島津玄仲契状
応永十五年十月十九日 / 冊子 230頁
島津玄仲が祁答院山城守へ、天下が変転しても一味同心し、大事の際に見捨てず、讒言や凶害による疑いは直接問いただすと神々に誓った契状。
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応永十五年十月十九日 / 冊子 230頁
島津玄仲が祁答院山城守へ、天下が変転しても一味同心し、大事の際に見捨てず、讒言や凶害による疑いは直接問いただすと神々に誓った契状。
応永廿一年六月廿三日 / 冊子 289頁
久豊公御譜中に掲げられ、祁答院右近重永所蔵の正文と注記される島津久豊宛行状。本文内容は掲載されず、宛行対象は確認できない。
「大永五年」二月八日 / 冊子 651頁
祁答院嵐浦が島津忠朝に、以前の命令への対応、北原久兼・金吾らとの連絡、鹿児島周辺の情勢について報告した書状。
天文十八年十二月七日 / 冊子 885頁
祁答院良重が和融の仲介と守護、相互の信頼を誓い、梵天・帝釈や諸神の罰を掲げて違背しないことを誓約した起請文。
年月日未詳 / 冊子 512頁
三か国の騒動が続くなか、島津忠昌の病を機に祁答院・北原らが出仕を停止した経過を記す。入来院・東郷・吉田・菱刈と同盟して守護方に背き、修理亮忠廉にも加勢を求めたが拒絶された。忠昌の統率力低下から反守護同盟が形成された過程を示す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 514~516頁
文明十七年正月以降、島津忠昌方と伊作・北原・祁答院・入来院・伊集院など諸勢の同盟・離反を追う国史記事。鹿児島方面を含む各城への出兵、包囲、救援、和議交渉が長期に続き、忠廉・国久・北郷敏久・樺山長久らの帰属変化が戦況を左右した経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 516~517頁
鹿児島をめぐる雑説と対立が収まらず、島津相模守忠幸・薩摩守重久らが参越して拠点を築いた経過を記す。祁答院・北原長門守・菱刈孫三郎方と緊張が高まり、築城・軍勢配置と使者交渉を繰り返して、武力衝突を避けながら鹿児島支配を調整した。
年月日未詳 / 冊子 518頁
『文明記』が文明十七年の弓箭合戦の次第を記す。薩州勢が伊良山で勝利した後、祁答院・伊牟田など各地で戦闘が続き、北原長門守・菱刈孫三郎・新納越前守らをめぐる交渉と退去が進んだ。戦場の推移と諸勢力の帰属変更を連続して伝える。
年月日未詳 / 冊子 519頁
文明十七年二月一日、祁答院勢が水引城と東郷・高城方面を攻め、守護方が籠城して反撃し、攻城側を川内宮内へ退却させた経過を記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 520頁
同日、加治木右衛門佐が横川から祁答院へ出軍して合戦となったが敗れ、一族の次民部少輔・彦二郎・鍋倉五郎らが討死した経過を記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 520~521頁
二月一日以降、祁答院・東郷方が鹿児島へ進攻した戦況を記す。水引城、市来、伊集院周辺で島津忠昌方と攻防を重ね、村田肥前守・吉田治部少輔らが援軍を送った。城の奪還と再占領、部隊の退却を繰り返し、薩摩中央部の戦線が拡大した経過を追う。
年月日未詳 / 冊子 522頁
同月二十一日、祁答院方の計略により東郷右馬允が帖佐から退き、その子松法師丸が立てられたことを記す譜記事。
(大永六年)八月廿一日 / 冊子 667頁
隈江匡久が山田安藝守に、蒲生・祁答院・北郷・本田方の動向、御屋形衆と祁答院勢の二度の合戦と損害、白清水からの注進などを伝えた書状。
年月日未詳 / 冊子 696~697頁
享禄二年正月、祁答院重武が帖佐本城・新城を陥れた事件を起点に、島津忠相・本田董親・樺山幸久らと新納忠勝・祁答院方が戦った経過を記す。城の奪回をめぐる攻防で島津忠幸らが戦死し、帖佐周辺の支配が動揺したことを伝える。
年月日未詳 / 冊子 697頁
享禄二年正月二十二日、祁答院重武が帖佐本城・新城を奪い、翌日に山田城も陥れたため、勝久方が攻め返して加治木を確保したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 697頁
享禄二年正月二十二日に祁答院重武が帖佐本城・新城を奪い、翌日に山田城を攻め落としたが、その後祁答院・蒲生方が加治木で敗れたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 707~708頁
