島津氏久寄進状
貞治六年六月十七日 / 冊子 47頁
島津氏久が戦場で奇瑞があったことに報いるため、下大隅稲荷社へ同郡内の田地一町を寄進した寄進状。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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貞治六年六月十七日 / 冊子 47頁
島津氏久が戦場で奇瑞があったことに報いるため、下大隅稲荷社へ同郡内の田地一町を寄進した寄進状。
元亀三年四月下旬 / 冊子 264頁
元亀三年四月下旬、島津方が下大隅へ出兵し、作物を薙ぎ払って苗代を踏み荒らした。駆けつけた敵勢と激しい射撃戦になり双方に負傷者を出したが、島津方の足軽が敵を追い立て、二人を討ち取って引き揚げた。
貞治六年七月十九日 / 冊子 48頁
島津氏久が凶徒退治の祈願として、下大隅稲荷社の拝殿を造営させる旨を定めた立願文。
永享六年十月廿九日 / 冊子 368頁
石井忠義が亡父道亭のため、下大隅市木内の八郎次郎塩屋から上がる年貢三貫文を福昌禅寺へ寄進し、塩屋の万雑公事について子孫に至るまで違乱を禁じた文書。
元亀三年 / 冊子 260~261頁
元亀三年の軍事記事を通覧する。正月の肝付水軍による小村攻撃を退け、二月には廻・市成境で肝付勢を伏撃し、境・二川を破却した。五月四日の木崎原合戦では島津義弘が少数で伊東方大軍を破り、伏兵・援軍とともに追撃した。秋には島津歳久が下大隅へ出兵して小浜を攻略し、北郷時久も肝付領へ攻勢をかけたほか、国分国主院の死去や琉球王尚元の死を記す。
元亀三年 / 冊子 261頁
元亀三年の島津国史本文に付された補注。小村攻防、廻・市成境の伏撃、木崎原合戦、下大隅攻略などについて、関係人物の系譜・官途、地名の比定、旧譜・軍記等の異同を示し、本文記事の人物同定と典拠を補う。
元亀三年九月廿六日 / 冊子 262頁
元亀三年九月二十六日、島津義久が弟の左衛門督歳久を大将として諸軍を率いさせ、下大隅の敵対勢力を討伐させたことを記す。
元亀三年九月廿六日以後 / 冊子 293頁
肝付兼続・禰寝重長・伊地知重興を大隅の三凶徒とし、島津義久がまず下大隅征討を決めた経緯を記す。元亀三年九月二十六日、義久と歳久が軍を率いて樫島を経て小浜古城を落とし、早崎高峰を陣営として越年した。樺山玄佐は新春を祝う和歌を詠み、その後三氏が次第に島津方へ屈したと結ぶ。
元亀三年九月廿六日~廿七日 / 冊子 293頁
肝付兼続・禰寝重長・伊地知重興が廻城を奪って島津氏に敵対したため、元亀三年九月二十六日、島津歳久を大将とする下大隅征討軍に忠長も従軍した。翌日、早崎高峰に陣して伊地知重興領の小浜古城を攻め、義久も古江浜へ進船して軍勢を励まし、守将伊地知美作守の城を落として前陣と改称した。
元亀三年九月廿九日 / 冊子 294頁
元亀三年九月、島津義久が肝付氏征討のため下大隅へ出張すると、北郷時久も肝付領攻撃を命じられた。同月二十九日に月野・泰野を攻め破って多数の首級を得、同日、梶山の兵も肝付領福島の兵と戦って敵を討った。
元亀三年九月廿九日 / 冊子 294頁
元亀三年九月下旬、島津義久が肝付氏征討のため下大隅へ出張し、北郷時久にも攻撃を命じた。時久は同月二十九日に月野・泰野を攻め破って多数の首級を得、梶山の兵も同日に肝付領福島の兵と戦って敵を討った。
元亀三年秋 / 冊子 294~295頁
元亀三年秋、島津方が下大隅の伊地知領内にある新垣城を忍び入って落とし、早崎を城取りして両陣を構えたと記す。この軍事行動には禰寝方との内談があったとも伝える。
元亀三年九月廿六日 / 冊子 295頁
元亀三年九月二十六日に下大隅早崎の陣を構え、島津義久の弟歳久と諸軍が一味同心して小浜城を攻め取ったこと、その後も早崎に陣して越年したことを簡潔に記す。
天正元年九月 / 冊子 307頁
天正元年九月、島津軍が下大隅の咲花平に着陣した際、十三歳の川上源三郎久辰が初めて出陣し、殿軍の任務を務めたことを記す。
元亀三年~天正年間 / 冊子 319~320頁
