島津勝久書状
二月廿五日 / 冊子 744~745頁
島津勝久が肝付伴兵衛兼屋に、先に申した女性を船で送る件について、船の手配を急ぎ、早く迎え入れるよう求めた書状。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
36 件 (全巻)/ 1–36件を表示
ページ 1 / 1
二月廿五日 / 冊子 744~745頁
島津勝久が肝付伴兵衛兼屋に、先に申した女性を船で送る件について、船の手配を急ぎ、早く迎え入れるよう求めた書状。
(文明十八年)十月五日 / 冊子 539~540頁
島津忠昌が、前日の合戦で諸将が示した忠節と働きを比類ないものと賞し、その勇戦をねぎらうとともに、今後も状況に応じて尽力するよう伝えた書状。
天文十八年十二月二日 / 冊子 885頁
島津忠親が和融の仲介と相互の信頼・協議を誓い、違背しないことを神明に誓約した起請文。
二月五日 / 冊子 73~74頁/原整理番号 115-2
北郷久加・喜入忠政・島津久賀が島津久頼・肝付兼屋・東郷昌重・吉利忠張へ、全員が急いで渡るよう命じる。荷物は船、人は徒歩とし、陣屋道具を余計に積まないこと、渡り終えるまで吉利忠張・東郷昌重が残ることを指示する。山狩奉行の長谷場兵右衛門・肥後内蔵助には狩りの結果を報告させ、有馬へ伝えるため早く来るよう求める。
寛文3年6月19日、寛文3年1月18日、延宝6年2月15日、元禄2年3月6日、享保3年9月、享保17年閏5月23日、元禄5年4月20日、享保3年11月24日、享保8年11月8日、元文3年8月20日、宝暦13年4月25日、明和元年8月、安永7年7月8日、延享3年4月16日、宝暦10年8月28日、安永8年10月14日、寛政3年8月、寛政12年12月10日、明和7年7月1日、天明3年12月13日、享和元年4月24日・12月1日、文化3年9月4日、寛政5年11月16日、文化3年6月28日 / 冊子 314~317頁/原整理番号 119-37
寛文三年六月十九日、新田社家の権執印・大検校・千儀が肝付伴兵衛兼屋へ連署して提出した請文。執印休左衛門との相論で、休左衛門は新田社家の主取を前々から一人で務めてきたと主張し、三名は休左衛門と同役で諸事を勤めてきたと主張したが、双方の口上と古来所持する証文が吟味され、休左衛門に理があると裁許されたため、以後はその下知に従い難渋しないと請け合い、この旨をしかるべく上申するよう求める。付随系譜は第十八代友幸から友賢までを掲げ、友幸の島津綱貴への御目見・継目御礼・新番参勤供奉、友為・友中・友宗がそれぞれ太守へ太刀一腰・馬一疋を献じて御目見または祭祀継承の恩を受けたこと、友為・友中・友宗が指付新番として琉人を江戸へ護送したことなどを記す。
十月十八日 / 冊子 737頁
島津勝久が肝付方に、女性をめぐる件について外聞を損なわぬよう配慮を求め、枇山殿・本田同前との調整や船の手配を依頼した書状。
正月廿九日 / 冊子 27頁/原整理番号 41-3
喜入忠政・島津久賀が亀之河の島津久頼・肝付兼屋・東郷昌重・吉利忠張へ、鹿児島へ照会した条書への返答を知らせる。任意に有馬へ渡る者は自ら飯米と船を用意し、後日処分を受ける場合もあるとの命令なので、条書の写しを送り、当地から直接任意に渡ろうとする者も含め、配下の全員へ漏れなく申し渡すよう求める書状。
年月日未詳 / 冊子 586頁/原整理番号 626
肝付家譜。肝付三郎四郎兼屋が正月九日に百余人を率いて出陣し、高尾野・阿多藤代・串木野などの兵と家僕を集め、米之津から船団を出して島原へ向かった経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 722頁/原整理番号 749の1
肝付兼屋の従臣緒方主殿の覚書。『同十六日』に加世田丸(九端帆)、関舟之頭覚右衛門の御舟を受け渡して渡海したと記す。『下文は十七日也』との参照注がある。
