今川了俊宛行状
至徳三年五月十三日 / 冊子 130頁
今川了俊が渋谷薩摩守に、伊集院入道跡の三分一を恩賞として宛行い、知行するよう命じた宛行状。
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至徳三年五月十三日 / 冊子 130頁
今川了俊が渋谷薩摩守に、伊集院入道跡の三分一を恩賞として宛行い、知行するよう命じた宛行状。
〔至徳三年〕五月十三日 / 冊子 130頁
今川了俊が渋谷薩摩守に、伊集院入道跡を恩賞として申し行ったこと、赤山城と河尻を押さえて武朝以下を討つ合戦準備、名和への扶持を依頼することを伝え、贈物への謝意を述べた書状。
(元和六年)三月三日 / 冊子 726頁
山口恵倫(直友)が松平薩摩守に、以前からの懇書への返礼が遅れたことを詫び、江戸への使者派遣の件や、伏見で御法度・仕置等を申し付けた使者への処置をめぐる訴訟について、上方の相応の御用等を仰せ付けるよう求めた書状。
正月十一日 / 冊子 410頁
島津義久が薩摩守殿へ、改年の吉兆を祝い、豊州・北郷殿・新納殿・典厩・金吾・薩州らに関する返礼文言の扱いを示し、年賀の祝儀として五明二本を贈った書状案。薩摩守殿の人物同定は保留する。
十二月十六日 / 冊子 411頁
島津義久が薩摩守へ、歳暮の吉祥を重ねて祝い、恒例の贈答に対する礼を述べるとともに、明春には相互の祝言を申し交わしたいと伝えた年末の書状。
正平六年正月廿二日 / 冊子 266頁
細川頼春が、去る十六日に入洛したことと道中の危険、早期の拝謁を望むことを伝え、子息三郎を参向させて使者への対応を求めた書状。
九月六日 / 冊子 441~442頁
松平河内守頼重が島津光久に、薩摩での船舶建造をめぐり酒井讃岐守忠勝の内意を伝える。法度に反する船は早々に取り崩し、規定内の船はそのまま置くこと、現在までに完成した船以外は新造を控え、翌春の参勤時に老中へ内談した後、必要なら再開するよう求めた。この話は公儀の正式な沙汰ではないため隠密に扱うよう命じる。追而書では、今回命じられた船のうち五百石以上の船は早々に受け取るよう伝えており、大船を一律に取り崩させたのではなく、法度適合性と既発注分を区別して処置したことが分かる。
永徳三年十一月十五日 / 冊子 123頁
皇徳寺寄進本縁として、比丘尼心知が生前供養を修する志趣を記し、大檀那薩摩守忠信と永林庵大願主比丘尼心知が連署した文書。本文中段は省略されている。
至徳元年十月日 / 冊子 126頁
薩摩守忠信が皇徳寺へ、薩摩国谷山郡山田村の桑迫井上薗・前田・岩瀬戸・河原田にある田地合計一町五段を永代の寺領として寄進した寄進状。
応永廿四年九月七日 / 冊子 300頁
薩摩守盛在が、世上の変化があっても定めた意趣に背かず、相互の大事・小事を相談し、子孫まで連属して秘密を守り協力することを誓った契状。
宝暦八年六月頃(配列から推定。目録月日欄空欄・本文無日付) / 冊子 692~693頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2062
松平薩摩守(島津重豪)の従五位下叙位について、上卿を山科中納言(藤頼言)、職事を裏松左少辨と記す。薩摩守任官については、上卿を高辻中納言(菅家長)、職事を中御門権左中辨と記した担当者の交名である。
宝暦九年四月七日 / 冊子 722頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2175
四月七日付の願書控は、松平薩摩守の又従弟女を島津淡路守に嫁がせたいとして、縁組を願い出る。薩摩守側の取次を久世忠右衛門、淡路守側の取次を堀田内膳と記す。
天明四年(本文に月日なし) / 冊子 738頁/原整理番号 2081/整理ID 2081