禰寝・肝付・伊地知方が島津氏に従わなかったため、島津軍が下大隅へ渡り早崎を陣として小浜城を攻め、前陣と号したことを記す。のち禰寝重長が島津方へ出頭すると伊東・肝付・伊地知勢が禰寝麓を攻め、喜入季久が迎撃したが、弟忠通・久績以下十余人が戦死した。最終的に肝付・伊地知も帰順し、伊地知氏には下城一所が与えられ鹿児島に在住した。
元亀三年~天正元年七月廿四日 / 冊子 311頁
肝付・禰寝・伊地知三氏の離反と廻城奪取、元亀三年の早崎築陣・小浜攻略を前史として、天正元年七月二十四日の早崎夜襲を記す。守将家久は川南式部左衛門と戦い、田之上清左衛門に救援されつつ全身八か所を負傷した。喜入久績も負傷しながら敵を退け、平田光宗らも力戦して、二十六歳の家久は危機を免れた。
元亀三年九月廿七日~天正元年三月十八日 / 冊子 294頁
元亀三年九月二十七日の垂水早崎陣と、その後の禰寝・肝付方面の軍事・交渉に関与した将兵を列記する。大将島津歳久、肝付兼寛・鎌田外記・伊集院久春・上原尚近らのほか、禰寝重長との密議・和議を担った宝持院・八木越後守、新納忠元ら、天正元年三月十八日の西俣合戦で働いた島津忠長・樺山規久らを掲げる。
元亀二年十一月廿日以後 / 冊子 310頁
瀧水合戦後、平田美濃守が従軍者を伴って鹿児島へ参上し、島津義久から異例の武運を賞賛された。伊地知方使僧の証言により、白檀磨きの鎧武者は老臣伊地知伊賀守、戦死者は馬場玄蕃・田上助左衛門と判明した。勝部与左衛門の鉄砲技量や田上兄弟の武名、のち禰寝重武が帰順して逃走者の姿を証言したことも記す。
〔観応元年六月廿四日〕 / 冊子 795-796頁
島津庄大隅方寄郡の田数合計七百十五町八段三丈について、下大隅郡・串良院・鹿屋院・西俣村・百引村・菱刈院・肝付郡などの寺社領・荘園別内訳を列挙する。各所の町段数、除田・寄附分、地頭加徴米を記した田数注文。
観応二年八月十五日 / 冊子 812頁
足利尊氏が島津上総入道へ、大隅国寄郡内の下大隅郡、大禰寝院、鹿屋院、串良院、西俣村、当小川村などを軍功の賞として宛行い、先例どおり沙汰するよう命じた下文。
年月日未詳 / 冊子 47頁
『島津国史』が貞治六年の出来事を編年で記す。島津師久による下大隅稲荷社への田地寄進、彌寝久清への大隅西俣村地頭職・弁分の預置、稲荷社周辺での賊徒討伐を掲げ、同年の足利義詮死去と併せて在地支配と中央政局を位置付ける。
年月日未詳 / 冊子 183頁
応永記の記事として、応永六年夏ごろから国中に疑念が広がるなか、島津元久の養子となった黒殿(久照)が鹿児島に屋形を構え、近臣を従えたことへの風評を記す。養子をめぐる政情不安が続き、翌年十二月に肥後・石井・伊地知らが下大隅で討たれた経過へつなげる。
年月日未詳 / 冊子 185頁
田代清久譜の記事として、島津元久が伊久の三男久照を養子として鹿児島の北殿に置いたのち国中が騒乱し、肥後・石井らを下大隅で討ったことを記す。清久兄弟が誓状を差し出し、月末に元久が誓書で応じた経過を載せる。
応永九年十二月十三日 / 冊子 207頁
島津久豊が伊地知縫殿允へ、島津庄大隅方下大隅郡について、欠所が生じしだい宛行う旨を証した証状。
応永十年十一月廿九日 / 冊子 210頁
島津元久が称寝左馬助入道へ、大隅国下大隅郡内の自坂上(木谷村を除く)と大称寝内郡本村を料所として宛行い、先例に任せて領知するよう命じた宛行状。
応永十八年十一月廿七日 / 冊子 260頁
島津久豊が比志島方に、大隅国下大隅の市成一名を郡山の替地として預け置き、先例どおり領知するよう命じた預ケ状。本文年紀は十一月廿七日である。
応永十九年三月廿四日 / 冊子 265頁
島津久豊が伊地知氏に、大隅国下大隅内の伊地知方を由緒に基づいて宛行い、先例どおり知行するよう命じた宛行状。
応永廿年六月一日 / 冊子 281頁
藤原忠元が、大隅国下大隅郡西方木志村の白石諏訪大明神の神田・畠とその境界を定め、子孫の信末に給付するとした置文。
永享七年六月九日 / 冊子 370頁
島津貴久が伊地知縫入道へ、大隅国下大隅の伊地知方を由緒により宛行い、そのほかの所領は闕所が生じ次第領掌できると定めた文書。
永享八年五月廿日 / 冊子 373頁