年月日未詳 / 冊子 747頁/原整理番号 781
肝付兼屋の従臣緒方主殿の日記から、十八日に久玉へ上り、陣屋を造ったと記す一条を抜く。前の人名帳とは別の行動記録。
年月日未詳 / 冊子 764頁/原整理番号 817
この日、肝付兼屋らが久玉に逗留していたことは前日の日記にある、と参照を示す短い編者記事。
年月日未詳 / 冊子 769頁/原整理番号 823
同二十一日、天草の高根という場所へ到着して陣を取ったと記す。久玉から六里の距離とする。典拠は肝付兼屋従臣緒方の日記。
二月十二日 / 冊子 124~125頁/原整理番号 199-1
肝付兼屋の従臣・緒方主殿介の覚書に写された矢文。城中から寄手の鍋島・肥後・豊後横目衆などを嘲る文句を列ね、二月十二日酉刻に城から付けた矢文とする。末尾に浮武士頭有馬亀之丞時貞・口之津左兵衛正利の名を記す。
年月日未詳 / 冊子 377頁/原整理番号 478
肝付兼屋家臣緒方主殿の覚書は、三月十八日、上津浦から帰陣し、市来の湊へ入津したと記す。帰陣者の名は本文に明記されない。
万治二年十月七日 / 冊子 26頁/原整理番号 6-29
鎌田政直は、都城から提出された島津家文書百四通の写しを文箱に入れて北郷家へ返し、肝付伴兵衛から提出された同数の写しも本人方へ返却するよう指示した。文書の預かり先ごとに返却方法を分けて記す返答書。
年月日未詳 / 冊子 262頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0571
光久の子女を並べた同胞横列で、綱久を先頭に女子三人・男子四人を略し久雄を掲げる。久雄は明暦元年六月二十三日生、母は津留筑右衛門正将の娘で、島津又助忠清の後嗣となる。異本の注は室を肝付伴兵衛兼屋の娘とする。
年月日未詳 / 冊子 347~349頁/原整理番号 316
肝付兼屋の従臣緒方主殿が天草戦場を見分し、本戸大橋口などでの戦闘・討死者の伝承と石塔の所在を記した覚書である。後半は天草・島原各地の村浦間の里程を列挙し、戦場の地理関係を示す。
年月日未詳 / 冊子 448頁/原整理番号 425
島津久賀に従軍した時任氏の日記所収「有馬一起物語」。本丸の有馬四郎をはじめ、二・三の丸、出丸の将や侍大将・使番・鉄砲頭・武士頭・普請奉行の名を列記する。物頭は合計二十一人、年齢は二十から五十まで、勢は一万騎とする。肝付兼屋の従臣緒方主殿の日記にも大同小異の名書きがあり、異なる箇所を傍記したと説明する。
年月日未詳 / 冊子 541~542頁/原整理番号 551
肝付兼屋家臣・緒方主殿の覚書に収める、いろはを冠した弓・矢・鉄砲・玉薬などの歌を掲げる。伊地知季安は、城中からの矢文とみられる歌や板倉重昌討死後の兵糧攻めに関する歌を考証し、鹿籠の従臣から聞いた書にも同歌があると注記する。
年月日未詳 / 冊子 586頁/原整理番号 628
肝付三郎四郎兼屋の従臣緒方主殿介の覚書。天草百姓一揆征討のため諸士・人数が集結し、鹿児島から木田を経て山崎へ着いて一宿した道程を記す。
年月日未詳 / 冊子 593頁/原整理番号 644
肝付兼屋の従臣緒方主殿の覚書。十日、曇天のなか木田を午刻に出立して紫尾へ申刻に到着し、一宿した四里の行程を記す。
年月日未詳 / 冊子 681頁/原整理番号 690
正月十三日・十四日・十五日は船がなかったため渡海できなかったことを記し、続く十六日の記事を参照させる短い覚書。本文見出しには肝付兼屋と兵糧方主殿に関する覚書である旨が見える。
年月日未詳 / 冊子 730頁/原整理番号 764
十七日、五枚帆船の受渡しがあり、人数は安楽縫殿介を主取として出船し、久玉へ着津したと記す。緒方自身は賄役に留め置かれてその船には乗らなかった。兼屋は長崎の宮之浦の三の口に一泊した後、十七日に出船して天草久玉へ到着し、船中で一泊したと記す。舟路は八里。
二月四日 / 冊子 19頁/原整理番号 24
