頴娃信濃宛達書
十一月 / 冊子 203頁
頴娃信濃に対し、実母は琴であるが、このたびの意向により伊尾を母として定めたので、その旨を帳面に記し、御記録奉行へ申し渡して関係先にも伝えるよう命じた達書。家内の母子関係を公式記録上整理する内容である。
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十一月 / 冊子 203頁
頴娃信濃に対し、実母は琴であるが、このたびの意向により伊尾を母として定めたので、その旨を帳面に記し、御記録奉行へ申し渡して関係先にも伝えるよう命じた達書。家内の母子関係を公式記録上整理する内容である。
年月日未詳 / 冊子 311頁
応永二十七年の頴娃城攻めと頴娃氏の没落を記す。島津久豊方の攻撃に対する城方の籠城、一族の退去と離散を追い、伊東・阿多・山田・鮫島諸氏がどちらに与したかを示しながら、頴娃氏が所領を失い周辺勢力の配置が変化した経過をまとめる。
年月日未詳 / 冊子 312頁
応永二十七年の頴娃攻めで、頴娃方が抗しきれず退去したこと、小牧某が久豊に仕えて頴娃を与えられながら敵対して弓を射たことを、不知恩の例として記す。
天文廿三年三月廿四日 / 冊子 911頁
島津貴久が頴娃左馬允に、親子として奉公し一心に尽くすこと、雑説に惑わされず互いに礼明を守ることを約した契状。
弘治三年正月十五日 / 冊子 43頁
島津貴久が頴娃・指宿・山川の領知をあらためて頴娃左馬助に安堵し、永代相違なく領有することを認めた安堵状。
永禄二年十月四日 / 冊子 74~75頁
伊地知方の件を知らなかったこと、不忠者に同心しないこと、頴娃方に対して隔心なく従来どおりの関係を保つことを貴久・義久が誓い、違背時の神罰を掲げた起請文。
永禄五年五月吉日 / 冊子 106頁
日新が頴娃山城入道との信頼関係について、合意した条項を守り、他方からの妨害や中傷を信用せず、両者の間に雑説が生じた際は直接問い合わせて確かめると神々に誓った起請文。
永禄五年四月廿九日 / 冊子 106~107頁
義久が頴娃山城入道に対し、今度の雑説をめぐって互いに疎略なく、敵方がどのような計略をめぐらしても同心せず、世上がどう変化しても一味して奉公し、相手に謀略を用いないと誓った起請文。
天正四年五月廿一日 / 冊子 479頁
島津義久が、島津家との歴然たる旧好により、頴娃小四郎家の所定の役務について、代々の嫡子一人を永く免許すると認めた書下。
天正十一年 / 冊子 748頁
頴娃氏が山川地頭となる際に島津氏老中から示された三か条。山川湊の先例どおり諸公役を勤めること、唐土・南蛮船が着岸した際は鹿児島へ相談すること、寺社家・地下人の遺恨や争いを明確に裁くことを定め、重大な罪人は直ちに処断してよいとする。
天正十一年二月十日 / 冊子 748~749頁
島津忠平が頴娃久虎へ、これまでの取置を神文で示されたことを喜び、久虎を自分の子同然に扱って疎略にしないと誓った請文。違背すれば彦山・霧島・真幸白鳥・飯野一宮など諸神の罰を受けるとする。
天正14年正月 日 / 冊子 139頁
島津義弘が頴娃左馬助へ、今後も心変わりせず約束を守り、互いに違背・疎略がないことを誓った起請文。梵天・帝釈、四大天王、霧島六所大権現、薩摩鎮守八幡など多数の神仏を勧請し、違反時の神罰を掲げる。軍事行動を前に家臣との結束を神文によって保証した誓約である。
天正16年2月16日 / 冊子 380頁
義弘とその子孫に対して偽りなく忠節を尽くすことを誓い、違背すれば梵天・帝釈・四大天王、九州六十余州の神々、霧島六所権現などの神罰を受けるとした起請文。頴娃摂津守へ与えられた、家臣関係の誓約を示す短い史料。
