長寿院盛淳書状
(文禄元年)4月11日 / 冊子 542頁
長寿院盛淳が、島津義久の上洛中、神前で毎日油断なく祈祷するよう二之宮隠岐守へ伝えた書状。祓についても怠りなく行い、何か不足や問題があれば事前に知らせるよう求める。
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(文禄元年)4月11日 / 冊子 542頁
長寿院盛淳が、島津義久の上洛中、神前で毎日油断なく祈祷するよう二之宮隠岐守へ伝えた書状。祓についても怠りなく行い、何か不足や問題があれば事前に知らせるよう求める。
天正20年12月19日 / 冊子 617~618頁
薩州山川の正龍寺領について、長田・西之俣・冷水ヶ坂・山畑など各所の田地を列挙した寺領目録。 鎌田政近・町田久倍・長寿院盛淳らが連署し、寺領の所在地と面積を公的に確認した基礎史料。
文禄2年5月29日 / 冊子 701~703頁
薩摩国内の諸所に散在する田畠・屋敷を、地名、旧給人、面積ごとに列挙して長谷場越前守へ与えた領知目録。 中原・岩崎・畠田・柳原・長野田・横手屋敷など多数の土地をまとめ、長寿院盛淳・町田久倍・鎌田政近が連署して給付内容を確定している。
文禄3年3月18日 / 冊子 771~772頁
長寿院盛淳が島津家への奉公と龍伯への忠節を誓い、縁者・親類であっても贔屓せず法に従って処断すると約束する。家中への賞罰は独断せず、上意を受けて相談の上で決定することも明記する。 誓約に偽りがあれば梵天・帝釈・日本六十余州の大小神祇などの罰を受けると誓った、領国統治の原則を示す起請文。
文禄五年九月廿六日 / 冊子 47~48頁
長寿院盛淳・伊集院下野入道幸侃・鎌田出雲守政近が石田治部少輔へ、石火矢五挺を進上し、その内訳として払火矢一挺、幸侃より石火矢二挺、抱節より一挺と記した連署文書。
慶長二年六月二日 / 冊子 104~106頁
長寿院盛淳と上井里兼が連署し、本田助丞に薩州入来院裏谷内の屋敷・田畠を充行った知行目録。各地の上田・中田・下田・畠を面積と石高別に列挙し、合計を示す。
慶長三年五月十二日 / 冊子 209~210頁
長寿院盛淳が、薩州入来院の蔵野村における領地について作成し、松下甚五右衛門に宛てた領知目録。
天正21年正月17日 / 冊子 664頁
大隅国正八幡領のうち加治木にある浮免分七十一石四斗八升六合三勺について、四十五石の請負として定める。風害・干害・水損があっても収納を果たす一方、満作の年でも四十五石を超えて徴収しないと取り決める。 検地で田畠・山林などが確認されてもこの条件を変えないと保証しており、年貢請負額を固定して双方の負担限度を明確にした連署状。
文禄2年2月7日 / 冊子 668~669頁
薩州隈城内の城岡之門をはじめ、屋敷・田畠・山畑などの所在と面積を列挙して長谷場越前守へ与えた領知目録。 新知三十石に九石一斗を加え、先知行と合わせて六十石の役を勤める条件で付与したことを明記する。三奉行が連署し、給付地の内訳と軍役負担を結び付けた家臣知行文書。
文禄2年2月21日 / 冊子 674~675頁
八幡新田宮の宝殿造立を願い、島津義久・義弘・久保の息災延命、子孫繁昌、心身の勇健、領国の安泰を祈願する。 願いが速やかに成就するよう神前に誠を尽くすことを誓った立願状で、朝鮮出兵期の島津一族の安全と家運を寺社造営に結び付けている。
文禄2年2月21日 / 冊子 675頁
