島津忠国宛行状
永享四年十一月十六日 / 冊子 359~360頁
島津忠国が二宮八郎左衛門へ、薩摩国河辺別府の『先立弐』と記される所領を、忠節に相違がないことを条件として宛行った文書。本文年紀は『永享三年十一月十六日』。
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永享四年十一月十六日 / 冊子 359~360頁
島津忠国が二宮八郎左衛門へ、薩摩国河辺別府の『先立弐』と記される所領を、忠節に相違がないことを条件として宛行った文書。本文年紀は『永享三年十一月十六日』。
永禄十三年二月吉日 / 冊子 234頁
前田八郎左衛門尉に宛て、薩摩国加世田庄宮原名内の田畠を列記した老臣連署坪付。久木井・喜栴介などに関わる田地・畠地を合計二反として示す。
七月廿八日 / 冊子 88(本文はNo.601・冊子頁265参照)頁
島津実久が奈良原八郎左衛門尉に宛てた書状。本文はNo.601と同文のため省略されている。No.601本文によれば、先便の趣旨を承知し、当該の件を早々に取り計らって下すよう求め、実現すれば喜ばしい旨を伝える内容である。
大永八年八月十九日 / 冊子 532頁
山田太郎左衛門と島津道正が争った倉分・倉所の所領について、山田方の非を認めて道正の跡を継ぐ島津八郎左衛門へ宛行い、年貢・諸公事を怠らず永代知行するよう命じた内藤光康書下。
年月日未詳 / 冊子 683頁
町田氏の支流について、石谷高久から左京亮頼本・伊賀守梅吉・忠榮・八郎左衛門尉らへ続く系統と法名を記す系図記事。
応安四年十一月十四日 / 冊子 64頁/原整理番号 312
今川義範が、武光以下の凶徒が当城へ寄せ来て合戦の最中であるため、土持八郎左衛門入道に佐伯・蒲江辺へ急行して忠節を尽くすよう命じた軍勢催促状。応安四年十一月十四日付。
元亀三年五月四日 / 冊子 274頁
元亀三年五月四日の木崎原合戦に従軍した島津方の将兵を列記する。大口住人の久富伴五左衛門をはじめ、遠矢下総守・日高掃部左衛門・竹下又左衛門・瀬戸口八郎左衛門・五代右京亮友喜・川上三河守忠智・二階堂四郎左衛門入道秀綱・有川雅楽助貞員・鎌田刑部左衛門らを掲げ、個々の戦功注記を添える。
元禄十四年三月二十八日 / 冊子 287頁/整理ID 958
島津綱貴家臣の川上八郎左衛門・村田平右衛門が、日向国清絵図の調製に際し、日向の相給領主側から鹿児島へ送られた領分絵図を基に領境の地面・村付を吟味したことを証した連署証状。互いの境筋を絵図一紙に調え、関係者が立ち会って印形を据え、後証として取り置いた。
延徳三年二月廿日 / 冊子 557頁
延徳三年二月二十日の犬追物手組について、島津忠昌以下の参加者と各人の疋数を記録した一覧。
永正十三年八月廿六日 / 冊子 612頁
石塚種延が清水楞厳寺へ、大門口一町内の田二段などを寄進し、本物は宇大鳥丸貫文・洪武二貫文・米一斗であると記した寄進状。
年月日未詳 / 冊子 744頁
十二月七日、石谷伊賀守梅久らが石谷口から攻撃した際、肥後方の援軍と戦い、町田氏らが戦死したことを記す。
天文五年十二月七日 / 冊子 751頁
町田忠親の通称・系譜を掲げ、天文五年十二月七日に薩州石谷で戦死し、享年六十一であったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 797頁
同月晦日、島津忠広が肝付領蓬原を攻めるため北郷左馬介らに出陣を命じたが、二家の勢がそろわず敗走し、園田将監らが討たれたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 103頁