島津忠国が山田忠尚へ、島津御庄大隅方下大隅郡内の二河村を給分として宛行い、先例どおり領掌するよう命じた文書。
永享九年八月一日 / 冊子 378頁
島津忠国が祢寝殿へ、下大隅内の木志々名を祈所として宛行い、領掌に相違があってはならないとした宛行状。
元亀三年九月廿六日~廿七日 / 冊子 292~293頁
元亀三年九月二十六日、島津義久が弟歳久を大将として下大隅へ派遣した。軍は樫島に船を繋ぎ、翌日瀬戸を渡って早崎高峰に陣し、伊地知重興領の小浜古城を攻めた。義久も古江浜へ船を進めて士気を高め、同日落城させた。島津方の戦死は肥後平次郎ら三人、伊集院久春が負傷し、小浜を前陣と改称して越年した。
元亀三年九月廿六日~廿七日 / 冊子 293~294頁
大隅の肝付兼続・禰寝重長・伊地知重興が島津義久への出仕を拒み、廻城を奪って敵対した経緯を述べる。元亀三年九月二十六日、歳久が将帥として下大隅へ出兵し、樫島・瀬戸を経て早崎に陣営を構えた。義久の進船に鼓舞された軍勢が小浜古城を落とし、同地を前陣と改称した。
天正二年 / 冊子 343頁
天正二年、肝付氏が伊東氏と結び、伊東軍が下大隅へ侵入したため、島津義久・義弘が北郷時久へ盟書を与え、さらに島津家老らの連署誓紙も送ったことを記す。
天正二年十一月廿日~閏十一月十九日 / 冊子 347頁
天正二年十一月二十日、義弘の旅館で重臣らに肝付氏への使者、下大隅の所替え、市成城の保持を評議させた。閏十一月十八日には上井為兼を江月斎の宿所へ遣わして滞在中の不行届を詫び、薩隅日三州の支配確認を求め、翌十九日には伊地知重興が南林寺を通じて下城から他所または鹿児島港への移住を願ったことを記す。
天正三年正月廿八日 / 冊子 395頁
天正三年正月二十八日、庄内からの捷書により、伊東氏が兵船に軍勢を乗せ福島・志布志の岸へ着け、島津領侵攻を図っていると知った。上陸地・攻撃先が不明なため、下大隅・新城・禰寝以下の諸所へ警戒を怠らないよう命じた。
天正三年正月~十二月 / 冊子 395~428頁
天正三年正月から十二月までの上井覚兼日記抜書。年始儀礼・椀飯、重要政務五箇条、下大隅・菱刈の移衆と所替え、三月の犬追物、琉球紋船使節との先規違背・進物をめぐる交渉、寺社・地頭職・所領配当、肝付氏の後継と伊東氏との断交、近衛前久の来薩準備、歳末の福昌寺事件など、家中政務と儀礼・外交を日次で詳述する。
天正四年 / 冊子 470~471頁
天正四年の記事を編年で記す。近衛前久の鹿児島滞在と犬追物・和歌連歌、高原城攻めと伊東方の開城、三山・須木の降伏、肝付方の南郷敗戦と志布志・櫛間の守備、下大隅巡行と地頭配置など、島津氏の軍事・外交・文化活動を収録する。
天正五年二月吉日 / 冊子 513~514頁
南林寺への新寄進として、下大隅野里名中島口門の田畠・神領・屋敷・迫田など、合計一町七反十余の所在と面積を列挙した坪付。島津氏老臣五名が連署する。
天正五年三月吉日 / 冊子 514~515頁
興国寺領として、下大隅新城内峯岡名の奥江兵衛尉先一か所、空住庵屋敷および塩屋二十反を示した坪付。島津氏老臣五名が連署する。
永禄十三年二月吉日 / 冊子 515頁
島津義久の代、興国寺住持松岳の時に、下大隅牛根内河原園門の塩屋一間を寺領として寄進した連署寄進状。島津氏老臣五名が署名する。
寛永十六年八月六日 / 冊子 406~409頁/原整理番号 524
伊勢貞昌は霜臺様へ、出銀未進の利銀二割、黄門の納戸銀借用分の返上利三割、押並銀の利二割という銀徴収は道理にかなうものの、新たな代の初めに直ちに厳行すれば家臣の不満を招くとして、一、二年の猶予や事情聴取を勧める。あわせて、家中の心を一つにすること、家臣を召して直接意見を聞き、依怙なく是非を判断すること、人物の忠節・力量に応じて役職と知行を与えることを説く。徳川・足利の継承を引いて当家の結束を論じ、有馬出陣の経験、弓・鉄砲・兵糧などの軍備、加治木・下大隅等の人事を例に、遠国支配では適材登用と日頃の備えが肝要だと諫言する。出立前に式部・中書頭へも考えを詳しく伝えたいとして、書状を披見し折を見て取り次ぐよう求める。
年月日未詳 / 冊子 147~149頁/原整理番号 32
