有馬直純書状
(寛永八年)七月十日 / 冊子 217頁
家久の無事帰国を祝うため使者を送り、取り成しを頼むとともに、忠興へ太刀一腰と馬代銀三枚を進上した。有馬丹波守に口上を含ませた有馬直純の書状。
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(寛永八年)七月十日 / 冊子 217頁
家久の無事帰国を祝うため使者を送り、取り成しを頼むとともに、忠興へ太刀一腰と馬代銀三枚を進上した。有馬丹波守に口上を含ませた有馬直純の書状。
(寛永八年)八月十六日 / 冊子 227~228頁
島津家久が無事に帰国したことを祝い、取り成しを頼む。忠興自身にも祝儀として太刀と馬代銀三枚を進上し、詳しくは使者から伝えるとした有馬直純の書状。
(寛永十一年)十月十八日 / 冊子 452~453頁
有馬直純が島津久慶の書状と、太刀一腰・馬代銀三枚の贈答に謝意を表した書状。島津家久が冬中に上洛するとの意向を聞き、自身も都合を整えて上洛したいと述べ、家久への礼の取り次ぎを頼む。
(寛永十三年)十一月廿日 / 冊子 561頁
中納言家久の病状を尋ね、久志本式部少輔の薬で快気することを願う。病中にも使者を送り、見事な馬二疋を贈られたことを厚く謝し、秘蔵すると述べた有馬直純の書状。
正月二日 / 冊子 326頁
新年を祝い、中納言家久へ使者を立てたので取次を頼み、島津弾正にも祝儀のしるしとして太刀一腰と馬代銀一枚を贈った有馬直純書状。
(寛永十三年)十一月八日 / 冊子 560頁
中納言の使者を通じて薩摩の馬二疋と巻物三端を贈られ、病中にもかかわらず配慮されたことを謝す。久志本式部少輔の下向による早い快気を願い、さらに七島の鰹節一箱を贈られた遠路の厚意にも感謝した書状。
(寛永十三年)十一月廿日 / 冊子 561~562頁
中納言家久の病状を尋ね、久志本式部少輔の薬による快気を願う。中納言へ直接書状を送るのは負担になるとして下野守へ飛札を送り、病中の使者と馬二疋の贈答に謝意を表した書状。
(寛永十四年)十二月廿八日 / 冊子 721頁
書状と小袖五つを受け取った礼を述べ、家久の健康を気遣う。使者や関係者を介した連絡についても報告した書状。
寛永14年12月28日 / 冊子 506~507頁/原整理番号 518
有馬直純が島津家久へ送った書状。島津弾正大弼の使者と懇書に謝し、遠路の召出し、当地での御座、帰宅の予定などを報ずる。島原での情勢や延引の事情を述べ、在所の子蔵人へ使者を下されたことにも謝意を示す。
寛永十五年正月晦日 / 冊子 40~42頁/原整理番号 57-2
有馬直純・康純が連署して定めた軍中法度。軍法と大将・物頭の下知への服従、隊列維持、独断行動・油断・無届の鉄砲発砲・馬の放置を禁じ、使番・物見・近習頭・騎馬・足軽・弓・長柄の者の任務、武器の備え、旗の統制を規定する。さらに陣屋での喧嘩・狼藉・押買・濫伐、火の不始末を禁じ、陣屋の清掃、逃亡者の捕縛・届出、小屋留守番、小者の作法を命じる。
二月五日 / 冊子 73頁/原整理番号 114-2
島津久賀・喜入忠政が永左近允蘇右衛門直純・竹内備前守へ、崎之津の舟番は不要となったので上津浦側へ帰るよう重ねて命じる。崎之津近くの二島を先の指示どおり狩り、早く来るよう求める。『かう袮』の佐州老・石州老からも帰還命令の書状が出たと伝える。