藤崎が松平薩摩守へ、上々様と御縁女の機嫌がよいことを知らせ、薩摩守の初賀を祝う。御縁女から内々に御香一折・色羽二重十疋を贈るので、祝いの趣旨をよく伝えるよう求める。今後幾久しく年賀を迎えられるよう祝意を述べる。天明四年の朱年記があり、本文に月日を記さない。宛所は松平薩摩守様の取次の人々で、藤崎本人の拝領を述べる書状ではない。
天明四年十二月十八日 / 冊子 774頁/原整理番号 2167/整理ID 2167
今朝献じられた炙鮎一箱を披露し、格別に喜ばれた旨を伝える十二月十八日付の礼状。意次の判があり、在口裏の宛所・差出人は松平薩摩守殿、田沼主殿頭意次と記す。
天明四年十二月十八日 / 冊子 774~775頁/原整理番号 2168/整理ID 2168
今朝献じられた炙鮎一箱を披露し、格別に喜ばれた旨を伝える十二月十八日付礼状。忠意の判があり、口裏に松平薩摩守殿・鳥居丹波守忠意と記される。
天明六年十二月十一日(年は朱書) / 冊子 912頁/原整理番号 2503/整理ID 2503
今朝献上された炙鮎一箱について、披露を遂げたところ、たいへん結構なことであった旨を松平康福が松平薩摩守へ伝える。十二月十一日付で康福の判を記し、朱書により天明六年とされる。
(元和四年)三月十九日 / 冊子 667頁
島津義弘が、改年の祝意を述べ、祝儀として使札・太刀一腰・馬代銀三枚・大樽三荷を贈られたことへの謝意を伝えた書状。
八月三日 / 冊子 419頁
鞍馬寺妙法坊客全が島津修理大夫へ、本堂修理の勧進使僧を派遣したことを伝え、毘沙門尊像と御札・薄板物一足を贈り、武運長久の祈禱に精誠を尽くすので満足するだけの援助を求めた書状。
安永二年(朱、月日なし) / 冊子 357頁/原整理番号 998/整理ID 998
浄岸院の御守殿の土地が狭いことに関し、すでに借りている地について願い出られていたので、その借地を受取人の拝領地として命じると記した指図の写し。「其方」に拝領地として命じる旨を述べ、松平薩摩守宛。朱に安永二年とあり、月日はない。正文は家老座にあると記す。借りていた地と、その地を拝領地へ変える指図を収録する。
天明元年十月二十日 / 冊子 646頁/原整理番号 1834/整理ID 1834
御内書を相渡すので、翌日五半時に家来を城へ差し出すよう伝える。十月二十日付で松平周防守から松平薩摩守に宛てた短い伝達文書。見出しは「全上」「正文在文庫」とし、本文の日付と所在注記を区別する。
天明六年十月十二日 / 冊子 898~899頁/原整理番号 2469の24/整理ID 2469-24
松平薩摩守(島津重豪)・松平越前守(重富)・松平伊予守(治好)に、翌十三日から月代を剃ってよい旨を伝えさせる。大目付が水野出羽守の書付写一通を松平薩摩守留守居へ送り、回答等は岩本内膳正へ伝えるよう付記する。
年月日未詳 / 冊子 390頁
薩州島津国久について、嘉吉元年に生まれ、三郎太郎・薩摩守と称し、名を斉為甫としたこと、島津立久の時代に六年間守護代を務めたことを記す系譜記事。
寛正四年七月七日 / 冊子 446頁
本田宗親が、嘉吉元年に大覚寺殿が永徳寺で自害し首が上洛した経緯と、関係文書中の玄照書記・即心坊主、満政・赤松薩摩守などの人物名や記号の意味を後覧のため書き留めた覚書。
年月日未詳 / 冊子 524頁
同月晦日、薩摩守重久が鹿島を発ち、四月二日に出水へ帰着し、同月十日に水俣で相良為續と対面したことを記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 525頁
