児玉筑後守伝
年月日未詳 / 冊子 927頁
児玉筑後守伝は、慶長九年二月、慈眼公島津忠恒が東郷重位と東新丞に試合を命じ、重位が勝利したためその剣技を学んだと記す。重位の門弟東出実相も忠恒に知られて恩遇を受け、重位とともに親衛の臣となった。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
16 件 (全巻)/ 1–16件を表示
ページ 1 / 1
年月日未詳 / 冊子 927頁
児玉筑後守伝は、慶長九年二月、慈眼公島津忠恒が東郷重位と東新丞に試合を命じ、重位が勝利したためその剣技を学んだと記す。重位の門弟東出実相も忠恒に知られて恩遇を受け、重位とともに親衛の臣となった。
天保5年12月16日 / 冊子 1006頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2739
近衛野御中・斉彬公の記事。天保五年十二月十六日、斉彬が左近衛少将に転任した。御台君から厚い請いがあったため特に命じられたもので、島津家では慈眼公の叙任が少将から始まった先例はあるが、その他の世子にはなかったと記す。
年月日未詳 / 冊子 427頁
『児玉氏乳後利昌譜』が、慶長四年の庄内の乱で、島津義久が富隈から平田狩野介宗応に兵を率いさせ、成渡瀬の守備へ派遣したこと、児玉実相・新納忠陸・平田宗次・吉田清家らが備えたこと、忠恒の帰国後の親征と八月十七・十八日の使者・檄の往来を記す。
記事中安永二年三月十四日完成、明和六年十一月十五日起草 / 冊子 360~361頁/原整理番号 1010/整理ID 1010
寛陽公の時に平田清右衛門純正を文書奉行とし、得佛公から慈眼公までの事跡を集めて「島津氏世録系図」を編纂したことを述べる。その後も史官が相続して編纂したが、譜牒はあって史伝がなかったので、明和六年己丑十一月十五日に太史郡山次郎左衛門遜志へ史伝を作るよう命じた。遜志は譜牒を根拠に新しく構成して起草し、記事のいう今茲三月十四日に完成、歴年凡五年と記す。得佛公から圓徳公までを記し、さらに延享二年以後から宝暦十年までの事を収め、二十七巻を十一冊にまとめて「島津世家」と名付けた。書写・装潢を済ませ、重豪が自ら詳しく閲覧し、一部を座右に置き、一部を文庫に収蔵して永く伝えることとした。旧系図の編纂と史伝の新編、対象年代、完成時期、巻冊数、閲覧・保存を分けて記録する。
序本文に明治二十一年四月の編纂命令、明治四年廃藩・丁丑の乱の回顧(末尾独立年月なし) / 冊子 409~410頁/原整理番号 1129/整理ID 1129
齊宣公御譜初巻中の序文。得仏公島津忠久が文治中に三州の封を受けて以来、二十六世・六百余年を伝えた家の史乗を述べる。寛陽公光久の時に平田清右衛門純正を文書奉行にして家譜を集めたことを記す。得仏公から慈眼公家久初世まで十八世の正統系譜百十四冊、公中世以後の正統系譜続編七十九冊、支流系譜五十二家九十六冊が編纂され、史官の記録が積み重ねられたとする。寛陽公から大信公重豪まで七世五百八冊が正統系譜続編となり、大慈公齊宣・金剛定公齊興二世の記事実録・文書の編纂も進められたが、明治四年の廃藩によって史官の職と編纂業務が廃されたと述べる。後の丁丑の乱では鹿城が戦場となり、島津家の累世の譜牒・文書のうち岩崎文庫所蔵品は保護運搬によって兵燹を免れたが、築地邸所蔵品は十分に運べず、焼失したことを記す。残存数は原記「正統家譜正續編十七處七百零一冊」、支流系譜九十六冊とし、岩崎文庫に存すると述べる。明治二十一年四月、島津家譜を続輯する命を受け、宗高は旧藩太史職に就いていた者として力を尽くして二世の編纂を成したと記す。築地邸の旧編纂史料が焼失したため、全く新しく集め直す必要があり、先公譜に引用される事実文書を読み、文庫・史館記録・家老座右筆所の簿籍を採り、中山王と藩内諸家の文書も求めた。県庁収蔵史館記録も兵燹で失われ、旧中山王や諸家の文書も廃藩時の混乱・その後の災難で散逸し、残存史料が少ないとする。岩崎文庫が火災を免れても多くの譜に欠けがあるため、編纂が十分でない遺憾を述べる。先公旧譜の紀事体にならって公自身の文書を用い、後の先史の凡例に関する論説を宗高が独断で改めることはせず、時に愚按を加えて記事の不足を補うという編集方針で結ぶ。
