伊集院忠朗証文
天文十七年四月四日 / 冊子 850頁
伊集院忠朗が正八幡宮の神領と神人に関する旧来の権利・祈念・寄進を証し、証文として認めたもの。
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天文十七年四月四日 / 冊子 850頁
伊集院忠朗が正八幡宮の神領と神人に関する旧来の権利・祈念・寄進を証し、証文として認めたもの。
天文十七年四月四日 / 冊子 851頁
伊集院忠朗が正八幡宮神領と神人の権利を証した証文。国分宮内澤氏蔵本で、No.2570と同文系統の写し。
(天文十七年)十二月吉日 / 冊子 868頁
島津貴久が伊集院忠朗の隈城での忠節を賞し、知行・権利を従前どおり認め、今後も重く遇する旨を約した書状。
年月日未詳 / 冊子 888頁
伊集院忠朗が日新・貴久・義久の三代に仕え、奉公第一の人物とされたことを記す。
天文十九年八月十六日 / 冊子 888頁
伊集院忠朗らが、相互の案件を協議して同心し、合意内容を守ることを連署して約した契状。
卯月廿二日 / 冊子 94頁
伊集院忠朗が本田因幡守に宛てた書状。先に贈った弓木への礼は不要とし、相州入道から贈られた鯨油について上田殿から受けた礼を披露したことを報告する。鯨油は珍品で島津忠良・貴久も大いに喜び賞翫したため、重ねて礼を伝えるよう求めている。
五月廿八日 / 冊子 99頁
伊集院忠朗が二乗院の同宿衆に宛てた書状。重信の身上については大興寺と相談する意向を示す一方、本田幡守父子が他出中のため、当地での処理には多少時間がかかる見込みであると伝え、その旨の披露を求めている。
四月廿二日 / 冊子 321頁
本文はNo.338と同文として省略される。参照先によれば、限江匡久が山田安藝守に、山東・池袋・都城から使僧・使者が相次ぎ多忙であると伝えた書状。ただし目録の年月日・標題は四月廿二日・伊集院忠朗書状で、参照先No.338の五月四日・限江匡久書状とは一致しない。
永禄五年六月廿一日 / 冊子 115~116頁
伊集院忠朗ら島津・北原・相良方の関係者が、将来にわたり合意を違えず、世情が変化しても不安を抱かせず、和議に関する雑説が生じた際は互いに申し知らせると神々に誓った連署起請文。
享禄四年八月廿三日 / 冊子 711~712頁
島津忠良・貴久・忠朝、伊集院忠朗らが父子・一族間の合意を守ると誓った連署起請文。互いの知行・所領を侵さず、重要事項を協議し、軍事・家政で相互に協力することを定め、違反時には梵天帝釈・八幡大菩薩など諸神仏の罰を受けると誓約する。
年月日未詳 / 冊子 750頁
天文五年九月から十一月、伊集院忠朗を大将とする軍勢が大田原の柵や橋をめぐって夜襲・放火を行い、敵兵を討ち取った戦闘を記す。
年月日未詳 / 冊子 767~769頁
天文八年の加世田・新城をめぐる攻防を諸譜から集成した国史記事。本丸への進攻、城兵の反撃、救援と追撃、双方の戦死者を記し、新納康久・鎌田政真らの動向を追う。さらに伊集院忠朗方の蜂起と忠良・貴久方の反攻へ続き、城の奪回をめぐる連続戦を示す。
天文八年四月吉日 / 冊子 774~775頁
島津家老臣の伊集院忠朗・経定が、薩摩国谷山郡の修理田・枝田など三段を伊佐智佐権現へ付した坪付。
年月日未詳 / 冊子 852~855頁
天文十七年、大隅国府の本田氏旧臣が起こした乱を島津貴久方が鎮定した経過を記す。本田紀伊守・北原方と伊集院忠朗らが清水城・姫木城を争い、放火で寺社が焼失する中、日新公方の援軍と城攻めによって反乱勢力を退け、地域支配を再建した。
