細川清氏施行状
延文五年十一月一日 / 冊子 19頁
細川清氏が大友刑部大輔に、島津道鑑の監代頼兼が訴えた豊後国井田郷の地頭職について、阿蘇筑後守の違乱を停止し、御下文どおり道鑑代へ引き渡して請取を提出させるよう命じた施行状。
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延文五年十一月一日 / 冊子 19頁
細川清氏が大友刑部大輔に、島津道鑑の監代頼兼が訴えた豊後国井田郷の地頭職について、阿蘇筑後守の違乱を停止し、御下文どおり道鑑代へ引き渡して請取を提出させるよう命じた施行状。
長禄三年六月十九日 / 冊子 434~435頁
細川勝元が野辺刑部大輔へ、唐鳥井に関する希望への配慮を求め、国のことは大友氏と相談するよう勧め、詳しくは真鍋太郎左衛門尉から伝えるとした書状。
(寛永九年)五月十日 / 冊子 268~269頁
島津家久が江戸から島津忠興へ、国元が息災であることを喜び、光久が自身の名代として日光へ参詣したこと、留守中の諸事に油断なく当たるよう伝えた。また、加藤豊後守との『出合』の件は未決着であり、出水が境目であるため下々まで警戒させること、自身の帰国許可、尾張大納言らの動静、刑部大輔の疱瘡等を述べた書状。
正月七日 / 冊子 77頁
新納弥七郎が新納仲左衛門尉に、新年を祝うとともに吉松衆中の入組問題を報じた書状。刑部大輔の依頼を受け、上使方へ説明する際は一人では首尾を述べにくいため自ら同道すること、刑部殿からの返答後に使者を送ることを伝える。
長禄三年七月十六日 / 冊子 117頁/原整理番号 442
差出人不詳の人物が、野辺刑部大輔入道寛柔に対し、先に知行していた所領をことごとく返付・安堵し、他者の妨げなく領掌するよう認めた安堵状。長禄三年七月十六日付。
長禄三年七月十六日 / 冊子 129頁/原整理番号 477
差出人不詳の安堵状。本文は『諸家系図文書』四四二号文書と同一のため省略されている。参照先No.442では、野辺刑部大輔入道寛柔に対し、先に知行していた所領をことごとく返付・安堵し、他者の妨げなく領掌するよう認める。長禄三年七月十六日付。
元亀三年八月廿五日 / 冊子 290~291頁
大口郷篠原村の天満天神木像を納める厨子の裏書。像は高さ七寸五分で、新納武蔵が建立したとの伝承を記し、当旦那藤原忠元、大宮司久甫、大工宇戸藤助藤原忠重の名と、元亀三年八月二十五日の造立を記載する。
年月日未詳 / 冊子 214頁
新納氏古日記の寛永十九年九月五日条。重陽の祝儀として、将軍へ呉服五つ、若君へ呉服三つを進上し、いずれも新納刑部大輔が使者を務めたことを記録する。
元禄十四年四月二十六日 / 冊子 297頁/整理ID 979
島津綱貴の息女亀姫の縁組が定まり、近衛大納言家久が進藤刑部大輔長之を結納の使者として江戸へ下したことを記す記事。この時、家久が北郷久嘉へ時服3襲を与えたことも記録する。
宝永元年八月十四日 / 冊子 493頁/整理ID 1728
今大路治部少輔・進藤刑部大輔・今大路兵部大輔・進藤筑後守が八月十四日、嶋津勘解由・川上式部へ、中将の病気が快方へ向かったと聞き喜び、さらに容体を尋ねたいとして、左大臣(家熙と注)の意で見舞いの干鱧一箱を贈ると伝える。
四月十六日 / 冊子 565–566頁/整理ID 1939
今大路治部少輔・進藤刑部大輔・今大路兵部大輔・進藤筑後守が四月十六日、嶋津大蔵・勘解由・帯刀へ、亀姫を薩摩守の養子とする件が首尾よく許され、先頃の使者による通知に両公が満悦したと伝える。薩摩守と奥方への祝儀として目録どおり品を贈った旨を、両公の命として通知する。
四月廿七日 / 冊子 568頁/整理ID 1946
今大路治部少輔・進藤刑部大輔・今大路兵部大輔・進藤筑後守が四月二十七日、嶋津大蔵・勘解由・帯刀へ、本殿の普請が完成し今日両御所が移徙した大慶を伝える。その礼は書状で申し入れられるべきだが、まず自分たちから伝えるよう命じられたという。
六月十四日 / 冊子 584–585頁/整理ID 1987