同年春三月二十一日(安永四年の文脈) / 冊子 453頁/原整理番号 1253/整理ID 1253
同年春三月二十一日、薩摩郡隈之城の稱名寺で、定山公の四百年忌の法事を修したと記す。定山公には島津師久の注があり、使番頭鎌田蔵人正方を遣わし、香奠銀三枚を献じて拝させたという。仝上は重豪公御譜中の出典を受ける。小字の注は、これまで祖先の遠忌法事では寺へ香奠銀五枚を納めていたが、ここで初めて減額し、銀三枚を香資として献じ、以後はこれに倣うと記す。その上で大中公・貫明公・松齢公・慈眼公のような場合はまた同じではないと付すため、すべての祖先法事を一律三枚へ改めたとしない。三枚はこの法事への献納額で、従前五枚と加算しない。四百年忌の原表記を保持し、師久の没年を逆算して補ったり、三月二十一日を死亡日として扱ったりしない。
是歳夏五月二十九日(安永四年の文脈) / 冊子 457頁/原整理番号 1268/整理ID 1268
この年夏五月二十九日、浄國公・有邦公・慈德公・圓德公の福を資するため、浄光明寺・福昌寺へ田禄各百五十石を付したと記す。続く四通の内訳は浄國分を浄光明寺、有邦・慈德・圓德分を福昌寺宛とし、それぞれ総高百五拾斛を掲げるため、二寺へ均等に百五十石ずつと集計しない。他方、慈眼公・寛陽公・泰清公・大玄公については、寺へ白銀若干を納めて従来付していた田禄に代えると述べる。以後、世数の限りをこの基準に準ずるとし、諸侯が五廟を祭る趣旨を取ったのだろうと説明する。小字注は、初めに行人兼太史児玉に草させ、上丞實門の注を付し、五廟祭祀の法を詳しく述べさせて、それに従った経緯を記す。出典は重豪公御譜中。百五十石の付与と、別の四法号の旧田禄を銀納へ切り替える扱いを分ける。白銀若干の額や、世数の具体的な境界を本文以上に補わず、五廟を現に五つの寺院への寄付と同一視しない。本文は「有邦」と表記する。
安永六年(本文は今茲、翌春の早発国朝覲に言及) / 冊子 541頁/原整理番号 1506/整理ID 1506
慈眼公以来、在国の時には隔年に大家が御鷹の鶴を国へ賜ったと記す。重豪は当年在国し、拝賜の年に当たるが、翌春に早く国を発して朝覲することにより、実際の賜物はなかったと結ぶ。本文には独立した月日や、重豪本人が辞退を申し出たという文言は記されない。小注は禁殺生に伴う鶴・雁・雲雀の賜物への言及、享保四年の雲雀、六年の鶴、自是以来更無という記載を含む。小注の慈顏という表記と本文の慈眼公を区別して保持し、自是以来更無の範囲を本文の隔年拝賜の説明へ無条件に広げない。当年の不拝領を記すこの記事と、次の御用人を介する内聞書状を資料種別として分ける。
文化7年庚午正月21日(法事19~21日)・26日田禄。後注文政8年冬10月 / 冊子 349頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1082
文化7年庚午正月21日、妙谷寺で貫明公200年忌法事を3日、19~21日に修した際、重豪も家老頴娃信濃久喬を遣わし、香奠金200疋を献じ代拝させた。割書は祖先遠忌の費用について、官庫から祭費を出す場合と寺主が寺役法事を行う場合、1日又は3日などの違いを説明する。重豪は記録奉行に論じさせ、大中公・貫明公・松齡公・慈眼公の梵儀では寺主が3日の法会を設け、香奠を増し、その他は1日、功徳ある者は五十年忌と同様とするとの説明を載せる。次の丸印は別件。先に千眼寺を再建し黄金を付しても資用が足りず、同月26日に斉興が田禄150石を寺産として付したのは重豪の意によると記す。後注は文政8年乙酉冬10月にさらに田禄150石を加えたこと。文化7年の斉興追加と後年追加を分け、1081同件記事の田禄を二重合算しない。
