島津忠治書状
永正八年二月廿六日 / 冊子 599頁
島津忠治が肝付越前守に、山北・南方の軍勢動員に応じて出陣し、忠節を尽くす者を選び出すよう命じ、その功を賞すると伝えた書状。
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永正八年二月廿六日 / 冊子 599頁
島津忠治が肝付越前守に、山北・南方の軍勢動員に応じて出陣し、忠節を尽くす者を選び出すよう命じ、その功を賞すると伝えた書状。
「天文四年」十月三日 / 冊子 736頁
島津勝久が肝付越前守に、当地の衆をまとめて郡山・限城方面へ進めるよう求め、外部からの援勢も要請して今後の軍事行動を相談した書状。
二月十三日 / 冊子 756~757頁
島津勝久が肝付越前守に、舟での往来や所用、所持地の扱いについて述べ、佐藤兵部左衛門尉を派遣して相談を進めるよう求めた書状。
文月十四日 / 冊子 784頁
島津勝久が肝付越前守に、宿所の手配や使者の往来への配慮を謝し、妻子への書状送付など今後の取次を依頼した書状。
八月十一日 / 冊子 784頁
島津勝久が肝付越前守に、益房から安楽将監を遣わしたことを知らせ、急いで渡海できるよう便船の手配を求めた書状。
十月五日 / 冊子 784~785頁
島津勝久が肝付越前守に、加治木をめぐる疑義は北原方へ尋ねるよう求め、忠節を尽くした舎弟刑部少輔の遺児養育への配慮と、流言への慎重な対応を依頼した書状。
霜月十四日 / 冊子 785頁
島津勝久が肝付越前守に、益房のもとから忠朝へ使僧を派遣するため、渡船の便宜を図るよう重ねて依頼し、詳細は局から伝えるとした書状。
十二月十二日 / 冊子 785頁
島津勝久が肝付越前守に、島津家の滅亡が目前に迫る状況を訴え、この時の忠節は末永く忘れないとして、引き続き援助するよう強く求めた書状。
(天正三年)三月五日 / 冊子 430頁
進藤長治が、島津家からの使者として不断光院が下向するため書状を送ったことを肝付越前守へ知らせる。詳細は自ら説明するとし、当地で使者を厚くもてなし、島津義久へ取り成すよう依頼する。
十一月六日 / 冊子 310頁
島津忠治が肝付越前守に、世間の雑説に対して二心のない旨を起請文で明らかにしたことを神妙と評価し、今後どのような風聞があっても信用しないと誓い、八幡大菩薩・諏訪上下大明神の加護をかけて保証した書状。
三月廿四日 / 冊子 310~311頁
島津忠治が肝付越前守に、境目で長く在陣した労をねぎらい、帰陣するとのことだが今しばらく逗留して鳥取播州と相談するよう求め、委細は老者たちから伝えるとした書状。
十一月六日 / 冊子 786頁
義忠と称した島津勝久が前田四郎左衛門尉に、肝付越前守や局へのたびたびの厚意を喜び、今後も変わらぬ好意を寄せるよう依頼した書状。
十月十一日 / 冊子 276~277頁
島津勝久が、前日の使者の申し入れ、女房と鹿児島方面の事情、本田・肝付越前守らの動向、海上と船の手配について樺山助太郎へ伝えた書状。
年月日未詳 / 冊子 683~684頁
島津勝久が虎寿丸(貴久)へ国を譲った後の政変を、樺山信久の立場から記す。島津忠兼・肝付越前守らの動向、加治木・伊作・鹿児島方面の戦闘、村田越前守らとの関係を追い、信久一族が対立する勢力間で帰属を選び奉公を継続した経過を示す。
年月日未詳 / 冊子 676頁
島津勝久・虎寿丸をめぐる政局で、肝付兼演・越前守らが忠節を示し、日新(忠良)と樺山信久らが鹿児島・伊作方面で協力関係を整えたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 676頁
大永七年三月二十二日、国老の平田職宗・肝付兼演・梶原景豊・池袋宗政・村田経董らが調所恒房へ国衙領内の坪付を授けたことを記す。
寛永六年九月廿一日 / 冊子 111~113頁
樺山久高が、かつて差し出して蔵入となった所領や、その後の上地・返地・加増・移封の経緯を述べ、他家と同様の旧領返還を求めた申状。出水への召移し、二百石・八百石の加増、鹿児島への移住なども説明する。
永正18年3月吉日; 大永6年12月27日 / 冊子 340頁/原整理番号 130-25
坪付本文をいずれも「末略」とした二件の抄録。第一は永正十八年三月吉日付で、大隅国重久名十七町四反の総面積を掲げ、忠基(末弘伯耆守かとの傍注)と桑波田讃岐守景元を記す。第二は大永六年十二月二十七日付で、薩摩国市来院伊作田名一町七反の総面積を掲げ、伊地知縫殿助重周・肝付越前守兼演・本田因幡守兼親が署判し、河上山城守・河上平次郎へ渡したもの。
巻一/冊子 11~12頁
天文十八年、加治木城主肝付越前守が蒲生・渋谷勢と結び、貴久への礼を欠いたため、貴久が伊集院忠明を進ませて黒川崎に陣を築かせた。肝付方も向かいに陣を構えたが、陣中で火災が起こり、肝付・渋谷・蒲生方は動揺して北郷忠相と菱刈氏を介して降伏を求めた。貴久はこれを赦し、肝付父子・蒲生・渋谷らは清水で謁見する。島津軍が鹿児島へ戻る途中、彼らは酒肴を整えて迎え、和睦成立を祝った。続いて貴久が鹿児島へ移ったことと、天文二十一年六月十一日に従五位下藤原貴久が修理大夫へ任じられた宣旨を収める。軍事対立の解消と官位上昇を結びつけた記事である。
年月日未詳 / 冊子 52~56頁/原整理番号 50
文亀四年二月の御屋形様の正八幡宮初社参について、十四日の鹿児島出立、十五日の社参・下向などの日程を記す。河上筑前守の先うちから各方の供衆まで、殿原・中間・小者の人数、太刀・槍・弓うつぼ等の武具、服装・馬具を列挙し、末尾に惣人数三百七十一人、伊地知越後守重實と記す。冒頭には文政十年に伊集院新之允本を書写した旨の注がある。
十月十八日 / 冊子 737頁
島津勝久が肝付方に、女性をめぐる件について外聞を損なわぬよう配慮を求め、枇山殿・本田同前との調整や船の手配を依頼した書状。