征西将軍宮令旨
正平十三年六月十八日 / 冊子 10頁
征西将軍宮が樺山源三郎久清の馳参を神妙と賞し、さらに軍忠を尽くすよう命じた令旨。修理権大夫が奉じている。
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正平十三年六月十八日 / 冊子 10頁
征西将軍宮が樺山源三郎久清の馳参を神妙と賞し、さらに軍忠を尽くすよう命じた令旨。修理権大夫が奉じている。
明徳五年四月七日 / 冊子 153頁
島津元久が樺山源三郎久清に、日向国北郷の宮才名を関所勤仕の際に領知させ、ほかの給人分や同郷内の所領とともに先例どおり所務するよう命じた宛行状。
明徳五年八月十五日 / 冊子 154頁
島津元久が樺山源三郎久清に、北郷北方内後交村の椎屋跡と野々三谷寺跡にある水田五町を給分として宛行い、先例どおり知行するよう命じた宛行状。
応永廿四年二月六日 / 冊子 298頁
島津忠国が阿多飛彈守久清に、薩摩国鹿児島郡内の中村・郡本を料所として宛行い、先例に任せて知行するよう命じた宛行状。
天文六年八月廿五日 / 冊子 758頁
島津忠朝が樺山久清に、世情が変転しても以前の約束と相互扶助を守り、困難の際には協力することを誓った契状。
明徳五年八月十五日 / 冊子 154頁
No.525と同文のため本文を省略すると注記され、同文書が梶山氏二代音久の譜中にも収められていることを示す島津元久宛行状。
(弘治三年)五月十八日 / 冊子 45~46頁
島津義久が樺山忠副の死を悼み、遺族の愁嘆を慰める書状。武道に名を残したことを本意として悲しみを和らげるよう勧め、上洛予定など近況にも触れる。
応永四年八月十四日 / 冊子 175頁
久清が合戦へ出陣するにあたり、母と鬼房丸のことを相手に託し、二人を取り立てて一人前にしてほしいと繰り返し依頼した書状。編者注は久清を小松氏の祖とする。
嘉吉二年八月十三日 / 冊子 405頁
感應寺文書として、下桑原田井落水に関する寄進状一通を掲げ、伊作左京大夫久清の判があることを記した寄進状目録。
年月日未詳 / 冊子 118~119頁
『豊州家歴・平山氏系図』所収の「対馬守久清譜」によれば、平山久清は文禄元年春に島津義弘が朝鮮へ渡海して以来、その側を離れず従軍した。慶長二年七月十四日の唐島海戦では、朝鮮救援に来た明国軍船数十艘を日本諸将が争って撃破し、唐島を焼いた際、久清が敵一人の首を取ったと記す。
慶長三年十月朔日 / 冊子 254頁
『平山氏系図・平山久清譜』が、慶長三年十月朔日の泗川新城攻防での平山久清の戦功を記す記事。明軍数十万騎が新城を囲むと、義弘・忠恒父子が城門を開いて大軍へ突入し、敵を崩した。この戦闘で久清も敵首五級を斬ったとし、同年十二月に日本の諸将が帰陣したことを付記する。
年月日未詳 / 冊子 596頁
平山久清は、文禄元年の朝鮮渡海以来、島津義弘(惟新)の側を片時も離れず仕えた。関ヶ原敗戦後、義弘が泉州住吉浦から小舟で脱出した際も従い、乗船できなかった多くの従者に遅れて帰国したが、長年の勲功を賞され新恩五十石を与えられた。
現行年紀:應安四年八月十四日 / 冊子 119頁/原整理番号 200/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0200
母である人の件を「久清かふちの人々中」に頼み、鬼房を取り立てて人にするよう支援を求める置文。
年月日未詳 / 冊子 47頁
『島津国史』が貞治六年の出来事を編年で記す。島津師久による下大隅稲荷社への田地寄進、彌寝久清への大隅西俣村地頭職・弁分の預置、稲荷社周辺での賊徒討伐を掲げ、同年の足利義詮死去と併せて在地支配と中央政局を位置付ける。
年月日未詳 / 冊子 55~56頁
建徳二年、後光厳天皇から後円融天皇への譲位、懐良親王が禰寝久清に官軍への忠節を命じたこと、幕府が今川貞世(了俊)を筑紫探題としたことを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 95頁
今川了俊が満範を州郡へ派遣して兵を募らせ、人吉・真幸方面へ進軍させた経過を記す肝付兼氏譜。相良前頼らへの対応を進める一方、兼氏が出兵要請に応じなかったため、了俊は禰寝久清らを介して参陣と軍功を繰り返し催促した。探題による軍勢動員と肝付氏の消極姿勢を示す。
七月三日 / 冊子 98頁
今川了俊が、禰寝久清の請文が届いたことを喜び、詳しい指示を今川満範へ伝えたこと、大隅・薩摩国の処置や球磨平定後の合力について相談するよう求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 119頁
