殉国名藪
年月日未詳 / 冊子 14頁
『殉国名藪』から、延文四年十月五日、佐多左馬助忠直が相良氏の軍との戦いに従ったこと、佐多彦四郎・佐多三郎四郎らの名が続くこと、向江孫太郎と久木崎丹後が同時に戦死したことを記した記事。
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年月日未詳 / 冊子 14頁
『殉国名藪』から、延文四年十月五日、佐多左馬助忠直が相良氏の軍との戦いに従ったこと、佐多彦四郎・佐多三郎四郎らの名が続くこと、向江孫太郎と久木崎丹後が同時に戦死したことを記した記事。
年月日未詳 / 冊子 16~17頁
佐多氏の譜として、忠直が延文四年十月五日に島津氏久に従って日向南郷国合で戦死したこと、弟の彦四郎・三郎四郎も同時または知らせを聞いて敵陣へ馳せ入り戦死したことを記す。家の重宝・爪切丸大刀が敵に奪われたとも伝える。
御書取の五署添達は慶応4辰八月、昨日13日召、外包は8月19日保管 / 冊子 591頁/原整理番号 770/整理ID 770
外包四十三番、御筆御書取一通。内膳から前田彦四郎へ慶応四辰八月十九日に渡され、当座の格護を命じられ白木御文書十三番箱へ納めたと記す。所収の御筆写は、民をそれぞれの道で生業に励ませること、朝廷の定めた綱目を民にも示して実行することを説く。軍局は国の興廃と人の生死に関わるので、信をもって規律と賞罰を立てて人を安んじ、王政一新の時勢を察して政治の基礎と国力を養い、心を合わせて事業を進め、主の不足を補い、主だけに頼らないよう求める。添えた五署の書取略は、昨日十三日に磯御茶屋へ召され別紙の御筆を受けたので、一同謹んで承知して旨を厚く奉じ忠勤するよう告げる。末は朱慶応四辰八月、右衛門・龍衛・内膳・良馬・隼人。政策論と忠勤要求は御筆・添達の主張として記す。
建武四年八月一日 / 冊子 90頁/原整理番号 360
畠山直顕が世戸山彦四郎に対し、闕所となっていた大隅国多祢島現和村名主職について、軍忠により管領を認めた祢寝弥次郎清種へ半分を打ち渡すよう命じた打渡状。建武四年八月一日付。
年月日未詳 / 冊子 16頁
延文四年十月五日、島津氏久方が日向南郷へ進軍中に敗北した経過を記す譜記事。国合の戦いで佐多左馬助忠直・彦四郎・三郎四郎ら兄弟が戦死し、氏久は岩川・蓬原・救仁郷へ移動した。各地で援軍を求めながら安全な退路を探り、敗軍を収拾しようとした状況を伝える。
永禄十二年五月廿五日~七月十四日 / 冊子 221頁
永禄十二年五月二十五日、祁答院長野城を攻め、守兵の激しい抵抗を受けた。比志島氏・鎌田政年らが奮戦し、仲俊坊・貴島源五郎・税所宮内少輔ら多数が戦死したが、各隊が死を顧みず攻めて勝利した。蒲生境でも敵数十人を討ったため伊東方は恐れ、七月十四日に飯野桶比良陣を捨てて退却した。
永禄十二年五月廿五日~九月廿日 / 冊子 222頁
五月二十五日の祁答院長野城攻めで下城を破ったが、島津方にも多数の戦死者が出た。桶比良の伊東陣撤退後、八月十八日から大口城を包囲し、諸将自ら秋作を刈って兵糧を断った。相良・菱刈方は度重なる敗戦で和睦を願い、九月中旬に球磨兵が撤退した。大口城で太平の祝宴を行い、菱刈氏に平城を残し、他城へ地頭を配置して貴久・義久が凱旋した。
永禄十二年五月廿五日~九月廿日 / 冊子 223頁
