島津義久書状案
(慶長四年)八月廿六日 / 冊子 431頁
島津義久が、庄内との往来を断つよう改めて求める。庄内側から何らかの申し分があったかを尋ね、源次郎から相手へ送られた封書を封じたまま転送してくれたことを重要な配慮として謝す。内容を披見したうえで相談し、福島衆や椛山権右衛門との間でも疎意なく誓紙を交わしているので、今後も連携するよう伝える書状案である。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
31 件 (全巻)/ 1–31件を表示
ページ 1 / 1
(慶長四年)八月廿六日 / 冊子 431頁
島津義久が、庄内との往来を断つよう改めて求める。庄内側から何らかの申し分があったかを尋ね、源次郎から相手へ送られた封書を封じたまま転送してくれたことを重要な配慮として謝す。内容を披見したうえで相談し、福島衆や椛山権右衛門との間でも疎意なく誓紙を交わしているので、今後も連携するよう伝える書状案である。
慶長十一年五月二日 / 冊子 72~73頁
伊集院抱節・山田理安が連署した、財部内の知行地割目録。蒲興禅寺内などの田地を田位・面積・石高ごとに示し、仲兵衛・五郎右衛門・権右衛門・助六・伝右衛門・源太・弥六左衛門らへ割り付ける。総高二十三石九斗余と、ほかに高山へ遣す七石余を記し、二口を合計する。
(慶長四年)十二月二日 / 冊子 471頁
島津義久(龍伯)が又八郎に、奥方へ召し仕える人衆の選定と配置を相談する。先に鹿児島へ召し置いた者をまず任用し、不足分を浜之市などから補うよう求め、選定を一人の分別だけに任せることへ異議を示す。十人の書立から五、六人を今の衆へ加えて二番替とし、鹿児島へ置く小者二十人の書立からも三、四人を送るよう望む。在伏見の体裁が悪く迷惑しているため、出陣中ながら人員整備を急ぐ事情を述べる。
二月十九日 / 冊子 154頁/原整理番号 274
坂本権右衛門・伊地知喜左衛門が川崎織部佑へ、蒲生衆が島原へ渡海する際の乗船に関して届けた二月十九日付文書。冒頭には欠損を示す「キレナシ」がある。
寛永十五年三月廿六日 / 冊子 244頁/原整理番号 333-30
二月二十七日、後藤権右衛門が、本丸先手へ撤退命令を伝えたが退かなかったため城東の石垣に取り付き、鉄砲で敵を退かせてそのまま乗り込んだ経過を御吟味奉行衆へ申し出たもの。海手からの一番乗りは都甲太兵衛・池永源太夫・自身の三人で、両人を証人とする。城内で敵一人を討ち取り鼻を取り、多田十右衛門・難波右衛門を証人に挙げた後、小林半郎と御旗本へ戻ったと述べる。
(元禄八年カ)六月七日 / 冊子 76~77頁/原整理番号 334
寛永十九年五月八日夜、本田兵右衛門の屋敷へ中尾仁左衛門・同千兵衛父子が切り入り、家人や近隣者を巻き込んで死傷・放火・追跡に至った事件について、本田権右衛門と春田喜左衛門が関係者の年齢、負傷、死亡、その後の聞き取りを記して本田兵右衛門へ提出した届書。(元禄八年カ)六月七日付。
享保十九年正月二十一日以降 / 冊子 238~239頁/整理ID 600
吉宗の御鷹で捕らえた鶴が宿継で鹿児島へ届き、島津継豊が拝領したのち、野村権右衛門を礼使として江戸へ派遣し献上・拝謁を行わせた経過を記す。
明和七年三月十六日 / 冊子 248頁/原整理番号 664/整理ID 664
