山田久興譲状
応永十年二月七日 / 冊子 207~208頁
山田久興が、亡父忠経の譲状や関東御下知以下の証文に基づき、薩摩国谷山郡内山田・上別符両村の重代相伝所領を百王丸へ譲り、後日の証拠とした譲状。
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応永十年二月七日 / 冊子 207~208頁
山田久興が、亡父忠経の譲状や関東御下知以下の証文に基づき、薩摩国谷山郡内山田・上別符両村の重代相伝所領を百王丸へ譲り、後日の証拠とした譲状。
応永十一年三月廿七日 / 冊子 213頁
山田久興が島津元久の命を奉じ、薩摩国谷山郡延命寺の寺務職について、元久の御判による沙汰に基づき末代まで領掌するよう河上三郎左衛門尉へ伝えた奉書。
年月日未詳 / 冊子 515頁
山田久興を祖とする一流の系譜を掲げ、氏久方が瀧谷氏と戦って退く途中の山引合戦で、本田親七とともに戦死した一族などの履歴を記した系図。
年月日未詳 / 冊子 47頁
『山田氏系図』が、前掲譲状の虎王丸を山田氏六代久興とし、四郎・右京亮・出羽守、入道名玄威の異名と、延文四年九月廿六日に鹿児島宮地で誕生したことを記す。
応安七年五月廿二日 / 冊子 69頁
今川了俊が山田久興の右京亮任官の希望について、京都へ推挙すると伝えた挙状。
応永十八年十一月十八日 / 冊子 259頁
島津久豊が山田方に、大隅国市成内の南持留を給分所として宛行い、先例どおり領掌するよう命じた宛行状。山田久興譜に正文があると注記される。
年月日未詳 / 冊子 566~568頁
薩州家四代忠興の後裔から西川を称した久興・忠則らを起点に、忠陽・久吉・久首・用磨へ続く生没年、幼名・官途、婚姻を記す薩州庶子西川氏系図。忠陽が天正九年の水俣合戦で戦死したことも載せる。
応永十六年三月二日 / 冊子 231~232頁
山田玄威ら九人が、島津元久の上洛中は一味同心して国を守り、匠作の不忠が明らかな以上は協力して退治し、讒言や争いが起きれば理非を確かめて処置すると神々に誓った連署契状。
応永十八年八月廿八日 / 冊子 249頁
山田玄威が、相手が在座する時は奉公に励み、背後でも同じ心で忠節を尽くし、耳にした謀反・不正を報告することなどを神々に誓った契状。
応永十八年九月十八日 / 冊子 251~252頁
島津久世が北郷・樺山・山田・鹿屋の諸氏へ、世上が変転しても親子兄弟を捨てて大事に協力し、大小事を隠さず相談し、凶害や虚説を直接確認すると誓った契状。
応永十八年閏十月二日 / 冊子 257頁
山田玄威が、他人の企てを隠さず、私的な謀略や近隣との馴れ合いをせず、身に二心なく奉公することを神仏に誓った契状。案文が山田七郎右衛門久通所蔵と注記される。
応永十八年閏十月十一日 / 冊子 257頁
島津久豊が山田方に、今回の重大事で示された志に対し生涯変わらず親しくすること、相手の大事を自分の大事とし、不慮の和譲・凶害・風説があれば直ちに申し開くことを神仏に誓った契状。
応永十八年十一月十八日 / 冊子 259頁
島津久豊が山田方に、薩摩国山田内の上別府は本領であり相違ないとして、先例どおり領掌するよう安堵した文書。
応永十九年十一月廿五日 / 冊子 269頁
島津久豊が樺山方に、三か国の変動時にも相談して大綱を共有し、二心なく相互に支えること、讒言・和譲・凶害が起きた際は直接確認することを神仏に誓った契状。
応永十九年十一月卅日 / 冊子 269~270頁
島津久豊が山田方に、荒説を信用せず、相手から受けた厚意に報いて将来助力すること、子孫まで大小事を相談し、三か国の情勢が変化しても二心なく協力することを神仏に誓った契状。
寛文五年二月十四日 / 冊子 501頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1107
賀山久興ら三名が、御家の兵術に関する他言や雑事への関与を慎み、親子兄弟の情に左右されず、私意を挟まず忠実に勤めることなどを天罰霊社に誓った連署起請文前書。
応永六年十一月十五日 / 冊子 184~185頁
延命寺領の田畠坪付として、古市の居屋敷、山本阿弥陀堂田・堂地、波平熊野田、天神田などを列挙し、田数と不現作分を記した注文。
年月日未詳 / 冊子 261~263頁
応永十九年、比志島久範に旧領油須木村を領させた記事を起点に、比志島範平以来の系譜と所領を考証する。続いて伊東氏の侵攻に対する鹿屋城・高城・穆佐方面の攻防を記し、肝付・佐多・高城・山田諸氏ら島津方武将の戦功を列挙する。戦後の恩賞と所領確認までを収録する国史記事。
十一月五日~十二月十一日 / 冊子 763頁/整理ID 2581
肥前長崎に住み薩摩・大隅・日向三州を往来した僧形の道加が、宝永四年十一月五日、日向国諸県郡志布志に来て、自ら鬼利支丹宗であると称した。禁教であるため長崎奉行所の指示を受け、十二月十一日、用人向井市之丞友貞を監使、物頭村田伊左衛門経宅・馬廻町田勘左衛門久興らを添えて道加を長崎へ護送した。記事の宛先は設けない。
〈宝暦二年〉六月 / 冊子 363~364頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1090
公御譜中の記事は、前年八月廿二日に重年が先例に従って有徳院殿の霊牌を薩府南泉院へ仮安置し、廿三~廿五日に四十九日と百箇日の忌の儀礼を行ったと記す。有徳院は朱記に徳川吉宗、霊牌彫刻には上野住の親章(姓の字形未確定)の注がある。当年六月十四日に改めて南泉院へ奉安、十六日に遷座、十七日に供養し、この日重年は島津備中貴儔を使者に香奠白銀十枚子を霊前へ献じた。継豊も島津内記久興を使者に白銀二枚を献じた。さらに将軍家が東叡山で六月十七~十九日に一回忌を行い、重年は廿二日に番頭の堀堀右衛門貞紀を使者に白銀十枚子を献じたと記す。
明徳四年六月日 / 冊子 147頁
島津元久が段銭の額を定め、来る十一月までの調進と三度の催促を命じ、未進の場合は田数を取り放つことを定めた段銭請文。