島津義弘書状
三月八日 / 冊子 142頁
島津義弘が新納狩野介に対し、今月中に参陣するよう伝えていたが、現地の軍事行動が延期されたため渡海もいったん延ばすと知らせた書状。出陣準備を整えて報告を待ち、指示が届き次第、油断なく渡海するよう命じる。
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三月八日 / 冊子 142頁
島津義弘が新納狩野介に対し、今月中に参陣するよう伝えていたが、現地の軍事行動が延期されたため渡海もいったん延ばすと知らせた書状。出陣準備を整えて報告を待ち、指示が届き次第、油断なく渡海するよう命じる。
十二月十三日 / 冊子 306頁
島津義弘が、新納狩野介の長期にわたる辛労をねぎらい、諸船が勝手に走らないよう差配することを第一とするよう命じる。国元から立ち添えられた人数が着岸するはずなので、人数を受け取ったなら一日も休ませず直ちにこちらへ参らせるよう指示し、油断を戒める。
慶長六年正月九日 / 冊子 741頁
佐多忠充が、関ヶ原合戦で命を顧みず主君を守護した狩野介の忠節と働きを称え、田畠五石を当毛とともに与え、今後も忠勤に励むよう命じた感状。
(慶長十四年)六月十六日 / 冊子 222~223頁
六月十六日、新納為舟が吉加江狩野介入道に、琉球へ兵船を渡して全島を服属させ、国王以下数百人を連行したことを知らせたうえ、早々に下向するよう求め、古田織部から茶湯の作法を少しでも学んでくるよう依頼した書状。
七月六日 / 冊子 33~34頁
賦所が、諸士と従者の人数、夫役、船数、乗船地、飯米の受領方法を定めて平田狩野介・上原源右衛門尉へ達した文書。如瀬浦・名護浦へ移動し、山田主計助の指示で乗船すること、三枚帆三艘への割付や三日分の飯米を用意することなどを命じる。
十二月十三日 / 冊子 80頁
長期在陣の辛労をねぎらい、配下が逃亡しないよう工夫することを最重要とし、国元から着岸する増援を船元で一日も休ませず即刻こちらへ進ませるよう命じた書状。
十二月十三日 / 冊子 603頁
長期在陣の辛労をねぎらい、配下の逃亡防止を最重要とし、国元から着岸する増援を休ませず即刻進ませるよう命じた島津義弘書状。No.180と同文のため本文では省略される。
三月八日 / 冊子 603頁
今月中の参陣予定を聞いていたが、戦働きが延期されたため、まず参陣を延ばして出陣準備を整え、こちらからの注進を待ち、その時には油断なく渡海するよう命じた島津義弘書状。
永禄八年三月二十四日・五月朔日 / 冊子 139頁
永禄八年三月二十四日および五月朔日の戦死者を掲げた交名。吉満善左衛門久張、日置狩野介忠光、財部武蔵守盛慰らの名を伝える。
永禄九年三月五日・四月廿七日・六月十六日・八月十六日 / 冊子 146頁
永禄九年の戦死者を月日別に掲げた交名抄。三月五日、四月二十七日、六月十六日、八月十六日の各戦闘で亡くなった篠河左衛門兵衛、蓑輪狩野介重親、久木崎丹後、野村助三郎経長らを列記する。
元亀元年正月五日 / 冊子 231頁
永禄十三年正月五日、新納伊勢守が隈城を受け取り、入来院氏が百次・平佐・高江・宮里・天辰・碇山を、東郷氏が水引・中郷・湯田・西方・高城を差し出した。清敷と東郷を両家に残し、宮里を平田狩野介、川向こうの諸地と山野城を義虎へ与えた。評定後、貴久は加世田へ、義久は鹿児島へ帰還した。
元亀元年正月 / 冊子 232頁
元亀元年、渋谷党が押領地を差し出して降参したため、義久が罪を許し領地を再編した。隈城を新納伊勢守に受け取らせ、入来院・東郷両氏には清敷・東郷を残した。宮里を平田狩野介、高城・水引・中郷・西方・京泊を義虎へ与え、家久を隈城地頭に任じた。
元亀元年正月 / 冊子 241頁