於綾の縁組願書を差し出す日は江戸方から知らせるはずと去る十三日に伝えたが、御守殿から来る二十七日に提出するのがよいとの指図があったと知らせる。参勤の礼をまだ申し上げていないうちでも願書を受け取ってもらえるかを、相手方と松平右近将監・板倉佐渡守へ内々に確かめ、差支えないと聞いたので、二十七日に願書を提出する予定だとする。甘露寺家へ横山権右衛門から伝え、必ず同日に願書を差し出すよう申し越す件等が別紙のとおり届いたという。京都の事情が先に知らせた内容と異なった場合は、於綾出立の日限を内々に定めておくこと、それでももはや仕向けが整ったなら延引なく出立するよう申し上げ、手当も首尾よく整えることを求める。別紙を添え極急飛脚で送る。三月十六日付、年は明和七年の朱注、樺山左京・嶋津左中の二署と喜入主馬殿・小松帯刀殿・川田伊織殿宛を備える。
明和七年三月二十七日 / 冊子 249~250頁/原整理番号 668/整理ID 668
於綾を御前様に立てる件で、浄岸院様の使者澁谷半左衛門の勤めが済み、甘露寺家の返答一通が届いたことは先便のとおりとする。使いの際に直接返答があり、別紙写のとおりの請書を半左衛門へ渡したと記す。縁組願書提出や旅中の通路等は、細かなこともすべてこちらで取り計らう意向で、別紙の条書を渡して知らせる。於綾の京都からの出立に関し、表向きは甘露寺家の取計らいとなり、道中は甘露寺家の娘として通行したい旨があるため、伏見の横山権右衛門に言い含め内談したところ、意向どおり表向きは相手方の取計らいとするとの返答書が届いた。甘露寺家の娘として江戸へ下ることは決まったので、本日の便で二階堂源太夫へ知らせたと報告する。詳細は国元から源太夫へ知らせること、御守殿へは半左衛門が着いた際に申し上げる予定であることを記し、別紙四通を添えて御女中様方へ伝えるよう求める。三月二十七日付、年は明和七年の朱注、樺山左京・嶋津左中の二署と喜入主馬殿・小松帯刀殿・川田伊織殿宛を備える。控の正文は家老座にあるという。
年月日未詳 / 冊子 242頁/原整理番号 333-28
本丸での軍功者を記した記事。歩行使番都合太兵衛は塀の破口から乗り込み、一番乗りと名乗り、一揆と組み合って押さえ首を取り、これを本丸の一番首とする。池永源太夫は槍で一揆を突いて負傷し、後藤権右衛門は一揆を斬り伏せて首二つを取ったという。さらに足軽十人として山内五兵衛・平井十兵衛・岩尾数右衛門・齋藤庄蔵・品川六兵衛・志賀安之丞・村上弥左衛門・加藤安太夫・速水忠兵衛・江口弥左衛門を列記する。
年月日未詳 / 冊子 384頁/原整理番号 488
伊地知季安は、この月、松平伊豆守・戸田左門の手帖により、皆吉長右衛門の弟芦塚権右衛門が北郷式部のもとにいるとの情報を受け、捕縛に赴くよう命じられたと記す。
年月日未詳 / 冊子 164~165頁/原整理番号 508
伊勢豊松内の肝付権左衛門家系図。肝付豊前兼隆の三番目の弟で、初め権右衛門、のち七郎右衛門を称した人物を祖とする。七歳の時に肝付落城に遭って出家し、十四、五歳で還俗して伊勢兵部の家来となり、その後も奉公を続けた由緒を記す。以下、権之助・権左衛門・堅右衛門・権右衛門・文十郎らの分岐と母方・婚姻を列記する。
(慶應元年)四月廿七日 / 冊子 571~572頁/原整理番号 7
蓑田長胤が季安に、中路権右衛門の取調書付と草稿一冊が御前から下げ渡されたことを知らせる。沙汰について直接伝えたいので、当日中に自宅へ来るよう求める。伊地知宛・要詞と記した封紙の写しが付く。
年月日未詳 / 冊子 527頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1186
北郷佐渡久加譜中の記事。寛文七年正月三日、光久は幼年とする又三郎延久(十八歳との注)の後見・指南を久加へ命じた。病気隠居中の久加は再三固辞したが、命を辞しきれず五月十五日に平佐を発ち武陽へ赴任し、大嶺少兵衛安親・弟子丸権右衛門盛張らが随従した。七月五日に江府で光久の使者相良吉右衛門・桂杢之助を介して覚書を頂戴した。又三郎の側での相談・守役の仰出を掲げ、末尾に前出二通を略すとする。