今大路治部少輔・進藤刑部大輔・今大路兵部大輔・進藤筑後守が六月十四日、嶋津勘解由・帯刀へ、酷暑の中で薩摩守一家と各人が健やかなことを喜ぶ。昨日十三日に大納言の婚礼が首尾よく済み、今朝も亀姫の機嫌がよく喜ばれていると報じ、当地でも両公が大慶していると推察し、その趣を伝える。
文化14年6月29日(出生)/安政3年8月11日(卒) / 冊子 506~507頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1548
御系図中、斉興の男女十九人の枝に定穀を掲げる。初久博、勝之進、千松、刑部大輔、隠岐守の名・官称を記す。文化十四年丁丑六月二十九日生、母は島津樺嵐久尹の養女。松平隠岐守定通の養子となったと記す。本文は冊子五百六頁から次頁の卒日・法名へ続き、安政三年丙辰八月十一日卒、法名は隆聖院殿仁譽忠穆良温大居士。母が久尹の養女であることと、定穀本人が定通の養子であることを分け、養子日や各改名・任官日を本項にない日付で補わない。
文化14年6月29日(出生)/天保3年・6年(養子・入邸・改名等) / 冊子 507頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1549
近秘野抄、見出しは斉宣公御子。定穀にヨシの傍記があり、初名久博、勝之進、千松、刑部大輔、隠岐守を掲げる。文化十四年丁丑六月二十九日江戸生、母は島津樺嵐久迅の養女、実は橘川次郎兵衛時吉の女と記す。天保三年壬辰正月に久博と名づけ、七月二十日に松平隠岐守定通の婿養子となり、八月二十八日愛宕下邸へ入る。十月に千松、十二月に刑部大輔へ改め、天保六年乙未八月に隠岐守へ改めたと記す。1548の斉興系図と本件斉宣見出し、母の養父名久尹/久迅の表記差を残し、本文の出生年月日・婿養子・入邸・各改称を別段階として採録する。
天保4年正月(年次朱書、月目録、日未記載) / 冊子 947頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2670
重豪の病状関係書類に続く、「相詰罷在候一類共」の名書。松平大隅守、松平溪山、松平豊後守、松平伊豫守、松平美濃守、奥平左衛門尉、松平刑部大輔、戸田伊賀守、戸澤能登守、島津又吉郎の十名を列記する。本文注で大隅守に島津斉興、溪山に斉宣、豊後守に斉彬、伊豫守に池田斉敏、美濃守に黒田斉溥、奥平左衛門尉に昌高、刑部大輔に定數、伊賀守に氏正、能登守に正令を付す。刑部大輔の上には「断」の注があるため、全員が同じ条件で現場に在席したと一括しない。年次は朱書天保四年、月は目録の正月によるが日付は記さない。本文の名列と注、目録表題を保持し、末尾の島津又吉郎の実名を推測で補わない。
天保4年2月2日(年次朱書、月日本文) / 冊子 949~950頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2675
松平大隅守の覚書。「相詰罷在候一類共」として、松平大隅守・溪山・豊後守・伊豫守・美濃守、奥平左衛門尉、松平刑部大輔、戸田采女正、戸澤能登守、島津又吉郎の十名を列記する。続いて御醫師杉本宗春院を記し、次の上段に野間廣春院・中川隆玄・杉本忠温・多紀安叔、家来醫師喜多村良宅・同河村宗膳が続く。本文には「右四人薬服用仕候」「右容体為見申候」とあり、二月二日付、朱書天保四年、松平大隅守署。一類の名書と医師の名列・服薬・容体見の記述を一件の二頁として保持する。「右四人」の範囲は断定しない。正月のNo.2670では戸田伊賀守と記すが、この名書は戸田采女正であり、官称を前項から置き換えない。
応安八年二月廿五日 / 冊子 118頁/原整理番号 447
島津氏久が斎藤六郎左衛門入道に、野辺刑部大輔盛久が申請した日向国櫛間院・大隅国深河院北方について、盛久の相伝知行に相違がないとして、安堵の御教書を発給するよう求めた書状。応安八年二月廿五日付。
文明十二年正月元三日 / 冊子 118頁/原整理番号 448
伊勢大郎刑部大輔平克盛(野辺克盛)が、文明十二年正月元三日の試筆として、雲や風の治まる御代と山から昇る日の光を重ね、泰平の春を祝った祝言和歌。
文明十二年正月元三日 / 冊子 127頁/原整理番号 468
