治部少輔経兼日記
慶長五年十二月廿七日~慶長六年正月晦日 / 冊子 730-740頁
慶長五年十二月二十七日から慶長六年正月晦日までの日記。歳暮の寺社礼、京都使者の下向、忠恒の年始儀礼・五社参り・寺社参詣・家臣接見・宴会・弓鉄砲揃え、冨隈・帖佐への往来、普請、祈祷、贈答などを日ごとに記録する。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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慶長五年十二月廿七日~慶長六年正月晦日 / 冊子 730-740頁
慶長五年十二月二十七日から慶長六年正月晦日までの日記。歳暮の寺社礼、京都使者の下向、忠恒の年始儀礼・五社参り・寺社参詣・家臣接見・宴会・弓鉄砲揃え、冨隈・帖佐への往来、普請、祈祷、贈答などを日ごとに記録する。
慶長六年正月一日 / 冊子 740頁
島津義弘(惟新)が慶長六年元日に詠んだ和歌。「君か代」の長久を、古くから植え継がれる住吉の松に託して祝う年頭の詠草。
慶長六年正月十六日 / 冊子 742頁
島津義久(龍伯)が、慶長六年正月十六日の千句巻軸に「藤の花にやにほふ御しめ縄」と詠み、神祇の清浄と祝意を藤の花と注連縄に託した詠草。
慶長六年正月二十八日 / 冊子 744頁
北郷三久譜に、慶長六年正月二十八日に采地千石を加増され、その詳細は国老連判の証書にあると記す記事。証書本文は後掲されるが、三久譜本文には見えず疑義があるとの史料注記も付く。
慶長六年二月 / 冊子 746-747頁
新納旅庵長住譜に、慶長六年二月、島津義弘(惟新)が中原円乗房を伏見の旅庵へ遣わし、徳川家康の内書、本多正信・近衛信尹の書状、本田助允らの報告を携えて上京を命じた経緯を記す記事。
慶長六年 / 冊子 748頁
年代記は、慶長六年に寺沢志摩守正成が天草を拝領したことを記す。関ヶ原合戦後の領地再編に関する短い記事。
慶長六年二月 / 冊子 749頁
島津義弘(惟新)譜は、慶長六年二月、義弘が中原円乗房を帖佐から京都へ遣わし、伏見で旅庵に会わせたことを記す。円乗房は御内書・本多佐渡守書状・近衛家書状を携え、島津家存続のための調略を進めた。
慶長六年三月廿二日・五月廿一日 / 冊子 754頁
児玉氏譜は、伊集院忠真の所領没収後、児玉主水佑が慶長六年三月二十二日に日向国財部・松山・志布志などで六百石を加増され、五月二十一日にも河原・見次村などへ知行替えを受けた経緯を記す。
慶長六年 / 冊子 755頁
春岳和尚の覚書は、慶長六年に伊集院源次郎忠真の八万石が没収され、その日に薩摩・大隅・日向三か国の諸侍へ加増が命じられたことを記す。
慶長六年・慶長八年 / 冊子 755-756頁
町田久幸譜は、慶長六年に久幸が伊作地頭職へ補任され、市山の返地として本領石谷村を、二之宮の返地として倉・中原両村内を与えられ、慶長八年には長羽村の返地も受けたことを記す。
慶長六年八月七日 / 冊子 32~34頁/原整理番号 45-3
慶長六年八月七日、島津忠恒・惟新・龍伯が連署して諸士・外城衆・百姓らに示した掟。命令への異議、武具の油断を禁じ、100石につき具足1領を用意させ、出陣時は25石取以上を自飯、25石未満でも門屋敷持を自夫とする。殿役不勤は門1つにつき領主知行1石を召し上げ、番・普請・狩の懈怠が3度に及べば所領を没収する。上下を問わず喧嘩を禁じ、私闘は理非を問わず双方を処罰する。外城衆には地頭の下知への服従を求め、戦場で地頭の手を離れて挙げた高名を忠節と認めず、地頭の無理は披露させる。このほか、無許可乗馬・余分な携行品の禁止、百姓(女性を含む)の卯刻出・戌刻帰、逃亡者の相互匿い禁止、奉公人の怠惰禁止、召集・供・夫・飛脚の即日履行、親類縁者を雇う徒党、大振舞・私的大酒、期限超過の納付を取り締まり、違反者は士なら所領没収、凡下なら成敗とする。編者は『旧記雑録後編三』2534号と同一とし、寛永十五年の島原衆への御袖判法度が本掟を踏まえた可能性を論じる。また田中綱紀が写した猪俣家蔵本から転載したとし、猪俣為右衛門則康が賦奉行として保持した本か後世の写本かは不明と留保する。