同月十五日以降、薩摩守重久と相良為續が牛屎へ進み、修理亮忠廉らと菱刈方面の軍議を行ったのち、五月一日に鹿島で参会し、忠昌の使者を介して加治木・入来院・東郷・吉田・菱刈・羽月・山野らが鹿児島へ参上した経過を記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 525~526頁
文明十七年春、伊東方の山東・飫肥方面への進発と長雨・兵粮難、薩摩守重久・修理亮忠廉らによる都城方面の軍勢催促を記し、さらに竹田法印昭慶の医療と出陣をめぐる忠昌・伊東祐国・伊作式部太輔らの応酬を載せる長文譜記事。
年月日未詳 / 冊子 526~528頁
伊東方の飫肥進発と長雨・兵粮難、竹田法印昭慶の医療をめぐるやり取りを詳述する『文明記』記事。薩摩守重久・修理亮忠廉ら薩摩方が進軍して合戦を重ね、島津忠昌は鹿児島から船で出発し敷根へ着陣した。軍勢移動、補給、医療を含む長期戦の実態を示す。
年月日未詳 / 冊子 528~529頁
六月十三日、島津忠昌が末吉へ到着し、薩摩守重久・匠作・北郷讃岐守らと軍議した後、北郷方面へ先勢を派遣した経過を記す。諸将が伊東方の進出を迎撃し、複数の陣で攻防を重ねて敵を退け、北郷領の防備を回復した。
年月日未詳 / 冊子 529~531頁
同月二十日、島津忠昌方が飫肥の稲荷田に陣を構え、地形と伊東方の敵陣を見定めて諸隊を配置した合戦記事。薩摩守重久、北郷讃岐守、匠作、伊集院・入来院・新納諸勢が逆谷・河原方面で激戦を展開する。隊ごとの参戦者と多数の討死者を列挙し、戦場の配置と損害を詳述する。
年月日未詳 / 冊子 535頁
太守島津忠昌の帰陣後、祁答院方の帰属と処遇をめぐって薩摩守・修理亮らが評議した経過を記す。祁答院側には旧領から退去して福島へ移居させる一方、吉松を給付する案が示された。八月十五日、忠昌は谷山へ渡って諸将を召集し、条件不履行に備えた祁答院への発向を協議した。
年月日未詳 / 冊子 537頁
同月二十四日、薩摩守・修理亮・右衛門祐がそれぞれ帰陣したことを記す。
(寛永八年)八月十一日 / 冊子 227頁
薩摩守から徳川秀忠の不例を知らされ、さらに報告が届けば参府する覚悟で日向に船の手配を命じたと述べる。異変はなく早く快気するものと見込み、薩摩守からの続報を待つとして、老中四名に披露を依頼した島津家久の書状案。
(寛永八年)八月十二日 / 冊子 227頁
長く音信が途絶えていることを詫び、薩摩守に対する土井利勝の懇情を折々に聞いていると伝える。いずれ対面して詳しく申し述べるとして、まず使者に託した島津家久の書状。
(寛永八年)九月十日 / 冊子 232~233頁
徳川秀忠の不例を受け、薩摩守が家久の再参府準備を上聞に達したことに触れる。秀忠は日ごとに快方へ向かい食事も平常どおりなので、当面の参勤を延期する判断はもっともだと伝えた酒井忠勝の書状。
(寛永八年)九月十一日 / 冊子 232~233頁
松平薩摩守が寛永八年四月朔日に四位侍従へ任じられたものの口宣の手続が延引しているため、同年月日付で口宣を整えるよう侍奏へ申し入れてほしいと依頼した三名連署書状の写。
四月十七日 / 冊子 181頁
中時が機嫌よく出立し内匠も同行したこと、大隅も道中無事で先方へ着いて賑やかに過ごしているだろうと伝え、薩摩守の到着も朝夕待っているとした女性の仮名書状。当地にも変事はなく、もしもが成長しているので安心するよう述べた。
年月日未詳 / 冊子 531~533頁
同月二十日、飫肥の武多・稲荷田周辺で島津忠昌方と伊東方が近接して布陣した戦闘を記す『文明記』。北郷・伊集院・入来院・新納など各隊が地形を利用して突入と退却を繰り返し、多数の討死者を出した。翌日に軍勢が逆谷へ移陣するまでを追い、前線の変化を具体的に示す。
延徳二年二月廿日 / 冊子 547頁
延徳二年二月二十日の犬追物手組について、島津忠昌以下の参加者名と射た犬の疋数を一覧にした記録。