島津忠親が伊東方との和睦条件に従い、永禄五年二月二十二日に志布志を伊東方経由で肝付氏へ渡した。五月十八日には飫肥も伊東方へ引き渡して忠親が櫛間へ退き、日置・柏原両氏には南郷三百町が与えられた経過を記す。
元亀三年五月四日 / 冊子 265~266頁
元亀三年五月四日の木崎原合戦を記す。伊東方数千が飯野を越えて加久藤を攻めたため、島津義弘は四、五十騎で木崎原を遮り、久富・遠矢らと迎撃した。長峯氏や伊東文次郎・落合源左衛門らを討ち、田原陣・鬼塚原へ追撃して義弘自身も強敵二人を斬った。島津方にも鎌田大炊助らの戦死者を出したが、少数で伊東方の大軍を破った勝利を天助と評する。
(元禄十年)四月晦日 / 冊子 273~274頁
元禄十年、記録奉行の求めに応じて加久藤の噯役四人が提出した木崎原合戦由緒書。伊東方が槍掛口から加久藤城へ攻め込み、樺山常陸坊父子と城番衆が戦死したのち、不動寺の僧が鉄砲で米良筑後守を撃って敵陣を崩したとする。島津義弘の木崎原での奮戦、五代勝左衛門による伊東加賀守討取、粥餅田での柚木崎丹後守討取までを伝える。
宝暦十四年 三月七日(年は目録注) / 冊子 15頁/原整理番号 49/整理ID 49
高橋此面が、来る十九日に拝領の鶴を料理して祝うため、四半時に出座する旨を知らせる。吸物と御流を下すので、当日は熨斗目上下で出席するよう案内する。三月七日付で、宛先は嶋津杢殿・左中殿、菱刈藤馬殿、川田伊織殿、鎌田藏人殿、嶋津大藏殿、小松式部殿、嶋津仲殿、河野八郎左衛門殿の九名。各人には人物注が付き、川田伊織・鎌田藏人・小松式部の名の上には○印がある。小松式部・嶋津仲・河野八郎左衛門の列には、本部分がNo.48の行間朱書であるとの注がある。目録は高橋種寿書状とし、宝暦十四年の年記を注記する。
延享二年九月十八日 / 冊子 822~823頁/整理ID 2178
宗信が国元に到着した礼を述べる使者の嶋津八郎左衛門を、翌十九日の四時に城へ差し出すよう継豊が留守居に指示した。使者を通じた到着報告の手順を示す短い文書である。
宝暦十年(日付不記) / 冊子 762頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2333
五月九日、島津若狭久暢に「上于政府」を命じ、六月四日には河野八郎左衛門を大目付とした。七月三日に鎌田蔵人政芳を家老とし、六日には義岡弾正久中を職から免じた。九月には家治公が将軍に就いたと記す。
2月摂津;甲子2月28日申渡注 / 冊子 349頁/原整理番号 496の2/整理ID 496-2
諸郷の先手を六組に分け、蒲生の物主を川上八郎左衛門、国府を川上左太夫、志布志を福崎助七、大口を山田大炊、隈之城を野村勘兵衛、水引を上原藤太夫とする割当書。これらの先陣備の惣物主町田民部を、御名代島津周防へ召し付ける旨を申し渡す。二月摂津、甲子二月廿八日の申渡注。地名・組と役名・担当者の対応を示すもので、実出陣や戦闘の成果はここにはない。
8月帯刀(本文);去月19日戦闘への言及 / 冊子 376~377頁/原整理番号 540の1/整理ID 540-1
金子三両宛の賞賜を記す名書。吉利群吉組の一組表示と安藤八郎左衛門・知識源之丞、川上右膳組と伊地知徳四郎・國分一郎右衛門らの名を列記する。去月十九日、長州勢が禁闕・九門内へ入り諸藩の人数が崩れかけたところ、速やかに防戦して追い退け家の面目を示したとして、さらに忠勤するよう優賞を与える八月帯刀の通知。名書には十五名を記すが、組の人数や一組表示の適用範囲は独立に扱い、全支給総額を算出しない。武功評価は通知の叙述として読む。
年月日未詳 / 冊子 146~147頁/原整理番号 257
