樺山玄佐譜
永禄十二年 / 冊子 224頁
永禄十二年、菱刈・牛尿両院が島津方に帰したのち、樺山玄佐が小浜堅利との替地として横川を与えられたことを記す。玄佐は六十歳に至って戦場の勇を離れ、和歌の道に専念した。自身の歌を卑下しつつも、鳥や虫の自然な声にも歌があると述べ、義久の治世の恩恵が国中を潤すとたたえる。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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永禄十二年 / 冊子 224頁
永禄十二年、菱刈・牛尿両院が島津方に帰したのち、樺山玄佐が小浜堅利との替地として横川を与えられたことを記す。玄佐は六十歳に至って戦場の勇を離れ、和歌の道に専念した。自身の歌を卑下しつつも、鳥や虫の自然な声にも歌があると述べ、義久の治世の恩恵が国中を潤すとたたえる。
(文禄2年)2月5日 / 冊子 668頁
高麗へ伴った船頭・水夫が病気となり過半が死亡したとの報告を受け、島津領の各浦に残る水夫を調査し、十五歳以上六十歳以下の者を奉行付きで渡海させるよう命じる。拒否者は後日成敗するとし、高麗から用務で戻った船も早急に再渡海させるよう厳命する。 浅野長政・長束正家・木下半介を取次として名指しした、朝鮮海上輸送の人員補充を具体的に示す朱印状。
宝暦十年九月二日~十月四日 / 冊子 787~788頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2414
継豊公御譜に、家治の九月二日の将軍宣下を祝い、継豊が十六日に關山新左衛門金郷、十八日に四本井藏堯安を遣わし、家治・大御所へそれぞれ太刀一腰・馬代黄金一枚を献じたと記す。家治から縮緬二十巻、御台所から縮緬五巻を拝領し、重豪が芝邸で使者を接待、継豊は謝恩の書状を送った。継豊は八月中旬からの病が悪化し、九月二十日申刻、四陀亭便殿で六十歳で没し、翌日納棺、二十七日福昌寺へ遺体を移した。十月四日黄昏に本棺へ移して葬儀を行い、訃報がまだ届かない江戸の重豪に代わって島津周防忠紀が焼香し、祭文・読経、家臣・琉球使節らの拝礼を経て玉龍山へ埋葬した。
(寛永二十一年)六月五日 / 冊子 16~17頁/原整理番号 11
山奉行方の新納久親らが横川から日州表穆佐までの曖衆・行司衆へ、前年から地頭狩の夫役を公儀に召し上げたことを受け、十五歳から六十歳までの在郷の人々を新しい改札帳に記すよう命じる。曖衆と行司衆が奥書・連判し、翌月十五日までに鹿児島山奉行所へ差し出す。病者を別扱いする申し立てを認めない旨の追而書が付く。
寛永二十一年 / 冊子 17頁/原整理番号 12
年二度の地頭雇賃銀のうち、前年冬の一度分を十五歳から六十歳までの在郷人数に割り付け、一人一日銀七分で算用して山奉行所へ納めたと報告するための差出案文。人数・銀額・年月日は「何百何十人」「何月何日」などの記入欄で、定数を記した文書ではない。
(寛永二十一年)七月廿一日 / 冊子 17頁/原整理番号 13
加久藤の伊地知重延ら四名が隣郷の弓削将監・野田狩野介へ、十五歳から六十歳までの百姓に狩代銀を納めさせるよう命じられた件を伝える。諸士の被官や神領の者など、以前地頭狩に出なかった者を今回は除いたが、相手方ではどう扱うかと尋ねる七月二十一日付書状である。
(寛永二十一年)七月八日 / 冊子 18頁/原整理番号 14
加久藤の伊地知重延ら四名が飯野の曖衆中へ、十五歳から六十歳までの百姓・名字脇の者を一人一日銀七分で算用し、八朔に狩代銀を納めることを伝える。他家の被官でも在郷で耕作する者は納銀対象とする山奉行の指示を受け、行司衆に算用を任せる扱いを相手方にも尋ねる七月八日付書状である。
年月日未詳 / 冊子 132頁
島津氏久が嘉慶元年丁卯閏五月四日に六十歳で没し、法名を玄久、号を齢岳としたことを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 132頁
島津国史の記事として、島津氏久(齢岳公)が鹿児島で六十歳で没し、大姶良の龍翔寺に葬られ、男子二人の長男を島津元久(恕翁公)、次男を島津久豊(義天公)としたことを記す。元久は貞治二年に大姶良で生まれ、母は伊集院長門守忠國入道道忍の娘で、嘉慶元年に二十五歳で襲封した。氏久は鹿児島から大姶良・志布志を経て鹿児島へ戻り、狭い東福寺城の拡張を望んだが死去し、元久が鹿児島へ移った際に別城を築いて鹿児島本城(清水城)と称した経緯と、移居時期に関する諸史料の異同を考証する。さらに嘉慶改元・事始と、今川宮内大輔に属して凶徒討伐に忠節を尽くすよう命じた軍事書状を収める。