伊勢大郎刑部大輔平克盛(野辺克盛)が正月の試筆として詠んだ春の祝言和歌。『雲かせもおさまるやまをいつる日や/みちある御代の春をてらさむ』と、雲風の治まる山から昇る日を泰平の御代の春に重ねる。文明十二年正月元三日付。
文和四年三月三日 / 冊子 259頁/原整理番号 21
島津師久が、一色氏と大友刑部大輔が肥後へ攻め入り合戦を始めたことを伝え、合力のため三月十五日より前に和泉城と山門院へ馳せ参じるよう執印左衛門太夫に命じた軍勢催促状。
長禄三年七月十六日 / 冊子 434頁
発給者名の記載がない人物が、野邊刑部大輔入道に対し、先知行所であることにより悉く改補し、本領を領掌することに相違がない旨を認めた安堵状。本文中の法名らしき部分は判読が安定しないため採用せず、明瞭な肩書のみを記録した。
元禄十五年正月三日 / 冊子 340頁/整理ID 1127
綱貴が進藤刑部大輔(長之傍注)へ、改年を祝い、大納言(近衛家久傍注)の勇健な越年を喜ぶ。祝詞を申し上げ、太刀一腰・馬代黄金十両を進上する旨を、よろしく取り次いで伝えてほしいと頼む。前二条と同型の文面だが、祝意対象と取次先が異なる。
元禄十七年三月晦日 / 冊子 473頁/整理ID 1641
島津綱貴が進藤刑部大輔へ、大納言の健勝を喜び、年始の祝詞と太刀一腰・馬一疋・香一種を賜ったことに謝意を述べ、その旨の取り次ぎを頼んだ書状。
宝永元年五月十日 / 冊子 483頁/整理ID 1685
島津綱貴が進藤刑部大輔へ、大納言の健勝を喜び、国元の品々を献上したことへの謝意と、綱貴が無事参府したことを伝えた書状。
宝永元年六月二日 / 冊子 486頁/整理ID 1698
島津綱貴が進藤刑部大輔へ、左大臣の転任を祝ったところ礼を受け、太刀・御馬代と目録記載の品を拝領したことに謝意を述べた書状。
宝永元年七月二十七日 / 冊子 490頁/整理ID 1718
島津綱貴が進藤刑部大輔へ、政姫が同月二十二日に死去したことを悼み、言葉に尽くせない悲しみと弔意を伝えた書状。
二月三日 / 冊子 553頁/整理ID 1901
島津吉貴が進藤刑部大輔へ、左大臣家から伝えられた大納言近衞家久との婚礼について、六月中に調うよう準備し、妹を五月中に当地から出発させると回答した口上覚。老中にも申し置き、国許への暇を得て帰国する際には御所へ参上すると伝えた。
嘉吉元年十二月十二日 / 冊子 120頁/原整理番号 452
足利将軍家の意を奉じた右京大夫細川持之が野辺刑部大輔に、島津持久・高木孫三郎・市来太郎以下が処罰されたことを伝え、島津陸奥守貴久に合力して忠節を尽くすよう命じた御教書。貴久に対して無二の忠節を示したことを神妙と評価し、今後さらに戦功を挙げるよう求める。嘉吉元年十二月十二日付。
六月十九日 / 冊子 120頁/原整理番号 453
細川勝元が野辺刑部大輔に、時節に似つかわしくない依頼と断りつつ、唐鳥など適当な鳥の入手を望み、心に掛けてもらえれば喜ばしいと伝えた書状。あわせて国のことは大友と度々相談するのがよいと助言し、詳細は真鍋太郎左衛門尉が伝えるとする。六月十九日付。
嘉吉元年十二月十二日 / 冊子 125頁/原整理番号 460
足利将軍家御教書。本文は『諸家系図文書』四五二号文書と同一のため省略されている。参照先No.452は、右京大夫細川持之が島津持久・高木孫三郎・市来太郎以下の処罰を伝え、島津陸奥守貴久への合力・忠節と今後の戦功を野辺刑部大輔に命じたもの。嘉吉元年十二月十二日付。
六月十九日 / 冊子 129頁/原整理番号 478
細川勝元書状。本文は『諸家系図文書』四五三号文書と同一のため省略されている。参照先No.453では、野辺刑部大輔に、時節に似つかわしくない依頼と断りつつ唐鳥など適当な鳥の入手を望み、国のことは大友と度々相談するよう助言し、詳細は真鍋太郎左衛門尉が伝えるとする。六月十九日付。
年月日未詳 / 冊子 198~199頁
新納氏古日記の寛永十九年六月の記事。六月三日に島津光久が日光参詣へ出発し、新納右衛門佐以下の供奉者を記すほか、六月二十八日から七月十五日頃にかけて道具衆が持ち下ったことと、御曹子島津綱久の元服に関する事項を記録する。
元禄十五年五月十八日 / 冊子 363頁/整理ID 1218
