新納忠元書状
八月廿五日 / 冊子 122~123頁
新納忠元が神力坊らに、番所の人員不足を補うため二十人余を配置し、肝要の場所を堅固に守るよう命じた書状。勤務日数を閉じて報告すること、諸事の処置を怠らないことを求める。
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八月廿五日 / 冊子 122~123頁
新納忠元が神力坊らに、番所の人員不足を補うため二十人余を配置し、肝要の場所を堅固に守るよう命じた書状。勤務日数を閉じて報告すること、諸事の処置を怠らないことを求める。
目録年月日記載なし / 冊子 528頁/原整理番号 73
小田四郎右衛門による石塔掘出しの申出と、その根拠となる旧記・貼紙を記す。
七月十六日 / 冊子 168~169頁
島津久慶と川上久国が新納久辰に、祖先の戦功と代々の家老職における忠勤を中納言様が殊に神妙と評価したことを伝え、その褒賞として大隅国桑原郡踊の三躰堂村・大鹿倉を与える旨を達した連署文書。
(寛永五年)五月六日 / 冊子 61~62頁
比志島国隆に近侍して不正を助長したとされる折田四郎右衛門・家村四郎左衛門について、高岡の者も責任を訴えているとして、死罪ではなく流罪とする方針を伝える。国隆に殉死すると称した者や種子島へ従わなかった者の扱いも含め、山田土佐守らと協議するよう求める。
三月十二日 / 冊子 239頁/原整理番号 333-23
二月二十七日の有馬城攻めで、津川四郎右衛門が馬場三郎右衛門の命により本陣から楯板を受け取り本丸坂下へ運び、石垣に付いた人数へ撤下命令を伝えた経過を澤村宇右衛門・淺山修理へ申し出たもの。立石助兵衛と相談して侍衆を下がらせた後、角から城内へ入り、大手口まで見分した。さらに柵木・竹束を請求して鉄砲衆前に柵を設け、その所で夜を明かし、翌朝以後の柵移動と人数打入りの際の本陣復帰を述べる。
記載なし / 冊子 51~52頁/原整理番号 8
山田四郎右衛門の聞書として、龍伯・惟新・家久の関係が緊張したとき、家久と惟新が船で行き合い、龍伯の指示で閉じた国府新川の関を惟新の説得で開いたこと、三者が冨隈で和し、のち平田増宗が討たれたことを伝える。
(元禄九年)十月晦日 / 冊子 321~323頁/原整理番号 169
児玉四郎右衛門が常盤谷での御能を記した覚書。綱貴の任官祝いに前年も江戸で能が催され、今回は寛陽院と親しい者たちへ見物が許された。自身の病状を踏まえて参上し、料理・酒・茶の振る舞いと席の進行、御前での拝見、能・狂言の番組を記録する。島津万山老・町田・伊集院らの観客、川上将監や山田政國、碇山次右衛門などの名簿、能の役者組も列挙している。
天正六年正月十六日以後 / 冊子 589~591頁
日向が島津領となると、伊東方の残党が縁故に従って帰属し、従わない者は誅伐された。義久は正月十六日に都於郡へ入り仕置を進めるが、伊東旧臣らは豊後の義祐・大友父子に再興を訴えた。門川・塩見・山陰・三城の城主らが人質を出しながら豊後方へ内応し、大友軍を迎え入れる一方、人質の米良弥八郎らは警固を破って脱出し父のもとへ向かった。
元禄十五年春 / 冊子 345頁/整理ID 1148
島津綱貴が高崎四郎右衛門能盈を琉球国在番奉行に任じ、永吉惣兵衛・八木九郎兵衛・岩切治左衛門・高崎権之助を副役として渡航させ、琉球の諸事を監督させた記事。能盈らは元禄十七年夏に任期を終えて薩摩へ帰った。
年月日未詳 / 冊子 363頁/原整理番号 428-1
『平塞録』は三月四日、公儀が諸将へ在陣中の扶持方代銀を給付し、上使衆が公儀勘定頭の能勢四郎右衛門・山中喜兵衛へ申し渡したと記す。両人は正月朔日から三月十日までの扶持方代銀を渡した。
寛永十五年三月四日 / 冊子 363頁/原整理番号 428-2
長岡佐渡守興長と有吉頼母英貴が、役高五十四万石につき百石四人扶持として二万一千六百人分、合計七千四百五十二石京升、石当たり銀五十目で銀三百七十二貫六百目の扶持方を、能勢四郎右衛門頼安・山中喜兵衛信三から受け取ったことを証する。
元文元年七月 / 冊子 289頁/原整理番号 62
