島津惟新書状
(慶長十年)四月三日 / 冊子 12頁
島津義弘(惟新)が東郷藤兵衛尉へ、島津忠恒に供奉して辛労したことをねぎらい、龍伯の意向により肩衝茶入の蓋二つを作らせるので調達を頼むと伝えた書状。茶湯への参加や河野伊右衛門尉の辛労にも触れている。
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(慶長十年)四月三日 / 冊子 12頁
島津義弘(惟新)が東郷藤兵衛尉へ、島津忠恒に供奉して辛労したことをねぎらい、龍伯の意向により肩衝茶入の蓋二つを作らせるので調達を頼むと伝えた書状。茶湯への参加や河野伊右衛門尉の辛労にも触れている。
正月十日 / 冊子 383頁
今度は供を務めたことに満足し、先に依頼した書物がすでに調ったかを尋ね、詳しくは使者に述べさせるとした島津忠恒書状。
三月十七日 / 冊子 384頁
兵法について以前伝えたとおり厳重に秘密を守り、親しい者や稽古衆すべてに教えるべきではないと戒め、この兵法以外に頼るものはないとの覚悟を一層深めるよう求めた島津忠恒自筆書状。
二月廿八日 / 冊子 384頁
丸目一流の兵法を見物した結果、かえって示現流の頼もしさを確認したと述べる。示現流はなお秘すべきであり、丸目流にも深い鍛錬があるので心得て、早く来て話し合うよう求めた島津忠恒書状。
年月日未詳 / 冊子 724頁
天文三年八月十四日、鹿児島方の多勢来襲を蘭田五藤兵衛が知らせ、貴久・忠良方が応戦した経緯を記す。新納勢を退け、多数を討ち取り、忠良自身も敵を斬ったとする。
年月日未詳 / 冊子 32頁
弘治二年九月五日、松坂野頸で釣り野伏を行い敵三人を討った。梅北宮内左衛門尉方、山田衆細田五藤兵衛方、鹿児島衆福島新左衛門方の各一人が高名を立てた。貴久は山田から松坂城向かいの尾まで馬を寄せて城の様子を見、忠将・忠平が供をした。
永禄十一年二月廿八日 / 冊子 194~195頁
小苗代原へ出た新納忠元が薬師堂を拝み、堂の板へ歌を書こうとしている間に敵が迫り、家臣久保筑左衛門・尾崎能登に引き下ろされたことを記す。忠元は白坂口で八代の的場五藤兵衛と太刀で戦って顔にも傷を負い、春成外記が弓で敵を射伏せた。求麻方の東藤左衛門・愛甲助三郎らが突入したが、鎌田壱岐守らが討ち取り、寄手は退いた。
年月日未詳 / 冊子 49頁
「中原藤兵衛蔵」と伝来元を掲げ、『旧記雑録前編』所収の同文文書を参照して本文を省略した記事。 この頁には日付・宛先・具体的用件がなく、従来の四月十九日という推定は根拠を確認できない。内容の確定には『旧記雑録前編』の参照先との照合が必要である。
年月日未詳 / 冊子 411~415頁
『殉国名薮』は、慶長四年の庄内合戦で戦死した島津方の武士を、月日・戦場・所属や続柄とともに列挙する。六月一日の中田十郎をはじめ、山田城・恒吉・安永・高城・北郷・神田橋など各地で討死した町田新助忠玄、長野藤兵衛、平田三五郎、上井仲五兼政ら多数を掲げ、六月から翌年正月に及ぶ戦没者の記録をまとめる。
慶長十年乙巳卯月二十日 / 冊子 14頁
本出源右衛門親商の家臣である神田藤兵衛が、主人親商の死後、その跡を慕って慶長十年四月二十日に殉死したことを記す記事。
慶長十一年五月二日 / 冊子 73頁
伊集院抱節・山田理安が連署した、高山内の知行名寄目録。赤池屋敷の田畠・屋敷を玄清・和泉・藤左衛門・与介・次郎左衛門・藤兵衛らの知行人別にまとめ、田位・面積・石高を列記する。総高二十石のうち合計七石一斗余を名寄し、残る十二石九斗余を財部へ遣すとする。
(寛永十四年)十一月十七日 / 冊子 693~694頁
「覚」として『家久公御譜中』に収められた島原・天草の戦況記事。島原城から一里ほどの米蔵へ侍十二人・鉄砲二百挺を遣わしたところ、千本村の一揆勢に襲われ、鉄砲頭の高橋弥次右衛門・入江与右衛門・高畠次郎太夫とほか四、五人が討死し、城へ退いたこと、城近辺の村々も焼かれたことを記す。唐津勢は十一月十日に天草本戸へ着き、先手四、五百人が島子村で約三千人の一揆勢に攻められて本戸へ退却、本戸の在家を焼かれ、三宅藤兵衛のいる富岡へ移ったという。これらは天草からの未確定情報であり、上使の下向・隣国加勢の続報はなく、御横目衆が高瀬へ来たとも記す。本文日付は寛永十四年十一月十七日。差出人・宛所のない覚書・譜記事で、索引の「文書・某書状」と形式が相違する。