明治2年十二月(日不記)知政所 / 冊子 718~719頁/原整理番号 943/整理ID 943
歳久について、帖佐瀧ケ水の自盡と貫明公による心岳寺建立を述べ、寺を廃して跡に一社を建て神霊を崇め社司を置く。忠朗について、奉仕忠節と忠棟父子の叛逆による衰亡を原の評価・説明として述べ、笑岳寺を廃して自家で神霊を崇め、庶流伊集院四郎が祭祀を永続できるよう寄附高から七石を永く与える。忠長・政近・國貞・久治・貞昌の五人は、慈眼公が病悩重い際に位牌脇へ位牌を配列させたとの記述を掲げ、寺院廃絶後、國貞には別に菩提所源舜庵を建て、各霊は長谷神社の肖像脇に改め設けて従祀し、釼一振も置く旨を伝える。明治二巳十二月知政所。原顕彰・叛逆評価、霊の扱いと寺高・庵・釼を区分し、実移送祭祀完成や病名・実給付総額は補わない。
明治2年十二月(日不記)知政所 / 冊子 720頁/原整理番号 946の1/整理ID 946-1
通達留。旧浄光明寺の御高祖霊社を龍尾神社、旧日新寺内梅岳公霊社を竹田神社、旧南林寺内大中公霊社を松原神社、旧妙谷寺龍伯公霊社を大平神社、旧妙圓寺内松齢公霊社を徳重神社、旧福昌寺跡慈眼公霊社を長谷神社と掲げる。今般の社建立に伴い、社号をこの通り称する旨を神社奉行と関係先へ伝える。明治二巳十二月、知政所。六組の社号・旧地・霊社対象、義久家久注と竹田の本々注を区分し、御高祖の具体名や社殿完成・祭祀開始実績、現在の住所は補わない。
年月日未詳 / 冊子 47~48頁/原整理番号 48
伊地知季安が寛永九年の軍賦改定と天草・島原援軍時の事情を論じ、慶安元年・寛永十五年・十七年・慶長十八年などの古い軍賦帳や元和九年の公儀定と比較する。少人数主従の騎馬を停止した見直し、五番編成、東目・西目の出陣に応じて各外城地頭を先頭に繰り替える方式を挙げる。軍賦は古制と近例を時所に応じて斟酌して定めたものと考え、古帳を借り出して年代を考え、写して稽古の便に備える。
年月日未詳 / 冊子 332頁/原整理番号 305
牧野傳蔵・林丹後守に代わって豊後府内へ置かれた御目付衆に対し、十一月十三日付の飛札で一揆討伐の状況を通報した記事である。併せて島津家久側から、薩摩勢の加勢が必要か否かを問い合わせた。
目録年月日記載なし / 冊子 119~123頁/原整理番号 3
「鹿児島、伊敷、四郎ヶ坂等之説」。鹿児島と鹿児島神食、伊敷・四郎ヶ坂の地名や旧跡を、古系図、社説、旧記から考証する。荒田・神食、伊敷郷と島津荘の記載を比べ、鹿島の語源や鹿皮を朝廷へ貢じた伝承も検討する。末尾は伊敷の上下村・上伊敷村の位置と、伊敷村名主家の由緒に及ぶ。
年月日未詳 / 冊子 419頁/原整理番号 384
出水地頭山田民部有榮が兵を率いて獅子島へ移っていたところ、熊本家老長岡監物から二十一日の便りを受け、板倉内膳正重昌・石谷十蔵貞清が江戸から上使として有馬へ向かうとの報を鹿児府へ伝えたと記す。慈眼公島津家久は病中ながらこれに対応し、上使へ飛脚を遣わして島原・天草の一揆に対し要請があれば直ちに出兵する旨を伝えた。
年月日未詳 / 冊子 422頁/原整理番号 392
十二月七日に閣老が慈眼公島津家久へ送った奉書を引く。天草の一揆が兵庫頭単独で鎮め難ければ細川越中守の兵を加え、なお人手が必要なら島津方も兵を送り、細川家来と相談して加勢するよう述べる。この旨は先月二十六日に上使板倉内膳正・石谷十蔵へ伝えており、両人の指図に従うべきとする。詳細は七日条にあると案内する。