山田四郎右衛門の覚書から、島津久保が伊集院幸侃に求められて馬で障害を越えようとし、落馬して死んだという伝承を引く。併せて正宗の刀を不吉とする話を載せる。
11月24日 / 冊子 413頁/原整理番号 376の3
十一月二十四日、大迫休左衛門・唐仁原隼人佐・森田与三左衛門・久松四郎右衛門・森田八左衛門・野田内蔵丞・宇多与左衛門の各主従へ、真米・赤米各一斗五升を記す。加世田衆中の上乗に十一月二十三日以後三十日分の飯米を渡すよう、三原源左衛門・永山覚右衛門へ命ずる。天草一乱に伴い小浦・片浦から出水へ遣わす乗船のための支給である。
年月日未詳 / 冊子 694頁/原整理番号 724
寛永十四年十一月の島原城籠城を受け、翌年正月十四日に津曲狩野介兼業・古垣四郎右衛門忠興が先駆として兵三百人を率い、薩州出水米津に到ったと記す。島原没落を聞いて帰陣したと結ぶ。原文の翌年干支表記には疑義があるため、そのまま注記する。
天明六年十二月九日 / 冊子 174~175頁/原整理番号 133
天明六年十二月九日の「論勝負之犬追物稽古手組」。島津出雲・島津藤次郎を「九ツノ免」、相良弥千母・鮫島四郎右衛門らを「四ツノ免」などの区分で記す。検見を伊勢亘、喚次を寺山四郎左衛門とする。
安永年間5月(目録、日付記載なし) / 冊子 528頁/原整理番号 72
穆佐衆中小田四郎右衛門から、石塔が埋まったとの申出を受け、所在と掘出しの事情を照会する。
(元文四年)三月十一日 / 冊子 96~97頁/原整理番号 15
松岡成章が志賀武兵衛へ、春の挨拶と母の病状、医療・服薬、勤務や家計、米価高騰など近況を詳しく報じる。山田四郎右衛門に関する依頼と返書の取次も述べる。
年月日未詳 / 冊子 135~136頁
松平石見守・生駒壱岐守の家中で切腹を命じられた者を列挙した書立。伊木野伊織以下の家臣を、相馬大膳・仙石越前守・丹羽左京・真田伊豆・京極丹後守・松平出羽守・森内記らの預け先ごとに掲げ、切腹者のほか追放・仕置に関わる者も記している。張紙・墨書で『此名書ハ御譜中ナシ』との注記があり、本文135頁から136頁上段まで続く。
(明暦三年)八月五日 / 冊子 345~346頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0742
島津久茂が国元の役人らへ、公儀進上用材木の寸法・数量と木取り、江戸屋敷の人員・女房衆、普請、井戸と水の確保、番・留守居の配置について報告・指示した書状。
元禄十年五月二十七日~九月十五日 / 冊子 25–26頁/整理ID 77
五月二十七日に土屋政直を介して吉貴への賜告があり、先規によって時服五十を拝受し、その後登営して拝謝した際に馬一匹を賜ったと記す。六月六日に江戸を発ち、木曽路から二十二日伏見着、二十四日大坂へ下り、二十七日開船、七月二十九日薩州和泉脇元着、八月四日鹿府へ入る。九月十五日に島津権七久茂が登営して吉貴帰国の礼を将軍家へ述べ、太刀・銀馬代・時服三を献じ、久茂には時服三領が下賜された。
宝永元年九月四日 / 冊子 497–498頁/整理ID 1742
長岡是康ら六人が島津中務ら五人へ、江戸へ向かう島津玄蕃が領内を通過した際、宇土町近くで町田五郎左衛門の家来が人馬を傷つけた件に返答した連署書状。乱心による行為と聞いて心配したが、負傷者と馬は治療を受け日ごとに快方へ向かっていると伝える。
享保十四年八月二十六日 / 冊子 904~907頁/整理ID 2312
芝屋敷の拝領地引渡しをめぐる経緯を詳記。八月九日・十一日の引渡し、幕構や道の改変、屋敷境界と隣家との折衝、御用人らの協議、図面の確認を記す。末尾に八月二十六日付の関係役人への照会・連絡を掲げ、続いて屋敷地と道路の図を載せる。
8月16・21・26日、閏8月11・16・21日(出立表示、年不記) / 冊子 270頁/原整理番号 374/整理ID 374
