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THEMATIC COLUMN 01

武将はなぜ歌を詠んだのか

島津義久(龍伯)の和歌と連歌

『旧記雑録』に残る実歌を横断し、死者への追悼、神仏への祈り、家中の結びつき、統治者の倫理を読み解く。

このコラムの作り方と注意

『旧記雑録』の概要整理データを横断し、Deep Researchを用いてAIが考察案を作成した後、人が文書番号・引用・表現を確認して編集しています。AIによる解釈を含み、定説を示すものではありません。判読・研究・引用の際は、各文書リンクから必ず原文をご確認ください。

慶長十六年(一六一一)元日。島津義久は、新年の朝に戸を開けたとき、衣の袂に移ったかすかな梅の香を発句に詠んだ。

朝戸あけの袂か 梅のうすかほり

『旧記雑録』後編4-No.780に「慶長十六年元日御発句」として載る句である。義久が亡くなったのは同じ月の二十一日。結果的に、これは生涯の最末期に置かれた作品となった。

九州統一を目前にした戦国大名の最晩年の句としては、驚くほど静かである。大きな政治的事件も、武功も、教訓も語らない。朝戸を開ける身体の動きと、袂に触れた梅の香だけがある。見えない香りを衣に感じ取る繊細さ――ここに、武将という肩書だけでは捉えきれない島津義久の一面がある。

義久はどのような歌を詠んだのか。『旧記雑録』に残る弔歌、法楽和歌、祈雨歌、景物詠、歌会詠草、連歌、教訓歌を実際に読んでいくと、歌は単なる余技ではなかったことが分かる。歌は死者を記憶し、神仏に祈り、主従や一門を結び、自らの倫理を言葉にするための実践だった。

以下の引用は『鹿児島県史料 旧記雑録』刊本による。読みやすさのため、仮名遣い・濁点・句読点の一部を改めた。

01

「南無阿弥陀仏」を歌の先頭に置く
若き義久の弔歌

弘治年間、樺山忠副が戦死した。『旧記雑録』後編1-No.81には、義久が遺族へ贈った六首の弔歌が収められている。

そのうちの一首は、戦場の煙に死者の姿を重ねる。

峰の雲 浦に塩焼く煙にも
見し面影の立ちや添ふらむ

峰の雲にも、海辺で塩を焼く煙にも、かつて見た忠副の面影が立ち現れるのではないか――という歌である。死者は消えてしまったのではなく、雲や煙の形を借りて、見る者の前に戻ってくる。

また別の歌では、武士として名を残したことを称えながら、その名誉だけでは死の痛みを慰めきれないと詠む。

高き名を残すはさすが嬉しきも
はかなや分きて武士の道

名誉ある戦死を称賛する言葉と、「はかなや」という嘆きが一首のなかに同居している。義久は武士の死を美化するだけでなく、残された者の実感として、そのむなしさを見つめていた。

さらに重要なのは、六首の冒頭が「な・む・あ・み・た・ふ」と並び、「南無阿弥陀仏」を構成することである。「弥陀六字」を歌頭に置く仕掛けによって、六首全体がそのまま念仏と追善の器になる。二十代の義久は、すでに和歌の形式と仏教的祈りを組み合わせていた。

この方法は若い時だけのものではない。慶長五年(一六〇〇)、長年仕えた女性・妙諦が亡くなると、義久は七首を詠み、そのうち五首の歌頭に「妙・法・蓮・華・経」の文字を置いた(後編3-No.1194)。

昨日過ぎ今日はた暮るる世の中に
はかなや明日を何に頼らん

若年期には「南無阿弥陀仏」、龍伯期には「妙法蓮華経」。義久は半世紀近くにわたり、歌頭を連ねて仏教語を形づくる構成を追善に用いている。これは偶然の類似ではなく、義久の弔歌に継続した作歌方法の一つと考えられる。

