島津家久譜
慶長三年九月廿九日 / 冊子 240頁
『島津家久譜』が、九月廿九日に明兵一騎が新寨城門から三、四町の地点に標木を立て、ただちに退いたと記す記事。頴娃主水・白濱七助が標木を回収すると、翌十月朔日に新寨を攻めるので、寨将は油断しないようにとの予告が記されていたとする。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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慶長三年九月廿九日 / 冊子 240頁
『島津家久譜』が、九月廿九日に明兵一騎が新寨城門から三、四町の地点に標木を立て、ただちに退いたと記す記事。頴娃主水・白濱七助が標木を回収すると、翌十月朔日に新寨を攻めるので、寨将は油断しないようにとの予告が記されていたとする。
年月日未詳 / 冊子 254頁
『御譜雑抄』に収められた記事。本冊では本文がNo.482の記事と同文であるため省略されており、No.482の新寨攻撃を予告する標木の記事を参照する構成となっている。
年月日未詳 / 冊子 204頁
慶長三年五月、島津義弘が朝鮮国泗川の新寨を警衛していた際、島津軍の旗下に属する朝鮮人に対し、朝鮮国の節度使から白書の伝令が送られたため、その文面を次に収録したと記す。
慶長三年八月 / 冊子 228~229頁
『島津義弘譜』が、麻貴ら明軍が蔚山の加藤清正と対峙し、島津義弘・忠恒が一万の兵で泗川・新寨周辺の諸塁を守り、近隣諸邑へ軍事行動を行った状況を記す記事。豊臣秀吉は伏見城で没する際、死を当面秘し、浅野長政・石田三成を筑紫へ急派して朝鮮在陣諸将を帰国させ、撤兵が難しければ徳川家康・前田利家の遠慮により十万の兵を異国の枯骨としないよう遺言したとする。
慶長三年九月廿八日 / 冊子 239~240頁
『島津家久譜』が、董一元配下が内応者郭国安を用いて望津の兵糧を焼き、明軍が望津・永春の砦を破って新寨へ迫った経緯を記す記事。董一元は金印を示して和親を求めたが島津義弘は拒絶し、九月廿八日の撤兵時に明軍が泗川を急襲して相良玄番ら約百五十人が戦死、川上忠実も多数の矢を受けながら退却した。忠恒は反撃を望んだが、義弘は敵数不明のため城門を閉じ、旗や鉄砲で応じず静観させた結果、明軍は退いたとする。
慶長三年九月廿八日~十月朔日 / 冊子 241~242頁
『島津義弘譜』が、董一元・茅国器らが内応者郭国安を用いて望津の兵糧を焼き、望津・永春・昆陽の三砦を攻略した後、泗川・新寨へ迫った経過を詳述する記事。島津義弘は金印を示す和親案を拒み、九月廿八日の撤収時には相良玄番ら約百五十人が戦死し、川上忠実は鎧に三十六本の矢を受けながら退却した。忠恒が反撃を望む一方、義弘は敵数不明として城門を閉じて応戦を控えさせ、明軍を退かせた。翌廿九日には明側が新寨より固城を先に攻める策を論じ、明兵が十月朔日の新寨攻撃を予告する標木を立てたとする。
年月日未詳 / 冊子 243~245頁
『征韓偉略』が、日本・明・朝鮮側の諸記録を引きながら泗川・新寨の戦闘と撤兵までをまとめた記事。明軍の諸将が泗川へ進み、董一元軍が新寨を包囲したものの、火器の爆発と島津義弘・忠恒らの反撃で大敗した経過、敵味方の戦死、城外への追撃、明軍の退却を記す。さらに寺沢正成らとの帰国・渡海をめぐる協議、朝鮮側の報告、講和使節や諸将の帰陣記事を収め、同戦を複数史料から構成する。
慶長三年十月朔日 / 冊子 248~250頁
『島津義弘譜』が、慶長三年十月朔日の泗川・新寨決戦を詳述する記事。董一元ら率いる明軍が新寨を包囲すると、島津義弘は敵が城壁へ近づくまで鉄炮を撃たせず、白狐一疋と赤狐二疋の出現を稲荷明神の加護と信じて、大鉄炮の一斉射撃と開門突撃に転じた。義弘・忠恒父子や忠長らが敵を北へ追い、晋州川付近まで潰走させた後、首実検と勝利の儀礼を行い、翌二日に敵首三万八千七百十七級と算したとする。
慶長三年十月朔日 / 冊子 250~252頁
『家久公御譜』が、慶長三年十月朔日の新寨決戦を島津忠恒(家久)の働きを中心に記す記事。忠恒は明軍を城壁近くまで引きつけて鉄炮を撃たせ、白狐・赤狐の出現を稲荷明神の加護と受け止めて出撃した。自ら敵中へ進み、肩に千戈の傷を負いながら首級を得た後、義弘の援兵と合流して明軍を晋州川方面へ追撃する。戦後は父子の首実検と勝利の儀礼、十月二日の敵首集計を記す。