本文はNo.536と同文のため省略される譜中記事。元亀元年の渋谷党降参後、隈城以下の所領を再配分し、家久を隈城地頭、義虎・平田狩野介らを各地の領主とした内容に当たる。
天正九年八月 / 冊子 695~696頁
天正九年八月の水俣攻めで戦死した島津方将士を掲げる殉国者記事。宮原狩野介景明、切通左馬允、島津出羽守らの名を記す。
年月日未詳 / 冊子 269頁
島津家久が府内に留まり豊後半国を掌握したものの、諸将の抵抗と兵糧不足で進退に窮したため、樺山忠助を三重の松尾城へ退かせた記事。天正十五年正月十八日、忠助が府内から三重へ到着し、新納縫殿助・平田狩野介らと守備に当たった経過を記す。
文禄4年6月28日 / 冊子 892頁
米良勝右衛門尉が、高城左京亮・新納狩野介の承知事項や、高麗で久保が借り上げた銀子の処理、上地田数、延命寺分、太平寺への付分などを石高別に列挙した差出。 総石高を三百二十九石二斗七升一合、そのうち上地分を七十四石七斗九升三合と算出する。朝鮮出兵時の貸借を在地の土地・寺社領勘定へ組み込んだ経過が分かる史料である。
年月日未詳 / 冊子 427頁
『児玉氏乳後利昌譜』が、慶長四年の庄内の乱で、島津義久が富隈から平田狩野介宗応に兵を率いさせ、成渡瀬の守備へ派遣したこと、児玉実相・新納忠陸・平田宗次・吉田清家らが備えたこと、忠恒の帰国後の親征と八月十七・十八日の使者・檄の往来を記す。
年月日未詳 / 冊子 589頁
慶長五年十月、太田飛騨守の豊後の居城へ関東方が攻め寄せるとの情報を得たため、島津忠恒(家久)が多野村狩野介・本田新介に歩卒数十人を付けて使者として派遣した際の書付と考えられる、と本田親孚が記す。
十二月三日 / 冊子 30~31頁
新納忠元が、頼って来ていた者を園田狩野介方へ返す件について回答した書状。使者を通じて相談した内容に相違はなく、園田狩野介へ連絡して帰すと伝え、狩野介が留守だったため返事が遅れたことを詫びる。
四月廿六日 / 冊子 31頁
新納忠元が、頼って来た走者の身の振り方について鎌田玄蕃へ回答した書状。本人の進退と行末をよく確かめたうえで内々に相談するよう求め、園田狩野介が祈答院へ出向いて不在のため、十分な返報ができない旨を伝える。
年月日未詳 / 冊子 269~272頁
樺山紹剣が、府内・三重・松尾城周辺での守備と進退を自身の見聞として詳述する。年越し後、敵の反攻と兵糧難が強まる中、諸将からの書状・使者を受け、各城の兵を集めるか退くかを評定した。夜間の移動、城への入退、渡河、砲撃・放火への備え、負傷者や病人、食料・宿所の確保まで記し、伊集院忠棟らとの連絡や意見対立も描く。豊後侵攻後半の島津軍が、勝敗だけでなく補給・情報・指揮系統の混乱に直面したことを伝える長文の自記である。
(寛永七年)八月七日 / 冊子 168~169頁
分国内の諸士知行物成を年内に処理する方針と、船役負担・借銀返済について協議した覚書。二千石を一単位に自船を負担し、五百石取四人の共同船では四十人乗り・十二端の船を建造、船子賃・飯米を含め銀四貫百目、石高一石につき二匁一分八厘と試算する一方、既存出銀への追加は困難とし、借銀返済を優先する方針を記す。
年未詳12月22日(付属記事:慶長4年~同6年2月3日) / 冊子 267~268頁/原整理番号 107-7