年月日未詳 / 冊子 856~857頁
『樺山玄佐譜』が、姫木城をめぐる北原・本田方との攻防を記す。樺山玄佐が守兵・援兵を率いて城の防備を整え、伊集院忠朗や日新公方と連絡しながら、清水方面の敵情、援軍の到着、城兵の出撃に応じて兵を配置した経過を伝える。
年月日未詳 / 冊子 857~859頁
『貴久公記』が、天文十七年三月に本田紀伊守が姫木城を構えた後の大隅情勢を記す。島津貴久・伊集院忠朗方と北原・本田方が清水周辺で攻防し、戦火で神社・寺院が焼失したこと、諸勢が出兵と退却を重ねて戦線が変化した過程を追う。
年月日未詳 / 冊子 859~861頁
箕輪伊賀が天文十七年の清水城・姫木城争乱を記した覚書。本田紀伊守・北原方と島津貴久・伊集院忠朗方の出陣、城への攻撃と救援、周辺への放火、軍勢の進退を日を追って述べ、大隅の複数城を連動させた戦線の推移を伝える。
年月日未詳 / 冊子 862~863頁
『庄内平治記』が、本田董親が北原氏を介して勢力回復を図ったことから、北郷忠相・伊集院忠朗らとの対立が深まる経過を記す。清水・姫木方面で諸勢が出陣し、城と周辺拠点をめぐる交渉が合戦へ転じた背景と双方の動向をまとめる。
年月日未詳 / 冊子 863~865頁
樺山玄佐が自ら、島津貴久方への加勢要請を受けて兵を整え、渡海・出陣した経過を記す。北原・本田方に対する姫木城・清水周辺の攻防、伊集院忠朗ら味方諸将との合流、陣所の移動と戦況判断を日次に近い形で詳述する戦闘記録。
年月日未詳 / 冊子 867頁
本田董親が宮内を侵掠して神官らを退去させた後の回復過程を記す。島津忠将・樺山玄佐・伊集院忠朗らが清水・姫木方面へ出陣し、本田方の城を攻めて旧領を奪回した。戦後は神官・調所恒房らを帰還させ、神職と祭祀を復旧した。
年月日未詳 / 冊子 874~875頁
『島津国史』が、天文十八年の島津忠親・北郷忠相と伊東氏の対立を中心に記す。伊集院忠朗・肝付兼演ら諸氏の帰属、清水城・加治木城周辺の出兵と戦闘、使者を介した和解と再離反を追い、領主間の同盟が変化する過程をまとめる。
年月日未詳 / 冊子 876頁
天文十八年三月から六月、伊集院忠朗の飫肥出陣、黒河崎への着陣、渋谷衆の降参と和平による解陣を日付順に記す。
年月日未詳 / 冊子 876~877頁
島津貴久が清水に滞在して戦後処理を進めた記事。伊集院忠朗・北郷氏ら軍功者を賞し、離反していた諸地域の帰順を受け入れて秩序回復を図る一方、日向山東を領する伊東義祐の軍事動向を警戒し、国境方面の守備と今後の対応を整えた。
年月日未詳 / 冊子 877頁
天文十八年三月廿二日、伊集院忠朗・豊州島津忠広らが飫肥方面へ進み、諸将を率いて攻城・防戦したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 878頁
天文十八年三月廿一日、島津貴久方が清水から飫肥へ向かい、伊集院忠朗らと協議して敵陣を攻め、敵を退散させたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 878~879頁
島津貴久が日向山東・飫肥方面の危急を聞き、伊集院忠朗らを援軍として派遣した経過を記す。三月から四月にかけて北郷忠相方と合流し、伊東勢の城・陣への攻撃に応戦して守備を支え、日向国境での戦線崩壊を防ごうとした。