享禄三年、本田氏と祁答院氏らの軍勢が郡城・高城方面で交戦し、北郷忠相方が救援・防戦にあたった経緯を記す。
年月日未詳 / 冊子 710頁
天文元年前後の高城をめぐる島津忠朝・忠相方と伊東・北原・祁答院・本田諸氏の争いをまとめた国史記事。各氏の系譜を参照しながら、城の守備、援軍の派遣、攻撃と退却を追い、日向・大隅境界で複数勢力が結び付きと対立を変えた経過を示す。
年月日未詳 / 冊子 796~797頁
天文十年、北郷・伊地知・廻・敷根・上井・蒲生・祁答院諸勢が生別府へ進軍した戦闘を樺山玄佐が記す。城方との攻防、敵兵の討取り、味方の戦死を列挙し、損害を出しながら守備兵を配置して城と交通路の防備を維持した経過を伝える。
年月日未詳 / 冊子 912~913頁
『島津貴久譜』が、天文二十三年に大隅国加治木・帖佐周辺で蒲生・祁答院・肝付方との対立が深まった経過を記す。島津貴久が諸方へ動員を命じ、敵方の城と交通路を押さえるため軍勢を進め、岩剣城を含む戦線形成へ至った。
年月日未詳 / 冊子 918~919頁
箕輪伊賀の覚書が、岩剣合戦を中心に、蒲生・祁答院方との交渉が決裂して戦闘へ移る過程を記す。加治木・清水・帖佐方面での陣替え、使者・援軍の往来、放火・鉄砲を伴う連日の攻防を、箕輪伊賀の見聞に即してまとめる。
年月日未詳 / 冊子 920頁
『調所恒房伝』が、天文二十三年八月以後、調所恒房が貴久方として蒲生・祁答院方と戦った経過を記す。網懸川・清水・宮内・姫城方面へ出陣し、城兵の動向を探りながら攻防・警固を重ねた働きと、各地の戦線が連動した状況を伝える。
年月日未詳 / 冊子 920~921頁
『貴久公記』が、天文二十三年の加治木・帖佐・岩剣方面における蒲生・祁答院方との戦争を記す。貴久方諸勢の集結、陣所の移動、城兵の出撃への迎撃、使者を介した交渉を追い、攻城と退陣を重ねながら包囲を進めた経過をまとめる。
年月日未詳 / 冊子 48頁
弘治三年四月十五日に北村の菱刈陣を攻め崩し、菱刈・祁答院・真幸・東郷・蒲生方に多数の戦死者が出たこと、同月十九日に蒲生城が明け渡されたことを記す。
永禄十二年五月廿五日~七月十四日 / 冊子 221頁
永禄十二年五月二十五日、祁答院長野城を攻め、守兵の激しい抵抗を受けた。比志島氏・鎌田政年らが奮戦し、仲俊坊・貴島源五郎・税所宮内少輔ら多数が戦死したが、各隊が死を顧みず攻めて勝利した。蒲生境でも敵数十人を討ったため伊東方は恐れ、七月十四日に飯野桶比良陣を捨てて退却した。
永禄十二年十二月廿八日~永禄十三年正月五日 / 冊子 222頁
川内方面を島津方へ入れるため、鎌田政年・宮原景種・猿渡大炊入道が密談し、東郷重尚を通じて入来院・祁答院を味方へ誘った経過を記す。永禄十二年十二月二十八日に訴願させ、翌永禄十三年正月五日の帰順につなげた。
永禄十二年十二月廿八日~永禄十三年正月五日 / 冊子 224頁
真幸・菱刈が征服され、相良氏も多くの兵を失って退いたため、渋谷一党は孤立を悟った。鎌田政年・宮原景種・猿渡大炊入道が東郷重尚を説得し、祁答院能重・入来院重豊も同心して忠節を申し入れた。永禄十二年十二月二十八日の訴願を受け、前科を許して各氏には居城だけを残し、その他の領地を差し出させた。
永禄十二年閏五月十七日 / 冊子 225頁
島津貴久が樺山兵部太輔に、境目の警固に長く尽力していることを賞した書状。遠方のため音信を欠いたことを詫び、祁答院長野城攻めでたびたび合戦して粉骨した働きは比類なく、率いた人々の働きも含めて感賞すると伝える。
天正二年八月一日 / 冊子 342頁
天正二年八月一日、入来院重豊の使者村尾蔵人が祝詞と太刀を東郷氏に次いで献上しようとしたところ、島津家老衆が東郷・祁答院・入来院は同姓で序列に上下を付けるべきでなく、東郷氏の次は禰寝氏とすべきだとしたため、使者が承服せず帰った経緯を記す。
年月日未詳 / 冊子 586頁
豊臣秀吉が、九州征伐時に参礼せず祁答院で行軍を妨げたとして島津歳久を逆心と見なし、検使の細川幽斎に討伐を命じた経緯を義久譜に記す。 歳久が祁答院から竜ヶ水方面へ退き、病身のまま少数の家臣と追手を迎え撃った末に死に至るまでを述べ、豊臣政権への服属と島津家内部の悲劇が交差する記事である。
八月廿九日 / 冊子 841-842頁
島津惟新が忠恒へ、弓箭の時節で人手が減ったため、伊集院忠真旧臣や祁答院の百姓・流浪者を召し抱え、離散防止の誓紙を出させたと報じる。助九から忠恒側の様子を聞いたこと、忠恒の上洛をめぐる世評を案じ、友賢に占わせた結果と心構えを記した書付を送ることなどを伝えた。
慶長十一年六月吉日 / 冊子 79頁