五月二十五日の長野城攻めでは下城を破ったが多数が戦死し、いったん退いた。その敗報で伊東方が桶比良陣を撤収すると、八月十八日から大口城を包囲して秋作を刈った。相良氏は島津への旧恩を思い和平へ傾き、九月に球磨勢が退去した。大口城を受け取り、相良の請願で菱刈氏に本城一所を残し、新納忠元を大口地頭・武蔵守として諸城へ地頭を置いた。
慶長二年八月十六日 / 冊子 133頁
谷山本村内の重返地について、上畠・上田などの地目、面積、耕作者名を列挙した目録。各区画を伊地知千世菊へ返付する内容で、合計面積も記す。
年月日不詳 / 冊子 48~51頁
落合兼朝が、国分宮内の社家に伝わる祭礼・年中行事の先例を詳細に記した覚書。式引物、座次、祝儀、馬、太刀、社参、饗応、神事、諸寺社の役割などについて、野村方・落合方・祐國方をはじめとする関係者の配置と作法を列挙する。
建武3年6月 / 冊子 252頁/原整理番号 88
建武三年六月、薩摩国御家人の和泉杉三郎入道道悟が、軍忠の注進と恩賞を求めた軍忠状。五月七日の大隅国肝付郡加世田城大手城戸口合戦では子息らを率いて一番に先懸けし、堀口へ攻め寄せて逆迎えを切り払い、子息弥三郎保右が左股を射抜かれた。翌八日の合戦では旗差六郎丸が左小肘を射られ、島津六郎、山野彦四郎入道道井、伊作田兵部丞が軍忠を見知し、二十三日の野崎懸合戦でも奮戦したとして、島津貞久が「承了」の判を据える。
建武4年4月 / 冊子 252~253頁/原整理番号 90
建武四年四月、薩摩国の和泉杉三郎入道道悟が、大隅国加世田城・野崎城合戦で重ねた軍忠に対する恩賞を求めた軍忠状。前年三月、将軍家の鎮西下向に際して大宰府へ馳参し、肝付八郎兼重以下の凶徒誅伐を命じる御教書を受けて島津上総入道道鑑に属し、五月六日に加世田城へ押し寄せ、七日には子息らを率いて大手城戸口へ最前に攻め、逆迎えの敵を切り払った。この時、子息弥三郎保右が左股を射抜かれ、翌八日には旗差六郎丸が左小肘を射られ、二十三日の野崎懸合戦でも戦って両城を追い落としたと述べる。軍忠は島津六郎・山野彦四郎入道・伊作田兵部丞が見知し、道鑑の一見状でも明白であるとして、建武三年三月二十八日の将軍家御教書と同年六月の道鑑一見状を副進し、度々の軍忠に任せて恩賞に浴し弓箭の面目を施したいと訴える。
文書日付:建武四年八月一日 / 冊子 475頁/原整理番号 七四四/整理ID TMP-P03-IKEHATA-ZASSHO-D0744
清種が申し出た多祢嶋現和村名主職は「闕所之間」で、軍忠により管領させる旨を申し付けたと述べる。 早く現地へ赴いて半分を清種に打ち渡すよう、世戸山彦四郎入道殿へ命じる。 裏書は現和村名職を重代相伝地とし、下知を得て地頭年貢も沙汰する旨を仰せ付けられたと述べる。 同房左近次郎入道を差し下したとし、下知に違う意がないよう記すところで、以下欠となる。
正徳三年三月廿五日 / 冊子 81頁/整理ID 193
西彦四郎ら二家に名乗り字を申渡し、用字に差し支えがあれば改めを願い出るよう命じる。
年月日未詳 / 冊子 104~105頁/原整理番号 21
伴姓萩原家の祖系と下向由緒を記す導入系図。天智天皇について、推古三十五年誕生、舒明天皇の皇子・中大兄皇子、母は皇極天皇、即位・崩御・近江志賀大津宮・大安寺造営・藤原鎌足薨去などを記し、大友皇子と斯喜王子から光仁・桓武・嵯峨・光孝・宇多・醍醐の諸帝へ系線を引く。別伝として伊賀皇子、黒主王、葛野皇子・池辺王・小野祖、与多麿らを掲げ、大伴氏・伴氏の起源を説く。後半は伴宿禰以下、主麿・兼俊・兼行らの系譜を配し、兼行が安和元年に薩摩国守護を賜り、翌年鹿児島郡へ下向して神食江四十町に屋形を築き『伴様御館』と称したこと、村上天皇の勅命で舞鶴紋を賜ったこと、永観二年に大隅国肝属郡高山庄本城へ移ったことを記す。末尾は安楽豊前守・彦四郎の安楽庄受領へ続く。
