島津晴蓑遺書
(天正20年)7月18日 / 冊子 595~596頁
島津歳久(晴蓑)が近習衆へ、自分は病で手足も不自由であり、秀吉に反逆する意図はなかったと弁明する遺書。島津家累代を守るため自分一人が自害すると家臣へ繰り返し伝えたが、家臣が承諾しなかった事情も記す。 病身の当主と従臣との葛藤、処断直前の心情を本人の言葉で伝える重要な史料である。
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(天正20年)7月18日 / 冊子 595~596頁
島津歳久(晴蓑)が近習衆へ、自分は病で手足も不自由であり、秀吉に反逆する意図はなかったと弁明する遺書。島津家累代を守るため自分一人が自害すると家臣へ繰り返し伝えたが、家臣が承諾しなかった事情も記す。 病身の当主と従臣との葛藤、処断直前の心情を本人の言葉で伝える重要な史料である。
年月日未詳 / 冊子 599頁
島津義久(竜伯)が、歳久(晴蓑)の旧宅跡を訪れて詠んだ追悼歌。「露ではないのに袖が濡れる」と、亡弟を思う涙を露になぞらえて表現する。 政治的には歳久を処断せざるを得なかった義久の、兄としての悲嘆が直接表れた短い詠草である。
年月日未詳 / 冊子 79頁
晴蓑の石塔・霊屋・位牌を立派に造り直し、供をした者の実名に合わせて石塔の銘も彫り直したこと、銀子六十両を渡して霊屋まで整備したことを若い浄土宗僧の働きとともに記した書状。
年月日未詳 / 冊子 524頁
島津歳久の譜の記事。太守竜伯が祁答院へ赴いた際、宴席で和漢百韻が催されたことを記す。「ふりも来ぬ雨をこめたるわか葉哉」など参加者の句と名を掲げ、島津家周辺の文芸交流を具体的に伝える。
年月日未詳 / 冊子 596~597頁
祖父・島津歳久(晴蓑)が秀吉の意に背いたとして竜ヶ水で討たれ、従った家臣も相次いで戦死した後、幼い島津常久(袈裟菊丸)が家の存続を担うことになった経緯を記す。 六尺にも満たず母の膝を離れない年齢の当主と形容し、残党の籠城で家が滅びかねない危機のなか、義久が歳久を追悼しつつ後継者保護と家の存続を図った事情を伝える。
年月日未詳 / 冊子 599頁
歳久(晴蓑)の首級以下が京都へ送られ、聚楽第東方の戻橋でさらされた後、秀吉から朱印状が下されたことを島津義久譜から記す。 歳久追討が薩摩国内の処断にとどまらず、首級の京都送付・公開によって豊臣政権への服従を示す政治事件となったことが分かる。続く八月十四日付朱印状群への導入記事である。
(天正20年)7月21日 / 冊子 597頁
島津義久(竜伯)が大慈寺へ、歳久が秀吉の九州下向時に兵糧提出を拒み矢を射掛けたことなどから処断命令を受け、一身を犠牲にして家を残そうとしたと説明する。 歳久の家臣が殉死し、さらに宮之城へ籠城する動きが続いたため、龍雲寺の一岳和尚とも連携し、残党を説得して国家と家を存続させるよう依頼した書状である。
(天正20年)7月27日 / 冊子 597~598頁
島津義久(竜伯)が大慈寺へ、歳久の処断によって島津家の安全を図ったにもかかわらず、家臣たちが戦死し、残る衆が宮之城に籠城したことを「天道を恐れず君臣の法に背く」と厳しく非難する。 大慈寺に対し、袈裟菊丸以下の者が下城すれば安全を保障すると伝え、籠城衆を説得するよう求める。武力衝突の回避と歳久家の救済を僧侶へ託した書状である。
(文禄元年)9月28日 / 冊子 605~606頁
島津久保が比志島紀伊守へ、通路が危険で報告が遅れたと断ったうえで、梅北国兼の反乱、歳久の自害、細川幽斎の薩摩下向と領国処置について所感を述べる。 薩摩勢に先立って朝鮮へ渡ったのは義久と島津家を守るためだったと弁明するが、国元から兵船が来ず借船で渡海し、兵・船とも不足して軍役が立たない窮状を詳述する。追加渡海と兵站整備を求める長文書状である。
寛永十六年八月十七日 / 冊子 338頁/原整理番号 78
伊勢兵部少輔の書状。家中三名の召し出しと扶持・知行、祢答院や真崎・庄内をめぐる扱いについて、先年の書付や相談の経緯を挙げて回答を求める。寛永十六年六月二十八日付。
(文禄元年)7月17日 / 冊子 586~587頁
島津歳久(晴蓑)が、「晴蓑めが魂の在り処を人が尋ねても、白雲の行方のように分からないだろう」と詠んだ辞世。 死後の魂の行方を白雲に託した簡潔な歌で、追討を受けて死を迎える歳久の覚悟と無常観を直接伝える。白浜次郎左衛門・比志島紀伊守宛の形で残る。
信書状七九寛永十年六月十八日 / 冊子 338頁/原整理番号 79
島津久元・伊勢貞昌の連署書状。先年の祢答院の件について久顕公の意向を受けたことを述べ、東郷への出入りや知行の扱いについて老中らに早く申達するよう求める。寛永十年六月十八日付。