博多ひいのかわ後家譲状
正平十二年二月十一日 / 冊子 3頁
博多ひいのかわ後家が、薩摩国鹿児島の西田村後迫にある屋敷・田六反など三か所を上山衛門五郎へ譲り、後家が下向した際の奉公や他者による違乱の排除を求めた譲状。
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正平十二年二月十一日 / 冊子 3頁
博多ひいのかわ後家が、薩摩国鹿児島の西田村後迫にある屋敷・田六反など三か所を上山衛門五郎へ譲り、後家が下向した際の奉公や他者による違乱の排除を求めた譲状。
正平十四年十一月十日 / 冊子 17頁
島津氏久が得丸六郎五郎に、さらに忠節を尽くせば現在知行する土地に相違がないことを保証した書下。
建徳二年十月十五日 / 冊子 59頁
渋谷重門が子息虎五郎丸へ、薩摩国入来院の清色北方、上副田村、市比野村半分地頭職、塔原村など、複数の村・職から成る重代相伝の所領を譲与した文書。各地に分散した家領を一括して後継者へ移し、虎五郎丸による知行を保証する。
文中元年十二月廿一日 / 冊子 63頁
征西将軍宮が、薩摩国峰城合戦で渋谷虎五郎の父が討死した忠節を賞し、恩賞を与えると伝えた令旨。
応安五年十二月廿五日 / 冊子 64頁
今川了俊が渋谷虎五郎に、味方へ参じ忠節を尽くせば本領を安堵し、別の軍功があれば恩賞を与えると催促した軍勢催促状。
応安六年二月廿三日 / 冊子 66頁
今川了俊が渋谷虎五郎に、庶子・一族を動員して忠節を尽くし、別の軍功があれば恩賞を与えると催促した軍勢催促状。
応安六年三月十六日 / 冊子 67頁
今川了俊が、近日中の合戦を見据え、渋谷虎五郎に境域を厳重に警固するよう命じた書下。
永和元年九月十三日 / 冊子 87頁
今川了俊が渋谷虎五郎に、島津氏久が凶徒方へ加わった以上、いっそう忠節を尽くせば賞すると伝え、一揆同心して忠節を尽くすよう命じた書下。
永和元年十一月十日 / 冊子 88頁
今川了俊が渋谷虎五郎の肥後国八代境での忠節を神妙と評価し、国元でもいっそう軍功を挙げるよう命じた感状。
永和元年九月十三日 / 冊子 88頁
No.315と同文のため本文を省略した別伝。今川了俊が渋谷虎五郎に、島津氏久が凶徒方へ加わった以上、一揆同心して忠節を尽くすよう命じた書下。
永和元年十一月十日 / 冊子 88頁
No.319と同文のため本文を省略した別伝。今川了俊が渋谷虎五郎の肥後国八代境での忠節を神妙と評価し、国元でもいっそう軍功を挙げるよう命じた感状。
永和二年四月廿日 / 冊子 95頁
今川了俊が渋谷虎五郎に、掃部允への任官希望について京都へ申請する旨を約した挙状。
永和二年五月廿五日 / 冊子 96頁
今川了俊が渋谷虎五郎に、島津氏久が心変わりした後も忠節を尽くす請文を差し出したことを受け、派遣した今川兵部大輔満範の手に属して戦功を挙げるよう命じた書下。
「永和三年」三月廿一日 / 冊子 108頁
今川了俊が渋谷虎五郎の注進を了承し、菊池肥前守以下の凶徒を蠣打で討ったことを伝え、肥後対治のため今川兵部大輔とともに忠節を尽くせば本領知行を保障すると述べた書状。
「永和三年」三月廿一日 / 冊子 108頁
今川了俊が渋谷清色虎五郎に、時機が整ったので速やかに姿を現し、今川兵部大輔とともに忠節を尽くすよう命じ、本領知行を保障すると述べた書状。
永和三年九月十五日 / 冊子 109頁
今川了俊が渋谷虎五郎に参陣に関する指示を伝え、本領知行分は従前どおり相違ないと保証した書下。
永和三年九月十五日 / 冊子 109頁
No.377の今川了俊書下と同文であるため本文を省略した文書。渋谷虎五郎の参陣に関する指示と本領知行分の保障を内容とする。
永徳三年七月十日 / 冊子 126頁
島津孝久が町田五郎に、大隅国大禰寝院郡本永吉内の田園を給分として宛行い、先例どおり沙汰するよう命じた宛行状。田園の注文は別紙にあると注記される。
(至徳二年)正月廿八日 / 冊子 127頁