加久藤地頭・伊地知重政が召し連れた人数は削減により帰されたが、西田杢允時栄と赤川弥七郎は城攻めで働く志が強く、一人が小者八郎左衛門を伴い、三人でこの日加久藤を発って島原へ赴いた。いずれも自力で参陣したと記す。
観応年間、島津忠昌代、島津義久(龍伯)代、島津忠良(日新)以来、島津貴久代、関ヶ原合戦時 / 冊子 256頁/原整理番号 100
『諸家大概記』所収の藤原姓上原氏由緒。観応頃に市来院伊作田を領した伊作田兵部太夫道材・中務丞尚経と足利直冬の御教書などを挙げる一方、伊作田から上原への称号変更が、一時的な名乗り替えを経たのか後に上原へ固定したのかは不詳とする。島津忠昌代に上原藤左衛門が奉公し、島津義久(龍伯)代に上原筑前守が兵具奉行を務め、その子孫上原休兵衛を嫡家とする。筑前守の弟・上原長門守尚常の系統は島津忠良(日新)以来近習として仕え、貴久代から地頭職、のち飫肥移地頭となって九州御退治で軍労を尽くし、代々地頭を務めたといい、近年の上原長次郎をこの筋とする。さらに上原伝左衛門の先祖が島津家久に付属し、上原貞右衛門が関ヶ原で島津豊久とともに戦死したこと、曽於郡衆中の上原掃部左衛門が系図を所持したこと、上原勘助の先祖が長門守に従って飫肥へ移住したこと、上原八郎左衛門が休兵衛二男家であることを記す。
辰年5月15日 / 冊子 275頁/原整理番号 107-16
辰年五月十五日、上原休兵衛が門司伊兵衛・肥後少三郎へ、自分は上原源右衛門の跡目を命じられて同家を相続したので、今度は国分刑部左衛門の弟・八郎左衛門を自身の猶子にしたいと内談している旨を申し述べ、そのとおり許可されるよう取り次ぎを願った口上覚。追記により、この願いは七月三日に伝達されたことが分かる。
天正13年(1585)・寛永5年(1628) / 冊子 381頁/原整理番号 191
焼失した蒲池休右衛門家の系図に基づく家伝と、記主自身の考証を併記した覚書。筑後国蒲池城主の蒲池家は天正年間の合戦で敗れ、備中入道が天正十三年に島津義久へ属して千石を与えられたとする。備中入道の養子新助は山田民部入道性円の兄で小根占地頭、その嫡子が八郎左衛門で、記主は八郎左衛門の猶子だと述べる。備中入道を野田地頭とする家伝は当初不明としながら、寛永五年の御人数賦帳に『野田蒲池備中入道』とあるため正説と考えるに至った。
元禄十四年一月二十九日 / 冊子 266頁/整理ID 889
春成久珍・上山頼寛が村田平右衛門ら三名へ、肥後・日向国境絵図の下書への指示を受け、米良側役人と現地で境を確認して別条がないとの証文を取り交わすよう米良主膳方へ申し入れ、相良遠江守の返答を待つため出発が遅れていると説明した連署書状。初瀬村という村はなく三納村内の長谷山を指す可能性があること、平野村は平郡内の小名で絵図に記さず、米良境は三納村・三才村の二村であることも回答する。
〈寛延三年〉五月二日 / 冊子 276頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0782
五月二日、河野八郎左衛門が嶋津主鈴に、常念仏堂建立と施主の件について返答する。荻原の書付と鎌田典膳の問い合わせを伝えたところ、承知しておく旨の意向を受けたと記す。また、御当地の女中様方を施主に加える件も申し上げておいたという。荻原の書付、典膳の問い合わせ、寺社奉行の賦書二通・絵図二通を返送した旨を伝える。
〈寛延四年〉八月二十一日 / 冊子 322~324頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0951