年月日未詳 / 冊子 253頁
『島津彰久譜』が、晋州城周辺から新寨へ守備兵を撤収させた際の殿戦と負傷を記す記事。九月廿七日未明、旧館の守兵が密かに城を出ると敵が追撃し、忠実が殿を務めて苦戦しながら新寨へ退いた。味方の戦死者約百五十人の中、忠実の甲冑には矢三十六本が立ち、医師が鏃を抜いて吸血した。義弘は自ら傷を撫で、妙薬と宝刀を与えてその労を慰めたとする。
年月日未詳 / 冊子 253頁
『川上久辰譜』が、泗川・新寨決戦での川上久辰の働きを記す記事。董一元らの大軍に対し、義弘・忠恒が七千余の兵を率いて反撃し、忠長も小勢で紅巾の兵を支えた。諸将が追撃に出て義弘の周囲が手薄になると、久辰がその側へ進み、義弘は祖先川上久朗が菱刈で両君のため命を懸けた故事になぞらえて称えた。寺山久兼の鉄炮隊による後陣攻撃で敵を崩し、茅国器側が弟を人質として講和を請うたとする。
年月日未詳 / 冊子 253~254頁
『寺山久兼譜』が、慶長三年十月朔日の泗川・新寨決戦での寺山久兼の戦功を記す記事。義弘・忠恒父子が開門して明軍へ突入した際、島津忠長と対峙する敵将が現れると、久兼は兵を横隊にしてその後軍を攻めさせた。これにより前軍も崩れ、島津勢が敵首を斬獲する契機となったとする。末尾に久兼が慶長十六年十月晦日、四十五歳で没したことを付記する。
年月日未詳 / 冊子 254頁
『御譜雑抄』に収められた記事。本冊では本文がNo.488の記事の一部と同文であるため省略されており、島津義弘譜に記された慶長三年十月朔日の泗川・新寨決戦記事を参照する構成となっている。
年月日未詳 / 冊子 254頁
『御譜雑抄』に収められた記事。本冊では本文がNo.488の記事の一部と同文であるため省略されている。同じ参照先を持つNo.499とは別番号で掲げられ、泗川・新寨決戦記事の一部分に対応する。
年月日未詳 / 冊子 254頁
『御譜雑抄』に収められた記事。本冊では本文がNo.490の記事の一部と同文であるため省略されており、島津忠恒(家久)の接近射撃・敵中突入・追撃を中心とする新寨決戦記事を参照する構成となっている。
慶長三年十月朔日 / 冊子 255頁
『北郷三久譜』が、慶長三年十月朔日の泗川新寨攻防で北郷三久が危地を脱した経過を記す記事。三久は明兵と組み合って両者の馬の間に落ち、死にかけたところへ島津忠恒が駆けつけ、相手の明兵を斬って救った。その後、三久は忠恒とともに明兵を追撃して多くを討ち、名誉を得たとする。
慶長三年十月朔日 / 冊子 256頁
『旧記抄』が、慶長三年十月朔日の新寨攻防と狐の霊験を記す記事。明兵二十万が寄せると、義弘は城壁下へ近づくまで発砲を禁じた。白狐一疋が東門から敵中へ入り、続いて赤狐二疋も大軍へ走り込んだため、義弘・忠恒父子は氏神稲荷の加護と信じた。城門を開いて大勝し、戦場で死んだ赤狐を新寨に埋めて弔祭したとする。
慶長三年十月十三日 / 冊子 258頁
『島津義弘譜』が、慶長三年十月十三日に新寨で行われた明側との講和交渉を記す記事。明軍中から龍淵・友理と称する使者が平和の要事を談じるため来訪した折、寺沢正成と小西行長も義弘・忠恒父子を訪ねた。義弘は両人の到着を渡河の舟、暗夜の灯にたとえ、龍淵らとの対談を任せて、おおむね和平の約定を整えたとする。
慶長三年十月十三日 / 冊子 258頁
『島津家久譜』が、慶長三年十月十三日の新寨における明側との講和交渉を記す記事。明軍の使者龍淵・友理が訪れた時、寺沢正成と小西行長が遠路から義弘・忠恒父子のもとへ到着した。父子は二人の来訪を渡河の舟、暗中の灯を得たようだと喜び、龍淵らとの対談を行わせて和平の契約をおおむね成立させたとする。
慶長三年六月廿日~九月廿日 / 冊子 242~243頁
『盛香集』が、寺山四郎左衛門久兼の望津での対陣と家来神宮矢兵衛の射撃を伝える記事。久兼は漢南の大軍を前に、晋州の川を隔て約二百人で六月廿日から対陣し、人数の多少を悟らせない計略で敵を悩ませた。九月廿日の命令で望津陣を払い新寨へ移る際に敵が渡河を試みたといい、鉄炮上手の神宮矢兵衛が川越しに撃つ弾だけは外れず、唐人が大いに恐れたとする。
年月日未詳 / 冊子 718頁
川上久長・久首流と川上義久入道道安一流を記す系図。久首が朝鮮役・泗川新寨の戦勝に従軍し志布志・伊作地頭、家老となったこと、弓馬の達者義久が京都の犬追物を見学し将軍足利義尚の前で騎乗を披露して義字を賜った由来を記す。