島津惟新書状
(慶長九年)六月十九日 / 冊子 936頁
島津惟新義弘が島津忠恒へ、忠恒の上着と礼儀が無事に済むことを願う一方、龍伯の病状が重く、数日食事も取れないと報じる。医師三官による養生と祈念を続けているとして、拝謁後は早く帰国するよう促した。
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(慶長九年)六月十九日 / 冊子 936頁
島津惟新義弘が島津忠恒へ、忠恒の上着と礼儀が無事に済むことを願う一方、龍伯の病状が重く、数日食事も取れないと報じる。医師三官による養生と祈念を続けているとして、拝謁後は早く帰国するよう促した。
寛永十二年十二月十五日 / 冊子 507頁
鹿児島町奉行の新納加賀守(忠清)が島津弾正へ、肥後へ商売に赴き宗門改めで留め置かれた鹿児島町の三官を迎えるため与四郎を派遣する旨を伝えた文書。与四郎について「貴師旦宗ニ而無御座通」と記し、五人組側の証文を取ってあるので判形を下すよう願う。本文日付は寛永十二年十二月四日で、索引の十二月十五日と相違する。
九月廿八日 / 冊子 391頁
又吉の体調を案じ、三官を遣わす予定だったが老齢で遠路が難しいため、まず薬を届けるよう命じたと伝える。体調がひどくなければ不要な恨みを招かぬよう配慮しつつ、悪化していれば使者に早く知らせるよう求めた島津忠恒書状。
十月九日 / 冊子 391~392頁
又吉の体調がまだ良くなければ三官を遣わすとして様子を尋ねる。翌月七、八日ごろ浜市へ赴き、頴娃の夕月をまだ見ていないため鷹野へ出る予定なので同行したいと述べ、早い回復を願った島津忠恒書状。
十月朔日 / 冊子 69頁
島津久慶が新納仲左衛門尉に、家譜へ記載するため過去の贈答・拝領記録を捜すよう頼んだ書状。関ヶ原後の伏見で黄門様が拝謁した際の進上・拝領物、惟新様病中の上使と拝領物、医者三官関係の書物などを詳しく調査して書き付けるよう求める。
明治2年五月19日軍務局/五月知政所(日不記、年は目録) / 冊子 668~669頁/原整理番号 868の1/整理ID 868-1
通達留。急変の際は護摩所の早鐘を合図とし、一番鐘で当番常備一大隊が軍局屯所へ馳せ付ける。非番隊を繰り出す時は原「百砂時間位」を置いた鐘令とし、鐘の令に応じ順序を守って集合する。当番外の兵隊は最初の鐘で支度を整え、鐘令がないうちの馳付を禁じる。但書の原「三官」は各隊一番鐘で馳付とする。城の近くで火災が起きた時は当番常備一大隊が速やかに馳付、御本門・二之丸御門に各二小隊を配し、隊列を乱さず門の出入等を厳重に検め、御出府時同様の警衛とする。残り四小隊は巡邏し、原「二字間」で交番する。己五月十九日・軍務局、五月・知政所の伝達を記す。部隊・小隊数を兵員数とせず、百砂時間位・二字間を現代時間に換算せず、実際の急変・火災発生や動員完了は補わない。
寛政8年9月28日(本文。年次は朱注) / 冊子 132頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0399
若殿様が虎壽丸と称して嫡子の届を済ませたことへの祝儀として、伊是名親方をもって中将様へ太刀1腰・馬代黄金10両と目録通りの品を献じた件を、尊書を拝見して返答する。江府で披露したところ御満悦であったので、その旨を漏達するよう求める。9月28日、寛政8年朱注、三官途各実名判、浦添王子宛に次段の三司官を連結する。旧399が冒頭のみ、旧400が後半を含んでいたため全文署宛を戻した。
寛政8年9月28日(本文。年次は朱注) / 冊子 132頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0400
若殿様の縁組が命じられた祝儀として、伊是名親方を通じ中将様へ太刀1腰・馬代白銀50両と目録通りの品を差し上げたことに返答する書状。江府へ到来して披露し御満悦であった旨を漏達するよう求める。9月28日、寛政8年朱注、三官途各実名判、浦添王子・三司官宛。前399の黄金10両と、本400の白銀50両を区別する。
寛政8年9月28日(本文。年次は朱注) / 冊子 132~133頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0401
当春太守様が御鷹の鶴を拝領したことへの祝儀として、伊是名親方を通じ中将様へ目録通り献じた品が江府へ届き、披露すると御満悦であったと返す書状。その旨を漏達するよう求める。9月28日、寛政8年朱注、三官途各実名判と浦添王子・三司官宛が次頁に続く。鶴の数量や祝儀の品名・金額は本書に詳記されないので、前399・400の太刀馬代を移さない。
嘉禄二年十一一月八日 / 冊子 173頁/原整理番号 73
『伊地知勘解由重元御年男日記』天正十四年正月の記事。八日に伊作・田布施から初狩の獲物が届き、行司二人が披露した。猪三頭を御具足の餅の際に用い、猪一頭・鹿四頭を奥へ上げた。九日には加世田から猪六頭・鹿五頭が届き、奥や納殿らへ分けたと記す。本文書集十二号と同じ記事。