八月二十一日、嶋津主殿・伊勢兵部・義岡相馬・嶋津主鈴・鎌田典膳・河野八郎左衛門の六家老が、平田靭負・市来左中へ、大御所の遺物を太守・隅州・菊姫が拝領した後の謝礼について返答する。上使小出信濃守への御礼を山澤小左衛門が酒井左衛門尉の御用人に取り次いだところ、名代で御礼するよう上使から伝えられたという。国元で聞き合わせた結果、名代御礼の筋は当初から定まっており、上使の有無によって変わるものではないとする。大御所の隠居祝いに慈徳院が腰物を授けた例と、延享二年十一月、病身の隅州に代わり嶋津加賀守が登城して謝礼した例を挙げる。この時は老中・上使側へ直接廻勤し、若年寄へは家老の使者、側衆・物頭へは使者を遣わした。在国の慈徳院遺物拝領では御用番に相談して使札を勤めたことも示す。 今回も先例に従い、上使への御礼を使札で勤めたい意向を伝える。小左衛門からの口伝と廻勤例書による説明だけでは不足があるとして、堀田相模守へ内談し、留守居と御用人浅井八兵衛を通じて詳しく調整するよう求める。使札の扱いが整わなくても名代御礼に差し障りがないようにし、老中・上使側への名代の廻勤、若年寄への家老使者、側衆・物頭への使者を先例に合わせて勤める。御書の案文は佐々木に差図し、国元で判紙を整える。 太守は当分忌中なので、忌明後に御礼を勤めることとする。隅州は忌明となり今日御頂戴し、名代御礼の首尾を申し越すよう求める。同日、日積を付けて加賀守へ依頼し、淡路守にも連絡する。国元では十一日付の判紙を整え、老中その他の役人への書状と、使札を勤める場合の使者を先格に従って準備する。大御所からの腰物拝領時に国元の馬廻を使者にした例を挙げ、今回も使札が整えば同様に取り計らう。御内証の謝礼、太守・隅州の御礼、菊姫の御手鑑拝領への謝礼は別紙朱書返答によって相談し、日光宮・御三家・御一門その他へ拝領を知らせる件も別紙で伝える。隅州の御礼が済んだ首尾と、太守の忌明後の御礼の扱いを報告するよう結ぶ。
〈寛延四年〉十一月十四日 / 冊子 332・337頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0984
十一月十四日、六家老が平田・市来の遺物拝領後の謝礼報告へ朱書で返答する。本文の趣を承知し、書面のとおり両殿へ申し上げたという。送られた奉書の写し、返事六通、その他の書付はすべて留め置いたと伝える。加賀守が名代で勤めた御礼・挨拶については、御使番へ申し渡す扱いとする。末尾に主殿・伊勢兵部・義岡相馬・主鈴・鎌田典膳・河野八郎左衛門の六名を掲げる。
明和九年の編年記事(前年冬の下賜から同年六月晦日復命まで) / 冊子 312~313頁/原整理番号 855/整理ID 855
重豪が在国していた前年冬、家治が独り鷹狩りをして得た鶴一隻を国へ賜った経緯を記す。十二月二十七日、松平輝高が留守居樺山助之進資孫を召して鶴・奉書・駅券を授け、資孫は拝奉して芝邸へ帰った。その夜、川上八郎左衛門親方・米良弥平次則房を宰とし、歩行士二人・足軽六人で国へ護送した。正月二十二日、藩城へ到着し、重豪は対面所に親しく出て拝受した。同日、島津太郎次郎久容を謝恩使として東都へ送り、堂千太夫行撰・阿多源蔵實親を伴わせ、駅券と連署を付した。西海・山陽・東海を経て二月十六日東都へ到着し康福の邸を訪ね、二十七日に連署と駅券を返した。久容は同月二十四日、西丸の阿部正允の邸にも格書を届け、他の執政・若年寄へも例どおり書を送った。三月十五日に登営し、家治公へ二種一荷、家基公へも同品を献じて拝謁し、土岐美濃守定経が奏者となった。続いて久容自身は太刀一腰・馬代銀一枚・紗綾二巻を献じ、太田備後守資愛が奏者となった。同日西丸にも登り、自身で太刀と馬代銀一枚を献じ、小出伊勢守英常が奏者となった。十八日にも登営し、板倉勝清から奉書を授けられ、紗綾二巻を賜った。三月二十四日東都を発ち、六月晦日に鹿府へ帰って復命した。出典は御譜中。