02

日、花、露、灯
死者を自然の像に変える

義久の弔歌では、死者の経歴や没した時期に合わせて景物が選ばれている。

永禄十一年(一五六八)、祖父・島津忠良(日新斎)が亡くなると、義久は次の歌を手向けた(後編1-No.468)。

今朝は日の新たなりつる影もはや
西なる空に雲隠れつつ

「日」は日新斎の名に響き合い、「西なる空」は夕日と阿弥陀の西方浄土を重ねる。祖父の日新は、義久を幼少時から養育し、文武二道を教えた人物だった。その死を「新たな日の光が西の雲へ隠れる」と表すことで、個人名、人生の師、仏教的往生が一つの像に結ばれている。

慶長十二年(一六〇七)二月十五日に亡くなった実窓正真大姉への歌では、釈迦入滅の日と春の落花が重ねられた(後編4-No.322)。

御仏の跡慕ひてや盛りなる
花の散り行く二月の空

盛りの花が散るという古典的な無常表現である。しかし、この歌では二月十五日という命日が「御仏の跡」を慕う日として読み替えられる。早世は単なる不運ではなく、仏の後を追った往生として意味づけられた。

山田有信を悼む歌では、蓮の葉からこぼれる露が用いられる(後編4-No.585)。

蓮葉の置きこぼしたる露の玉の
終りや君がために捨てけん

有信は忠節を尽くした家臣として記される。蓮葉から落ちる露の玉は、失われた命のはかなさを示すとともに、主君のために最後の一滴まで捧げた生涯の比喩となる。

島津忠長への追悼歌では、木の葉が風に散り、葉の間から山寺の灯が見える(後編4-No.772)。

山寺の木の葉は風に誘はれて
隙間を見する夜半の灯火

人が一人失われたために、それまで見えなかった「隙間」が見える。そこに残るのは夜半の灯火である。この歌は死者そのものよりも、死者が去った後に生じた空白を詠んでいる。義久の弔歌には、死を説明するのではなく、残された者の視界がどう変わったかを捉える鋭さがある。

弟・島津歳久をめぐる歌では、記憶を残すことの限界がさらに直接的に表れる。歳久の七回忌、義久は遺影の前に次の歌を手向けた(後編3-No.440)。

写し絵に写し置きても魂は
帰らぬ道や夢の浮橋

絵には姿を残せても、魂を呼び戻すことはできない。また歳久の旧宅跡を訪れた歌では、「雫ではないのに袖が濡れる」と詠んでいる(後編2-No.943)。戦国期の政治判断と兄弟関係を単純に歌だけで説明することはできないが、少なくとも後年の義久が、遺影と旧宅という二つの記憶の場所で歳久を悼んだことは確認できる。

雲と煙、沈む日、散る花、露の玉、木の葉の隙間と灯火。義久は死を抽象的な「無常」という言葉だけで処理せず、目に見える自然の像へ変換した。しかも、その像は死者ごとに選び直されている。ここに弔歌作者としての義久の個性がある。

03

雨を降らせ、家の未来を祈る
公共的な歌

義久の歌は個人的な感情だけを扱ったものではない。領国や家の安定を願う、公共的な祈りの役割も担っていた。

雨乞いの歌では、雲から雨を落とし、田の早苗を潤すよう、ほとんど命令形に近い強さで願う(後編4-No.64)。

山めぐる雲のさきはへ雨落ちて
大御田小田の早苗うるほせ

「大御田小田」と大小の田を並べることで、特定の一田ではなく領域全体の稲作が視野に入る。これは美しい雨景色を期待する歌ではなく、領民の生産と生活に直結する祈雨歌である。大名の詠歌が祭祀的な統治行為になった例といえる。

恒吉八幡宮へ奉納された法楽和歌では、松の枝に交じって咲く白い卯の花が、千年続く盛りに結びつけられる(後編3-No.1622)。松の常緑性と花の盛りを組み合わせることで、神前に一門の長久を願う祝意が示された。