島津国史として、康暦元年に今川了俊が島津久哲へ筑前須江荘半分を与え、中野入道・那珂入道に引渡しを命じたこと、同年冬に禰寝久清が西俣・大始良城を攻めたことなどを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 120頁
島津国史として、康暦二年に今川了俊が禰寝久清の本邑領有を回復させ、大隅始良荘を権領させたこと、今川満範が北郷城ヶ崎に陣して都城再攻を企て、禰寝久清の鷹栖城での戦功を賞したことなどを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 121~122頁
『島津国史』が永徳元年前後の改元と領国・軍事情勢をまとめる。島津伊久が大隅国当於郡智尾名を弟子丸若徳へ宛行った記事に続き、今川了俊・禰寝久清・税所介祐義・土持氏らによる諸城攻略と都城方面の戦闘を記す。所領給与と九州探題下の城郭戦を同じ年次で位置付ける。
年月日未詳 / 冊子 126頁
阿多氏系図抄として、久清が町田五郎忠良の弟で、阿多五郎と号し飛彈守を称したことを示す系図記事。巻末目録の分類表示に従い文書として保持した。
嘉慶元年九月五日 / 冊子 138頁
足利将軍家が祐寧(右馬助久清)に、島津以下の凶徒退治について今川宮内大輔の手に属し、忠節を尽くすよう命じた御教書。
年月日未詳 / 冊子 146~147頁
島津国史として、明徳四年の高木久家退治に際して島津元久が禰寝久清へ都城参陣を命じたこと、相国寺領問題による上洛延期と使者・贈物、攻略後の高城支配や伊集院氏・山田聖栄をめぐる処置を記す。
明徳四年四月廿八日 / 冊子 146~147頁
島津元久が禰寝久清に、前年九月十七日の御教書に従い高木久永を退治するため、来月十五日以前に都城へ参陣するよう命じた施行状。
年月日未詳 / 冊子 354頁
阿多氏について、久清から忠清・経久へ続く系譜と、家久・亀徳丸・飛騨守の名乗りを簡略に示した系図記事。
「永享十二年」六月廿日 / 冊子 386~387頁
日向国野辺に居住する大覚寺義昭を早急に上進すれば忠節とし、恩賞は望みに任せるとして、野辺へ厳命するよう命じた足利義教の御教書。樺山氏四代孝久譜中に収められ、樺山源三郎久清所蔵の写しによる。
六月廿日 / 冊子 399頁
樺山源三郎久清所蔵で忠国公御譜中にも載る足利義教御教書。本文はNo.1220と同文のため省略され、義昭を早急に上進すれば忠節とし恩賞を約す文書に当たる。
長禄四年十月廿六日 / 冊子 439~440頁
北郷義久が、互いに二心なく契約を守り、諸方の出来事にも共同して対処することを誓い、違反時には神罰を受けるとした契状。正文は樺山源三郎久清所蔵。
長禄五年三月十二日 / 冊子 441頁
島津立久が樺山殿へ、後々まで二心なく契約を守り、諸方の出来事にも誠実に対処することを誓い、違反時の神罰を掲げた契状。正文は樺山源三郎久清所蔵。
永禄十年七月十三日 / 冊子 166頁
島津義久が提示された三箇条を了承し、その趣旨に違反しないことを誓った起請文。違反すれば天帝・四大天王・日本国中の神祇に加え、新田八幡、大隅正八幡、霧島六所権現、諏訪上下大明神、天満大自在天神などの罰を受けるとする。樺山源三郎久清に伝来した正文。
年月日未詳 / 冊子 671~674頁
樺山氏二代音久の二男興久を祖とする庶流系図。穆佐高城で伊東氏と戦い父子・被官が戦死したこと、忠次の山東戦死、出家後に還俗して家を継いだ資春、久清の小浜城戦死、久明・久宗以下の分流を記す。
年月日未詳 / 冊子 752~753頁
平山久清流の系図。三原重貞の子久清の養子相続、島津光久の命で岩城氏二男久行が忠昭の弟となったこと、光久庶子久祐の養子入りと離家、喜入氏出身季春・忠知以下の生没年・婚姻を記す。
六月二日 / 冊子 96~97頁
今川満範が、三か国の人々の多くが味方するとの報を受けて球磨郡人吉へ到着したことを伝え、速やかな軍事行動と合戦の相談を求め、関係者へ送る文書の案文を添えた書状。
六月四日 / 冊子 97頁
相良前頼が、三か国の多くが味方するとの状況を受け、今川満範が大将として当地へ下着したことを伝え、公私のため協力するよう促すとともに、西方や相手方の情勢を尋ねた書状。
六月七日 / 冊子 98頁
沙弥実覚が、今川満範が球磨へ到着し、その使者大合良勘解由左衛門尉が当地へ来て御教書と大将の書状を届けたことを伝え、陣への注進と返事を求めた書状。