今川了俊が渋谷五郎に、佐敷で陣を守って忠節を尽くしたことへ謝意を示し、その功を京都へ注進したこと、大将軍の扶持や島津の人々の振る舞いについて追って相談する旨を伝えた書状。
至徳二年二月七日 / 冊子 129頁
今川了俊が渋谷五郎に、水俣城への合力を賞し、今後も堅く合力すれば忠節となること、その功を京都へ申し上げる旨を伝えた感状。
明徳二年四月十三日 / 冊子 143頁
今川了俊が清色虎五郎に、島津伊集院入道跡所の地頭・領家各半分を預け置き、先例を守って知行するよう命じた宛行状。
応永十三年十一月十五日 / 冊子 223~224頁
渋谷重頼が子息菊五郎丸へ、薩摩国入来院内清色北方・市比野村半分地頭職などの所領に加え、筑前・筑後・甲斐・美作・相模の所領を譲り、器量ある惣領一人への一括相続と諸子への分割禁止を定めた譲状。
応永廿八年十月晦日 / 冊子 320~321頁
道慶が次郎五郎に所領を譲与し、後日の証拠として堀切正守を証人に立てた譲状。
応永卅年八月十六日 / 冊子 325~326頁
渋谷重長が子の初五郎丸へ、薩摩国入来院清色北方を中心とする家領を永代譲与した文書。塔原・中村・楠本・倉野・久住・柏嶋など多数の村、屋敷、田畠・山野の権益を列挙し、分散した所領を一括して後継者に相続させる。
正長二年二月十七日 / 冊子 346頁
ぬまの種正が薩摩国宮里郷内の九郎次郎旧宅地を代銭百文で萩之次郎五郎へ永代売却し、子孫の妨げを禁じた文書。
永享十年三月十四日 / 冊子 379~380頁
河内守重政が松五郎へ、薩摩国高城郡・東郷および相模国小津合郷などにある代々相伝の所領、屋敷、田地を永代譲渡した譲状。松五郎に子がない場合は重政の兄弟の中へ譲ることも定め、遠隔地を含む所領の継承順位と一族内相続の条件を明記する。
嘉吉元年二月廿七日 / 冊子 405頁
入来院重長が孫の菊五郎丸へ、入来院内清敷北方・南方、上副田・市比野・塔原など薩摩国を中心に筑前・筑後・甲斐・美作・相模に及ぶ所領を証文とともに永代譲与した。将来は兄弟が多くても器量ある惣領一人へ全所領を譲り、分割相続を禁じると定めた置文。
文明十三年八月廿二日 / 冊子 498頁
島津武久が入来院又五郎に、三か国が変転しても父重豊以来の厚誼を保ち、一族として重要事を相談し、内外の事を隠さず相互に支えることを誓った契状。
(延徳二年)永伝元年八月廿一日 / 冊子 551~552頁
渋谷重豊が子の又五郎重聴へ、薩摩国入来院内の村・在家・田畠・山野などの所領を一所も残さず譲った文書。家領全体を後継者に集中して永代知行させ、親類・一族が異議や妨害を申し立てることを禁じ、重聴の相続権を明確にする。
「永正十七年」二月五日 / 冊子 624頁
島津忠兼が肝付三郎五郎に、前年以来の在陣と軍忠をねぎらい、今後も忠節を尽くすよう求めた書状。
大永七年二月六日 / 冊子 673~674頁
樺山信久が肝付三郎五郎に、三か国がどのように変動しても二心なく相談し、互いに申披くべきことを誓った契状。
天文十二年五月廿七日 / 冊子 812頁
北郷忠親が又五郎に、高城合戦で抽んでた戦功と志和池城攻略での忠節を賞し、所領を宛行った文書。
天文廿一年四月廿四日 / 冊子 896~897頁
島津忠将が肝付三郎五郎に、世間の変動があっても奉公を守り、相談・和睦の際にも背かないことを約した契状。
天文廿一年四月晦日 / 冊子 897頁
島津忠将が肝付三郎五郎に対し、奉公・一味の約束に偽りがないことを諸神へ誓った起請文。
天文廿二年二月十八日 / 冊子 906~907頁
樺山忠副が肝付三郎五郎に、世間の変動があっても奉公と一味を守り、相談・和睦の際にも背かないことを約した契状。
永禄八年九月三日 / 冊子 141頁
本田親鑑が、父親辰の所領をめぐって弟宗左衛門尉が違乱した経緯を踏まえ、子孫の相論を防ぐため所領の継承を定めた置文。親鑑一代の後、伊集院下神殿内平原門三反と吉田宮裏神之薗門道下一反半、計四反半を次郎五郎へ譲るとする。
天正二年四月一日 / 冊子 338頁
島津義久が坊津の宮一丸船頭渡遣三郎五郎に発給した琉球渡海の朱印状で、天正二年四月一日の年紀を持つ。