年月日未詳 / 冊子 132~133頁
島津氏久譜として、氏久が嘉慶元年丁卯閏五月四日に六十歳で没し、法名玄久・号齢岳即心院殿としたこと、東福寺の禅僧による齢岳追悼文を載せる。
元亀二年四月廿六日 / 冊子 243~244頁
島津義久の三女に関する系譜記事。元亀二年四月二十六日、種子島左近大夫時尭の娘を母として生まれ、のち島津家久の夫人となった。寛永七年十月五日に鹿児島で六十歳で没し、持明彭窓庵主・興国寺殿と号した。
天正五年 / 冊子 531頁
天正五年、六十五歳の樺山玄佐について、家門が三代にわたり繁栄し仏道に篤かったことを記す。六十歳の賀に詠んだ『六十まて…暁の鐘』の歌を掲げ、歌道に名高いが人に誇らない人物であったと評する。
(文禄2年)2月5日 / 冊子 664頁
高麗へ派遣された船頭・水夫が病にかかり、過半が死亡したため、領国内の各浦から代替要員を渡海させるよう命じる。 要員は十五歳以上六十歳以下を限度とする趣旨で、朝鮮出兵が海上輸送を担う人々に与えた損耗と、補充動員の年齢条件を伝える朱印状抄。
(文禄2年)2月5日 / 冊子 670頁
No.1046の豊臣秀吉朱印状抄と同文であるため、原資料では本文を省略している。高麗へ派遣した船頭・水夫の過半が病死したことを受け、領内各浦から十五歳以上六十歳以下の代替要員を渡海させる命令。 同一命令が別の伝来・収録箇所にも残されたことを示す重複記事。
年月日未詳 / 冊子 302~303頁
島津忠長譜の記事。忠長が病床にあり、諸医の治療や祈祷も効かず、慶長十五年十一月九日に六十歳で死去したことを記す。法号・墓所を掲げ、家臣尾辻次郎兵衛尉と藍田分太が追跡殉死したことも載せる。
年月日未詳 / 冊子 68頁
島津久元が壮年から禅法を好み、諸寺の禅関を訪ねて知識から大事を聞き、六十歳頃に武州江戸で嵩山心宗寺を訪ね、絶同大和尚に参禅したことを記す記事。久元は安心と別称を請い、絶同が書して授けたとして、後続の付与状へつないでいる。
年月日未詳 / 冊子 251頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0534
某日記から、承応三年二月十七日に大口地頭新納加賀忠清が大口で六十歳で死去し、家来牧山清兵衛その他二、三人が殉死したことを抄出する。同年十二月に忠清の嫡孫新納次郎右衛門が大口地頭を命じられたことも記す。
元文三年十月五日 / 冊子 512頁/整理ID 1252
元文三年十月五日、吉貴は長年の病で歩行や乗輿が難しく、六十歳を越えたことも踏まえて参府を断った。病状が少し改善してから将軍への礼を尽くしたいとの意向を、江戸の継豊から幕府に申し出て了承を得た経緯を記す。
寛保三年正月二十一日 / 冊子 730頁/整理ID 1877
継豊は吉宗の六十歳の賀を祝い、家臣を使者として江戸城桧之間へ登らせた。奏者番松平豊後守資訓に鮮鯛一折を献上し、老中から返書を受けた。
記載なし(記事。目録表題に二十七日の梵儀) / 冊子 796~799頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2437
継豊を弔う僧侶の偈頌を、起龕・鎖龕・点茶・点湯・奠湯・下炬の葬儀儀礼に沿って収める。南林寺疎山・興国寺大龍・恵燈院州屋・降盛院穆峰・常珠寺献山・永興寺徹獅・福昌寺教州が、それぞれの儀礼の句を述べる。薩摩・大隅・日向と琉球を治めた仁政と武威、君臣の義、孔子・孟子の政道に沿う徳行をたたえ、隠居後の病と六十歳の死を悼む。秋風や落葉などの景物を織り込み、生死の無常、彼岸や涅槃、解脱の境地を説く。
宝暦十年日付不記(本文冒頭に庚辰秋。大練忌祭文) / 冊子 800~801頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2441
重豪が曽祖父継豊の大練忌に献じた祭文で、九月二十日の病没と十月四日の玉龍精舎での火葬・埋葬を述べる。江戸で公務に当たるため棺に付き添えず、葬儀を執り行えなかった悔いと、孝行が及ばなかった悲しみを記す。大練忌には族臣貴儔を代理にして供物を備え、霊前で祭を行わせる。韻文では累代の三州統治と継豊の仁徳・武名をたたえ、百歳の寿を望んだのに六十歳で亡くなった無念、医療の効なく主君を失った悲しみを述べ、祭の供物を霊が受け入れるよう願う。
