の夕祭、祭米三十五升の下付、五月朔日の頭屋・諸役の決定、地頭代参、神馬などを伝える。末尾には古帳の社殿寸法と神主の勤務由来、萬延元年六月の由緒調を載せる。
元亀三(二)年七月吉日 / 冊子 381頁/原整理番号 97
大口郷に残る諏方社の段銭・反米の日記の抄録。一町五反分の米三升五合・銭四十文を新納五郎左衛門尉、十八町分の銭三百廿文・米五斗八升を新納刑部太輔の名とともに記す。途中の人名・数行などは省略されている。
巻二/冊子 21~22頁
大口勢が和議を破り、伊東氏も飯野・桶比良へ陣を築いたことから再戦となった経緯を記す。島津方は伊東陣を揶揄する狂歌を送り、貴久も出陣を図るが、長雨や兵の動揺のため作戦は進まなかった。その間に大口勢が守兵を襲い、双方に死者を出す。同年十二月、島津忠良が死去し、法号・称号が記される。翌年、忠平の弟家久、新納忠元、肝付兼寛らは二段の伏兵を設け、家久が大口城下で敵を挑発して神尾方面へ誘い込み、大勝して多数を討った。さらに祁答院長野城を攻め、補比良の伊東陣も撤退させる。大口城は兵器・糧食を失って降伏し、相良方から人質が出され、貴久・義久が入城した。忠良の死という家中の転機と、伏兵・鉄砲を用いた大口平定を一体として記す。
年月日未詳 / 冊子 358~359頁/原整理番号 61
十二月廿九日に山口の足軽が大口城の麓へ迫ると、求麻・大口の兵が四、五手に分かれて攻撃したことを記す。西原河口では市来・平田・伊集院の隊も戦い、敵の大勢に押されて密集した中で討死者を出した。一山城へも攻めたが弓と鉄炮で大きな損害を受け、大口へ引き退いたという。
年月日未詳 / 冊子 359頁/原整理番号 62
山口の足軽が十二月廿九日に大口の城麓へ掛かると、求麻・大口から三千人ほどが出撃したと記す。西原川口では市来・平田・伊集院の隊が攻めたが、大勢に打ち負けて討死者を出した。さらに一山へ進むと鉄炮で多数が負傷したため、皆が大口へ引き退いたという。