慶長六年二月十九日 / 冊子 26頁/原整理番号 228
喜入大炊助久正の印があり、延時六介宛と記された知行目録一通が存在したことを記す抄録。慶長六年二月十九日付。
慶長六年二月十九日 / 冊子 26頁/原整理番号 229
前文書と同日・同人から延時助右衛門尉宛と記された知行目録一通が存在したことを記す抄録。慶長六年二月十九日付。
慶長六年十二月三日 / 冊子 57頁/原整理番号 286
村田雅楽助が羽嶋藤右衛門尉に、屋敷三畦三斗、法楽寺三反二畝八分内の中田七畦拾五歩九斗などを加増として宛行った目録。慶長六年十二月三日付。
年月日未詳 / 冊子 757頁
島津義弘(惟新)譜は、義弘が慶長六年四月に向之島藤野村へ退居していたところ、山口直友の使者和久甚兵衛が再び下向し、徳川家康は義弘がやむを得ず西軍に加わった事情を理解して疑わないと伝えたため、帰宅したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 790頁
殉国名薮は、井尻早左衛門祐雪が慶長六年十一月二十五日に没したと記す。戦死との記載がある一方、加世田で餓死したとも注記される。
年月日未詳 / 冊子 913-914頁
島津忠輿譜は、祖父島津忠興の家系と佐土原領有の由緒を記す。島津以久が慶長六年に佐土原城番を命じられ、同八年に徳川家康から佐土原三万石を拝領したのち、嫡子彰久の没後に忠興へ家督を譲った経緯を述べる。
年月日未詳 / 冊子 364頁
慶長六年末の島津義久の詠草。兵庫入道の夢想の付句として、大方の雪、年の暮、老いた門などを詠む。
年未詳12月22日(付属記事:慶長4年~同6年2月3日) / 冊子 267~268頁/原整理番号 107-7
年未詳十二月二十二日、伊集院右衛門入道幸侃が平田狩野介宗應と上原源右衛門尉尚氏へ、重久名の件が持合で未解決となり各所に難しい問題が生じているため、二人で談合して処理するよう求め、詳細は追って協議すると伝えた書状。付属する由緒記事は、慶長四年に島津義久(龍伯)が尚氏を兵具奉行とし、平田宗應・三原七左衛門・川上彦左衛門らと兵具方を掌らせたため、尚氏が朝鮮出兵を免除されたと記す。前年に島津義弘・忠恒が朝鮮から帰国し、忠恒が朝鮮での功により五万石を加増され少将任官と宝刀を受けると、龍伯は国政を忠恒へ譲る意向を強め、二月に尚氏へ時雨御旗を持たせて京都の忠恒へ届けさせ、忠恒は二十日に受領して謝恩した。尚氏は初め朝鮮へ出役しなかったものの、この使者勤仕を忠恒から賞され、隅州敷根小牧門三十二石五斗・末吉深川十八石を加増された。本文は加増を五十一石と記す一方、内訳の通計を五十石五斗とし、慶長六年二月三日に比志島国貞・平田増宗・鎌田政近・島津忠長が目録を授けたとする。龍伯は尚氏の使者勤仕には百石が相当で五十石では少ないと不満を述べたとの季安按も付される。
慶長6年2月3日 / 冊子 270頁/原整理番号 107-11
慶長六年二月三日、島津図書頭忠長・比志島紀伊守国貞・平田太郎兵衛尉増宗・鎌田出雲守政近の四名が上原源右衛門尉へ、隅州曽於郡敷根の小牧之門三十二斛五斗と、末吉・深川之内十八斛を加増として宛行った連署目録。個別高を合計すると五十斛五斗となるが、本文の『惣合』は五十一斛と記すため、この数量不一致を原文どおり保存する。
慶長6年12月13日 / 冊子 270頁/原整理番号 107-12