文書日付:七月廿七日 / 冊子 277頁/原整理番号 三五七/整理ID TMP-P02-NENE2-D0357
島津の進退はなお不明として、参陣までは注意するよう求める。 去月廿一日の書状を承り、三ヶ国の大将が下向するため忠節を尽くすことを喜ぶ。 訴訟について沙汰の時期を待つよう伝え、西本八郎左衛門尉の件も承ったとする。 耐え忍ぶよう求め、詳細は使者が伝えるとする。
現行年紀:七月卅日 原資料括弧注:(永和二年カ) / 冊子 368頁/原整理番号 五九三/整理ID TMP-P03-NENE5-D0593
六月廿一日の書状を七月廿四日に受けたとして、忠節と知行分の訴訟等への対応を返答する書状。 三ヶ国大将の下向、佐敷の陣へ代官を送ったことを披露すると述べ、引き続く忠節を求める。 知行の申沙汰や西本八郎左衛門尉殿の件を取り計らう一方、本領・先給人・預け人の意向や事情の把握が必要だと記す。 文末に七月卅日、沙弥明眞の花押と祢寝殿の宛所を掲げる。年は括弧注「永和二年カ」で確定できない。
〈寛延四年〉七月十六日 / 冊子 316~319頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0938
平田靭負正輔が七月十六日、主殿久柄・伊勢兵部貞起・義岡相馬久中・主鈴久郷・鎌田典膳政昌・河野八郎左衛門通興へ、有徳院の遺物拝領と謝礼について報告し、国元の指示を求める。十日に上使小出信濃守から、太守・隅州へ脇差各一腰、菊姫へ御手鑑一帖が授けられ、同日の飛脚で知らせた。刀の外箱を整え、御馬廻川上喜藤太、新番荒武蔵右衛門、御歩行五代喜左衛門、愛甲嘉兵衛、足軽八人を付け、護送に差し立てた。川々の渡しを慎重に扱い、佐屋経由では日数を定めず油断なく参着するよう申し合わせた。 両殿は在国のため、取次の小左衛門・長澤牛兵衛を通じ、加賀守忠雅の名代御礼と上使への礼使札を相談した。十日に小左衛門が参上し、上使の書状を受け取り、両殿の謝礼使者について加賀守が承知したと伝えたが、牛兵衛の説明に食い違いもあり、翌朝七時ごろに改めて確かめた。遠国在住の両殿へ上使が遺物を授ける例は家中になく、謝礼は今後の家格に関わるため、御一門から名代を頼み、老中・若年寄などへは名代が廻勤し、側衆・物頭へは使者で御礼すること、国元でも先に定めた名代御礼の筋を通すことを求める。留守居と星野久務に内談し、平田半之丞・赤松甚右衛門の連絡も挙げ、上使への挨拶で誤解を生じないよう相談する。 さらに、両殿の名代御礼の節に京都諸司代・大坂城代へ通知するか、長崎へ留守居の使者と書状を送るかを尋ねる。十一日に小左衛門を通じ、御用番酒井左衛門尉から太守・菊姫・隅州の御礼を記した御付紙を渡す旨を聞き、御付紙の銘と書付二通、留守居の首尾書一通、佐々木の案文二通を送る。菊姫の表立った謝礼は御用番へは不要とされたが、御留守居から申し出た扱いと松平右近将監・上使への謝礼を照会し、深姫にも言及する。日光宮・御三家・御一門その他へ拝領を知らせるため、使者を通じた通知と隣国への伝達を相談する。末尾に印鑑一枚と別紙五通を送ると記す。
〈寛延四年〉八月二十一日 / 冊子 316~319頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0939