六月六日 / 冊子 25頁
鎌田与兵衛尉と有馬藤兵衛尉が、久四郎の上洛に際して贈られた餞別への謝意を伝えた連署書状。その厚意を幸相殿へ披露し、武林にも詳しく申し含めたと述べ、今後も適切に取り成すよう頼む。
承応二年七月 / 冊子 395頁
島津光久を大檀主として大興寺の客殿一宇を再興した棟札写。草堂以来の建物が風雨で傷んだため、郡民の負担を軽くする構造で再建し、天下泰平・国土安穏・檀門繁栄・寺家長久・仏法紹隆を祈願する。
慶長三年十二月八日 / 冊子 304頁
瀬戸口重位が慶長三年十二月八日付で児玉四郎兵衛尉へ出した手次状。児玉の懇望に応じて自流の内容を残らず伝授したことを証し、伝授内容は他見・他言を禁じる。同流を望む者があれば誓詞を取ったうえで許可すること、失念した点は尋ねるよう求めている。
(慶長七年)四月十五日 / 冊子 809頁
伊勢如貴が、門跡の病気を遠路から見舞われたことに礼を述べ、曲直瀬道三の薬で回復したと報じる。内府への礼について相談を求め、鹿皮十枚を贈った書状。
(寛永七年)八月七日 / 冊子 168~169頁
分国内の諸士知行物成を年内に処理する方針と、船役負担・借銀返済について協議した覚書。二千石を一単位に自船を負担し、五百石取四人の共同船では四十人乗り・十二端の船を建造、船子賃・飯米を含め銀四貫百目、石高一石につき二匁一分八厘と試算する一方、既存出銀への追加は困難とし、借銀返済を優先する方針を記す。
年月日未詳 / 冊子 721頁
天文二年八月十四日、勝久が日新父子を討とうとする計画を園田五藤兵衛尉が告げたため、日新が永吉で兵を集め、敵路を防いで樺山右衛門・平田左馬助らを斬った戦闘を記す。
寛永九年四月廿二日 / 冊子 262~265頁
薩摩領内の知行物成の「ならし」と船役・出銀をめぐり、平田狩野介・東郷藤兵衛尉らとの談合事項を列記した条書。五百石取四人を合わせた二千石・四十人乗り・十二端関船について、船の仕立て、加子賃・飯米を銀四貫百目(高一石につき二匁)とする試算、自船・借船・船の惣置を検討する。さらに琉球口の商売と銀調達・出銀、駒牽夫、奉公衆と非奉公衆、領主・百姓の耕作と物成不足、外城衆・江戸上落衆の扱いなどを定める。
(寛永18年)5月14日 / 冊子 34頁/原整理番号 33
甲冑師岩井藤兵衛が伊杢右衛門へ、上洛する児玉四郎兵衛に「こ手・ふんこみ・すねあて」の三色を託し、代銀八十目の約束履行を求める。是枝喜右衛門の注文品は未完成で留め置いたという。後掲解説は宛先を京都御蔵奉行の伊地知杢右衛門重政とし、寛永十八年五月に受けた文書と説明する。
年月日未詳 / 冊子 232~233頁/原整理番号 333-15
二月二十七日、菅村藤兵衛が清田石見守勢から三の丸へ一番に乗り込んだと申し出たもの。服部九右衛門・竹内八兵衛を証人に挙げ、二の丸で槍を合わせたことにも同じ二人を証人とする。後藤市十郎の件は少しも覚えがなく、自分が一番であると主張する。
年月日未詳 / 冊子 1~2頁
島津貴久が嫡男義久、弟忠将、子の歳久・家久を率いて北村を攻めた際、敵の伏兵に遭って歳久が負傷。翌日、北原氏の軍勢が溝辺に出たため大隅衆が迎撃し、鉄砲で敵六人を射殺、太刀で一人を討ち取った。
年月日未詳 / 冊子 3頁
弘治元年正月、屋形様父子が吉田まで出陣したが、北村勢の偽計により味方が敗軍した。弟子丸播磨守が退かずに討死し、指宿丹後守・敷根源八兵衛らも戦死したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 656頁