また、鹿児島城で催された二十二名の歌会では、義久は「寄神祇祝」の題で次のように詠んだ(後編4-No.622)。

わが君の行方は千年万代と
祈る心や住吉の神

ここで義久は、自分自身ではなく「わが君」の未来を祈る側に立っている。歌会は趣味の集まりであると同時に、家久を中心とする次代の秩序を、神への祈りと参加者の唱和によって確認する場でもあった。

04

白菊を「知らず」と読む
景物詠の機知

義久の景物詠には、掛詞や名所的な連想を楽しむ歌も多い。

清水岡寺を題とした歌では、片岡に囲まれた寺と白菊が詠まれる(後編4-No.115)。

片岡を囲ひて寺に住む人は
憂き世の中や知ら菊の花

「知ら菊」は「知らず」と「白菊」を響かせる表現である。寺に住む人は憂き世を知らないのだろうか、と問いながら、俗世を離れた白菊の清らかさを浮かび上がらせる。

庭の白藤が盛りとなったときには、松にからむ藤蔓を詠んだ(後編4-No.443)。

植ゑ添へし松にかかれる藤かづら
花も千年の影を見るべき

松の長寿と藤の繁茂を組み合わせ、庭の景色を家の長久へつなげる歌である。藤は義久が称した本姓「藤原」を連想させる可能性もあるが、そこまでを作者の明示的意図と断定することはできない。ただ、義久が松・榊・橘など、常緑や長寿を象徴する植物を繰り返し詠んでいることは確かである。

琉球入りの首途に際して詠まれた歌は、さらに軽やかである(後編4-No.547)。

向かふ風あらぬは梅の匂ひかな

前方から風を受けたと思ったが、それは風ではなく梅の香だった――という発見が一句になっている。なお、詞書は「琉球入之首途に」であり、義久自身が琉球へ渡ったと直ちに解するべきではない。琉球へ向かう者の出立に際して詠まれた可能性を含め、場面の確定にはなお検討が必要である。

05

一人で完成させない文芸
連歌の座

義久の文芸活動を和歌だけで捉えることはできない。若い頃から晩年まで、多くの連歌に参加している。

元亀二年(一五七一)の「名号之連歌」は、義久の発句から始まった(後編1-No.595)。

名や残る 入りての跡も秋の月

義久はこの一巻で七句を詠んだ。九日後の「賦何船連歌」でも、

見しやあらぬ 見ずや今年の秋の月

という発句を置き、八句を詠んでいる(後編1-No.596)。同じ秋の月を詠みながら、前者では「名」と「跡」、後者では「見たはずの月」と「今年の月」の間に、記憶と現在のずれが生じている。

慶長十二年(一六〇七)の「懐旧之連歌」では、義久は次の発句を詠んだ(後編4-No.361)。

露はただ さながら玉の蓮かな

この一巻で義久は十二句を担当している。連歌では、句の意味は作者一人の内部で完結せず、前句を受け、次の作者へ開かれる。参加者には一門・家臣・宗教者が並ぶ。連歌の座は、身分の秩序を保ちながらも、同じ言葉の連鎖を共同制作する場だった。義久にとって連歌は、個人の感情表現というより、人間関係を実際に動かす文芸だったと考えられる。

06

五十八首の「いろは歌」
歌で説く統治者の倫理

慶長七年(一六〇二)正月二十三日の月待の夜、義久は余興として五十八首を頓作した。『島津龍伯義久詠草』、いわゆる「龍伯公以呂波御歌」である(後編3-No.1601)。