慶長五年十月十日 / 冊子 591頁
島津義弘(惟新)が頴娃弥市郎へ、関ヶ原合戦で粉骨し、伊勢・近江・伊賀・大和・河内・和泉を経て帰国するまで片時も側を離れず奉公したことを賞し、知行二百石を与える。あわせて、同文で石高のみ異なる感状を多数の随従者へ与えたことと、その宛名・石高を列記する。
六月十四日 / 冊子 14頁
敵方が数十艘の兵船を率いて指宿方面へ来襲した際、頴娃山城守が寄持衆と自ら戦い、多数の敵を討ち取った武勇と軍忠を賞した書状。
「寛永十八年」十二月廿六日 / 冊子 181~183頁
川上久国・新納久詮が国元の重臣らへ、九州巡回上使の松田善右衛門・蒔田数馬・曽川喜左衛門を迎えるため、国絵図を持参して経路や宿所を協議した結果を報告した連署書状。上使は江戸を正月二十三日に出立し、細島・佐土原・飫肥・志布志・肝付・根占・佐多・種子島・屋久島・永良部島・山川などを巡る見込みで、渡海船・水主・供人数・宿所・賄い・案内人を整え、天候や海上事情に応じた代替経路を準備するよう指示している。追記には、十二月二十六日付の書状が翌年正月十八日に御道具衆によって届けられ、飛脚が立山吉左衛門・末原甚左衛門であったことを記す。
慶長六年七月吉日 / 冊子 768頁
頴娃忠冨ら十名が、命じられた軍事上の事項を他言しないと誓約した連署起請文。梵天・帝釈天以下の諸神仏を挙げ、違反時の神罰を誓う。
慶長十九年六月晦日 / 冊子 530~531頁
慶長十九年六月晦日、島津久元の領地について、山崎村・湯田村・舟木村・屋地村など多数の村別石高を列挙し、合計一万三千六百六十石八斗二升とした頴娃久政・川上久好連署の知行目録。
正月十四日 / 冊子 66頁
頴娃久政と新納忠清が、唐物屋千左衛門・帯屋四郎兵衛尉・下人長五郎の三人に宮内八幡参詣のための書状を付した連署書状。参詣先以外の在郷へ立ち寄らないよう厳命することを求める。
四月十六日 / 冊子 170頁
島津久慶と頴娃久政が諸所の噯衆に、江戸奉行衆の奉書が早飛脚で下されたため写しを地頭衆へ回したことを伝え、前年の指示と相違なく油断せず申し付けるよう命じた廻文。御兄弟衆が巡見するので、不行届きの場所は直ちに報告されることを心得、少しも疎略にしないよう戒める。
(記事) / 冊子 172頁
頴娃忠永を祖として、その子孫の諸流を示した系図。忠方・忠光らの系統と、頴娃本地頭・指宿本地頭・指宿郡司などの称号・職名、太郎・平四郎・郡司小次郎・彦鶴丸などの通称を系線で結び、頴娃氏の一流と指宿地域の所職との関係を示す。
「寛永十九年」正月十四日 / 冊子 184~185頁
川上久国・新納久詮が国元の重臣らへ、長野金山を公領に差し出す願いについて、江戸城で松平信綱・酒井忠勝・阿部忠秋・阿部重次らから忠節を賞され、その年は従来どおり採掘し、翌年以降は改めて指図を受けることになったと報告した連署書状。永続的な拝領ではないため、当年の利潤を借銀返済に充てるよう勧め、系図の扱いについても触れている。
十二月三日 / 冊子 451頁
本田仲左衛門尉が評定所の秘密を知って申し出た件について、老中衆の議題を誰から聞いたのかを徹底して究明し、隠せば処罰すると申し渡すよう命じた島津光久書状。捜査できなければ老中の一人と仲左衛門尉を直接対決させる方針も示す。
年月日未詳 / 冊子 412頁
島津忠国の時代について、文安二年の盟書下賜と琉球王尚思達の即位、翌年以降の新納・頴娃・肝付・島津久連らの盟約、樺山孝久へ二心なく協力して軍事に従うよう求めた盟書などを記す国史記事。
年月日未詳 / 冊子 620頁
島津忠隆に嗣子がなかったため、頴娃氏との関係を背景に島津勝久の家督継承と後見の経緯を記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 650頁