本文日付:元應二年十二月一日 本文中の参照年紀:今年八月一日 / 冊子 355頁/原整理番号 五六二/整理ID TMP-P02-NENE4E-D0562
佐多彦四郎が亡父親治の遺領について越訴した事を記す。 今年八月一日の関東御教書と副具書に従うよう伝える。 支申の可否について左右を申すよう求める。
記事 / 冊子 270~271頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0776
寛延三年夏、重年が宗信の遺髪を紀州高野山へ納めるため使者を遣わした。四月十九日暁、福昌寺で島津久亮が継豊の代わりに焼香し、覺門・覺淵らの読経、遺髪の護守と送り出しを行う。総監鎌田政昌、側用人菱刈實詮ほか一行を列挙し、五月朔日出帆後の風波による津々の滞泊、二十八日兵庫港着、二十九日難波着を記す。六月九日に大坂を発ち、十一日に高野山蓮金院で遺髪を仏壇に安置した。十二日は僧衆五十口の勤行と政昌の重年代焼香、十三日は五十口の大曼荼羅供を行い、奥院へ遺髪を納めた。銅製の遺髪箱を木箱に入れ、石の供檀に納めたとの注がある。同日の空輪堂で僧二十口三昧・供養・誦経を行い、霊塔を建立して銘を記した。
十月4日京都本営送状、名簿は八月20日~九月17日等、降伏報知は9月22日 / 冊子 600~606頁/原整理番号 780/整理ID 780
雑録中の会津進撃に関する隊別死亡・負傷名簿と、京都本営の送状。九番・十一番・十二番隊等の戦死者を掲げ、十二番隊では三春の村人や庄屋支配下の者も含め、即死・戦死を記す。諸隊の死者には手負の後に三春病院で死亡した者があり、続く手負人数では深手・浅手・薄手と、負傷した日・場所を区別する。田村小太郎、伊佐敷金之進、加藤郷兵衛、上原正八郎らのほか、道案内、隊付夫卒、地元村人などを列記する。原文内の異日付や前の名簿との異同は残し、同名を別人として合算しない。末尾の十月四日京都本営送状は、戦死手負書一冊・降伏状一帖・問合二通を掲げ、去る九月二十二日に会津へ進撃して終に降伏したとの報知を述べる。通行允許を携えて到京した日須峯敬二郎ほか一人に封書を託して国許へ送り、披露等を取り計らうよう御国許陸軍所へ依頼する。死亡・負傷の区分と送付の叙述は各名簿・送状に帰属させる。
年月日なし / 冊子 875~876頁/原整理番号 1091/整理ID 1091
県内の郡長、副長、里正、副正、戸長助等について、各職の定員と任命者氏名を列記する。別紙として郡長五十名、副長三十名等の補書を含む。
延宝六年五月十四日 / 冊子 169頁/原整理番号 126
延宝六年五月十四日の稽古犬追物「二番闌次第」。犬十五疋を放つ別手組で、島津美作・北郷惣次郎・川上伴平らを列記し、検見を川上十郎左衛門、喚次を土持大右衛門とする。
応永六年三月十四日 / 冊子 182頁
田代清久が、大隅国田代内の東門田二反、南薗彦四郎屋敷などの水田・薗・狩倉を譲与し、違乱する者は清久の子孫と認めないと定めた譲状。
年月日未詳 / 冊子 836頁
薩摩国で宮方・凶徒方に属した武士を列記する交名注文。市来太郎左衛門尉、東郷蔵人、池山彦四郎、伊作田兵部丞、寄田杢助、牛屎左近将監、山野孫次郎ら、複数の一族・被官を挙げる。