天保十年二月五日~五月三日 / 冊子 34頁/原整理番号 42/整理ID 42
天保十年二月五日、島津斉興が上使河野権右衛門を通じて御鷹の鶴を拝領した記事。十三日には太田備後守、大御所側の土井大炊頭、右大将側の堀田備中守を上使とする例年どおりの品々を賜り、十五日に登城して謝意を述べ、懇命と例年どおりの馬を賜った。三月六日に江戸を発ち、五月三日午上刻に鹿児島城へ着いたことまで記す。本文は大御所を家慶公、右大将を家定公と記すが、この人名表示の比定は留保する。
年月日未詳 / 冊子 324~325頁/原整理番号 172
始良氏の家事と奉公を記した事書。慶長八年二月十四日に猪俣則康が鹿児島へ戻った後に生まれたと記し、寛永七年八月から御船手奉行所を勤め、寛永十二年五月には家久の供で江戸へ上った。進物蔵役に任じられたが帰国予定のため蔵役を免ぜられ、野元権右衛門と交替して奉公したという。慶長十八年・元和六年・寛永九年・萬治二年の新次郎・三郎兵衛・十郎兵衛への俸禄も列挙する。
年月日未詳 / 冊子 415~417頁/原整理番号 380
「天草立衆」として出兵者の氏名を列記し、鉄砲・鑓(やり)・弓・鉄放などの武器種や、談合衆・印の記載を各人に添えた人数書上。国分佐左衛門・平峯郷兵衛・濱田右京丸から、荒武丹波守・神崎左近允・稲留藤右衛門・篠原城之介まで名簿が続く。郷別人数の集計ではなく個人名と武器種・付記の対応を記す。
寛永18年2月吉日 / 冊子 602~603頁/原整理番号 657
島原出陣時、隈城方面での人数捕縛、薩摩勢との協力、軍勢の差配と帰陣を回想し、子孫の見合書として残した山内淡路守の自記。
年月日未詳 / 冊子 713~714頁/原整理番号 747の2
島原へ出陣する供人数の名簿。西田七左衛門以下を列記し、13人と6人、詰夫10人、惣合29人、外町衆4人と記す。計33人を杢右衛門が召し連れた名書で、加久藤地頭仮屋にあった横折の原本を天保九年二月に見出したとの採録注を付す。詳細は二十八・二十九日条を参照するという。
二月朔日 / 冊子 46頁/原整理番号 67-2
二月朔日に鹿児島へ参る衆28人の覚。四位与四郎以下、北原吉左衛門尉までを列挙する。文書67-1が出発を記す蒲生衆28人に対応する。
年月日未詳 / 冊子 122~123頁/原整理番号 24
床波佐次右衛門を起点に、嘉左衛門以下の床波氏諸流を配した系図。佐次右衛門は元禄三年生・安永四年五月没、嘉左衛門は享保元年生で、助兵衛を養子とし、女子は久木田覚助に嫁いだことを記す。兵次郎は次右衛門へ、与助は武右衛門へ、正助は勘介から、権左衛門は佐次右衛門へ、権助は清右衛門へ改名した。仁兵衛が兄次右衛門の後嗣となった例、養子・婚姻・母方、男女の子女を系線で示し、元禄・享保から宝暦・明和・安永・天明・寛政・享和・文化・文政期までの出生・没年を列記する。
2月29日(年欠) / 冊子 459~461頁/原整理番号 14-18
片山次兵衛尉重次が薩摩様配下の指宿内蔵助へ、前日に城中で初めて対面して見た働きは筆舌に尽くしがたいほど比類なく、敵二人の首級を挙げた手柄に驚いたと伝えた二月二十九日付書状。重次自身も首級を拾ったが、今になって思えば拾うべきではなかったと述懐し、薩州衆の前日の働きについても重ねて言及する。後続系譜には、出水・福山居住、忠能以下の没年・法名・婚姻・養子関係、弥作が七島口之島に住んだことまでを記す。
(寛永十五年)四月十三日 / 冊子 799頁
先に申し入れた逃亡者の皆吉長右衛門尉・芦塚権右衛門は二十四、五歳ほどで、北郷式部の弟のもとにいるとの情報を伝え、詮議して召し捕り、小倉または大坂の奉行所へ送り届けるよう命じた松平信綱・戸田氏鉄の連署書状。