九月十五日申刻頃、島津義弘(惟新)以下が飢えていたため、本田源右衛門が京都に詳しい帖佐宗辰へ五十人分の食事調達を命じた。宗辰は村で不穏な相談を聞き、島津方の指物を見付けて本隊を追ったが、村人に襲われて切り抜ける過程で従者五人のうち三人が戦死し、二人が行方不明となった。
年月日未詳 / 冊子 675~676頁
元和三年の大風で倒壊した日向国真幸院飯野村長善寺の客殿について、領主から日七十貫の助銭を受け、元和四年二月に着工して十一月十五日に再建を終えた経緯と関係者を記す棟札。
年月日未詳 / 冊子 711頁
島津義弘の死に際して殉死した家臣たちについて、氏名・年齢・没日を列記した殉国者名簿。
寛永14年10月28日 / 冊子 298頁/原整理番号 259
島原で火事が起こり郷中が焼け、鉄砲音がして天草から多数の船が往来したとの報を知らせる連署書状。使者の往来方法と必要な対応を尋ね、十月二十八日付で三宅藤兵衛宛に結ぶ。
(万治元年)閏十二月十九日 / 冊子 374~375頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0816
神尾元勝が松平大隅守へ、将軍は健勝と伝え、西尾藤兵衛を上使として同姓薩摩守が御鷹の雁を拝領した件と、礼使を差し上せたことを了承する。光久が当地で健康であることも重く受け止めたと述べる。
年月日未詳 / 冊子 300~301頁/原整理番号 264の3
二十九日、富岡城代三宅藤兵衛が城附の侍・手勢百人を率いて天草一揆鎮圧に出陣し、即日帰城した記事。配下の侍を列挙し、本渡方面への陣取り、伴天連二人の捕縛、村々の捜索と火刑・籠舎に及ぶ処置を記す。
年月日未詳 / 冊子 301頁/原整理番号 265
『天草覚書』。富岡城代三宅藤兵衛の身上七千石・合力三千石と、配下足軽・支配衆の人数および石高を列記する。大矢野・吉野らの配分に続き、慶長九年に富岡城が完成したとの伝承を収める。
寛永14年11月朔日 / 冊子 306頁/原整理番号 268の2
天草表の五、六か村で切支丹が立ち上がったため、加勢を受けられると承知した旨を伝える石原太郎左衛門書状。三宅藤兵衛が熊本家老衆へ申し入れたことを付記し、霜月朔日付で島又左衛門宛に結ぶ。
年月日未詳 / 冊子 307頁/原整理番号 270
『藤掛集書』の「天草江唐津より加勢の事」。富岡城の三宅藤兵衛以下の兵力と、天草百姓一揆への対応を記す。討手を出したものの地侍が一揆方へ移り、富岡城包囲、近郷百姓の妻子の人質化、唐津への注進に至ったとする。
年月日未詳 / 冊子 307~308頁/原整理番号 271
『寛明日記』。十一月二日、唐津から天草富岡城へ三宅藤兵衛以下の兵力が配置され、地侍や近郷百姓の動向に対処した記事。一揆方の鉄砲勢、百姓妻子の人質化を記し、三日戊辰に唐津へ注進したところで結ぶ。
年月日未詳 / 冊子 309頁/原整理番号 275の3
同日、天草の三宅藤兵衛へ、熊本から稲津九郎兵衛を遣わして現地の様子を尋ねた記事。続く三宅藤兵衛の書状を導く短い記述。
年月日未詳 / 冊子 310頁/原整理番号 276
『平塞録』。五日、唐津寺沢家老中が富岡城代三宅藤兵衛へ加勢として組頭四人・物頭八人・総人数千五百人と鉄砲六十挺を遣わした記事。飛札への反応、唐津出発の遅れ、先遣と富岡援兵の準備を記す。
年月日未詳 / 冊子 327~328頁/原整理番号 298
十二日、寺沢勢が本渡へ至ると三宅藤兵衛が味方の狼藉を鎮め、組頭を定めて人数を分散休息させた。さらに十四日早朝の上津浦攻めに向けた配当・指図と、一揆勢への警戒を記す。
年月日未詳 / 冊子 347頁/原整理番号 315
寛永十四年十一月十四日の天草郡大嶋子村での合戦を記し、味方の敗北、三宅藤兵衛らの討死と富岡城への退却を述べる。十五・十六日は一揆勢が志岐に滞留したとし、十七日条へ続く。
年月日未詳 / 冊子 356頁/原整理番号 327
十一月十七日、再度の命令で衆中を追い立て、出水方面へ追い付くよう指示されたことを小川監物が記す。島原への渡海や城主三宅藤兵衛に関する情報も付す。
八月十四日 / 冊子 566頁/原整理番号 4の5