年月日未詳 / 冊子 879頁
『日向記』が、天文十八年二月二十日の井手尾下付近の戦いを詳述する。豊州島津氏・北郷方と伊東勢が陣を分け、伊集院忠朗・稲津氏らが攻城・迎撃に加わった経過を追い、各陣の進退、討ち取られた武将、最終的な勝敗を記録する。
年月日未詳 / 冊子 880頁
瀬戸口伊豆入道が、故郷へ帰参するまでの身上を述べた覚書。和州滞在中の処遇、伊集院忠朗への申し出、島津貴久方への奉公再開を記し、旧所領の回復、知行の保証、今後の勤仕をめぐって主家と交渉した事情を回想する。
年月日未詳 / 冊子 880~881頁
『樺山玄佐譜』が、天文十八年の加治木・高城方面の攻防を記す。樺山善久・伊集院忠朗らが肝付兼盛・蒲生方の城内へ働き掛け、敵勢の減退を見て降伏条件を調整し、使者・人質を介した和議から帰順、城の受け取りへ至った経過を追う。
年月日未詳 / 冊子 881頁
島津貴久方が加治木城を攻めた際、伊集院忠朗・肝付兼盛らが黒川崎へ布陣して蒲生・渋谷方と戦った経過を記す。敵陣への火矢射撃と周辺への放火、城方の出撃への迎撃を重ね、加治木城を孤立させるための前線構築と攻防を伝える。
年月日未詳 / 冊子 881~882頁
箕輪伊賀の覚書が、加治木攻めで伊集院忠朗方が黒川崎に陣を構えた戦況を記す。敵方との矢戦、民家・陣所への放火、陣幕が焼失する混乱の中での応戦を追い、島津貴久方・北郷方・本田方の兵が各持場で攻防した経過を伝える。
年月日未詳 / 冊子 882頁
加治木城主肝付兼盛が太守島津貴久に従わなかったため、伊集院忠朗・北郷忠相らが加治木を攻めた経過を記す。蒲生・渋谷方との戦闘、城周辺の封鎖を経て兼盛方を退け、使者を介した赦免条件の調整によって帰順させ、城と所領を処置した。
年月日未詳 / 冊子 882~883頁
天文十八年、島津貴久方が加治木城主肝付兼盛と蒲生・渋谷方を攻めた戦役を記す。伊集院忠朗らが城と周辺陣地を攻略し、敵勢を退散させて加治木城を落とした後、使者・人質を介して和議を結び、兼盛らを赦免して帰順させた。
年月日未詳 / 冊子 883~884頁
樺山玄佐が加治木・蒲生方面の陣取りと和平交渉を詳述した自記。島津貴久・伊集院忠朗・肝付兼盛・北郷氏らの動向、親族・使者を介した条件調整、所領と人質の扱いを記し、城方の帰順後に城・知行をどのように処置したかを示す。
年月日未詳 / 冊子 888~889頁
瀬戸口伊豆入道が、少年期から島津貴久・義久方に従った自身と一族の軍歴を回想した覚書。伊集院忠朗らとの従軍、各地の城攻め、身内の敵討ち、味方武将の討死を挙げ、危機の中で続けた奉公と、その功績が家に伝えられた事情を記す。
万暦元(天正元)年七月十一日 / 冊子 312頁
琉球国三司官の那呉道林が伊集院忠棟へ、初めて書状を送り、懇切な音問への謝意を述べる。先代伊集院忠朗以来の交誼が変わらず続くことを喜び、琉球と島津領国が隣国として旧約を保ち、隔意なく往来することを望む。心香・唐五明・織物を祝儀として贈る。
年月日未詳 / 冊子 876頁
天文十八年三月から四月、清水方面で諸将が敵方と戦い、新納忠元が大刀を携えて先鋒を務めたことなどを記す。
年月日未詳 / 冊子 877頁
天文十八年、島津貴久が清水に布陣した際、新納忠元が諸将とともに城攻めと防戦に加わり、武功を挙げた経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 887頁
