板倉勝重・米津親勝連署状
(慶長十年)九月晦日 / 冊子 35頁
板倉勝重と米津親勝が島津忠恒に、先に申し入れた大船献上について江戸年寄衆から再度書状が来たため転送し、領内の商船も調査して同様に上せるよう命じた連署状。
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(慶長十年)九月晦日 / 冊子 35頁
板倉勝重と米津親勝が島津忠恒に、先に申し入れた大船献上について江戸年寄衆から再度書状が来たため転送し、領内の商船も調査して同様に上せるよう命じた連署状。
(元和三年)九月三日 / 冊子 658頁
米津田政が、将軍の上洛に伴う島津家久の京都滞留を承知し、当地に変事がないと報じ、約束の茶碗を口切に用いて満足したことを伝えた書状。
寛政元年酉四月吉日 / 冊子 1035頁/原整理番号 2797/整理ID 2797
重豪が天明七年九月朔日に薩府を発ち、同四日に出水郷米津村の仮館へ入った際、村の長吏から、昨夜の激しい風雨と雷鳴の中で東北から光が飛来し、階に天満天神の銘を持つ鏡が現れたと聞いた由来を記す。太宰府の方角からの降臨とされ、その鏡の形状・裏文を写して新たに二鏡を鋳造し、延寿王院に頼んで飛梅の枝から尊像三体を刻ませた。飛来した鏡と像一体は家に蔵め、翌年の未の月に鏡の留まった所へ新宮を建てて新鏡一面・像一体を安置し、米津天神と称した。府城内にも一社を建て、残る新鏡と像を奉った。太宰府から天神直筆の古帖の写を求め、神剣も模製して当宮へ納めたとし、米津村の鎮守にとどまらず三国の文明の吉祥として来由を後世へ伝える。
年月日未詳 / 冊子 35頁
板倉勝重と米津親勝が連署状を送り、大船を献上するよう重ねて催促したことを記す記事。
寛政元年酉六月朔日 / 冊子 1037・1038頁/原整理番号 2804/整理ID 2804
中将が米津天満宮へ奉納する天満宮御神刀の模製一柄、御真蹟の臨写二幅、米津天満宮由来記一通、神号一通を、袋・包み・箱とともに列記する。参詣の時だけ箱から出して飾り、内宮で真蹟を掛けることが難しければそのままとし、神刀も同様に扱うよう指示する。社司が保管し、後年に粗末な扱いをしないよう入念に護ることを命じる。六月朔日付、小林中太兵衛政央・二階堂源太夫・高橋縫殿種央の三名連署。
天明八年季冬(十二月、末尾) / 冊子 1025頁/原整理番号 2773/整理ID 2773
天明丁未の秋、東都へ向かう前太守中将が九月三日に出水郷へ宿泊した夜、郷吏が訪れて米津村での鏡拾得を報告したという由来を記す。郷吏によれば、風雨で暗い中、東北数十里の方から一条の光が飛来して地に落ち、その鏡の背に「南無天満大自在天神」の銘があったという。村の旧天満宮は久しく荒廃し、東北には筑前太宰府があるため、神の降臨と考えて社の再建を願い、中将が許したとする。翌戊申正月に着工、十一月に完成して米津天神と称した。神像は太宰府の飛梅の枝で作り、飛来鏡の周囲・形状を模した鏡を別に鋳て神座に懸け、飛来の鏡は藩主家の宝として公宮へ収めたという。命を受けた山本正誼がこの由来を記し、天神の霊験を称えて辺境と民の安寧を祈る。末尾は天明八年季冬。
寛政元年六月九日(遷宮記事、再興経緯を併記) / 冊子 1039頁/原整理番号 2807/整理ID 2807
天明丁未の秋、重豪が参府の途中に出水で天満天神の銘を持つ神鏡一面を得たことを起点に、翌年に旧跡で天満宮を再興し、十一月に完成して米津天神と称した経緯を記す。伊東丹治祐久・西郷休太郎盛次を祠官とし、同郷の幸善寺に別当職を兼ねさせ、府学教授山本正誼に由来の撰文・石刻を命じた。重豪自筆の由来記と神号、太刀一腰、菅公の墨帖の臨写二冊を社内へ納め、六月九日に遷宮を行い、当番頭鎌田蔵人正方を遣わして黄金二百疋を献じた。祭日は毎年二月二十五日と九月四日とする。
文化11年10月(年は目録)。再造は天明戊申冬と記す / 冊子 447頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1385