八幡新田宮へ終夜灯二灯を寄進し、島津義久・義弘・久保が今回のさまざまな災難を退け、武運長久と国家安全を得られるよう祈る。 神の憐れみと納受によって安穏泰平となることを願った寄進状で、No.1070の宝殿造立願と対になる具体的な奉納内容を示す。
文禄2年3月26日 / 冊子 679頁
日向国蓬原内の市園屋敷・新開・とものきれ・道下などの土地を、面積ごとに列挙して鹿屋周防介へ与えた領知目録。 屋敷・畠を合わせた給付地の内訳を示し、一部を「御加恩」、残りを寄替として処理している。土地の所在と面積を具体的に確認できる家臣知行文書。
文禄2年3月23日 / 冊子 679頁
薩摩国田布施内の深溝・川野先にある浮免一反を二宮掃部助へ与えた領知目録。島津義久(竜伯)の上洛中、二宮が諏訪大明神へ毎日参詣した忠節により畠一反を与えられ、その後、田方へ所替した経緯を記す。 単なる面積記録ではなく、祈願奉仕への恩賞と土地交換の履歴まで伝える史料。
年月日未詳 / 冊子 681頁
本文はNo.853と同文であるとして『旧記抄』で省略されている。 この箇所だけでは用件や宛先を再確認できないため、内容の特定にはNo.853との照合が必要となる参照記事。
文禄2年9月25日 / 冊子 739~740頁
石田三成が名護屋へ着岸し、翌日に大坂へ上る予定を知らせる。相手方の病が快方に向かい帰国したことを喜ぶ一方、又一郎久保の急死を思いがけない悲事として悼む。 義弘も京都にいると聞くため、三成の弔意を義弘へ伝えるよう依頼した書状。
天正20年12月20日 / 冊子 619頁
隅州蒲生のうち、山畑・加か山・みやの前・堂の脇・谷河つるなどの田地を列挙した領知目録。 島津義久の袖判と町田久倍・鎌田政近・長寿院盛淳の確認を伴い、蒲生地域の知行地構成を詳細に示す。
文禄2年5月28日 / 冊子 700~701頁
薩摩国大口内の「かつけの門」ほか多数の田畠を、地名・旧給人・面積ごとに列挙し、合計四町九反余を濱田民部左衛門尉へ与えた領知目録。 島津義久が袖判を加え、長寿院盛淳・町田久倍・鎌田政近が連署しており、大口地域の土地配分と給付規模を具体的に確認できる。
文禄2年9月26日 / 冊子 740頁
鎌田政近・伊集院抱節・長寿院盛淳が、石田三成へ石火矢五十挺を進上することを記した連署覚書。内訳として幸侃から二挺、抱節から一挺など、各人の負担分を明記する。 朝鮮在陣期の火器調達と、島津家臣から三成への軍需品提供の実態を示す。
文禄3年6月20日 / 冊子 790頁
義久が忠恒へ、長寿院盛淳と喜入大炊助の間が不和だとの世評を伝え、両者が深い神文を取り交わそうとしている件を内密に知らせる。御法度に照らして神文は不適切だと、問われた際には厳しく答えるつもりだという。 書状は他言無用と念押しされ、島津家中の人間関係と誓約行為への警戒を率直に示す義久自筆の密書。
(文禄五年)九月十七日 / 冊子 47頁
石田三成が島津義弘へ、帰国の報を喜び、吉田美作・白浜次郎左衛門・福崎新兵衛尉の加増は竜伯と相談して扶助するのがもっともだと伝えた書状。長寿院盛淳への讒訴に注意して糺明すること、朝鮮在陣や度々の上洛で辛労した奉公人にも加増することを求める。
慶長三年六月廿四日 / 冊子 217頁
長寿院盛淳が正宮の仮殿造営用材について作成した切符。長さ一丈四尺・幅四寸・厚さ二寸の貫三十五丁、長さ六尺五寸・幅一尺・厚さ六分の加屋板百二十枚(うち二十枚は長さ八尺五寸)、長さ九尺・口五寸の大床三本を指定する。
年月日未詳 / 冊子 621-624頁