年月日未詳 / 冊子 769~770頁
伊勢貞知が、長期在陣中の相良五郎左衛門尉を見舞えなかったことを詫び、久四郎への奉公に油断はないと伝える。正月十四日付の書状への返礼、久四郎の在京と健康、灸治・服薬、前年の敵船来襲時の手柄にも触れる。 帰朝が近いとの噂を喜び、必要な用向きがあれば参上すると申し出た、朝鮮在陣者と上方を結ぶ詳細な近況報告。
文禄4年正月15日 / 冊子 858~859頁
新年を祝い、相良五郎左衛門の早い帰朝を待つと伝える。前年冬に上井甚五郎と旅庵を介して二通の書状を受け取り、現地が無事であることを喜んでいる。 久四の在京と健康、龍伯への申入れ、祈祷や扶持の件にも触れ、茶碗一組を贈る。朝鮮在陣者と国元・京都を結ぶ具体的な私信である。
文禄4年正月15日 / 冊子 862頁
No.1447と同文であるため、本文を省略した重出文書。相良五郎左衛門の早い帰朝を待つこと、上井甚五郎・旅庵を介して書状を受け取ったことを伝える。 久四の在京と健康、龍伯への申入れ、祈祷・扶持、茶碗一組の贈答を含む私信であり、別系統の伝来資料に同文が収められたことを示す。
文禄五年正月廿二日 / 冊子 3頁
島津忠恒が新納五郎右衛門尉へ、国元の改易と諸侍の知行支配には自分が不案内であるため龍伯・武庫と相談すると述べ、これまで示してきた誠実な奉公を忘れていないので、特に念を入れて知行を宛行うと約し、なお忠節を尽くすよう求めた証状。
文禄五年九月十五日 / 冊子 46~47頁
伊集院右衛門入道幸侃が大迫五郎左衛門尉へ、薩州伊集院の飯牟礼之村にある余分のうち高五斛を割り付け、加増として与えた書状。
文禄五年十二月廿一日 / 冊子 62~63頁
川上肱枕・新納旅庵・上井神五郎兼政が連署し、桂藤五郎へ薩州市来の大里和田之門などの土地を、名屋敷・加増分を含め合計百石充行った領知目録。
(慶長三年)三月廿二日 / 冊子 200~201頁
新納為舟忠元が上井神五郎へ、上洛したと聞いて書き送った書状。吉田の内にある冨森九介・嶋田弥五右衛門尉の各三百石余の役口について、そのうち一口の取成しと知行方の配当を頼み、国境へ移るには少数でも役立つ人衆を伴わなければ困難だと訴える。また返地として上申した蔵野の内約五百五十石について、岡松が未検地なので検地後に帳面を提出するとし、岡松から京都・高麗へ夫丸を立てる件の差止めと、孫の二郎兵衛尉を上洛させる際の支援も依頼する。
慶長三年四月二日 / 冊子 202頁
島津義弘が上井神五郎へ、軍役その他の奉公について、役人や当奉行が命令を難渋させ、無沙汰にし、または油断して勝手に振る舞う者がいれば、当役人としてその知行を召し上げ、事情を詳しく報告するよう命じた直書。報告を受けて改めて吟味し、科の軽重に応じて処分するとする。
慶長五年十月十日 / 冊子 594頁
島津義弘(惟新)が安楽五郎右衛門尉へ、関ヶ原合戦で奮戦し、伊勢・近江・伊賀・大和・河内・和泉を経る帰国路でも片時も側を離れず奉公したことを賞し、知行五十石を与える。
慶長五年十月十日 / 冊子 597頁
島津義弘(惟新)が伊集院半五郎へ、関ヶ原合戦で奮戦し、伊勢・近江・伊賀・大和・河内・和泉を経る帰国路でも片時も側を離れず奉公したことを賞し、知行五百石を与える。
慶長十一年五月二日 / 冊子 72頁
伊集院抱節・山田理安が伊集院五郎介に、赤池屋敷七石と財部北俣内十三石、合計二十石を新知として配分した連署領知目録。
慶長十一年五月二日 / 冊子 72~73頁
伊集院抱節・山田理安が連署した、財部内の知行地割目録。蒲興禅寺内などの田地を田位・面積・石高ごとに示し、仲兵衛・五郎右衛門・権右衛門・助六・伝右衛門・源太・弥六左衛門らへ割り付ける。総高二十三石九斗余と、ほかに高山へ遣す七石余を記し、二口を合計する。
(元和五年)五月廿一日 / 冊子 700頁
島津家久が又五郎へ、遠路からの見舞い使者と帷子五領に謝し、幼少の又八郎忠平の船旅を案じたが、海路が静かで無事上着したことを喜んだ書状。