重豪公御譜中。先に天明戊申の冬、封内出水郷で米津天神社(出水注)を再造したことを述べ、今冬10月に田禄を「十五石貳斗九舛三合七夕五撮」として天神領に定めたと記す。年は目録文化11年。社の再建と今回の田禄設定を分け、原数量の細単位夕・撮まで保持する。重豪の意によるという末尾を採録し、天明年号の年数、田の地番・面積や収穫実績を外部から補わない。米津の原名称を目録の米ノ津と照合しても本文表記を無注で変更しない。
二月三日 / 冊子 60~61頁/原整理番号 90
川上久国・三原重庸が米津の市来八左衛門宗友へ、黄門様の快方と薩州様の着船遅延を報じる。出水へ向かう道筋は祁答院筋より宿泊・休息所を確保しやすい川内筋がよいとの相談、道・宿・船・兵糧・台所の準備、御供衆が一万四、五千人ほどになる場合の米の確保について協議を求める。
康安元年七月廿日 / 冊子 442~446頁/原整理番号 248
諸国へ下向した上使からの問いに対する返答記事。九州各地への移動、出水から米津江への行程、栗野・岩城などの城と守備、物資や人数の手配、城攻めの経緯を記す。
宝永元年九月二十五日 / 冊子 506頁/整理ID 1768
吉貴公御譜中に、九月二十五日付で修理大夫が、病死した松平薩摩守の遺骸を棺に納め乗物で江戸から薩州鹿児島福昌寺へ送るため、箱根・今切両関所を滞りなく通す手形を求めた証状を載せる。遺骸について難儀があれば自分方へ知らせてほしいと述べる。
十月朔日 / 冊子 414頁/原整理番号 206
島原へ差し出した人数の内訳。内衆とその夫などの人数を列挙し、日数を付けた総計も記す。
(寛永十五年)二月廿八日 / 冊子 763頁
寛永十五年正月、北郷家臣の津曲狩野介兼業・古垣四郎右衛門忠興ら三百人が先手として出水・米津へ進み、原城落城を聞いて帰陣したことを記す。二月二十三日の島津家久死去後、島津光久が江戸に留守の間、久直が分国中の諸役人へ下知を加える任を命じられたとする譜記事。
元禄十七年三月十日 / 冊子 469頁/整理ID 1627
島津綱貴が三度目の参勤のため三月十日に発国し、一族島津久健、家老川上久重、用人野村廣貫・平田純旨・諏方兼秩らを伴った記事。十三日に出水米津で乗船し、十七日に肥前国寺井川へ着き、陸路で十九日に豊前国大里へ到着して再び乗船、二十八日に大坂へ着船した。
宝永七年八月 / 冊子 910–911頁/整理ID 2968
八月の諸国巡見上使小田切駿負〈原注直廣〉・土屋数馬〈喬直〉・永井監物〈白弘〉の道中記事。家老島津中務久貫、用人黒葛原忠雄・町田忠堯、医師印東玄桂らが応接した。八日肥後川尻で田代安徹の子福良頼廣が謁見し、九日水俣、十日領内米津へ入境。阿久根・宮之城・加治木・金山・石原を経て十六日鹿児島着、十七日は風雨で滞留し、平川・喜入・指宿福良・山川を回り、二十一日に船で大隅大始良へ渡った。池之原・志布志・末吉を経て二十五日著寺柱、二十六日峯の境から伊東領へ出た。
年月日未詳 / 冊子 670~677頁/原整理番号 683
島原へ向かう軍衆が飯米を受け取るために提出した人数差出を写し留めた帳簿。諸士・各地域衆ごとに主従、人躰、夫丸、小者等の人数と正月の出発・米津などへの到着日を記し、飯米渡しの根拠とする。末尾では不足者や指出のない者、張紙に記した有馬在陣の外城衆を含めて集計し、合人数三千百六十八人を掲げる。
年月日未詳 / 冊子 677~678頁/原整理番号 684
外城から島原方面へ動員され、米津から召し帰された軍衆の人数をまとめた指出留。全体の合人数二千九百二十一人を掲げ、上津浦・加世田・有馬詰をはじめ各地域の衆について、人躰・夫丸などの内訳と小計を記録する。
年月日未詳 / 冊子 678~680頁/原整理番号 685
島原軍衆の人数差出を留めた帳簿で、諸士・各衆中ごとに主従、人躰、夫丸などの人数を記し、正月中旬の米津到着と飯米支給を照合する。途中に合人数・内訳を掲げ、米津への到着が遅れた者や前帳に記載のない者を別に書き留め、日々の到着人数を整理する。