年未詳十二月二十二日、伊集院右衛門入道幸侃が平田狩野介宗應と上原源右衛門尉尚氏へ、重久名の件が持合で未解決となり各所に難しい問題が生じているため、二人で談合して処理するよう求め、詳細は追って協議すると伝えた書状。付属する由緒記事は、慶長四年に島津義久(龍伯)が尚氏を兵具奉行とし、平田宗應・三原七左衛門・川上彦左衛門らと兵具方を掌らせたため、尚氏が朝鮮出兵を免除されたと記す。前年に島津義弘・忠恒が朝鮮から帰国し、忠恒が朝鮮での功により五万石を加増され少将任官と宝刀を受けると、龍伯は国政を忠恒へ譲る意向を強め、二月に尚氏へ時雨御旗を持たせて京都の忠恒へ届けさせ、忠恒は二十日に受領して謝恩した。尚氏は初め朝鮮へ出役しなかったものの、この使者勤仕を忠恒から賞され、隅州敷根小牧門三十二石五斗・末吉深川十八石を加増された。本文は加増を五十一石と記す一方、内訳の通計を五十石五斗とし、慶長六年二月三日に比志島国貞・平田増宗・鎌田政近・島津忠長が目録を授けたとする。龍伯は尚氏の使者勤仕には百石が相当で五十石では少ないと不満を述べたとの季安按も付される。
寛永九年四月廿二日 / 冊子 262~265頁
薩摩領内の知行物成の「ならし」と船役・出銀をめぐり、平田狩野介・東郷藤兵衛尉らとの談合事項を列記した条書。五百石取四人を合わせた二千石・四十人乗り・十二端関船について、船の仕立て、加子賃・飯米を銀四貫百目(高一石につき二匁)とする試算、自船・借船・船の惣置を検討する。さらに琉球口の商売と銀調達・出銀、駒牽夫、奉公衆と非奉公衆、領主・百姓の耕作と物成不足、外城衆・江戸上落衆の扱いなどを定める。
永禄八年二月七日~五月朔日 / 冊子 140頁
永禄八年、伊東勢が板敷田に伏兵を置いて本城兵十三人を討ち、新山外屋尾・楠原へ進出した経過を記す。五月朔日に忠親方が新山外屋尾を攻め破り敵二十八人を討ち四十人を捕らえ、物具七百を得たが、味方も三十人戦死・四百八十人負傷した。
(永禄十二年頃) / 冊子 224~225頁
島津忠良(日新)に加世田で仕えた人々を列挙した交名。大田・稲富・玉利・奈良原・鹿島・河崎・指宿・中条・富松・阿多・有馬・宮原・鮫島など多数の家臣名を掲げる。後世の奥書は村田市助の写本で、日新没後に子孫が鹿児島その他へ移住した者も多いと説明する。
元亀元年春~元亀二年正月一日 / 冊子 232頁
元亀元年春、渋谷党の降参後、入来院・東郷両氏から差し出された諸地を義久が再配分し、家久を隈城地頭に任じ、串木野も与えて移住させた。翌年元旦、家久は家臣全員を甲冑姿で出仕させ、敵が祝日の油断を狙うことに備えた。
年月日未詳 / 冊子 59~69頁
上井覚兼が天正十三年六月十四日頃から七月二十八日まで、約一か月半の日々を記した日記。来客・使者・書状の往来、島津家当主・重臣への出仕、寺社参詣、連歌、酒宴、狩猟を記す一方、八城・肥後方面から届く軍報、城番や境目への人員配置、使者の派遣と返書の作成を詳しく追う。大雨・洪水、病気、馬や薬の手配、宿所での談合や酔客の振る舞いなど生活上の出来事も多い。紫波洲城への参会、八城への急使、軍事情報の聴取などが連続し、覚兼が戦時下の情報・裁許・人的交際を日常的に調整した実態を示す。
年月日未詳 / 冊子 508頁
慶長五年二月、志和池城降伏後に北郷方が山之口で戦い、家臣三名を失いながら勝利した。梶山・勝岡・山之口・高城・安永など諸城が相次いで降伏し、忠真が都城を退去したのち、竜伯・忠恒が都城へ入り、諸城を長千代丸に与え、十一歳で元服させ忠能と名乗らせた経過を記す。
(寛永八年)七月十一日 / 冊子 217~219頁
二人の使者が庄内へ赴いて御条書を北郷出雲守らに伝えた際の見聞を報告する。家中が意見を述べない状況、他地域・親類との往来制限、北郷源左衛門尉への権力集中、役人候補、讃州時代の成敗、出雲守の鹿児島移転、家中統制の誓紙などを列挙し、北郷領の閉鎖的な支配を問題視した覚書。
(寛永二十一年)七月廿一日 / 冊子 17頁/原整理番号 13
加久藤の伊地知重延ら四名が隣郷の弓削将監・野田狩野介へ、十五歳から六十歳までの百姓に狩代銀を納めさせるよう命じられた件を伝える。諸士の被官や神領の者など、以前地頭狩に出なかった者を今回は除いたが、相手方ではどう扱うかと尋ねる七月二十一日付書状である。
寛永廿一年七月廿一日 / 冊子 180~181頁/原整理番号 90