進藤長之が猿渡喜右衛門へ、猿渡家の先祖が藤原姓を与えられ、譜代として相続してきたことを近衞家が重く受け止め、末永い子孫繁昌を祝ったと伝える奉書。殿下の書状が大守から伝えられるはずであるとも知らせる。
元禄十六年二月十二日 / 冊子 415頁/整理ID 1410
進藤長之が島津勘解由・喜入安房へ、前年末に当地の屋敷へ歳暮祝儀を申し入れた際の中将の書状を大納言が喜んだと伝えた書状。大納言は礼状を出さず、進藤から両名へ謝意を伝えるよう命じたとする。
宝永元年八月十四日 / 冊子 492–493頁/整理ID 1727
次条とは贈主と品・容器が異なる。
宝永元年八月十四日 / 冊子 493頁/整理ID 1729
今大路治部少輔ら四人が島津勘解由・川上式部へ、大納言が島津綱貴の病気回復を喜び、さらに病状を聞きたいとして、見舞いの印に糟漬鯛一桶を贈った旨を伝えた連署書状。前二通とは差出人側の意向主と見舞品が異なる。
三月十六日 / 冊子 652–653頁/整理ID 2241
進藤長之が島津帯刀へ、前年冬に坂本養伯が調進した屏風二帖を内々に禁裏へ献上し、左大臣が御前で執奏した結果、女房奉書が出されたと報告した書状。奉書をこの便で下し、左大臣の命により詳細を伝えた。
天保4年3月22日~4月27日(年次目録、月日本文) / 冊子 970~971頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2704
重豪公御譜中の記事。三月二十二日に奥平昌高の使者黒瀬市兵衛が下町会所へ、四月四日に松平美濃守斉溥の使者山内仁太夫ほか計三十四人が上町会所へ来館した。重豪葬送の日、両方の使者が福昌寺に香奠銀を献じて焼香し、斉興は各使者に銀十枚を贈って労をねぎらったと記す。使事の後は各々の本府へ帰った。四月十三日から二十七日まで福昌寺で中陰仏事を行い、初日は斉興が島津安藝忠喬、斉彬が島津啓之助忠剛を遣わして祭文を献じ焼香・拝礼し、斉宣も家老を遣わし白銀十枚を献じた。十五日夜の儀礼と宮崎成市の法筵への助力、十六日の諸有司、十七日の諸士・組与力による献祭文と木主への礼を記す。末尾には松平刑部大輔の代として土岐平太夫政守が焼香し、銀十枚を附して木主を拝したことが続く。来館・弔問、褒賞銀と供え、各代参者と法事の順序を分ける。後続の無番号附属祭文は別行として扱う。
長禄三年八月廿一日 / 冊子 127~128頁/原整理番号 469
野辺刑部大輔盛仁(法名寛柔)の一流を示す系図。桓武天皇から平清盛まで十二代を略し、重盛・維盛から宗平、盛平、員盛、盛行へ続く本流と、有盛・師盛・忠房・宗実、久盛・盛忠、盛久・盛在、泰盛・盛仁・良盛らの分岐を配する。長禄三年八月廿一日、一条兼良が花押を据えて一見した系図で、偏諱の一字書出に関する注記もある。
記事成立日:未確認 記事内年紀(成立日と別):元龜四年癸酉之春 / 冊子 142頁/整理ID KW1-G000112
元龜四年癸酉の春、義久公の命で寶持院と八木越後守昌信が祢寢へ赴き、東禅寺寺主を介して重長と和睦の要事を密かに協議したと記す。 重長は太守に背くことと肝屬兼續との隔たりについて述べ、昌信は「公之男子」の年齢と婚姻について問い、重長がその言葉に応じたと記す。婚姻相手の具体像は留保する。 寶持院・昌信が帰帆した後、重長は新納刑部大輔忠元・伊集院右衛門兵衛尉久治・上原長門守常尚と和議を決めたと記す。 國老・三使・副使等が誓紙を裁して重長に与えたが、密事のため姓名を記さなかったと説明する。
現行年紀:元亀四年五月廿四日 目録・本文の別記(相違を保持):小字干支「癸酉」・時刻「申之時」;目録原37頁年紀「元龜四年五月十四日」(本文と日数相違) 日付留保:本文は五月廿四日、目録は五月十四日。申之時は小字で日付本文と分離。 / 冊子 146頁/原整理番号 253/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0253
申之時の小字を伴う鹿屋御給を記し、伊集院右衛門兵衛尉殿を掲げ、御使者として上原長門守殿・新納刑部大輔殿を列記する。 鹿兒嶋の周〔休/附〕の宿で重長が承った旨を後日證文とする。別条の肝付郡本について「御弓箭之押様、依御奉公可給之段承候ツ」と記し、給付条件の詳細を留保する。
