島津忠昌譜
年月日未詳 / 冊子 519頁
修理亮忠廉が庄内から平山へ帰り、二月十一日に鹿島内の川田城を攻めたが、川田飛弾守らが籠城して抵抗したこと、村田肥前守らの援軍と退却を記す譜記事。
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年月日未詳 / 冊子 519頁
修理亮忠廉が庄内から平山へ帰り、二月十一日に鹿島内の川田城を攻めたが、川田飛弾守らが籠城して抵抗したこと、村田肥前守らの援軍と退却を記す譜記事。
天文九年十一月廿三日 / 冊子 792頁
嶋津上野入道・武蔵守以下を左右に配置し、各人の射数を記した犬追物の手組。
明和元年 十一月十三日 / 冊子 30頁/原整理番号 112/整理ID 112
松平康福・松平輝高・松平武元が連署し、阿部飛弾守に宛て、松平薩摩守を従四位下少将から従四位上中将にする旨が仰せ付けられたので、口宣などを調えるよう伝奏衆へ申し入れることを命じる。明和元申十一月十三日付、三名の判。宛名には所司代・正允の人物注がある。出典注は全御譜中・写、写正文在右筆所。
明和二年四月二十一日 / 冊子 86頁/原整理番号 181の71/整理ID 181-71
東照宮百五拾回御神忌法会に際し、日光山へ使者高橋此面を派遣して、御太刀一腰と御馬代黄金拾両を献納した首尾を記す。四月十七日、東郷源五が日光の本坊へ使者を案内した。御門主は御書院に出座し、老中松平右近将監、寺社奉行土岐美濃守・酒井飛弾守、大御目付筒井大和守、勘定奉行小野日向守、御目付松平庄九郎・松平縫殿頭・夏目藤四郎・新庄織部が出席した。別紙の御順書のとおり、使者が御太刀目録を持参して御書院の敷居内に備え、敷居外で平伏して退去し、奏者は東叡山執当であった。献納を済ませ、本人が案内した首尾を四月二十一日に左中様へ報告し、御順書一通を添付して差し上げる旨を申し添える。
文化10年閏11月13日(朱年注) / 冊子 431頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1339
扣正文在文庫。榮翁が参府したので上使の慰労という上意を受けありがたく述べる。榮翁に不快があるため自分を名代として申し上げ、豊後守にも不快があるので御礼を自分が申し上げるという。文化10年朱注、閏11月13日、松平飛弾守署、仲雅の名は目録。本書の両名の不快と名代御礼を採録し、独立宛名や症状診断は補わず、1338の上使土井・老中巡礼等を本書自体の記載に移さない。
明和二年四月十七日(本文) / 冊子 86~87頁/原整理番号 181の72/整理ID 181-72
四月十七日、本坊で御太刀目録・金馬代を献納する者の名順を、侍従以上として書き付ける。松平加賀守・松平讃岐守・御名から、諸大名と隠居、喜連川金王丸・喜連川秀翁までを列記する。松平越前守には「服」、井伊掃部頭と松平右近将監には「於御宮献納」の注記がある。隠居については、松平空山を内蔵頭隠居、松平監物を左京大夫隠居、松平丹後守を信濃守隠居、松平杢頭を阿波守隠居、松平但馬守を安藝守隠居、宗式部大輔を対馬守隠居、酒井靈岳を修理大夫隠居と注記する。個別の服・御宮献納・隠居の注を名順とともに保持し、全員が同じ場所・条件で献納したと一括しない。
年月日未詳 / 冊子 35頁/原整理番号 125/整理ID 125
同年十一月廿八日、重豪が登営し、白書院で将軍家治に太刀一腰・馬代黄金一枚・縮緬十巻を献じて官位昇進の礼を述べた。御台所には白銀五枚・干鯛一匣、若君には太刀一腰・馬代黄金一枚を献じて拝礼した。同日、老中から所司代阿部飛弾守正允宛の奉書を賜った。十二月九日に高橋七郎右衛門種央・小倉仲之丞知澄を京都へ遣わし、奉書を正允に届けた。閏十二月十五日に伝奏姉小路前大納言公文宅で献上物・官物を呈し、公文が口宣を請い取り、種央に渡した。種央は翌乙酉正月十一日に芝邸へ戻り、重豪は大書院で口宣を受領した。知澄は年を越して京都に少し滞在し、二月十九日、近衛内前の執奏により黄金百両・絹三十疋を禁裏へ献じ、女房奉書を付けて三月九日に芝邸へ帰り復命した。出典は全御譜中。目録は記事で年月日欄を空欄とする。
明和元年 十一月晦日(年は朱注) / 冊子 36~38頁/原整理番号 128/整理ID 128