年月日未詳 / 冊子 680頁/原整理番号 686
十二日、西方から米津まで十里を進み、十三日は談合と諸法度の申渡しに時間を要したため逗留した旨を記す行程記事。
年月日未詳 / 冊子 682頁/原整理番号 691
北郷久加世が自分の人数をそろえ、都合四百六十七人を召し連れて同月十三日に出水郡米津へ到着したことを記す。役人・軍政や留守中の地域支配に触れ、出兵準備と在国統治の状況を述べる。
年月日未詳 / 冊子 694頁/原整理番号 724
寛永十四年十一月の島原城籠城を受け、翌年正月十四日に津曲狩野介兼業・古垣四郎右衛門忠興が先駆として兵三百人を率い、薩州出水米津に到ったと記す。島原没落を聞いて帰陣したと結ぶ。原文の翌年干支表記には疑義があるため、そのまま注記する。
年月日未詳 / 冊子 694~699頁/原整理番号 725
村田市助家蔵本による、正月十三・十四日頃の島原出陣軍衆の人数と飯米処理の記録。川内百次・高城・中郷、阿多、恒吉、須木、水引、松山などの衆および個々の家の主従・人躰・小者・夫丸、到着日、米津・市来湊の兵糧支給や返上を列記する。合人数1799人を人躰550人・内之者1249人とし、別に鹿児島衆254人(人躰90人)、他者夫丸964人を記す。末尾には十四日の追加到着・出船を記し、十五日条へ読み継ぐよう注記する。
年月日未詳 / 冊子 712~713頁/原整理番号 746
正月十六日を中心とする島原軍衆の人数差出留。前日到着の本田らの主従人数、始良衆・佐多衆・新納らの軍衆と夫丸、乗船勤務・到着地を記し、頴娃御蔵からの米受領、各人への米支給を注記する。季安は以後を十七日条へ分けたと説明し、十六日に米津へ到着した二階堂家中・敷根・福山・須木の人数を追記する。
(寛永15年)正月17日 / 冊子 729頁/原整理番号 759
加久藤衆の島原立人数として人躰五十人、内衆四十二人等を記し、残る二十九人を伊地知弥右衛門ら十一名の人数に分けて列記する。十七日夜に米津へ到着したので飯米を引き渡してほしいと求める。伊地知杢右衛門尉から村田郷左衛門尉・猪俣猪右衛門尉宛。副本は加久藤地頭役屋に所在すると注記する。
年月日未詳 / 冊子 733~736頁/原整理番号 772
正月十七日を中心に米津へ到着した各郷の軍勢を、人躰・卒者・小者・夫丸・玉薬持夫に分けて記す。都之城八十人と小者夫丸七十一人、吉松三十人と夫丸四十二人、栗野七十人と夫丸三十一人、国分八十五人と卒者夫丸百三十四人などを載せ、人物別の負担人数も列記する。後半には十八日条へ分載する旨を注し、十七日到着の大姶良・頴娃・飯野・高原・小林・清水・蒲生・高山などの士と従者を続ける。
年月日未詳 / 冊子 755頁/原整理番号 795
十九日、飯野士の谷口大蔵卿・柏木縫殿助の供夫二人が米津へ到着したと記す短い記事。前の人数帳にある飯野衆の後着者を補う。
年月日未詳 / 冊子 764頁/原整理番号 815
市来八左衛門宗友を中取、岩切信尭・川上久康を物奉行、平田宗直・是枝快温を船奉行として米津に詰めさせたことを記す。川越三右衛門重能は京泊に詰め、舟手・兵糧を担当する。この日、高原士某が供夫一人を伴い米津に到着したと付記する。
(寛永15年)正月21日 / 冊子 767頁/原整理番号 819-1
人躰十四人、夫丸五人、合主従十九人が出水米津へ赴くことに伴い、その飯米を手形の内から引き除いて確かに受け取ったとする覚。有馬・堀・東郷の三名が連署し、西田・榎田・山口へ宛てる。後日のための受取証明として作成された。
年月日未詳 / 冊子 161~162頁/原整理番号 285
伊地知季安の記事。喜入摂津守忠政に従軍した加世田衆の仁礼佐渡守忠頼らが三分一の帰衆としてこの日上津浦を出帆した。また、使衆との取次のため出水米津へ出張していた蒲生地頭市来八左衛門宗友も加勢を命じられ、この日米津を発船して有馬へ向かった。松下源五左衛門らは蒲生勢の集結を待ち、翌日の出船を準備したという。