慶長六年十二月十三日、御兵具所が年越しに用いる供物・器具を列挙し、御代官所から山下助左衛門尉が奉行した達書。御甲・御鏡には各七重の餅と大折各七つ、御持道具には五重の餅と中折五つ、御長刀には三重の餅と中折三つ、具足には餅十七個と足付折敷十七枚、番具足五十両には小餅九十九個・平折敷十一枚、諸道具には小餅百三十五個・平折敷十五枚を用意する。総計は大餅五十三個(うち中餅二十五個)、小餅二百九十七個とし、ほかに台盃、手掛、新筵一枚、大根等を掲げる、兵具類に対する年中儀礼の具体的な調度・供物構成を伝える文書である。
慶長6年12月14日 / 冊子 343頁/原整理番号 130-32
慶長六年十二月十四日、伊集院川上次郎左衛門尉へ与えた加増名寄帳の抄録。入野村竹脇門以下の数行を省略し、加増高の合計を三十二石八斗と記して御支配所印を据える。正本は家蔵で、十三代河上忠宅の記事の頭注として掲げられる。
慶長6年12月3日 / 冊子 363頁/原整理番号 162
慶長六年十二月三日、村田雅楽助が羽島藤右衛門尉へ与えた加増目録。屋敷三畦・高三斗、原文仮名表記『きゃうの本』にある法楽寺三反二畝八分のうち中田七畝十五歩などを掲げ、三行分は略記したうえで田畠合計三石とする。法楽寺の助左衛門尉に関する傍注があり、『旧記雑録後編三』一五七九号文書と同一文書と注記される。
年月日未詳 / 冊子 33頁/原整理番号 250
末吉衆中宮里家の由緒を記す根元記の抄録。宮里善兵衛尉の弟助太郎と父隠岐守の来歴を述べ、馬越で伊東清右衛門に奉公したのち、帖佐・本城・曽木を経て慶長六年に末吉へ移り、村田雅楽助に仕えた経緯を記す。
(慶長六年) / 冊子 740-741頁
本田助允(元親)が自身の知行内訳と加増約束を記した案文。本箇所はNo.1453と同文のため本文省略。永吉村など計百八十石、勝次郎の次男分の新地、京都への領国安堵使節の功による加増二百石の約束を内容とする。
慶長六年正月九日 / 冊子 741頁
佐多忠充が、関ヶ原合戦で命を顧みず主君を守護した狩野介の忠節と働きを称え、田畠五石を当毛とともに与え、今後も忠勤に励むよう命じた感状。
慶長六年正月十三日 / 冊子 741頁
本田助允(元親)が、上方で不慮に拘束され山口直友のもとに置かれた後、領国安堵の使者案内として下向した事情を記し、上方の計策に加担せず、島津義久(龍伯)・義弘(惟新)・忠恒(家久)への奉公以外に別心を持たず、他家へ仕えないことを誓う起請文前書の案文。
慶長六年正月十七日 / 冊子 742頁
正興寺玄昌が島津家への別心がないことを誓い、自身は才覚が乏しく諸事の取り次ぎができないため、その点は容赦してほしいと申し述べた置文。
慶長六年正月十七日 / 冊子 742頁
正興寺玄昌が、京都の知人には命じられた当地の様子以外を伝えず、伊集院衆から聞いた事柄はそのまま言上し、旧来の親疎によって偏らないことを神仏に誓った置文。
慶長六年正月十九日 / 冊子 743頁
本田助允(元親)が、上方で不慮に拘束され領国安堵のため往返した際にも、島津家に害となる情報を漏らさず、計策に加担せず、他家へ仕えず、龍伯・義弘・忠恒に忠節を尽くすことを神文にかけて誓った起請文。
慶長六年正月十九日 / 冊子 743-744頁
本田助允(元親)が自身の知行を整理した覚書。永吉村・入来裏名村・帖佐舟津村・蒲生久徳村・馬越徳満村など計百八十石の内訳と、勝次郎の次男分としての新地、京都への領国安堵使節を重ねた功による加増二百石の約束などを記す。
慶長六年正月廿四日 / 冊子 744頁
八幡新田宮執印吉左衛門尉の知行二百石について、各田地の坪付を列記した文書。このうち百石は京都・高麗で忠節を尽くした功による恩賞として与えられたことを記す。
慶長六年正月廿八日 / 冊子 744-745頁
日向国諸県郡の志和知・水流村など各地の知行を列記し、合計千石を北郷三久へ加増する目録。島津忠長・平田増宗・比志島国貞・鎌田政近が連署する。
慶長六年八月廿四日 / 冊子 779頁