寛永二十一年七月二十一日付、加久藤の郷中から飯野の郷中への書状。十五~六十歳の百姓に対する年一度分の狩代銀の上納をめぐり、従来地頭狩に出ていなかった諸士の被官や神領の者を今回も除外してよいか、隣郷の扱いを問い合わせる。
慶長十二年閏四月廿九日 / 冊子 225~226頁/原整理番号 164
新納家に伝わる四月十九日付の書状。馬追の見物客や同行者の参会、馬の借用・調達をめぐる相談を記す。取駒のうち良い馬を与えることや、客の接待・座次にも触れる。
(寛永二十一年)九月二日 / 冊子 18~19頁/原整理番号 16
飯野の曖衆四名が隣郷の弓削将監らへ、毛検者や奉行が来る時期には互いに連絡し、手配を揃えたいと答える。あわせて白鳥山などの狩代銀について、諸士の被官の扱いと墨付を得て鹿児島へ差し出す方法を相手方に尋ねる九月二日付書状である。
「寛永十六年」八月廿六日 / 冊子 39~40頁
島津久元が国元の重臣らへ、相良狩野介が使者として江戸へ到着し、国元の無事と御前様の快復を報告したことを伝える書状。酒井忠勝・阿部忠秋らの内意を受けて進上物や祝物の注文・披露を調整し、鶴・蜜漬・硫黄などの取扱いと諸大名からの贈答について報告している。
寛永十五年二月廿九日 / 冊子 317~318頁/原整理番号 355
村尾源左衛門重候・高尾野衆南郷狩野介・出水衆宮原与左衛門が、福崎新兵衛の原城本丸での働きを実見した証文。寅二月二十八日、福崎が高さ三間ほどの本丸石垣を登り、屏を越えて敵三人と鑓を合わせ、一人を鑓下に突き伏せたのをその場で見届けたとする。寛永十五年二月二十九日付で福崎新兵衛宛。編者注は『旧記雑録後編五』二一六六号文書と同文とする。
年月日未詳 / 冊子 449頁/原整理番号 561-2
五月十八日夜、東郷喜右衛門と児玉利実は御前へ召され、御道具衆の総書立を作るよう命じられ、六月十三日に提出した。御道具衆を早く四百人に達させる旨を新納刑部少殿から家老へ申し上げ、添状を付して須田十郎兵衛の下向時に国元へ送ること、当該組分は町田勘解由・平田狩野介から受け取り写しを送ったことを記す。目録年月日は空欄である。
文禄5年12月2日(付属記事:同月22日) / 冊子 267頁/原整理番号 107-6
文禄五年十二月二日、伊集院右衛門入道幸侃が上原源右衛門尉へ、薩州大口郡山村二十九石九斗八升一勺一才、横河上乃村十九石九斗四升四合八勺九才、曽於郡重久村五十石七升五合の合計百石を配分した判物知行目録。そのうち四十九石九斗二升五合を加増分と明記し、幸侃の花押を据える。付属記事は同月二十二日、幸侃が上原尚氏と平田狩野介宗應へ書状を送り、重久名の件を協議させたと記す。
「寛永十七年」七月十一日 / 冊子 129頁
川上因幡守久国が国元の重臣らへ、高野山蓮金院から大和守島津久章が七月十日に到着したとの注進があったことを報じた書状写。一乗院も高野山に滞在しており、和州役人伊地知大蔵允に御蔵奉行衆の一人を付けて高野山へ上らせ、久章へ帰国を促すこと、なお帰国しない場合は三光院や一乗院を同道させる案を相談し、江戸へも飛脚で報告したとしている。
年月日未詳 / 冊子 198~199頁
新納氏古日記の寛永十九年六月の記事。六月三日に島津光久が日光参詣へ出発し、新納右衛門佐以下の供奉者を記すほか、六月二十八日から七月十五日頃にかけて道具衆が持ち下ったことと、御曹子島津綱久の元服に関する事項を記録する。
文禄四年六月廿八日 / 冊子 32頁/原整理番号 246
米良勝右衛門尉が、高麗での見次・引渡し、久保による銀子借上げ、上地・寺領などの石高を列挙した差出。惣都合三百三十九石二斗七升一合、うち上地七十四石七斗九升三合と集計する。文禄四年六月廿八日付。
年月日未詳 / 冊子 471頁/原整理番号 462