天文十九年、島津貴久が加治木・小濱周辺の土地や収益を処置し、肝付氏らの知行と清水方面の配置を定めた経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 635~639頁
新納忠武らの挙兵を契機に、島津忠兼と忠良・貴久方が争った経過を記す。伊作・伊集院・鹿児島方面の城攻めと軍勢移動、伊集院忠朗・伊地知・北郷諸氏の帰属、交渉による和睦と再対立を追い、守護家の主導権が変化した過程をまとめる。
年月日未詳 / 冊子 742~743頁
天文年間、薩摩・大隅・日向三州の諸将が離合集散する中で起きた伊集院城攻防を記す。島津実久方と伊集院忠朗・忠栄・梅久父子らが対立し、北郷忠相・町田氏も関与した。城下戦と籠城、家臣の戦死、忠栄・梅久方の退去までを追う。
年月日未詳 / 冊子 742~743頁
天文五年前後の北原氏との戦いと伊集院城攻防を、複数の系譜に基づいて整理した国史記事。島津実久、北郷忠相、伊集院忠朗・忠栄・梅久、本田董親らの軍事行動、城郭の陥落、家臣の戦死と退去を照合し、諸家の帰属変化を示す。
年月日未詳 / 冊子 745頁
天文五年の伊集院城をめぐる島津実久方と伊集院忠朗・忠栄・梅久らの抗争を記す。夜襲、城下への放火、籠城戦、家臣の戦死を追い、忠栄らが城を退去した後の処遇と伊集院氏の系譜まで記して、城の争奪が一族の継承に及ぼした影響を示す。
年月日未詳 / 冊子 746頁
天文五年三月七日、貴久方が伊集院城を攻めた際、町田久用は伊集院忠朗・忠栄・梅久らと守城し、城中で戦死した。忠朗らは城を退き、石谷城へ移った後も反攻を試みたが、町田氏・伊集院氏の多くが戦死・離散した。町田氏庶流の継承、久用の子孫と所領の推移までを記す。
年月日未詳 / 冊子 855~856頁
『樺山玄佐譜』が、天文十七年の大隅争乱で樺山善久(玄佐)が島津貴久方として出陣した経過を記す。本田・北原方に対する清水城・姫木城攻め、伊集院忠朗ら援軍との合流、渡海による戦線移動と退陣判断を追い、各城の支援関係を示す。
永禄五年七月廿四日 / 冊子 116~117頁
伊集院孤舟が球磨から届いた複数の書状への返答や使者の扱いについて肝付氏へ相談した書状。球磨との恩義を鹿児島へよく相談し、真幸の所領問題と横川を菱刈氏へ与える方針を伝えるよう求め、旅宿へ酒も贈った。
永禄六年五月朔日 / 冊子 122~123頁
大隅国宮内の観音屋付水田五町について、その坪付を示した島津氏老臣の連署文書。肝付兼盛・伊集院孤舟・勝軍坊が署判する。
永禄五年八月吉日 / 冊子 117頁
相良頼房が北郷氏に対し、将来にわたり合意を違えず、世情が変転しても不安を抱かせず、和議に関する雑説が生じた際は互いに申し知らせると神々に誓った起請文。
年月日未詳 / 冊子 745頁
天文五年、島津忠良・貴久方と実久方の戦いに伴う伊集院城攻防を記す。夜襲、城下への放火、籠城、伊集院氏家臣の戦死を追い、忠朗・忠栄・梅久らのうち忠栄らが退去した経緯と後裔の系譜を掲げ、敗戦後の伊集院氏の分裂と継承を示す。
年月日未詳 / 冊子 84頁
永禄四年、肝付兼続が宴席で鶴を供した際、島津家の鶴丸紋を嘲られたと憤り、伊東氏らと結んで五月十四日に廻城を奪取した。島津貴久・義久らが包囲し、七月十二日の竹原山合戦で島津忠将・町田忠林らが戦死したが、島津方は反撃して肝付・伊地知・禰寝勢を退け、飫肥在陣中の義弘も帰還した経過を記す。