「永和二年」十月八日 / 冊子 100頁
今川満範が禰寝氏に、肥後合戦に関する久多良木の書状と和泉への注進について伝えた返書。本文が短く細部に欠落・判読留保がある。
応永十八年八月廿二日 / 冊子 248~249頁
了元が町田飛騨守に、薩摩国阿多郡を祈所として宛行い、先例に任せて知行するよう命じた宛行状。花押について伊集院頼久のものに似るとの注記がある。
応永卅二年閏六月十一日 / 冊子 334~335頁
泊久篤ら三名が、山田殿方から納められた段銭四貫九百文を請け取ったことを証した連署請取状。
嘉吉四年三月八日 / 冊子 408頁
島津持久が梶山殿へ、日向国北郷の島津井、大隅国および薩摩国魔島・知覧内の各買得地について異議がないことを認め、先例に任せて知行するよう命じた安堵状。
貞治四年閏九月廿六日 / 冊子 43頁
北郷北方一方分の田地を分配した相分注文。宮丸名内の御一向分を中心に、田名、作人、反別、請分を一筆ごとに対応させ、渋川義行・渋谷弾正少弼・樺山久清ら関係者の分を整理する。総計十五町一反余に及ぶ耕地構成と収納関係を示す。
年月日未詳 / 冊子 94~95頁
島津師久死後の薩摩国情勢をまとめた長文国史記事。今川了俊による軍事・統治上の指示、島津久哲・渋谷重頼・伊集院久清らの帰属と行動を追う。守護職と所領をめぐる対立が薩摩郡・伊集院方面の戦闘へ発展し、使者交渉と和議によって一時収束するまでを記す。
元禄十四年四月十六日 / 冊子 295–296頁/整理ID 974
川上久清・村田経寧が、日向国清絵図を島津綱貴側で調進するため、秋月長門守側から届いた領分絵図を基に境界の地面・村付を吟味し、境筋絵図1枚を共同で調製して双方立会いの印形を加え、後証として受け取ったことを証した連署証状。
元禄十四年六月六日 / 冊子 305頁/整理ID 1005
村田経寧・川上久清が、日向国清絵図改訂に伴い、領分絵図を基に境界の地面・村付を吟味し、境筋絵図一紙を双方で調製して立会印を加え、後証とした連署証状。
元禄十四年六月十二日 / 冊子 306頁/整理ID 1008
川上久清・村田経寧が河内山清八・河野市右衛門へ、今月三日付の書状を拝見したと返答する。先の来訪時に互いに証印した領境絵図を相手方で領分地面と照合し、少しも相違がなかったとの報告を了承し、当方家老と嶋津主計にも伝えたところ喜んだと知らせる。追書で音信を寄せられたことに謝す。
元禄十四年七月十三日 / 冊子 320–321頁/整理ID 1047
村田経寧・川上久清が岡田新右衛門へ、九日付の書状を拝見し、領分絵図を持参して首尾よく済み満足しているとの報告を喜ぶ。嶋津主計への伝筆も了承して謝し、春以来たびたび当地へ来る労苦をねぎらう。今後も相応の用事があれば遠慮なく申し聞かせてほしいと伝える。
記事成立日:未確認 記事内年紀(成立日と別):文和二年癸巳八月一日 / 冊子 75頁/整理ID KW1-G000054
久清譜中の記事で、文和二年癸巳八月一日に父清有の譲りを受けたと述べる。 祢寢院司および地頭職、小河院国領、筑前国早良郡比伊郷田地、同国長淵庄畠地等を継領したとする。 その譲状を左条に掲げると記し、121号を導入する。
記事成立日:未確認 記事内年紀(成立日と別):永徳元年辛酉六月二日 / 冊子 82頁/整理ID KW1-G000062
永徳元年辛酉六月二日の久清知行分の事について、今川了俊の華押がある文書を後に掲げる。
記事成立日:未確認 記事内年紀(成立日と別):同二年壬戌九月二十二日 補記(正文と別層):永徳二年 / 冊子 83頁/整理ID KW1-G000064
久清の本知行分に関する今川了俊花押の書牘を後掲すると述べる。
現行年紀:未確認 本文中の参照年紀:到 永徳元/六一 / 冊子 80頁/原整理番号 133/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0133
祢寝右馬助久清と一所に忠節を致した者として、肥後対馬太郎・指宿豊前守・祢寝彦三郎入道・祢寝次郎三郎入道・山本加賀守を列記する。 続いて宮原参河守・救仁郷参河介・冨山土佐介・西本八郎左衛門尉・細山田大和介を記す。 後外題には、以上十人への御感の事を京都に申し下すべき旨と、さらに忠節を致すべき旨を記す。
記事成立日:未確認 記事内年紀(成立日と別):至徳元年甲子九月三日 / 冊子 84頁/整理ID KW1-G000065
大嘗会の段別銭について、御教書に任せて薩隅日三州の太守島津家七代孝久公が久清へ賜った書を後掲する。