山田民部少輔有栄の従者六人が差副として各地頭所衆とともに獅子島警固へ向かった経過を記す。谷四郎左衛門尉重将・平田狩野介宗弘らの名を挙げ、島津勢の国境警備と、松平甚三郎の指示による平田の肥後三角派遣を述べる編者記事である。
年月日未詳 / 冊子 693~694頁/原整理番号 722
国分士本田十左衛門の日記から、正月十四日に自分たち三人が出立し、安楽休兵衛・奥原笹之允ら五人が同行、残りも翌日・翌々日には出立する予定だったことを記す。季安は三人を町田甲斐守・佐土原狩野介・本田十左衛門とし、国分衆の到着後に諸事を差配するため先に出水へ派遣されたと、六日条の記事を引いて考証する。
年月日未詳 / 冊子 694頁/原整理番号 724
寛永十四年十一月の島原城籠城を受け、翌年正月十四日に津曲狩野介兼業・古垣四郎右衛門忠興が先駆として兵三百人を率い、薩州出水米津に到ったと記す。島原没落を聞いて帰陣したと結ぶ。原文の翌年干支表記には疑義があるため、そのまま注記する。
「寛永十八年」九月廿八日 / 冊子 166~167頁
山田有栄が島原・天草一揆に際する薩摩勢の行動を時系列で記した覚書。新納加賀守らが三百人で獅子島へ渡って肥後境の下知を待ったこと、板倉内膳正重昌・石谷十蔵への使者として松橋・三角を経て有馬へ赴いたこと、正月十四日に薩摩勢が天草へ渡ったことを記す。有栄自身も松平伊豆守信綱・戸田左門氏鉄への使者として有馬へ詰め、二月二十八日の原城落城後、三月八日に帰国したとしている。
年月日未詳 / 冊子 471~472頁/原整理番号 463
『薩本島原軍記』の記事。獅子島へ出した山田民部少輔配下の人数を、天草の処置が細川越中守へ命じられたため薩摩国境まで引き取るよう上使衆から指示された経過を記す。三原左衛門佐を在陣させて隣国の用を承り、山田民部少輔を肥後三角まで遣わしたが、肥後勢が多いため加勢不要となった旨も述べる。
年月日未詳 / 冊子 703~704頁/原整理番号 733
国分士杢田十左衛門家蔵の島原出陣人数賦。町田甲斐守以下、各人の主従人数と鉄砲・鑓・弓・具足、鍬・斧などの携行品を列記する。末尾に合85人(うち18人自身立)、合134人披官と記し、杢田十左衛門景親に請うて採録したと結ぶ。
年月日未詳 / 冊子 733~736頁/原整理番号 772
正月十七日を中心に米津へ到着した各郷の軍勢を、人躰・卒者・小者・夫丸・玉薬持夫に分けて記す。都之城八十人と小者夫丸七十一人、吉松三十人と夫丸四十二人、栗野七十人と夫丸三十一人、国分八十五人と卒者夫丸百三十四人などを載せ、人物別の負担人数も列記する。後半には十八日条へ分載する旨を注し、十七日到着の大姶良・頴娃・飯野・高原・小林・清水・蒲生・高山などの士と従者を続ける。
年月日未詳 / 冊子 747頁/原整理番号 779
正月十八日を中心に、米之津へ参着した各郷の人躰・卒者・夫丸と、主だった者が連れた人数を記す。恒吉・日当山・飯野・曽木・加久藤・須木・馬関田・踊・高原・出水・山之口・小林・諏訪神・曽於郡・野尻・真幸吉田・志布志・清水・蒲生・百引・庄内高城・東郷・高岡・高山・横川・穆佐・串良・垂水・伊集院などを列記し、十日または二十日分の飯米支給を注す。高山の名簿に載る以益について白坂氏譜を引いて帰還時期を考証し、兵糧不足による減員帰還と読む。末尾は十九日条への分載と十八日着津者の補記。
九月廿八日 / 冊子 429~430頁/原整理番号 540
山田有栄は、有馬・天草のキリシタン一揆に際し、新納加賀守ら四名が三百人を率いて肥後境へ進み、十一月十五日に獅子島へ渡ったこと、その後の撤収、板倉内膳・石谷十蔵への使者、十二月十日の有馬城攻め開始、薩摩勢の渡海・在番を記す。有馬城は二月二十八日に落ち、薩摩衆が奮戦した。有栄は松平伊豆守から暇を得て三月八日に有馬を出船し帰国した。