慶長五年九月十五日の関ヶ原合戦を中心に、島津豊久・長寿院盛淳をはじめ島津勢の戦死者・殉死者を多数列挙する殉国者名簿である。九月十八日・二十三日、十月四日・二十三日など後続の日付の戦死者も追記し、各人の実名・役職・家臣や従者、戦死地・法名等を注記する。
年月日未詳 / 冊子 701-704頁
十九歳の井上主膳は長寿院盛淳に従って関ヶ原へ赴き、敵陣が連なる美濃路を少人数で突破して九月十三日に島津義弘(惟新)の陣へ到着した。合戦では盛淳が義弘の名代として太閤拝領の羽織を着け、後衛に残って敵中へ突入した。主膳は側近くで戦って深手を負い、盛淳の最期を直接は見られなかったが、のち京都・南都を経て帰国した。
天正20年12月28日 / 冊子 619頁
薩州郡答院のうち、黒木・一かへの園門など七反五畝余を指宿左近兵衛尉へ宛行った領知目録。 村田先の土地として地名・面積を記し、郡答院における家臣知行の具体的な配分を確認できる。
(文禄2年)5月18日 / 冊子 693~694頁
国元からの報告が途絶えていることを案じ、拝領した御朱印・条書が届いていないため、所在を探して早急に送るよう命じる。鹿児島の普請が中止されず続いていることを問題視し、関係者を処罰して工事を止めるよう求める。 さらに三奉行・明使の帰朝に伴う船の手配、在陣者の帰国、兵粮と人員配置にも触れた、島津義久から国元重臣への多岐にわたる指示書。
文禄2年8月2日 / 冊子 713~714頁
諏訪大明神の神事費用を、元日祭礼、三月三日・七月七日・九月九日の神楽、春秋彼岸、月々の神楽、御明油に分けて計上する。 座主・香花役・鐘突・掃除役・代官など社役の人数と、仏供・明油・先師供に充てる寺役分も記した、神社運営の具体的な収支・役務一覧。
年月日未詳 / 冊子 215~217頁
島津又八郎の上洛に伴い、京都で諸方へ進上した礼物と支出を列記した覚書。治部少輔・幽斎老ら武家、公家・寺社・家臣・職人など多数の相手ごとに、銀子、鉄砲、刀、鳥目、紙、扇、衣類、食品等の品目・数量・代銀を記し、饗応の振舞も含めて上洛時の贈答と費用を整理している。
天正20年12月28日 / 冊子 620~621頁
薩州田布施のうち、内侍先・濱田・日置町などにある浮免田を列挙し、阿多掃部介へ宛行った領知目録。 島津義久の袖判に加えて比志島国貞・町田久倍・長寿院盛淳らが確認し、複数地点に分散した知行地の構成を示す。
天正20年12月29日(本文:雪月29日) / 冊子 265~266頁/原整理番号 107-4
天正二十年十二月二十九日、鎌田出雲守政近・伊集院下野入道抱節・比志島紀伊守国貞・町田出羽守久倍・長寿院盛淳の五名が連署し、上原筑前守へ宛てた文書の断簡。紙の接合部分が離れて上文を失い、下文だけが残ったとの注記があり、現存部分には年月日、五名の署名・花押、宛所しか残らないため、具体的な用件は判明しない。本文欠損そのものと、前後の知行文書と同じ上原筑前守宛であることが特徴である。
年未詳6月11日(付属記事:文禄5年・同年12月2日) / 冊子 266~267頁/原整理番号 107-5
年未詳六月十一日、長寿院盛淳(署名は長寿)が上原筑前守へ、ある人物は師匠以来奉公し、上様の祈念などを命じられてきたため、平僧並みでも通常の寺家でもなく、知行の配分を含む相応の処遇を受けるべきだと伝え、老衆らとの談合を求めた書状。対象者名や知行内容の一部は原文の空格・欠字により確定できない。付属する上原氏系譜記事は、尚氏が島津義久の春山での狩猟に近侍して功を立て、鉄炮三挺と兼光の御長刀を賜ったが、尚毅の代に江戸邸で両品を盗まれたと記す。文禄五年、豊臣秀吉の命による城邑移転で義久が麑府から富隈へ移ると尚氏も従い、四十九石九斗二升五合を加増されて旧領と合わせ百石となり、十二月二日に伊集院幸侃から目録を受けた。内訳は大口郡山村二十九石九斗八升一勺一才、横河上乃村十九石九斗四升四合八勺九才、曽於郡重久村五十石七升五合である。