島津久慶が白坂以益へ送った書状。十一日夜の飛札と蒲地平右衛門の口上を受け取り、重ねて届いた書状の内容を主君へ報告したこと、直ちに村田藤兵衛を派遣し詳細を説明させることを伝える。八月十四日付。
八月九日 / 冊子 21頁/原整理番号 6-7
八月九日付の平田清右衛門宛書状。島津文六の内衆江川後藤兵衛が高麗在陣中の事情を知っているため、十二日に平田のもとへ出向くよう命じたと知らせる。
十月三日 / 冊子 25頁/原整理番号 6-24
虎狩の様子について奥後藤兵衛の申分と川上因幡の書物が食い違うか、絵図ができたら因幡方へ持参して照合するよう指示する。併せて高岡の系図は佐多から帰った際に受け取り、有屋国の系図を竹下吉右衛門に見せるよう命じる。
年月日未詳 / 冊子 346頁/原整理番号 313
十四日の本渡戦で勝利した一揆勢が、富岡城攻撃を企てた経過を十九日伝として記す。城攻めの根拠地や人数編成を相談し、十二月十五日に深江村から出立する評議へつながる。
十二月七日 / 冊子 817頁/整理ID 2739
駒木根肥後守・別所播磨守が十二月七日、薩摩家老五名へ、百姓藤兵衛・携行者と阿波国船頭市兵衛・水主らを吟味したところ疑義がなく全員に暇を与えたと知らせる。五代助大夫を召し出して伝え、昨日帰った旨を承知したと述べ、江戸の薩摩守吉貴へ詳細を知らせるよう依頼する。昨日を一行全員への帰郷命令の日付としない。
十二月十八日 / 冊子 817–818頁/整理ID 2740
駒木根肥後守・別所播磨守が十二月十八日、薩摩家老五名へ、屋久島異国人発見者の藤兵衛・携行者と阿波国船頭市兵衛・水主らを吟味して疑義がなく全員差し返し、五代助大夫に詳細を伝えた件について、薩摩側の承知した書状を受領したと答える。
巳五月晦日 / 冊子 290頁/原整理番号 64
大村士平国曽藤兵衛の文書から、朝鮮の陣中で病む島津久保に付き添い、昼夜薬を煎じて差し上げたという奉公を記す。季安は病死説の傍証として引く。
年月日未詳 / 冊子 481頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1064
島津綱久が寛文四年四月十日に参勤のため国を発ち、西海を開帆して五月二十八日に江戸へ着いた。家老島津中務久茂が随行し、登営して将軍へ太刀一腰・馬代黄金十両・綿百把を献上した。また、この頃に家臣東郷藤兵衛重利に示現流剣術を学び、寝食を忘れて修練し、その玄妙を極めたと記す。
〈宝暦三年〉八月二十一日 / 冊子 417頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1283
前年、琉球中山王尚穆が謝恩使今歸仁王子を江戸へ遣わし、使者は任務を終えて琉球へ帰った。そのため尚穆が湊川親方に幕府宛の書翰と献物を持たせて薩府へ送った記事。先例に従い、当年八月二十一日、重年は家臣の馬廻村田藤兵衛経芳を江戸へ急行させ、書翰と献物を幕府へ伝達・献納させた。出典は重年公御譜。
年月日未詳 / 冊子 57頁/原整理番号 52
天文二十三年九月十二日酉刻の岩剣合戦出陣次第を記す。若殿義久を大将、伊集院大和守忠朗を軍配者、本田弥六を太刀役、梶原新兵衛を番役、瀬戸口藤兵衛を幡指とし、御屋形貴久の太刀役を鎌田甚五郎とする。後評では、永禄十一年正月二十日の菱刈羽作瀬での義久・義弘の危難と梶原の不手際・御内追放を挙げ、御旗役を三原氏に代えたのではないかと耳川合戦の記録に関連づけて考える。
年月日未詳 / 冊子 306~307頁/原整理番号 269
『平塞録』。天草の急変が熊本へ伝わり、三渕内匠が家老中へ敵情を報告した経緯を記す。島原一揆の初発、鉄砲・人員の支配、富岡城代三宅藤兵衛の出陣、唐津への注進と加勢の難航、島中の宗門勢力を詳述する。
年月日未詳 / 冊子 326~327頁/原整理番号 296
十一日、唐津勢が本渡へ着陣し、三宅藤兵衛らが人数を率いて上津浦方面へ進んだ戦況を記す。城中・村方の攻防、鉄砲や玉薬・兵糧米の奪取、死傷者を述べ、藤掛集書の十三日記事へ接続する。