八月十六日・廿一日・廿六日、閏八月十一日・十六日・廿一日の六つの出立日ごとに、人名と出府する郷別人数を掲げる一覧。最初は谷村十右衛門・宮里新次郎と樋脇・東郷・隈之城各五人。続く各群には国分・清水・串木野、櫻島・小根占・高山・鹿屋、加世田・志布志・蒲生、始羅郡山田・帖佐・伊集院・市来、福山・伊作・指宿・羽月を列記する。江戸の守衛のため出府を命じたとの末注がある。郷別人数の表示合計は第一群十五人、他の五群各二十人、参考合計百十五人。前に掲げた人名十四人が郷別数へ含まれるかは記さないので加算しない。
7月(軍賞申渡群、年・日不記) / 冊子 306~309頁/原整理番号 435/整理ID 435
全七頁の軍賞申渡群を十四内容に分ける。祇園洲で敵艦を引き受けた島津權五郎に鉄炮一挺・陣羽織一枚、川上右膳ら四名と物主二名に陣羽織の賞を記す。税所清太は砲の損傷後に加勢し手傷で即死したとし、切米八石・祭祀料金三十両を命じる。祇園洲・沖小島守衛の八名には各十五両、さらに七名には各十両。弁天波戸・砂揚場・水軍隊・新波戸・大門口の戦兵に各二両とするが人数は記さない。川上十郎太に十両、陣中死去の重久甚五郎に弔料二十両、祇園洲と沖小島の惣人数に各八両、青山愚知に切米四石・鉄炮一挺、櫻島三ヶ所の戦兵に各二両を記す。末尾は姓名不知の始羅郡山田郷士二人に切米四石宛(十五ヶ年)・十五両宛を与えた由とし、詳しい書付は不知で追って記すとする。人数不記の隊は総額を作らず、切米・金銭・品物と弔料祭祀料を分ける。各条は七月帯刀。
年月日未詳 / 冊子 256~257頁/原整理番号 209の1
上年寄日記。元禄二年五月二十八日に地蔵町上山勘兵衛が死去したのち、町奉行所への届出、死骸の見分、棺・塩詰め、花春軒での埋葬、葬送への町年寄の立会いと役割を、六月五・六日までの経過に沿って詳記する。
元禄2年10月21日 / 冊子 258頁/原整理番号 209の4
切支丹類族が病気または死亡した際に親類・子から代人を出し、宗旨改帳記載の者を同様に扱うよう上町年行司らへ命じる町奉行所達。病死時の報告、親類の監守、帳面・書付の相渡しを定める。
11月22日 / 冊子 401頁/原整理番号 363
片浦から出す五枚帆二艘・四枚帆二艘(各水手八人)の主取・加世田衆中上乗を記す。続いて小浦から出す五枚帆一艘・四枚帆三艘(水手八人・八人・七人・八人)の主取と上乗を列記する。さらに船頭太兵衛尉の八端帆一艘(船頭・水手十一人、上乗なし)を小松原から出すよう命じ、この船は肥前商人から借り、積んだ「しやうのう」を下ろして出水へ向かわせると付記する。
年月日未詳 / 冊子 733~736頁/原整理番号 772
正月十七日を中心に米津へ到着した各郷の軍勢を、人躰・卒者・小者・夫丸・玉薬持夫に分けて記す。都之城八十人と小者夫丸七十一人、吉松三十人と夫丸四十二人、栗野七十人と夫丸三十一人、国分八十五人と卒者夫丸百三十四人などを載せ、人物別の負担人数も列記する。後半には十八日条へ分載する旨を注し、十七日到着の大姶良・頴娃・飯野・高原・小林・清水・蒲生・高山などの士と従者を続ける。
(寛永十五年)二月廿八日 / 冊子 763頁
寛永十五年正月、北郷家臣の津曲狩野介兼業・古垣四郎右衛門忠興ら三百人が先手として出水・米津へ進み、原城落城を聞いて帰陣したことを記す。二月二十三日の島津家久死去後、島津光久が江戸に留守の間、久直が分国中の諸役人へ下知を加える任を命じられたとする譜記事。
元禄十一年七月十日~九月二十八日 / 冊子 72頁/整理ID 241
島津吉貴が七月十日に参府へ出発し、陸路で阿久根へ至って同月十八日に乗船し、家老島津勘解由久當、用人仁礼覚左衛門景治・堀四郎右衛門興昌らを従えた記事。八月十三日に大坂、十五日に伏見へ着き、途中の不予で遅れて晦日に参府した。九月十五日に徳川綱吉へ謁見して先規どおり献上し、二十八日には久當が幕府へ出仕した。吉貴が未だ家督を受けていないため、参府ごとに供の家老を将軍へ謁見させて当家の格式を備えたと記す。
元禄十四年一月十三日~三月十五日 / 冊子 261頁/整理ID 878