大永五年、田代肥前守清隆が田代氏の家勢を支え、頴娃勢の侵攻を防いで戦死したことを記す記事。
永禄十年十二月下旬 / 冊子 178~179頁
永禄十年十二月下旬、肝付氏が頴娃九郎左衛門を使者として伊東方へ送り、菱刈合戦後に島津方が肝付を攻めるとの風聞を伝えた記事。肝付領内の約三十の要害すべてに守兵が必要なため、伊東方に飫肥口か真幸口の一方で軍事行動を起こして加勢するよう求めた。伊東義祐は野尻に滞陣中で、使者を途中に留めて案内者だけを受けた後、佐土原へ帰った。
天正三年三月十六日 / 冊子 431頁
天正三年三月十六日の犬追物手組として、島津以久・新納忠実・頴娃久虎らの射手、各人の射犬数、検見・喚次を列挙する。
天正六年 / 冊子 543頁
天正六年の石城攻めで、川上久辰が大手の城戸へ向かい、敵の矢石が雨のように降る中で戦ったことを記す。鑓持が間に合わなかったため野呂与助が敗走する味方から鑓を取り上げて久辰へ渡し、久辰は頴娃左馬助・梅北宮内左衛門と並んで接戦した。
年月日未詳 / 冊子 631~634頁
頴娃家で嫡子忠継と弟久虎が対立し、忠継が開聞寺の神殿へ籠もった末、頴娃新左衛門尉に射殺された経緯を記す。その後、久虎の母が政務を専断したため家臣十人らが諫めたが、指宿へ退いた百余人は本田政親による和談を信じて頴娃郡周磨寺へ入り、久虎勢に攻め滅ぼされた。
年月日未詳 / 冊子 330~331頁
羽柴秀長の大軍が日向高城を囲むなか、北郷時久(一雲)が義久・義弘に従って根白坂の豊臣方陣地を攻めた事績を記す。敗退時には久保・頴娃久虎らが踏みとどまり、来住備前守が戦死するなど、援兵のない窮地で激戦となった。五月八日の和睦後、義久が秀吉から薩摩一国を認められ、同月十六日に時久へ書状を与えたところまでを述べる。
年月日未詳 / 冊子 362頁
島津歳久が、根白坂の戦いで戦死した頴娃久虎の生前をしのんで詠んだ追悼和歌。弓馬の家に生まれて武芸に励み、酒宴や舞曲の場でも人々と交わった久虎の人柄をたたえ、「桂岳林昌居士」と唱えて霊前へ手向けている。
慶長三年九月廿九日 / 冊子 240頁
『島津家久譜』が、九月廿九日に明兵一騎が新寨城門から三、四町の地点に標木を立て、ただちに退いたと記す記事。頴娃主水・白濱七助が標木を回収すると、翌十月朔日に新寨を攻めるので、寨将は油断しないようにとの予告が記されていたとする。
(慶長四年)正月十八日 / 冊子 350頁
前原貞能・宇多某が安楽大炊介へ、正月十六日の出撃と戦果を報告した連署状。頴娃左馬・敷仲兵・比志島宮内少輔らが大将となって敵五人を討ち、高城口からの追撃でも三人を討ち取って黒田加兵衛・新納勘解由・蘭牟田弥吉らが槍働きをしたこと、当日に陣替えを行うことを伝える。
(慶長四年)九月六日 / 冊子 434頁
島津忠豊が伊勢兵部少輔に、庄内の件を上使が無事に調停しようとしたが成立しなかったとの知らせを了承したと伝える。自身も山田方面へ出向き、現地の様子は頴娃主水正が見聞しているので詳述せず、委細は老名衆から申し上げるとする。
年月日未詳 / 冊子 590-591頁
慶長五年十月十日、関ヶ原からの帰陣後に島津義弘(惟新)が感状を与えた人数と給付石高を列挙する。頴娃弥市郎・山田民部少輔の各二百石、本田源右衛門百石をはじめ、諸士へ五十石・三十石などを与えた記録である。
年月日未詳 / 冊子 24頁
島津常久が飛鳥井雅庸から駿鞭の免状を受けた礼として、頴娃長左衛門尉と伏見から京都へ赴き、白銀二十両を献じた記事。七月十七日には太守島津忠恒から、その夜に常久の宿所を訪ねて対談したいとの書状を受けた。