寛保二年七月二十四日 / 冊子 708~712頁/整理ID 1823
大脇為貞は、長崎奉行から唐国漂着者二十人の帰国許可を受けた経緯と条件を報告する。川上蒲右衛門・橋口次兵衛・中馬善右衛門らが足軽十五人を伴い小早二艘で護送し、日帳や所持品も返された。為貞は奉行・役人への謝礼の先例と品目を検討し、唐船の船主に米七十俵、漂着者を世話した三官に米三十俵が長崎奉行所から与えられたこと、滞在費・船賃の精算も記す。
宝暦十二年十一月十二日(目録。原朱:十二月十二日) / 冊子 937頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2738
松平右京太夫・秋元但馬守・松平右近将監が、十一月十二日(目録。原朱は十二月十二日)、松平薩摩守へ、若君誕生の祝儀として翌日に御能を催すので、見物するよう上意があったと伝える。長袴を着用し、六半時に登城するよう命じる。
明和四年十二月十二日(達書写)、明和五年五月(提出・交付記録) / 冊子 202頁/原整理番号 516/整理ID 516
明和四年十二月十二日、池田筑後守からの達の写しとして、大広間で礼をする際の持参太刀の置所と礼位置を示す。年始は中将が御下段下から四畳目に太刀を置き三畳目で礼、少将は三畳目に置き二畳目で礼、侍従は二畳目に置き一畳目で礼、四品は御下段敷居内の一畳目に置き板縁で礼をする。八朔は中将・少将・侍従の区別なく御下段から二畳目に太刀を置き一畳目で礼、四品は敷居内に置き板縁で礼をする。大広間で礼をする面々へ心得として伝達するよう命じる。末尾には五月、松平薩摩守内中村與太夫の表示があり、願書一通と仰せ渡し写し一通を五月三日に留守居中村與太夫を通じ御用番松平右近将監へ提出したところ、翌四日に用人佐々木丑藏を介して付紙のとおり渡されたと注記する。
6月29日宸翰写;8月摂津伝達(各原記載) / 冊子 373頁/原整理番号 535の3~5/整理ID 535-3
原の3~5を一行にまとめた文書群。原の3は御名の島津茂久と松平三河守・細川越中守ら二十三の官称を列記する名書。原の4は六月廿九日、一橋中納言へ賜った宸翰写で、世上の騒動を憂え、昨年八月十八日の出来事と関白らの意図を結び付ける噂に惑わされないよう述べる。大和への行幸は望まないと申し出たのに延期となったこと、守護職を肥後守に命じたのはその忠誠によることで私情ではないことを説明する。原の5は、長州人の入京を許さない旨の書付と稲葉美濃守の御渡書写で、本文は第533号の2と同文として略すとの注がある。さらに別紙五通を稲葉美濃守と所司代から受けたことを、漏れなく諸郷・私領へ周知する八月摂津の通知を収める。政治判断・噂の否定は宸翰や書付の叙述として読む。
文禄3年7月28日 / 冊子 800~801頁
義久が義弘から薩摩・大隅の検地についての書状を受け取り、泉・川内・菱刈・郡山方面まで刀狩と検地が及ぶとの風聞を伝える。国々が乱れる事態を憂慮しつつ、現地には正式な沙汰が届いていないのかと問い返す。 検地衆の振る舞いや医者・薬師の扱いにも触れ、三官奉行を通じて情報を得るよう求める。太閤検地をめぐる領国の混乱と情報不足を義久が義弘へ訴えた書状。
明和五年戊子(年次記事、翌年の注あり) / 冊子 185頁/原整理番号 457/整理ID 457
明和五年の年次記事。元日は既に首途を済ませたため賀正を受けず、御座間で公族と三官に会い、外庭稲荷を拝した。正月十三日は護摩所・福迫・稲荷、二十日は大雄・松峯・玉龍を訪れ、鷹が捕えた鶴の賜りを十八日に拝受したことも記す。二月六日に府城を発ち、家老川田伊織国福・仲久健、用人・納戸奉行・使番らが同行する。大里から海路で坂越へ向かい、座船住吉丸と他の船を挙げ、小字注では船の総計を三十九艘とする。三月二日に大坂邸、六日に伏見邸、二十九日に芝邸へ到着。四月朔日は大家の使者が来て「守宮」を与え朝観を賀し、二日は閣老各邸を訪ね、護摩所の不動へ還謁する。七日は関山金陣を使わした。兒玉主左衛門利容らが購入した千字文・唐詩選・字林集等と、草菴・蒙求・和歌類題・古今集・天狗藝術論等を備え、親覧したと記す。八日は近衛公が諸大夫を遣わして賀正、十三日は大家の使いの閣老が邸で慰労し、十五日に朝観礼、十六日に大円寺、二十三日に高輪五社、二十四日に増上寺、二十九日に一橋邸を訪れた。六月朔日は朝から酒井雅楽頭邸を訪問し、近侍の高崎納右衛門ら及び有川・伊東・山田・林・相良・柏の陪席や召しにも触れる。七月十九日には大家が使者を遣わして雲雀を賜り、鷹が捕えたものと記す。二十五日には高橋此面種寿の家老職を、旨に逆らったため免じた。十二月十六日は使番興津左京が鶴を携えて邸に来たが、重豪は少し病んでいたため相良近江守に迎拝を託した。この鶴も鷹が捕えたものという。冬に福昌寺の新作を命じ、翌年秋に完成したとの小字注を付す。