宝暦八年四月十九日 / 冊子 672~673頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2016
宝暦八年四月十九日、忠洪が老中奉書を受け、熨斗目・長袴を着して登城し、黒書院で将軍父子に初めて拝謁した記事。幼少のため、一族島津淡路守久柄を同伴者に選んだが、当日は西城の親戚松平越中定賢が同伴したという注がある。家重へ太刀一腰・縮緬十巻・白銀二十枚・馬一匹、家治へ太刀一腰・白銀二十枚・馬一匹を献上した。家治への奏者は黒田大和守直純、取次の用番老中は本多伯耆守正珍。忠洪は三下段へ入り、初席へ退いて上意を受け、平伏して退出した。続いて家臣一族島津若狭久定、家老樺山左京久倫・島津主鈴久郷・高橋縫殿種壽が、各々家重へ太刀一腰・馬代銀一枚・縮緬五巻、家治へ太刀一腰・馬代銀一枚を献上した。番頭名越左源太恒篤らと、用人澁谷喜三左衛門貫通・宮之原甚五太夫通直・諏訪甚兵衛兼方・小林中太兵衛政央が、各々家重へ太刀一腰・馬代銀一枚・縮緬三巻、家治へ太刀一腰・馬代銀一枚を献上して台顔に拝謁し、金森頼錦・水野忠見が奏者を務めた。幼少の忠洪に代わり家臣九人が襲封の恩を謝したことは、通常の元服後の家臣拝謁と異なる旨の注がある。忠洪はさらに西城大広間へ登り、松平周防守康福に拝謁して前件を謝し、家臣九人も西城で礼を述べた。その後桜田邸で休息し、老中・側用人・若年寄の各位へ礼を述べ、先例に従い白銀十枚を献上した。また本営の老女へ各白銀二枚、表使女へ各一枚を贈った。出典は重豪公御譜。
年月日未詳 / 冊子 73頁/原整理番号 114-1
伊地知季安の記事。永左近允蘇右衛門直純・竹内備前守実らは崎之津で舟番を務めていた。北郷久加・入来院重国が番を解いて上津浦へ来るよう命じても来なかったため、島津久賀・喜入忠政が再度召し、近隣の二島を狩るよう命じた。
年月日未詳 / 冊子 82~94頁/原整理番号 19
藤原鎌足・冬嗣から長良・良房・基経らを経て長谷場氏へ至る祖系と、薩摩・大隅・日向に展開した諸流を記す長大な系図。鹿児島郡司・弁済使・取納使、東福寺城・市来城・飫肥・櫛間・有馬等の所領・城地、建武期の足利尊氏による安堵、島津元久への東福寺城・長谷場屋敷の引渡しと清水移居、福昌寺創建、市来移住などを叙述する。近世部分では渋谷・伊東・大友・菱刈・豊後・庄内などの諸合戦、岩屋城・高城・小林城・大口・泗川等での軍功・討死、家督・養子・婚姻・法名・地頭職を列記する。実純の朝鮮出陣・泗川戦、琉球への武具奉行派遣、大坂陣、万治二年の琉球押奉行、松山・真幸・吉田地頭歴までを収め、末尾は純堯の女子四人と婚姻先を記して終わる。
年月日未詳 / 冊子 297~298頁/原整理番号 337-2
『藤掛集書』所載の、原城落城に伴う二月二十七・二十八日の寄手側手負・討死人数覚。細川越中守忠利、黒田右衛門佐忠之、黒田甲斐守直澄、同市正高政、鍋島信濃守勝茂、有馬玄蕃守豊氏、立花飛騨守宗茂、松倉長門守勝家、小笠原右近大夫忠真・同信濃守長次、水野日向守勝成、有馬左衛門佐直純、寺沢兵庫頭忠高、戸田左門氏鉄、松平伊豆守信綱らについて手負・討死を列挙する。末尾は都合7,970余人、内訳を手負6,820余人・討死1,150余人とし、内訳和は総数と一致する。335-2・336-3の集計とは数値・範囲が異なるため統合しない。