山口直友と本多正信が連署し、龍伯・少将の身命と島津領国を約束どおり保障し、兵庫頭義弘についても両人と一体として取り成すことを神々に誓った起請文。違背時には諸神の罰を受けるとする。
慶長六年十月七日 / 冊子 785頁
島津龍伯が「到時節、其利自露」という句意を追膳して詠んだ和歌。時節が到来すれば道理・利益はおのずから明らかになるという趣旨を歌に託した。
慶長六年十月廿一日 / 冊子 785-786頁
島津忠長ら四名が連署し、薩摩国祁答院の大村にある楠原弥七右衛門尉屋敷三十石二斗三升を、井尻伝次へ加増として宛行った目録。
慶長六年十月廿四日 / 冊子 786頁
島津忠長ら四名が連署し、薩摩国川内山田村の鹿地門三十石五升を、満尾越中守へ加増として宛行った目録。
慶長六年十一月廿日 / 冊子 788頁
島津忠長ら四名が連署し、薩摩国指宿の拾町村にある塩入・下田などの田地を、山川熊野権現へ加増として宛行った目録。
慶長六年閏十一月廿四日 / 冊子 789頁
島津龍伯が、先年在洛中に因幡堂で頼真房の灌頂が行われた際、自身が証人となって成就したことを証する。門流外・他国での灌頂を認めない旧例に対し、前代未聞の先例として有効だと確認した証状。
慶長六年十一月廿六日 / 冊子 789頁
島津忠恒を大檀那として、霧島六所大権現下宮の宝殿一宇を造立したことを記す棟札。正行院法印看信、法印淳有・有賢、大工白尾常陸守国有らの名を列記する。
慶長六年十二月三日 / 冊子 789-790頁
村田雅楽助が署判し、屋敷三畝や法楽寺内の田地などを羽嶋藤右衛門尉へ加増として宛行った目録。各田地の面積・石高を列記する。
慶長六年十二月廿二日 / 冊子 795頁
島津龍伯と忠恒が連署・血判し、前年の不慮の事態を赦され国家を存続させるとの処置に感謝し、今後いっさい別心を抱かないと誓う。図書頭を先に上らせ、必ず本人も上洛して家の相続を願う起請文。
慶長六年十二月廿二日 / 冊子 795-796頁
島津龍伯が図書頭忠長を上洛させたことを伝え、鎌田政近の上洛時に本多正信らから示された親交・支援を今後も続けるよう依頼する。贈物として砂糖壺一つを添えた書状案。
慶長六年十二月廿六日 / 冊子 796頁
比志島国貞と平田増宗が連署し、白鳥山の造営中に知行二百石を付与し、造営期間中に得る収益には諸公役を課さないと定めた宛行状。
(慶長六年)八月廿四日 / 冊子 346~347頁/原整理番号 1
山口直友と本多正信が血判連署した起請文。龍伯と少将の身命、薩摩・大隅・諸縣の領有、少将への家督相続、義弘への処遇などについて約束し、違背しないことを神文に誓う。
(慶長六年)二月二日 / 冊子 348~349頁/原整理番号 5
井伊直政が島津家久に宛てた書状。前年冬に派遣された両使の口上を聞き、内府徳川家康へ申し伝え、返答を使者に言い渡したことを報告する。重ねての使者を受け、事態への辛抱を求める。
(慶長六年)三月十四日 / 冊子 349頁/原整理番号 6
山口直友が島津家久に宛てた書状。情勢を詳しく知らせるため旅庵を下し、和久甚兵衞を使者に添えたことを述べ、井伊直政と相談しながら島津側の用件を取り次いでいるとして辛抱を求める。
年月日未詳 / 冊子 797-800頁
新納忠元の勲功に関する長文記録。関ヶ原合戦後、家康の伏見出立、島津領周辺の軍勢・諸城の動向、加藤清正方などへの警戒、国境・城郭の守備と兵員配置、和睦交渉や使者往来、忠元らによる家中統制・訴訟処理・知行措置などを列挙し、領国防衛と島津家存続に向けた働きを記す。
慶長六年三月十八日 / 冊子 752頁
島津義久(龍伯)が慶長六年三月十八日に詠んだ和歌「浜松に藤なみかくる岩は哉」を記した詠草。
慶長六年六月廿三日 / 冊子 760頁
島津義久(龍伯)が慶長六年六月二十三日、大中追善の折に詠んだ和歌「夕立のやとりかなしの天つ空」を記した詠草。