元禄十六年十月六日 / 冊子 443頁/整理ID 1517
進藤長房・今大路光好・進藤長之・今大路孝在が喜入安房・新納市正へ、無上法院(常子内親王・基熙室と注)の一周忌に、御二所様が大徳寺へ香奠を進上した心遣いを右大臣が喜び、その旨を二人へ伝えるよう命じたと通知する。十月六日付。
二月3~28日の詔・請書・報告等、建言署二月7日、分隊付記は原三月12・13日 / 冊子 494~506頁/原整理番号 666/整理ID 666
「御履歴中」に二月の詔・請書・報告・上書・軍令等を収める。親征の命令と兵数照会に対し、忠義側が請書を出し、警衛・各地の出兵と在家兵を報告する。東海・東山の先鋒、会軍期限、病院・軍艦・装備の指示、両道の休泊表、八日付兵員報を続け、兵員報は東海道四百六十四人、東山道四百七十二人を記す。日向の元窪田支配地の取締りと年貢残穀・高辻帳の提出、民からの苦情申出、宿駅監督・兵粮と手当の規定も収録する。十一日の忠義上書は海外諸国の形勢から海陸軍備・国力・理財の必要を述べ、預領地の内十万石を御用途へ返献したいとして執奏を願う。親征総督等の交名、外国交際をめぐる六侯の建言、石高による藩の三等区分、忌日・官武と松平姓の取扱い、行幸日の変更、奥羽鎮撫使への銃隊附属を記す。軍令・陸軍諸法度は総督への指揮委任、進軍・敵境警戒、民への乱妨・盗み・放火・押買等の禁止、外国人への対応、戦利品の申出などを定める。末は二十八日の参朝と二勅書の表示で、御震翰写の本文は別の末尾にあるとして省略する。
年月日未詳 / 冊子 336頁/原整理番号 23
忠元が早崎治部左衛門尉へ、長年大切にしている品を貸してもらったことについて礼を述べる書状。その品をこの間に写し取り、よい便りがあり次第返すと伝え、出立前に取り次いでもらうよう求める。
二月廿三日 / 冊子 336頁/原整理番号 24
忠元が藝州様の取次先へ、邊川の件の尽力に礼を述べ、在所の事情が難しくなったため別の場所へ移すことを相談する書状。先に書状で返事をするはずだったが、頼戸での番の用務が延びたことを詫びる。次の上洛について詳しく意向を尋ね、現在召し留められている者には適切に配慮してもらえるよう、返事を求める。
現行年紀:元亀四年貳月廿一日 / 冊子 143頁/原整理番号 248/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0248
忠金・盛親・清通・久治・常尚・家諸・忠元・季久の連署と花押を掲げる。 「旧記雑録後編一」660―3号同文の刊本注を伴う。この切片には条文を独立掲載せず、日付と八名の連署を掲載する。参照先本文は未読・未補充。
現行年紀:元亀四年貳月廿六日 目録・本文の別記(相違を保持):小字干支「癸酉」;目録原36頁年紀「元龜四年二月十六日」(本文と日数相違) 日付留保:本文は二月廿六日、目録は二月十六日。小字干支と本文を分離し日数差を補正しない。 / 冊子 145頁/原整理番号 251/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0251
今回の使者としての条々に少しも虚言はないことを起請し、違反した場合の神罰を記す。 久治・尚常・家諸・清通・忠元が連署し、祢寝殿に宛てる。
記事成立日:未確認 記事内参照年紀:天正元年癸酉之春 / 冊子 197頁/整理ID TMP-P02-CONT-A69
冒頭の「子」が伊東大脇大夫義祐・肝付河内守兼續入道省釣・伊地知周防介重興等に與同し、大守に背くとの叙述を置く。「子」の実名帰属は未確定。 天正元年春、島津義久が昌信を祢寢へ遣わし、重長に離一揆・島津旗下への帰属を伝えたとする。 留滞中の密談を記し、さらに新納忠元・伊集院久治・上原尚近の再遣、和諧と誓約に言及する。密談句の主体・意味は留保する。 肝付氏の党を離れ島津旗下に属する旨の誓約と、密事に関する八人使衆の誓紙を「記左」と導入する。
(永禄七年)三月十三日 / 冊子 129頁
近衛稙家が貴久の受領と義久の官途について公武へ働き掛け、関係文書を下したことを新納忠元へ知らせ、必要時の取り成しを依頼した書状。詳細は進藤長治が説明するとする。