年月日未詳 / 冊子 178頁/原整理番号 302
伊地知季安の記事。市来八左衛門宗友、蒲生地頭所の松下源五左衛門らが、前日の二十二日に米津浦を出船し、この日に有馬へ着船したと記す。
年月日未詳 / 冊子 195~196頁/原整理番号 318-2
外城衆等を区分した人数帳。米津から召し帰された衆は合計二千九百二十一人で、人躰千六百四十三人と夫丸千二百七十八人(内訳合計二千九百二十一人)。上津浦衆は原記載で合計二千七百八十一人、人躰千八百六十六人、夫丸九百五十七人と見え、内訳合計は二千八百二十三人となって一致せず、傍記もある。有馬へ詰める衆は合計欄に二千五百六十人とある一方、「廿七人」の傍記があり、人躰千五百五十八人と夫丸・倅者九百六十九人の内訳合計は二千五百二十七人で、318-1の記載とも一致する。鹿児島衆の上津浦・有馬分は合計三千百五十六人で、人躰二百五十人、御道具衆四十九人、倅者・夫丸二千八百五十七人(内訳合計三千百五十六人)。各区分に属する外城名も列記する。原記載の合計・内訳・傍記の不一致は計算だけで統一しない。
年月日未詳 / 冊子 365頁/原整理番号 431
小原織部の取払帳は、三月四日に真米一斗五升と赤米一斗五升を先掻で受け、三月七日から十日まで主従十五人分の引飯米としたこと、米合計十石四斗三升八合の先掻・前掻別および米種別内訳を記す。伊地知重政の在陣中、地頭所加久藤・羽月での持留、出水の米津・天草の上津浦・有馬で主従三十五人から漸減した兵糧だとの編者注を付し、同四日の小鯛等の買物と米之津宿賃も記録する。
年月日未詳 / 冊子 376頁/原整理番号 472
本文見出し『蒲生書留』は、上津浦村に三日逗留し、三月十四日に出船、天草の火之嶋に掛かって一夜を明かし、翌日に出水米津へ着いたと記す。上文は七日、下文は十六日にあるとの所在注を伴う。
年月日未詳 / 冊子 377頁/原整理番号 480
蒲生谷口氏の書留は、三月十六日に出水米津を発ち、同十七日に蒲生へ帰着したと記す。上文は十四日にあるとの所在注を伴う。
慶長5年9月15日、寛永15年1月13日・2月28日、貞享5年6月12日ほか / 冊子 277~278頁/原整理番号 108
上世不詳とする上原丹後守を祖とし、丹後守が日新公に仕えたのち中書家久に臣従し、日州佐土原で二百五十石を与えられたことから始まる上原氏系図。長野下総守の長男で上原家に入った佐太右衛門は慶長五年九月十五日の関ヶ原合戦で二十五歳で戦死し、法名を節義玄忠禅定門とする。尚辰は島津豊久に従って戦い、豊久戦死後に本城へ移り、寛永十五年正月十三日にわずか三人で米津へ至り、二月二十八日の島原で軍功を立てたと記す。後裔には傳左衛門尚堯、薬丸如水門下で示現流に関わり貞享五年六月十二日に能学寺で自殺した佐太右衛門尉、仁禮仁左衛門景治の二男である尚照らを掲げ、奉公・知行・戦死・養子の由緒を伝える。
(寛永十五年)正月十三日 / 冊子 733頁
島原軍勢へ渡す飯米に関する人数指出の写し。人数七十六人、そのうち夫丸十八人、乗馬一疋とし、新納次郎四郎が加わる場合は別に指出を提出すると記す。
年月日未詳 / 冊子 712頁/原整理番号 743
貴理師旦の一揆に際し、正月十五日に蒲生衆が出水米津へ参着し、二十八日に帰宿したと記す。末尾に十六日庚辰とあるほか、十九日条への参照注を付す。
年月日未詳 / 冊子 752~755頁/原整理番号 794
村田市助家蔵の模本から、三原喜太郎・里村十左衛門や谷山・加治木・財部・末吉・大崎・志布志・頴娃・指宿・飯野・高原などの人躰、卒者・夫丸、個人別の随伴人数と着津日を記す。飯米は十日または二十日分を渡し、長嶋ふくら蔵元と米津で分けて支給する例もある。末吉衆中の検見崎兼堯について、家系・移住と島原出陣時の行動を元禄七年の系図申出により補注する。末尾は二十三日条へ続く旨の注。