池田出雲守が、帖佐・山田・蒲生の支配経緯と年数を記した覚書。帖佐・山田が祁答院から、のち鹿児島から直接支配されたこと、蒲生の支配年数、平田氏が代々地頭職を務めたことを述べる。
年月日不詳 / 冊子 116頁
渋谷氏が鹿児島へ参仕した際の座配を書き立てた文書。忠隆公の御代における主居・客居の配置を示し、入来院・伊地知・高城・祁答院・東郷・樺山・北郷など各家の席次を図示する。
八月廿八日 / 冊子 133頁
限江匡久(正久)が山田安藝守に、蒲生衆・祁答院衆の働きを賞し、北原・伊作方などの動向と城中の警固、祁答院衆と御屋形衆の合戦・死傷状況を伝えた書状。神水を用いた結束にも触れ、情勢に即した対応を求める。
十二月二日 / 冊子 147頁
入来院重次が入来院尾州の人々に、本名字の回復について祁答院播磨守を頼み、一書を得て本意を遂げたことへの謝意を述べた書状。源左衛門尉の一門となったことを老齢の身の満足とし、礼が遅れたことを詫びる。
十一月二日 / 冊子 272頁
No.623と同文のため本文が省略された島津忠治書状。祁答院重実および綱津・京泊の知行境をめぐる状況を尋ね、世間の動向に注意し、詳細は年寄衆から申し入れるとした内容。
十一月二日 / 冊子 273頁
島津忠治が、祁答院重実と綱津・京泊の知行境の状況を尋ね、世間の動向に注意するよう促し、三か国における相手の立場を頼み、詳細は年寄衆から伝えるとした書状。
十二月廿一日 / 冊子 273頁
No.623と同文のため本文が省略された島津忠治書状。祁答院重実と綱津・京泊の知行境、世間の動向、年寄衆による伝達を扱う。
八月廿四日 / 冊子 273頁
No.623と同文のため本文が省略された島津忠治書状。祁答院重実と綱津・京泊の知行境、世間の動向、年寄衆による伝達を扱う。
正月廿日 / 冊子 273頁
No.623と同文のため本文が省略された島津忠治書状。祁答院重実と綱津・京泊の知行境、世間の動向、年寄衆による伝達を扱う。
十一月二日 / 冊子 311頁
本文はNo.623と同文のため省略されている。No.623によれば、島津忠治が、祁答院重実と綱津・京泊の知行境の状況を尋ね、世間の動向に注意するよう促し、三か国における相手の立場を頼み、詳細は年寄衆から伝えるとした書状。
十一月二日 / 冊子 311頁
本文は「全上」とされ、No.716と同じくNo.623と同文のため省略されている。No.623によれば、島津忠治が、祁答院重実と綱津・京泊の知行境の状況を尋ね、世間の動向に注意するよう促し、三か国における相手の立場を頼み、詳細は年寄衆から伝えるとした書状。
十一月廿四日 / 冊子 312頁
本文はNo.623と同文のため省略されている。No.623によれば、島津忠治が、祁答院重実と綱津・京泊の知行境の状況を尋ね、世間の動向に注意するよう促し、三か国における相手の立場を頼み、詳細は年寄衆から伝えるとした書状。ただし目録の年月日は十一月廿四日で、参照先No.623の十一月二日とは一致しない。
永禄ノ初年五月朔日 / 冊子 349頁
島津貴久が又三郎へ、入来院をめぐる交渉と河内の明渡し、東郷・祁答院・菱刈・相良・北原・蒲生・肝付らの動向を詳述した書状。加世田への報告を求め、各勢力との調略・出頭・奉公をどう進めるか判断を促す。
年月日未詳 / 冊子 698頁
享禄二年正月二十二日の帖佐新城攻防で伊地知重辰らが戦死したことを、村田氏系図など複数の系譜記事を引いて考証する。
年月日未詳 / 冊子 708頁
本田方が郡城を奪回しようと攻めたため北郷忠相が援兵を送り、城兵とともに撃退したこと、その後の西城・屏涯などの攻防を記す。
年月日未詳 / 冊子 866頁
曽於郡の領有と守備、本田董親の島津貴久への背反、清水城降伏後に忠相領内へ移った経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 556~557頁
島津実久の子女と婚姻、将軍から偏諱を受けて陽久・義利から義虎へ改名した経緯、忠継が大田忠綱の養子となったことなどを記した薩州家系図抄。
元弘三年十一月十日 / 冊子 619~620頁
祁答院と入来院の境界をめぐる相論について、渋谷重棟・重利が連署した去状。野・河床・中木庭村などの帰属を問題とし、正安三年の下知に従って地を渡したこと、当知行地以外へ争いを広げないこと、後日の違乱を禁じることを定める。
年月日未詳 / 冊子 517頁
文明十七年正月十二日、一揆方との対面と修理亮忠廉の返答から、和議・契約をめぐる往復を記す。伊集院氏、北原長門守、菱刈孫三郎、祁答院氏らとの調整後、島津忠昌方は帖佐平山へ進発し、都城・鹿児島方面の情勢へ対応した。交渉から軍事行動への転換を示す。