伊地知季安の考証。山々の狩は薩州らに命じられ、在郷改は二月四日に寺沢・松倉両家へ、領内の百姓竈を調べ、邪宗に陥った人数と残留者の内訳を詳しく報告するよう命じられ、同十日・十二日に報告されたと述べる。また、細川忠利が正月二十六日に有馬へ着いたことから、同日か翌二十七日に島津久元の陣所を見舞い、それを川野監物が見て同夜上津浦へ帰って報告したのだろうと推量する。鹿児島から来た御袖判条書は二十七日条の七か条に当たると比定し、亀之川の物頭として吉利忠張・東郷昌重・肝付兼屋・敷根久頼らを挙げる。
年月日未詳 / 冊子 125~126頁/原整理番号 199-2
伊地知季安が、時任氏日記と肝付兼屋従臣・緒方主殿介の覚書を校合し、互いの誤りを訂して載せた記事。城中からの矢文の日付・歌の異同、島原への援軍不要との情報、寄手側の動向が城中へ漏れた経路を考証し、捕虜・間者などを通じた情報流入を指摘する。
年月日未詳 / 冊子 83頁/原整理番号 63の25
緒方主殿の島原従軍覚書から、四枚帆一隻に馬を乗せ、船頭室田利左エ門が天草久玉へ着いた記事を引く。後続考証では寛永九年の高割による騎馬五百騎と乗船・馬草の用意について、確かな証跡がないことや田中綱紀翁の言伝を述べる。忠恒の書状と新納忠増の船不足の記事を参照し、遠征先への馬輸送の困難を論じる。
年月日未詳 / 冊子 602頁/原整理番号 656
清色・鶴田・東郷・渋谷・阿久根・伊集院・種子島など各地から米之津へ集まった出陣衆について、領主・地頭と家衆・供夫の人数を列記し、船で久見崎へ向かった経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 603頁/原整理番号 658
十一日、紫尾を卯刻に出立し、七里を進んで宿泊したのち、米之津へ向かう諸軍勢のため宿所を手配した行程を記す。
年月日未詳 / 冊子 604~605頁/原整理番号 661
加世田・種子島など各地から米之津へ集まった出陣衆について、地頭・家衆・供夫の人数を列記し、船で久見崎へ向かった経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 605頁/原整理番号 663
十二日、天草方面での渡海、船頭・加子を伴う船の運用、帰着後の使者・指示に関する経過を記した覚書。
年月日未詳 / 冊子 756頁/原整理番号 797
十九・二十日は逗留したと記し、出水米之津と志ぐ戸で定めた天草出陣人数を掲げる。久元3,707人、久賀3,609人、久加3,692人、浮衆・船奉行と廻りの分245人、鹿児島兵糧渡衆主従15人とする。総計表記は10,268人だが、組別人数および人躰5,235人・卒者夫丸6,033人の和はいずれも11,268人となる。人数が未確定の者も注記し、寛永十五年正月十九日賦所と結ぶ。
年月日未詳 / 冊子 771頁/原整理番号 834
同二十二日、軍衆三十人をキリシタンの山狩に登らせたと記す。高根から亀之川という所へ船で渡って陣を取り、道のりは六里、狩衆は往来四日で帰ったとする。
大永七年四月九日 / 冊子 677頁
帖佐院内の邊河、加治木内の中之脇など、肝付兼演に宛てられた知行地を列記した目録。
応永十八年十一月八日 / 冊子 259頁
島津久豊が樺山方の今回の忠節に報い、闕所が生じた際には最優先で二十町を宛行うと約した証状。肝付半兵衛兼屋家記に正文があると注記される。
年月日未詳 / 冊子 151頁/原整理番号 267-1
肝付兼屋の従臣・緒方主殿の覚書に、原城から矢文を封じて射出したとあることを記す。次の文書267-2がその矢文。
年月日未詳 / 冊子 490~491頁/原整理番号 493
肝付兼屋従臣緒方主殿の覚書。旅、細川、春城の霞、敵城、長岡、鍋島などを織り込んだ和歌風の文言で、島原陣中の心情と敵城に臨む覚悟を述べる。末尾に十二月十九日と記す。