宝暦十年日付不記(祭文) / 冊子 802頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2443
島津周防忠紀が継豊を悼んで献じた祭文で、病が重く医療の効なく九月二十日に亡くなったことと、臣民の深い悲しみを述べる。自身も葬送に従い、生前に受けた恩を忘れられないと記す。領地の紹隆寺の寺主を招き、供物を整えて霊前で祭を行い、継豊の仁政・武徳、子供への慈愛をたたえる。韻文では六十歳での死と別れを嘆き、祭と香を捧げてその霊を慰める。
宝暦十年日付不記(祭文) / 冊子 810~811頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2453
入来院石見定勝が継豊を悼んで献じた祭文で、病が次第に重くなり、医術も効なく九月二十日に州城の便殿で亡くなったことを述べる。玉龍蘭若へ棺を送り、十月四日に仏式の葬儀と埋葬の礼を営んだ後、供物を整えて霊前に捧げる。韻文では功を成して隠居したこと、源家の本支や子孫への配慮、家業と徳の継承をたたえ、六十歳の祝いの後に病を得た悲しみを述べる。香と供物に誠意を託し、亡き主君への追慕を表す。
宝暦十一年六月(日不記。本文の使者派遣月) / 冊子 830頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2482
琉球王尚穆が継豊を悼む祭文で、宝暦十年九月二十日の死去を翌月に聞き、十一年六月に僧俗二人を薩摩へ派遣し、書写した妙典全部と供物を霊前に献じる旨を述べる。継豊を源家の棟梁とたたえ、文武の徳、仁恕の政治、家国を安んじ琉球に及んだ恩を詠む。六十歳で秋に没したことを惜しみ、この世を仮の住まい、三界を旅の宿になぞらえて、生死の無常と悲しみを述べる。受けた恩を忘れず、香を焚いて深く追慕し、供物を受けるよう願って「尚饗」と結ぶ。
七月十日 / 冊子 132頁
限江匡久(正久)が山田安藝守に、樺山殿・三河殿の来訪を伝え、来る十三日に廻へ出動するため殿四郎を出張させ、十五歳以上六十歳以下の者と出家を残らず動員するよう命じた書状。重ねて油断なく軍勢を整えるよう求める。
年月日未詳 / 冊子 77頁/原整理番号 63の14
来る十一日の櫛間・牛原での作薙に向け、十日出発、十五歳未満・六十歳以上の除外、具足・手火矢・楯・箭種の準備を指示する。敵の火矢を警戒して三番島に詰め、夜中に作物を薙ぎ、夜明けには引き退くことや鎌の携行を求める。月日・宛書はなく、冒頭に判読留保と欠字がある。
寛永廿一年六月五日 / 冊子 179~180頁/原整理番号 88
寛永二十一年六月五日付、諸郷中への連署書状。地頭の年二度の狩りに雇われていた百姓らの役務が前年冬から公儀へ移ったことを踏まえ、十五~六十歳の人数を新たに調査・記帳するよう命じる。郷中と行司が奥書・連判し、差出案文に従って翌月十五日までに鹿児島山奉行所へ提出させる。
年月日未詳 / 冊子 180頁/原整理番号 89
寛永二十一年の狩代銀上納に用いる差出案文。十五~六十歳の在郷人数と賃銭対象人数を記し、前年冬の地頭雇の一度分について一日一人銀七分で算定して上納する書式を示す。対象者を隠していないことを郷中と行司が連署で誓約する。
寛永廿一年七月廿一日 / 冊子 180~181頁/原整理番号 90
寛永二十一年七月二十一日付、加久藤の郷中から飯野の郷中への書状。十五~六十歳の百姓に対する年一度分の狩代銀の上納をめぐり、従来地頭狩に出ていなかった諸士の被官や神領の者を今回も除外してよいか、隣郷の扱いを問い合わせる。
寛永廿一年七月八日 / 冊子 181頁/原整理番号 91
寛永二十一年七月八日付、加久藤の郷中から飯野の郷中への書状。十五~六十歳の百姓・名子らについて年一度分の狩代銭を一日一人銀七分で算定したが、在郷して耕作する諸士の被官も納めるべきと山奉行に告げられ、完納できなかったという。行司に算用・受取を担わせるよう求め、飯野側の扱いを尋ねる。
年月日未詳 / 冊子 520~523頁/原整理番号 7-5
忠久を高倉王の子とする系図の説について、二十四項目の疑問を列挙する。丹後内侍と高倉王の関係、法師房の呼称、三宮と北陸宮の区別、母方の系譜などに明文があるかを問い、推察を根拠とする箇所を指摘する。仁安三年出生・六十歳没と、八歳入国・十九歳没の記録を比較し、年齢や生没年の整合を検討する。三郎から忠久への改名、頼朝が王子をかくまう必要、三位家下文、甘縄居住、後陣供奉や幕府内の待遇が皇統説を裏付けるかを問い直す。