ここでは四季や恋だけでなく、学問、忠節、孝行、自己省察、誓約、飲酒、信仰などが率直に説かれる。

国持は四書や五経を学ぶべし
その余の事は第二第三

国を持つ者は、まず四書五経を学ばなければならないという。義久にとって教養は飾りではなく、統治の優先事項だった。

天道は二人の親に孝あるを
守るべきとの誓ひとぞ聞く

人の善き人の悪しきを見て我が
身を磨くべき鏡ともせよ

善悪を他人への批評で終わらせず、自分を磨く鏡にせよと説く点が興味深い。さらに、文字を解さない自分は盲目と同じではないか、と詠む歌もある。

これらは『古今和歌集』的な優美さだけを求める歌ではない。分かりやすい言葉と仮名順の構成によって、記憶され、伝えられることを重視した教訓歌である。義久は歌を、知識や規範を家中へ媒介する装置としても使っていた。

07

「尽くして後は天つ大空」
辞世と伝わる歌

義久の辞世として広く知られる歌も、『旧記雑録』後編4-No.799に「龍伯様御歌」として収められている。

世の中の 米と水とを のみ尽くし
尽くして後は 天つ大空

刊本では、後半が一見「つミしてのちハ」と読めるものの、「ミ」の右側に「く」が傍記され、左側にも訂正を示すような文字が見える。「つくしてのちは」と訂正して読むのが自然であろう。一方、前半は「米と水とをのミつくし」とあるため、本稿では「米と水とをのみ尽くし」とした。一般に流布する「くみ尽くし」とは異なるが、『旧記雑録』の字面を尊重した読みである。

この世で口にして命をつないだ米と水を、すべてのみ尽くす。そして、この世で果たすべきことを果たした後は、何ものにも遮られない天の大空へ向かう。「尽くす」という言葉が、食物をのみ尽くすことから、生涯や役割を全うすることへ転じているように読める。死を悲嘆だけで捉えず、地上の務めを終えた後の解放として大きな空を置く、簡潔で力強い歌である。

ただし、『旧記雑録』自体はこれを「辞世」とは明記せず、「龍伯様御歌」と題している。また、No.799には山口対馬ら六名の歌が続き、直後の後編4-No.800には義久の死後に追腹した者の交名が載る。六名のうち、山口対馬・泉朝坊・武彦左衛門・染川源之允・濱田民部少輔らは、No.800の追腹者と対応する。したがって、この歌は義久一人の死生観を示すだけでなく、主君の死を予期し、あるいはその死に従おうとした家臣たちとの関係のなかで伝えられた可能性がある。

元日の梅の香を捉えた静かな発句と、地上の営みを「尽くした」後に広がる天つ大空。義久の最晩年を伝える二つの歌は、身近な感覚から広大な死後の世界までを、わずかな言葉で結んでいる。

08

義久の「歌風」をどう捉えるか

以上の作品から、義久の歌には三つの傾向を指摘できる。

  1. 具体的な像で考える

    死は煙、日、花、露、灯火として示され、長久は松、榊、橘に託される。抽象的な教理や願望を、目に見える景物へ置き換える力がある。

  2. 詠まれた場に密着する

    二月十五日の死には釈迦入滅と落花を、祈雨には早苗を、忠臣の死には蓮葉の露を、新年の朝には袂の梅香を選ぶ。同じ無常や祝意でも、相手と日時に応じて像を変えている。

  3. 歌を行為として用いる

    弔歌は遺族へ贈られ、法楽和歌は神前へ奉納され、祈雨歌は農作を祈り、祝歌は家の将来を言祝ぎ、連歌は参加者を結び、いろは歌は倫理を伝える。

義久の歌は、紙上の作品である前に、ある場で何かを実現するための言葉だった。

もちろん、これだけで義久を同時代最高の歌人と評価することはできない。語彙や本歌、題詠、他歌人との比較には、五十八首を含む詠草全体の校訂と重出整理が必要である。しかし、弘治年間の弔歌から死の直前の梅の発句まで、半世紀を超えて実作と連歌参加が続くことは明らかである。

島津義久は「和歌も詠んだ武将」だったのではない。歌によって死者を記憶し、神仏に祈り、家中を結び、統治者としての規範を伝えた。その意味で義久は、歌を領国社会のなかで働かせた歌人であり、文化の実践者だったのである。

REFERENCES

主な参照史料