八月二十一日、平田正輔の遺物拝領・謝礼相談の書状に付された六家老連署の朱書返答。脇差は去る十三日に届いたが、お貞殿の不幸により太守・隅州が忌中なので、御納戸に預け、忌明に御頂戴する扱いとしたと伝える。両殿の名代御礼の差図を承知し、在国の節の名代については早速御用番へ伺うには及ばないとしながら、上使への礼使札による謝礼を勤めたい意向と、その委細を別紙で伝える。老中・若年寄・上使側・側衆への挨拶についても別紙で伝え、なお相談して首尾を整えるという。 京都・大坂への通知については、その先年の御知の扱いを挙げ、有徳院の腰物を拝領した節の書留が見当たらず、今回の隅州滞府中の御知も承知しないとして、互いに相談し、其元の同役や御使番を通じて調整する。両殿の書状は国元で整え、日付の扱いと太守・隅州への謝礼は同日に命じ、案文を返すと記す。拝領の通知については、御使番等が申し越したこと、太守の忌明の御頂戴が済んだ時に知らせること、長崎御奉行・隣国などへの扱いを付記する。返答とともに案文以外の送付書類・印鑑を記し、一枚を留め置いた旨の注も添える。
年月日未詳 / 冊子 47~48頁/原整理番号 151/整理ID 151
明和二年乙酉・三年丙戌の公辺行動記録。二年正月二日に大家へ朝賀し、廿一日に鶴を賜る。二月四日に琉使が薩府へ着き、十九日に島津大蔵久通の改称、廿五日に山城久定の家老辞職を記す。三月四日、輝高・正右・若年寄らを芝邸に招き、貴樹君誕生を祝う。六日に宗衍ら十八名、九日に重定ら二十二名、四月五日に忠恭らを再び招き、十三日には大家が康福を遣わして物を贈り、芝邸で散楽を行う。十五日に朝謁・拝恩、廿一日に帰国を賜り、護摩所不動へ首途の参詣、廿五日に浄岸君・真含君を招いて散楽・宴を催す。五月四日芝邸発、十九日伏見着、廿日京・宇治を微行、廿一日大坂着、廿四日大坂発、六月廿二日府城着。七月朔日に山下・西田・築地三館を訪ね垂水邸に還り、三日に大雄・玉龍・松峯へ参詣、五日に築地で三公子を伴い宴、十五日に松峯・玉龍へ先廟を謁し、十九日花火見物。廿一日仲久健を家老、久卜を大御目附、金陣・行旦を側御用人に任ずる。八月十九日の国老免職・廩米百苞終身給付、九月六日の政府職免職・以後の朝班国老待遇、廿九日の河野通古の若年寄任命、十月九日の久起の大御目附就任・外記への改称を記す。十一月廿六日市来で放鷹、廿七日湊で羽島の唐船を見物して市来へ還り、廿八日伊集院に宿す。廿九日鹿児島横井に館を造り、尾畔に入り還府。十二月三日に諏訪・祇園へ首途参詣、四日散楽、四日は卯刻から翌卯刻まで能二十番・狂言十番、廿五日に荒平で狩りを行う。三年正月廿三日府城発、大口路を経て翌日金山見物、廿六日佐敷着、二月廿二日兵庫から微行して布引滝・摩耶山を訪ね、廿三日大坂着、廿四日市人らと会う。廿五日竹田近江に書院でからくりを行わせ、従士にも見物を許し、廿六日芝居、廿八日伏見着、廿九日京都微行、三月朔日桃園・万福寺を見物、二日発、十九日芝邸着。目録は記事。
甲子3月写之(編成図後記) / 冊子 349~350頁/原整理番号 496の3/整理ID 496-3
長州征伐に付く御備立の図で、甲子三月に写したと記す。中央に御旗本・御名代嶋津周防を置き、六つの物主隊と、北郷数馬・仁禮舎人・田尻務・嶋津織之介・川上右膳・嶋津權五郎の一~六番号隊を配置する。物主隊には小銃・大砲の区分と各百七人、番号隊には各百五十六人の記載がある。大目附町田民部、小荷駄奉行市来次十郎、喜入摂津等も示す。末尾は御城下人数七百六人、惣合二千五十二人と記す。図の配置・役割別人数と末尾総人数をそれぞれ原記載で示すが、内訳の重複や集計範囲は明示されないため、合計を組み直して実出陣人数とは確定しない。山田の名は前条の大炊に対し図では司と記す。
九月19日本営報、列記は八月20日~九月15日等の戦死・病院死 / 冊子 597~599頁/原整理番号 779の1/整理ID 779-1