(延宝三年)後四月廿二日 / 冊子 662~663頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1666
論山の評定に出すため、梶山・庄内側から上方へ赴く証人を二組に分け、論山の由緒を知る者として弥七左衛門・越右衛門・八左衛門・万兵衛・大右衛門・助兵衛・権右衛門らを列挙した書上。
寛永十五年三月 / 冊子 243~244頁/原整理番号 333-29
二月二十七日七つ時分、都甲太兵衛が本丸海手角から南へ二間ほどの石垣に取り付き、二度の撤退命令後も澤村宇右衛門と本丸で討死する約束を理由に残留した経過を申し出たもの。品川六兵衛と鉄砲で敵を撃ち伏せ、池永源太夫・後藤権右衛門と三人で本丸へ乗り込み、自身は塀際で敵を組み伏せて首を取ったと述べる。また品川六兵衛・岡本又兵衛・高木新右衛門・市瀬藤右衛門の四人で本丸へ火矢を射たことと、翌二十八日朝の本丸大家への放火に関する証人を挙げる。
寛永十五年二月廿九日 / 冊子 244頁/原整理番号 333-31
二月二十七日、池永源太夫が、先手衆への撤退命令を本丸海手角の塀破口にいた侍衆へ伝えたが、交戦が続いたため後藤権右衛門と鉄砲を撃って敵を退かせ、そのまま乗り込んだ経過を寺内五兵衛へ申し出たもの。本丸東角からの一番乗りは都甲太兵衛・後藤権右衛門・自身の三人だけだったとし、城内で軽い槍傷を負って帰ったと述べる。
元和6年 / 冊子 178~179頁/原整理番号 59
伊東権角家の系図。曾我大臣の末孫・曾我兵部祐清の二男とする祐泰を祖とし、祐泰は井尻を号して八郎右衛門・七郎次郎を称した。祐貞(七郎右衛門・八郎次郎)から、祐徳(権之介・七郎右衛門)、祐守(九郎次郎・佐渡)、祐俊(八郎右衛門・早左衛門)へ続け、別系に祐元(九郎次郎・佐渡守)、祐宗(九郎次郎・佐渡守)、祐雪(九郎次郎・相左衛門)を掲げる。祐宗は高原で戦死した。末尾の祐保は八兵衛・権右衛門を称し、元和六年に相模国の宗家・伊藤惣左衛門祐重を請い、井尻から伊東氏へ改めたと記す。身帯逼迫のため御酒蔵役・御里役を務めた。
4月16日 / 冊子 240~241頁/原整理番号 183
其後御無音申移候、去年より我等事も御用に召され、弟子丸播磨守殿へ御用共候として、相調候事難成躰を述べる大迫尚信書状。旧記雑録後編五所収の長文書状で、浮世人帳や切支丹禁制、伊地知治右衛門重時の事績を論じ、卯月十六日、大迫権右衛門尉尚信から伊地知治右衛門宛で結ぶ。
年月日未詳 / 冊子 309頁/原整理番号 273
『薩本島原軍記』。十一月三日、豊後の御目付衆である柘植権右衛門・北見五郎左衛門らへ飛札を送ったことを記し、十月二十八日の記事を参照する短い注記。
年月日未詳 / 冊子 159~160頁/原整理番号 505
末吉の肝付覚左衛門家系図。上世の出所は不明と注記し、権之助豊前守兼隆が十七歳で伊東河内守を討ち、恩賞として知行六町を得たこと、二十三歳から兵道を行い、岩屋城攻めで敵三人を討ち取ったことを記す。兼隆が肝付郡高山から末吉へ移った由緒を述べ、治右衛門兼清・覚左衛門兼豊以下、伴右衛門・権右衛門らの分岐と婚姻を列記する。
(慶應元年)三月廿七日 / 冊子 569~571頁/原整理番号 6
季安が蓑田長胤に、忠久の治承三年出生・建久七年十八歳下向説は、後世の年数計算の誤りから生じたものと説明する。古系図、供奉者の系譜、玉海・東鑑の在京と鎌倉の記事、母丹後内侍と比企尼の関係を比較し、文治二年十八歳で関東から立ち西国へ下向したと推考する。相馬氏の系図と山田聖榮の聞書、道聖・伊集院氏らの口伝、後代の編纂と猿渡實信の書入を点検する。出生年と下向年が画像の来由とも符合しないことを述べ、中路権右衛門に示した資料を長胤にも見せ、内密に検討するよう求める。