年月日未詳 / 冊子 653~659頁
文禄初年、新納忠元が渡海軍の編成、兵糧・船舶の調達、留守役や家臣の派遣に奔走し、島津義久・義弘の命を受けて軍務を支えた経過を編年で記す。 船不足や家臣間の利害対立、讒言・虚偽の訴えによる処分、逆徒への対応など、朝鮮出兵期の島津家中に生じた深刻な混乱も詳述する。 忠元の忠節と軍功が最終的に認められ、後世に「薩摩の武蔵」と称された根拠を示す、戦功顕彰と名誉回復の性格を持つ長編記録。
慶長三年七月四日 / 冊子 220~221頁
河上益右衛門尉・白坂助七郎が、本田助丞・富山清右衛門尉に宛てて出した請取状。「高麗御見次」の長寿調分として、銀子五百目を二包のまま、御振舞道具を種々納めた長櫃一合を受け取ったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 672-683頁
新納忠元の勲功記から、慶長五年の庄内合戦終結、伊集院忠真の降伏、上杉征討、岐阜城・竹ヶ鼻での石田三成方の敗北、関ヶ原本戦と島津義弘(惟新)の敵中突破・退却、大坂の夫人方救出と海路帰国を詳述する。帰国後の稲津掃部の動きや伊東方への備え、肥後の加藤清正への警戒、大口の地頭職と千石加増までを時系列に記録する。
年月日不記(慶長五年・寛永十四年・寛文十一年などは各代の記事) / 冊子 647~649頁/原整理番号 118
源姓畠山氏の頼国・盛淳から始まる略系図。盛淳は大乗院盛久の弟子として出家し、還俗後は家老職を務めて蒲生の地を賜った。慶長五年の関ヶ原合戦で西軍が敗れ島津義弘が危機に陥ると、盛淳が義弘の身代わりとなって戦死したと記す。子の忠栄は父の戦死時に三歳で、義久の許しにより祖父頼国の家財・田園を継ぎ、琉球奉行・山奉行・物奉行・横目頭を歴任した。後代には肝付家出身の忠朝が忠栄の婿養子として家を継ぎ、島津光久の十五男を後嗣とする別伝も記す。義方が詩文五冊を伝えたことや女子の婚姻、国張らに至る子孫も載せる。
巻六/冊子 86~88頁
関ヶ原合戦で義弘が石田三成方に属し、敗戦後に敵中突破して帰国した経過を記す。義弘は本来、家康と秀頼への忠節・相互不害を誓う起請文を交わし、伏見城を守ろうとしたが、鳥居元忠・内藤家長に入城を拒まれ、身を守るためやむなく石田方へ加わったと弁明される。九月十五日の関ヶ原では小早川勢の寝返りで西軍が崩れ、島津勢は二百人に満たない小勢となった。正面突破の退却で島津豊久が身代わりとなって戦死し、阿多盛淳も義弘を名乗って敵を引き受ける。川上忠兄弟らは追撃する赤備えの将を鉄砲で落馬させ、義弘を近江・伊勢・伊賀・大和・河内から住吉・大坂へ逃す。大坂では義久の娘、忠恒の母ら人質を船に乗せ、薩摩へ帰還した。西軍加担を義弘の本意ではないと説明しつつ、退き口での家臣の犠牲と武勇を顕彰する記事である。
正月17日 / 冊子 664頁
文書番号の直下には「案文」とのみ記され、前掲No.1043が肝付中将側の証状案であることを示す短い注記。 独立した本文は収録されておらず、正八幡領加治木の浮免分・四十五石定請に関する具体的内容はNo.1043と目録表題から確認する必要がある。