雑録中。会津攻撃に関わる死者を所属隊別に列記し、八月二十三日・二十六日・九月十五日の戦死、深手を負って三春病院等で死亡した者、八月二十日・二十一日の戦死を区別する。六番隊五人のうち川上彦八郎・園田勇吉・中嶋岩次郎は砲戦が激しく遺骸引揚ができていないとし、米良仲之丞・猪保壮七郎は八月二十三日戦死、藤崎勇藏は深手の後二十九日に会津城下の病院で死亡したと記す。「十七人」を会津城下明寺院に仮葬したとの記載を掲げ、後段の九人では七人が深手の後に死亡し、残る二人は戦死とまとめ、内龍穩院に葬ったとする。各人の遺髪は十九日出立の山下七郎に託して国許へ送り、到着後に親類へ渡し、先規の葬式料も処置するよう求める。九月十九日、会津在陣本営から御国許陸軍所・京都本営役所宛。戦死・負傷後死亡、遺骸未収容、仮葬、送付済みと到着後の指示を分けて記す。
年月日未詳 / 冊子 439頁/原整理番号 414
二日、熊本の兵約一万六千人が天草へ出陣したと記す。有吉頼母英貴を大先手とし、長岡武部・長岡右馬助・志水伯耆・清田石見・小笠原民部の各陣と細川立允・立孝の遊軍を列記する。熊本から三角浦まで十一里を進んだが、険しい道と雨で隊列が乱れ士卒が疲れ、翌三日の午刻にようやく三角へ着陣した。
〈寛延四年〉十月四日〔目録:九月二十八日〕 / 冊子 332~337頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0983
平田靭負正輔・市来左中政方が六家老へ、太守・隅州の有徳院遺物拝領後の御礼について、江戸での相談と書状・使札の提出経過を報告する。加賀守から名代御礼についての照会がないため、留守居を通じて御用番酒井左衛門尉へ申し上げ、山澤小左衛門を取次に遣わした。国元在住の拝領者には名代御礼の例がなく、上使の差図もないまま、有徳院の隠居祝いの拝領例だけで処理するのは不足があるとして、堀田相模守へ内談した。留守居が御用人浅井八兵衛から、御用番の出勤を待って礼使札を差し出す扱いを聞き、赤松甚右衛門にも申し合わせた。甚右衛門は病気で参上できず、小左衛門が佐久間源太夫へ事情を伝え、先月十五日に相模守へ内談する手はずを整えたが、浅井八兵衛の内用のため進まなかった。そこで倉次甚太夫にも相談し、十七日付の手紙と十九日の来訪を経て、御用番の差図どおり名代で勤めることになったと報告する。 名代が登城して御礼するのか、廻勤で済むのかについても堀田側と相談した。隅州が病中のため、在府の加賀守が両丸へ登城し、老中へ廻勤する扱いとし、似寄りの例書を添えるよう八兵衛から伝えられた。当分出勤しない酒井左衛門尉・秋元但馬守への御礼は差し控え、出勤後に改めて勤める。大納言への御礼も御用番へ申し上げて済ませるという。有徳院遺物の両殿への拝領について本多伯耆守へ提出した書付一通と例書一通、隅州から大納言への御礼についての書付一通と付紙の扱いを挙げる。加賀守父子の名代については先に願い、御用人を通じて登城を要しない廻勤の差図を受けた。先月二十五日の書状提出、翌二十六日の加賀守の老中・上使側への廻勤、若年寄への菱刈孫兵衛の使者、側衆への表方・隠居方それぞれの使者を記す。 太守・菊姫の遺物拝領に隅州から謝礼する連署書状一通について、本多への提出と受け取り、秋元宛書状が西丸用務のため登城しなかったこと、西尾隠岐守宛書状の提出、元で整えた連署書状と御右筆の案文を挙げる。太守・菊姫の拝領に対する奉書一通、隅州から大納言への謝礼に関する同一通、本丸の老女五人から隅州への返事六通も報告する。隅州の公方・大納言への御内証の御礼は名代使札で決めにくく、国元で文面を整えるよう伝えられた。八月二十一日付の御文と御案文、御礼文の八月九日・九日付、使札の八月二十一日付に相違があるため、御文を案文として扱い、双方を相談して調え直した。先月二十六日に御守殿から提出した御文はその日に返事が下り、女使の口上と春井の取次を経た。二十七日には春井から添文付きの御文六通を提出したという。 