島津左中・高橋此面の連署状。十一月晦日付、朱注年記は明和元年で、目録は久金・高橋種寿とする。前日の老中連名奉書により廿八日朝六半時、重豪が熨斗目長袴で登城し、白書院で官位の御礼を述べ、土岐美濃守の取次ぎと輝高の処置で西丸でも御礼を済ませたと報告する。公方様へ太刀一腰・馬代金一枚・縮緬十巻、御台様へ白銀五枚・干鯛一箱、若君へ太刀一腰・馬代金一枚を献じ、老女七人へ白銀三枚ずつ、表御使衆四人へ二枚ずつ、若君附へ三枚ずつという贈答記載がある。岩橋・御乳人も記す。老中・板倉勝清・若年寄への御礼も記す。内証の御勤について本丸へ川井を送り、公方・御台・若君・万寿姫へ御礼を述べ、前例のない官位祝儀も、浄岸院の懇望により許されたことを伝える。公方へ香一折と重豪の直文、浄岸院への依頼献上、本丸からの差図、御前様から公方・御台・若君への香一折ずつ、万寿姫への口上、老女七人へ銀三枚ずつ、客会釈衆等へ銀二枚ずつを記す。長崎奉行宛の書状・祝物は後で照会するとする。口宣等の老中奉書を阿部飛弾守へ届けるため、高橋七郎種央と右筆小倉仲之丞知澄を来月九日に京都へ遣わし、官物・進物を先例通り手配するよう京都留守居へ申し送った。近隣国への通知、内輪祝物の取替え、家老・諸士への祝儀、女中方からの便書についても依頼する。出典注は全上・扣正文在家老座。
安永五年二月(本文)、朱注の廻状・写送は二月二十五日 / 冊子 487頁/原整理番号 1351/整理ID 1351
六月に一同参勤する者のうち、国元が遠く、例年早く国元を出立する者がいると聞いたので、この年は日光御社参が済んでから国元を発足するよう通達する。本文は安永五年二月、朱年の表示がある。続く大目付の廻状は松平右京大夫から渡された書付の写一通を送り、趣旨を承知して滞りなく順達し、最後から松平対馬守方へ返すよう求める。廻状の日付は二月二十五日、松平薩摩守殿奉ほか連名略す、右留守居宛。朱の小字注は、有馬中務大輔の家臣から廻状・書付写が到来したので大田原飛弾守の家臣へ順達し、写しを差し上げた旨と、同二十五日有川勇馬・左中様への記載を持つ。本文の二月と廻状・写送の二十五日を分け、六月参勤の遠国という対象条件、日光社参完了後という条件を保つ。実際に社参や発足を済ませた記事とはしない。
文化10年閏11月13日上使・15日献上(記事) / 冊子 431頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1338
重豪公御譜中。閏11月13日、大家が老中土井大炊頭利厚を芝邸へ遣わし参府を労問した。宿痾がなお癒えない重豪は松平飛弾守仲雅に代わって恩旨を拝させ、老中各邸へ礼謝し、自身は病のため登城できないとする。15日に島津内膳久長を城へ遣わし、大家へ太刀1腰・縮緬10巻・白銀30枚、儲君へ太刀1腰・白銀30枚、御臺・御簾中へ白銀各5枚を献じ、いずれも参府を謝すと記す。年は目録文化10年。上使の来訪、本人不登城、仲雅の代謝礼、久長による相手別礼品を分け、帰国礼の縮緬5巻等を混ぜない。
原673の2:二月龍衛・右衛門。原674の1:辰二月17日関山。原674の2:正月29日御官名(補収) / 冊子 515~517頁/原整理番号 673の2・674の1~2/整理ID 673-2
原673の2は、秋月・相良・久留嶋・五嶋・米良との依頼・親睦と、伊東左京大夫が家老使者をもって一層助成すると伝えたことを通知し、王室への忠勤に協力すること、役人が国威を借りて境界の人民を軽蔑・苛酷に扱わないことを諸郷・私領にも知らせるよう求める。二月、龍衛・右衛門の表示がある。原674の1は、日田・長崎に出した兵の引揚げについて先月二十九日に松室伊勢へ書付を提出し、披露する旨を聞いたことを、辰二月十七日に関山が四家老へ報じる。唐津・天草の兵と本田圭兵衛への連絡、中将への伝達も記す。原674の2は、日田・長崎の司吏が逃れ人民が騒然としたため少しの兵を出して鎮撫し、民心が落ち着いているので兵を引き揚げたいと述べる御官名の願書。末尾は正月二十九日で、宜しく執奏を願う。
年月日未詳 / 冊子 689頁/原整理番号 710の2
切支丹徒党の処置に関する前文を省略し、持口の間数と配分を記す。総182間の内訳に有馬36間・松倉146間を掲げ、146間の内25間を道に引くとする。続く持口渡覚は細川91間・松倉7間半・有馬39間・立花19間、原計157間と記す。内訳の計算値は156.5間で半間差がある。
年月日未詳 / 冊子 712頁/原整理番号 744
十六日、将軍が九州大名を召し、島原がまだ鎮まらないため急行して早期に討伐するよう命じ、馬や衣服を与えたと記す。土井・酒井・堀田・阿部らが上使を務め、大名は暇を賜って鎮西へ向かった。細川・黒田・鍋島・有馬・立花・小笠原・水野・榊原らを列挙し、人名訂注や榊原の子の年齢・父への随行を付記する。
元禄三年五月廿二日 / 冊子 857頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2290
島津式部少輔久寿が老中三名へ、先年、同姓飛弾守の願いどおり自分へ跡式相続を命じられた厚意に謝する。又次郎が当年十五歳になったため、その家督相続を願い、自分もまだ若いので登城を許されたいと求める。