島津吉貴が参勤のため正月十三日に国元を発ち、家老島津中務久輝、用人村田善太夫経智・堀四郎右衛門興昌らを伴って九州を進み、正月晦日に豊州大里から乗船、二月十三日に大坂、十八日に伏見へ着き、二十一日に伏見を発って濃州路を経て三月十日に江戸へ到着した記事。同月十五日に登城して将軍徳川綱吉へ拝謁し先例の贈物を献上し、家老久輝も先例により幕府へ拝謁した。
宝暦六年閏十一月二十八日 / 冊子 641~642頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1903
高橋縫殿が閏十一月二十八日、島津圖書・義岡相馬へ、国目付二使への進物・進覧品と帰府後の取扱いを知らせる。太刀二腰・大判金二枚・縮緬六巻・紗綾十二巻・細上布六反・樽代金四千二百疋、両殿から太刀百二十四腰・馬代銀百二十四枚、一門・大身分・用人以上や使番らから太刀二腰・馬代銀二枚・樽代金千疋を挙げる。淡路守の寿帯香二箱・練蕉布六反・太平布十六疋・青貝中丸卓一脚・大官香四十四把・泡盛六壺・銅板齋十反も記し、中山王らの品は二使が多忙で預け置いたと伝える。帰府後の取計いを岩下佐次右衛門・佐久間新左衛門に求め、丸星以外の品を差し立てたこと、丸星は二宮四郎右衛門に受領させ、必要なら江戸で代替品を用意すること、詳細は使番同役へ問い合わせる旨を知らせる。
二月廿九日 / 冊子 242頁/原整理番号 333-27
二月二十七日、早水一郎兵衛が本丸北東の石垣腹に取り付き、投石で兜を数度打たれながら堀を越え、本丸東の海手で敵と槍を合わせて首を取った経過を丹羽亀之丞へ申し出たもの。築紫大膳・澤木弥平太夫・歩御使番吉岡瀬兵衛・森田弥五右衛門を証人に挙げ、同日夜半まで本丸に留まり、津川四郎右衛門へ相談後、桑木浅右衛門らと本陣へ戻ったと述べる。
(寛永十五年)五月廿八日 / 冊子 808~809頁
島原から到着した船に石火矢・大筒・玉薬を積み、二十四艘で大坂へ回航したこと、別の一艘には当地の諸道具を積んで江戸まで届けるため、薩摩側の使者・船頭と相談して出したことを報じた三名の連署書状。
建武三年正月廿五日 / 冊子 648頁
新田右衛門佐義貞の謀叛に関する前年の関東御教書を受け、肝付八郎兼重以下が日向国各所で挙旗したため、守護代・島津庄惣政所の申請により羽月四郎右衛門尉元貞を派遣したことを述べ、廣武又次郎入道に一族を催して急ぎ現地へ馳向するよう命じた少弐貞経軍勢催促状。
天保4年8月15日~天保5年4月15日 / 冊子 993~994頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2730
江戸高輪福寿亭に置かれた神殿棟札の正文。正四位下行左近衛権中将兼大隅守源斉興朝臣と、従四位上前左近衛権中将兼薩摩守源斉宣朝臣の名を掲げ、武蔵国荏原郡高輪福寿亭神殿の上棟を記す。天保四年癸巳八月十五日起工、天保五年甲午四月十五日竣工。造営担当として当番頭格側用人新納四郎右衛門常善、監事家老猪飼央尚敏、御用人格・福寿亭神殿別当井上志摩守祐良、作事奉行福崎助五郎季脩、見習田中仲二郎國惇、樋目石塚次郎左衛門胤快、作事方下目付高崎四郎右衛門有當・餅原平右衛門惟中、作事方専役石塚尚介胤香、唐船改家老座書役勤・奥掛書役寄大迫源七元容、奥茶道格絵師兼務谷口月窓世達、大工頭築地筑右衛門正辰を列記する。造営の年月日・役職・担当者を棟札の配置通り分け、前号の造営記事に含めず独立文書として整理する。
年月日未詳 / 冊子 130頁/原整理番号 208
『堀輿延自記』(本文見出しは「堀興延自記」)。寛永十五年二月十三日、日州方外城の士百五十人に槍・弓・鉄砲の御道具持の代役を命じ、堀興延が堀四郎右衛門らを召し連れて向田まで進んだが、島原の事が済んだとの報を受け、御道具持百五十人とともに帰ったことを記す。
寛政元年二月廿五日 / 冊子 180頁/原整理番号 145
寛政元年二月二十五日の「論之犬稽古手組」。島津藤次郎・本田作左衛門・和田乗太郎らを列記し、検見を伊勢亘、喚次を鮫島四郎右衛門とする。
寛政二年十二月七日 / 冊子 184頁/原整理番号 151
同じ十二月七日の「論之犬追古手組」。島津藤次郎・秩父十郎ら射手を列記し、一足・二足・三足などの付記を示す。検見を川上十郎左衛門、喚次を鮫島四郎右衛門とする。