太守の御頂戴がまだ済んでいないため、七月十日の拝領として差し出す御礼文の扱いを佐々木に尋ね、差し支えないとの返答を得た。隅州の御礼文は御右筆が提出し、国元の御案文も添える。日付の異なる案文と調え直した文面を送って、国元の心得とする。京都諸司代・大坂城代への通知は、隠居祝いの拝領時の例に従って調えるよう使番へ申し渡したが、先例が見当たらないため、近衛その他への通知とあわせて相談する。日光宮・御三家・御一門への通知は、太守の御礼が済んだ時に使番へ申し渡すよう求める。隅州の御礼が済んだことも伝え、別紙九通を送るとして結ぶ。末尾に十月四日の朱記と、平田靭負・市来左中の名義、六家老宛名を掲げる。
元禄十六年九月二十七日 / 冊子 440頁/整理ID 1506
島津久明ら家老五名が越来按司へ、自身の称号を前年に越来へ改めた件について川上八郎左衛門へ送った書状の趣旨を承知し、島津綱貴へ伝えたと通知した連署状。
延享二年九月十九日 / 冊子 823頁/整理ID 2180
宗信が初めての帰国に際し、将軍家から巻物・馬などを賜ったことを謝し、国元へ到着した礼のため嶋津八郎左衛門を使者に立てた。本多忠良・松平乗邑・酒井忠知はこれを承知したと連署で返す。
宝暦十年(日付不記) / 冊子 765頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2341
継豊は五月二十二日、家治の将軍職承継を祝い、側用人で番頭を仮に務める使者河野八郎左衛門通古を通じ、太刀一腰・馬代黄金一枚を献じた。大広間で酒井飛驒守忠香が取り次ぎ、老中が並ぶ中で堀田相模守正亮が奉書を下した。八月二日、通古が召されたが既に鹿児島へ戻っていたため、側用人北郷七郎左衛門久儔が登城し、柳間で正亮から継豊宛の奉書を直接受けた。久儔には縮絹二巻が賜られ、土屋能登守篤直が伝達した。
天文7年3月 / 冊子 199~201頁/原整理番号 67
巻末目録では『莫根氏系図』、本文見出しでは『莫根系図』とする系図。平良文(村岡五郎・従五位下)から忠朝・孝輔・貞道へ続き、貞道を伊作平三、源頼光四天王の一人と記す。貞言・貞元・季基・為賢、兼輔・兼重・季兼・良忠、成道・兼時、成兼以下の諸系線を展開し、河崎・神崎・山口・浜田・樋脇などの名字・居所、官途・位階・法名を添える。成綱―成友の系では鎌倉の長崎圓浄阿闍梨との関係を記し、成友以下から成行・成長・貞友、貞勝・伊成らへ分岐する。貞勝は兵部少輔で筑後にて討死、成政の子成郡は兵部少輔で隈城にて討死とする。成義は山崎八郎左衛門尉・法名浄圓、成智は豊前守で薩州から百次地頭と所領三十町を給わったと記し、成通・成清へ続く。末尾は丹波守成清が天文七年三月に百次で討死した記事で終わる。
慶応元年閏5月朔日(目録) / 冊子 80頁/原整理番号 106
川上八郎左衛門門弟の季安は、高齢まで武芸に精進したことを評価され、褒美として太平布一包を拝領するよう申し渡される。
慶応元年閏5月 / 冊子 81頁/原整理番号 107
季安は川上八郎左衛門の門弟として老年まで武芸に精進したため太平布を拝領したことを述べ、御礼を申し上げる。関係先への礼廻りも記す。
現行年紀:未確認 本文中の参照年紀:到 永徳元/六一 / 冊子 80頁/原整理番号 133/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0133
祢寝右馬助久清と一所に忠節を致した者として、肥後対馬太郎・指宿豊前守・祢寝彦三郎入道・祢寝次郎三郎入道・山本加賀守を列記する。 続いて宮原参河守・救仁郷参河介・冨山土佐介・西本八郎左衛門尉・細山田大和介を記す。 後外題には、以上十人への御感の事を京都に申し下すべき旨と、さらに忠節を致すべき旨を記す。