延徳二年二月廿一日 / 冊子 548頁
延徳二年二月二十一日の犬追物手組を記し、島津忠昌以下の参加者と各人の成績を疋数で示した一覧。
天正十一年四月二十六日~五月二十日 / 冊子 757頁
田尻氏が執事らへ、四月二十六日に龍造寺隆信の陣へ向かって合戦し、筑川の兵五十余人を討って勝利したのは薩摩の守兵が奮戦したためであると報じ、その書状が五月二十日に薩摩へ届いた記事。
(寛文元年)閏八月廿五日 / 冊子 443頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0954
稲葉正則・阿部忠秋・松平信綱・酒井忠清が松平薩摩守へ、水戸中納言徳川頼房の死去を聞いて驚き、公方の様子を伺う使者を遣わした旨の書状を受けたと返答する。入念の段は上聞すると伝える。
〔寛文七年〕九月廿六日 / 冊子 538頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1223
尾張大納言義直が松平薩摩守へ、右兵衛督(光友傍注)の所への輿入れについて、祝儀の使者と三種三荷を贈られたことを喜び、詳しくは後の便りの折に述べると返答する。
(元禄八年)十二月十五日 / 冊子 942頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2578
大久保忠朝が松平薩摩守へ、蜜柑二箱と肴一種の献上があり、首尾よく披露したと伝える。
(元禄九年)八月三日 / 冊子 964~965頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2659
老中四名が松平薩摩守へ、八朔の祝儀として使者により太刀一腰・馬代黄金十両が献上され、首尾よく披露したと伝える。
元禄十二年正月十八日 / 冊子 98–99頁/整理ID 341
小笠原長重・土屋政直・戸田忠昌・阿部正武が松平薩摩守の書状を読み、公方勇健への相手の喜びをもっともとし、御暇と御馬・白銀・時服拝領、国元到着を承知したと返す。到着礼使者の目録品を披露すると、使者が御前へ召し出され、入念な礼に喜色があったと伝える。正月十八日付。
元禄十二年六月二十七日 / 冊子 131–132頁/整理ID 466
万里小路承信が松平薩摩守へ、相手の書状を門主が披見し、明王院が先頃役儀と願王院の院室を命じられたことへの礼を述べる丁寧な書面に満悦したため、その旨を心得て返答するよう命じられたと伝えた書状。
元禄十二年八月四日 / 冊子 140頁/整理ID 501
長崎奉行の丹羽長守・近藤用高が松平薩摩守へ、去月二十八日付書状を拝見し、南京唐船一艘が去年九月十四日に琉球之内大島西古見へ漂着し同月晦日に出船したという中山王の報告を承知したと返す連署状。家来衆からの詳報も承ったとする。
元禄十二年閏九月二日 / 冊子 161–162頁/整理ID 569
大西宮内卿深龍が松平薩摩守へ、有栖川宮の薨去に際して丁重な悔やみの書状を寄せられたことへ謝意を述べ、その旨を宜しく申し伝えてほしいと頼んだ書状。
元禄十二年閏九月三日 / 冊子 162頁/整理ID 571
細井勝郷が松平薩摩守へ、芝の抱屋敷の町境を留守居へ申し聞かせ差図したことを承知したとの丁重な書面を受け、その趣旨を了承した書状。今後も用命を遠慮なく伝えてほしいとする。鳥居播磨守との縁で以前から出入り・見舞いを望んだが機会がなく、今回用を命じられたことを喜ぶ。
元禄十三年三月四日 / 冊子 205–206頁/整理ID 700
平松中納言時方が松平薩摩守島津綱貴へ、愚息の四品叙任が勅許されたことへの祝賀書状と目録記載品を贈られたとして、念入りな心遣いに謝意を述べた書状。時方からも目録どおりの祝儀品を進覧すると伝える。