(元和六年)十二月十九日 / 冊子 739頁
島津家久が、頴娃主水・白七・ぬく弥の成敗、七島へ遣わされた理心女房の罪が確定した場合の男女とも死罪、高闇孫市の所在究明を命じた覚書。
(寛永元年)八月七日 / 冊子 818頁
蒲池備中入道が市来掃部助・頴娃長左衛門尉へ、佐八郎を後嗣として迎える話について、親子の離別、上洛供奉や軍役、普代奉公を果たせる者の必要を挙げ、奉公可能な人物を付けてほしいと願った覚書。佐八郎の子らは養育事情から当面御用に立たないとして、知行の扱いを含め裁定を求めた。
七月廿七日 / 冊子 172頁
北条泰時が豊後四郎左衛門尉に、薩摩国御家人の揖宿平四郎忠秀と頴娃平太との間で争われた開門神領の件について、豊後三郎左衛門尉とともに双方を召して裁決し、その結果を申告するよう命じた書状。
八月十七日 / 冊子 267~268頁
本文署名の貴久が、相手方の近況を尋ね、知行・領地をめぐる伊東方、頴娃、山東などの情勢と処置を詳述し、関係案件への対応を樺山殿へ求めた書状。巻末目録の標題は島津忠国書状。
天正十八年カ八月十四日 / 冊子 29頁
前年に下向した進藤筑後守が島津方から諸事の馳走を受けたことを喜び、今後も万端の助力を頼み、詳細は頴娃左馬助に託した近衛信尹書状。
七月廿七日 / 冊子 538頁
薩摩国御家人指宿平四郎忠秀と頴娃平太忠継が争う開聞神領について、双方を召して裁決し、事情を注進するよう命じた北条泰時書状。
十月十五日 / 冊子 68頁
川上久國らが、江戸から下向する上使を迎えるため発した連署廻文。通行路の道・橋を念入りに普請し、上使通過時は下々まで見物に出ないこと、途中で出会った場合は平伏して慎むことを厳命する。
天正四年(六年か)七月九日 / 冊子 545頁
上井覚兼・伊集院忠棟が宮原筑前守へ、石城口でその子が奮戦したことを認め、子を早く帰らせる代わりに本人が急ぎ出陣するよう命じた。伊集院肥州・頴娃氏・吉田若狭守が負傷して帰ったため陣が手薄であり、時を移さないことが肝要と念を押す。本文の年次注記は天正四年を六年と訂する。
二月十四日 / 冊子 229頁
発給者未詳の書状。別紙の条書と使者の口上によって用件を伝え、新加州老の当地滞留中に内々の事情を聞き合わせることや、関係者本人から事情を申し上げさせることを求める。あわせて扶持に関わる山衆屋敷の明渡しと耕作の手配など、現地で処理すべき事項を指示している。
「寛永二十年」十一月九日 / 冊子 261~264頁
島津久通・新納久詮が国元の重臣らへ、翌年の琉球使者参府について人数・行列・進物・船舶・馬・宿所・衣服・路銀などの準備を詳細に協議した連署書状。朝鮮使節の例も参照し、琉球人百二十人程度という当初案に対して二百五十人前後の編成を検討し、幕府・京都側との調整を求めている。
「寛永二十年」十一月十八日 / 冊子 264~265頁
島津久通・新納久詮が国元の重臣らへ、先の書状を受領したことを伝え、祝儀・進物や翌年の交替に伴う供立てについて、京都・江戸の関係者と相談しながら準備するよう求めた連署書状。供奉者の選定と熟練した者の召上げに念を入れるよう指示している。
「寛永廿一年」九月廿四日 / 冊子 355頁
北郷久加・新納久詮の連署書状。禁制相撲興行の件について、酒席・評定場・宿所などにいた関係者を召し出し、各人の書付と証言を集めて相互に照合するよう命じる。主催・参加・見物の経緯、誰が呼び寄せたか、供述の食い違いを厳密に調べ、隠し立てなく報告するよう求める。
元亨三年三月四日 / 冊子 493頁
島津道慶が訴える伊集院島廻田地について、世主彦三郎忠行の請文を進上し、奉行所への披露を求めた頴娃久純の請文。