梶原左衛門景時の二男景高を祖とし、景純以下、純家・兼純・滋純・信純・義純・重純・政純・元純・氏純・房純・成純・尚純らへ続く梶原左近尉家の系図。滋純が北条弥次郎を号して日置に住み、建武元年に下大隅へ入ったこと、信純が応安五年の日州合戦で御旗の役を務めたこと、政純が島津久豊の東福寺城で重代の太刀を守る番役中に討死したことを記す。元純については島津忠昌の隅州正八幡宮初詣供奉と年代矛盾を記録官史が指摘し、政純の子ではないとする。氏純・房純・成純らの官途、加世田での死、島津貴久への奉公、寛永七年に江戸で島津家久の命を受け、大迫と称していた家名を梶原左近尉へ復した由来も載せる。さらに尚純の母方について、志賀播磨が降参時に携え島津義弘へ献じた瀧田九郎の娘二人のうち、姉は曽木五兵衛に嫁ぎ、妹が尚純に与えられたと記す。
年月日未詳 / 冊子 166~167頁/原整理番号 46
種子島氏と同じく藤原氏の跡を継ぐとする肥後氏系図。信基・信家・正信・信盛・正盛以下の系線を掲げ、信家には文永二年の切腹記事を付す。盛武は建久六年に大隅国守護代となり、先に日州穂北へ下着して一時居住した後、島津忠久に従って薩摩へ下り、東福寺城取懸を命じられ、下大隅九十五町を与えられたとする。信盛の代に下大隅山之城を取って居住し、後世は古江の知行を得て鹿児島府立野へ移り、古江氏を肥後氏一族とする由緒を記す。高盛―幸盛―盛垂の系線では盛垂が菱刈平城に住み、軍功により高城を与えられた。文明八年四月二十八日付の『肥後平盛高』頭注も載せる。末尾の盛家は周防介を称し伊集院谷口を領し、島津貴久に仕えて花棚村を与えられ、命を受けて日本国中を巡歴し、一国一部の大乗妙典を奉納した。盛吉は嫡家後嗣とされる。
文和三年六月二十日 / 冊子 258頁/原整理番号 18
島津師久が、宅万城の没落後に薩州の敵勢が市来院伊作田城へ集まり、碇山城を攻める構えとなったため、各通路に備えたと報告する請文。畠山直顕らが日向国真幸院・大隅国下大隅郡へ進入するとの報があり、真幸院へ来れば定孫三郎の出陣に応じ、下大隅郡へ入れば後攻して合力を求めると述べる。渋谷一揆と地頭・御家人が師久とともに戦う忠節への褒賞を御教書で示すよう望み、名簿注進を添える。
年月日未詳 / 冊子 288頁/原整理番号 96
『応永記』が、応永六年夏ごろから伊久と元久の親密さについて国中に疑いの噂が広まったと記す。伊久の三男黒殿が元久の養子となり又三郎久照と称して鹿児島に屋形を作り、山田・酒匂・上井らが付き従った。周囲は伊久方への傾きを疑い、富貴の家にも寒風の害があるとして北殿への養子を批判する評を載せる。十二月に肥後・石井・伊地知が下大隅で討たれたとも記す。
年月日未詳 / 冊子 289頁/原整理番号 99-1
田代清久譜が、応永六年十一月、伊久の第三子久照が元久の養子となり、鹿児島に住んで北殿と称したことから国中が騒乱したと記す。肥後・石井が下大隅で討たれた際、清久兄弟は誓表を献じ、元久も誓書を与えたとして、次の契状を掲げる。
年月日未詳 / 冊子 390頁/原整理番号 112
天正二年正月の牛根城降伏について玄佐が記す自記。二十日に忠元の子刑部太輔が人質として城内へ入り、安樂備前守の弟彦八郎が城外へ出た。二十二日に下大隅が譲渡され、二十七日に忠元が城内へ入ったとする。岸を掘って道を作る奇計は古今に例がないとして、本村・逆瀬川・久富伴の三人を調達した忠元の才覚を称える。末尾は太守の慈悲と神慮、諸人の奉公を述べる。
現行年紀:文和貳年六月廿四日 / 冊子 61頁/原整理番号 90/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0090
清成が嫡子三位房清有へ大隅国下大隅郡地頭職・鹿屋院地頭職・大祢寢院地頭職等を永代に譲与する。 後証として譲状を作成し、建部清成の花押を付す。
現行年紀:永和四年三月六日 / 冊子 77頁/原整理番号 127/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0127
大隅国始良庄・下大隅高隈村・佐多村の件について記す。 「御方現形之時、可令注進」と記す。