島津義久袖加判町田久倍書状
天正20年11月2日 / 冊子 611頁
町田久倍が米屋源三郎へ、父・彦兵衛が京田で奉公したことを理由に、源三郎も引き続き召し抱え、当郡内の知行を与えると通知する。 別紙目録の土地を確実に領知し、今後も奉公に励むよう求める。父の功績を子の召抱えと知行安堵へ結び付けた家臣処遇の書状である。
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天正20年11月2日 / 冊子 611頁
町田久倍が米屋源三郎へ、父・彦兵衛が京田で奉公したことを理由に、源三郎も引き続き召し抱え、当郡内の知行を与えると通知する。 別紙目録の土地を確実に領知し、今後も奉公に励むよう求める。父の功績を子の召抱えと知行安堵へ結び付けた家臣処遇の書状である。
(慶長二年)正月廿八日 / 冊子 75頁
島津義弘が伊集院下野入道へ、旧冬に石田治部少輔が渡海した際に革二枚を贈られた礼と新年の祝意を述べた書状。今回、新納将監・波多彦兵衛尉を使者として渡海させるので、両人の申し入れを聞き届け、諸事に力添えするよう求める。
12月29日 / 冊子 239~240頁/原整理番号 182
覚。貴理師旦宗改衆日記を細々見届け、居候半右衛門道具改、不審者の沙汰、他の必要条書を指示する市来八左衛門尉覚。木上殿への報告と不審者の内証聞合せを命じ、十二月二十九日、市来八左衛門尉から源五左衛門殿・彦兵衛尉殿宛で結ぶ。
11月18日 / 冊子 359~360頁/原整理番号 336
町田久則が、白輪村庄屋満尾弥八左衛門に天草出立が命じられたことを山口源五左衛門尉・酒匂彦兵衛尉へ伝えた書状である。庄屋派遣に必要な手配を促し、天草一乱対応で村役人まで動員された状況を示す。
二月十二日 / 冊子 126頁/原整理番号 200
市来宗友が松下源五左衛門・酒匂彦兵衛へ、熊野元志摩之助を通じた知らせを披見したと伝え、帰陣を待つ。仮屋用の畳を急いで出すよう求め、殿様の陣屋用や鹿児島御道具持に必要な分を差し引いた上で、残りを調達・差替えするよう指示する。
(慶長五年)十一月廿四日 / 冊子 619~620頁
本田少吉が勝一郎へ、扶持に関する音信がなく心細いこと、自身も山口勘兵衛方でいまだ堪忍して助丞の上洛と返事を待っていることを伝える。旅庵と狭い宿で寒さに難儀している近況を述べる一方、川上四郎兵衛・助七・久右衛門・東郷源六・進牟木彦兵衛らが無事であると知らせ、助丞が上洛すれば自分たちの下向も可能になるので急ぐよう求める。
明和九年四月二十四日 / 冊子 193頁/原整理番号 520の2
『伴氏并勝部氏系図』の伝来・書写に関する奥書。串良下小原の万八千大明神神主・石塚相模のもとに格護されていた系図を、明和九年壬辰四月二十四日に肝付彦兵衛が写したと記す。
年月日未詳 / 冊子 48頁
弘治三年の飫肥東光寺・新山をめぐる合戦を記す。肝付勢の志布志口出兵、六月十六日の新山攻めと宮田織部らの戦死、九月二十日の飫肥・北郷勢による東光寺攻撃を伝える。
十二月三日 / 冊子 451頁
本田仲左衛門尉が評定所の秘密を知って申し出た件について、老中衆の議題を誰から聞いたのかを徹底して究明し、隠せば処罰すると申し渡すよう命じた島津光久書状。捜査できなければ老中の一人と仲左衛門尉を直接対決させる方針も示す。
12月10日 / 冊子 469頁/原整理番号 458の5
市来宗友が松下源五左衛門尉・酒匂彦兵衛尉へ送った書状。山奉行衆の書物を持参したことを報じ、水鳥越を通る渡海の可否、鳥ノ儀を被仰越候との事情、天草・島原方面の動静と人数を尋ね、指示を求める。
年未詳3月27日、延享4年4月12日、宝暦9年2月28日ほか / 冊子 275~277頁/原整理番号 107-17
三月二十七日、上原休兵衛が大峯彦兵衛へ、先代上原源右衛門は高麗渡海の際に島津義久の側へ召し置かれて渡海せず、帰朝後、渡海衆への加増とは別に『雨之御旗』に関する使者役の加増として五十石を与えられ、兵具方を勤めたとする家伝を伝え、由緒調査の際には関係文書を見せてほしいと求めた覚書。伊作田を上原氏の本名とする伝承も掲げるが、系図がないため実否は不明と明記する。付属系図は尚益・尚清・尚傳・尚志・尚賢・尚續・尚方らをたどり、延享四年四月十二日に尚益が養子尚清へ家職を譲ったこと、宝暦九年二月二十八日に尚傳が家督を継いだこと、平田家への養子、上原林悦の別家、松元・岸・餅原各家との婚姻などを記す。
天保2年5月9日(本文・朱注) / 冊子 881頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2469
重豪公御譜中の覚書。五月九日に女房奉書が到着したため、同日京都へ飛脚を立てることから記事を始める。使者を迎える家老・側役・表用人・留守居の装束、高輪表門から書院までの出迎え、奉書を捧げ持つ越彦兵衛の役割、客間・書院での家老の差添え、女房奉書文臺の設置、重豪の出座と拝見、右筆への受渡し、箱への収納と記録方での格護までを箇条書きで記す。
宝永六年四月二日~五日 / 冊子 836頁/整理ID 2784
吉貴公譜は、四月二日から五日の家宣代替拝礼を記す。三日に吉貴が登営し、太刀一腰〈備前国綱代金十五枚〉・御馬一疋〈代金二十両〉を献じて着座し、井上正岑と間部詮房の館へ礼に赴く。六日、若松彦兵衛久亀を使者として御台君へ白銀三十枚・箱肴一種、竹姫へ白銀二十枚を進上する。
年月日未詳 / 冊子 395~396頁/原整理番号 360
霜月二十二日の城攻めを記す。並河太左衛門・嶋田十郎左衛門らが守る伊勢丸に一揆勢が竹束を寄せると、六匁筒の鉄砲で撃退する。一揆勢が裏へ回って水の手を断つなか、岡原彦兵衛・上月八助の戦死、呼子平右衛門や古川傳右衛門らの出撃を叙述する。十六歳の古川九市郎が負傷した傳右衛門を担いで戻り、後に水谷伊勢守から五百石で召し抱えられ古川浅右衛門と名乗ったことを記す。守備側の奮戦で一揆勢は有馬方面へ移ったと結ぶ。
年月日未詳 / 冊子 401~402頁/原整理番号 364
二十二日未明、一揆勢が富岡城の伊勢殿丸へ竹束を寄せて攻めたが、並河太左衛門・島田十郎左衛門が大筒で竹束を倒し、多くを討って退けたと記す。一揆勢は搦手へ回り水の手を断ち、城中は一、二日渇水した。岡原彦兵衛・上月八助・呼子平右衛門・河岸茂右衛門・澤木七郎兵衛らが出撃して城を守り、岡原彦兵衛には討死と注する。末尾に二十三日戊子を掲げる。
享和元年酉5月(書付末。旧行事は正保3~4年) / 冊子 191~194頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0042
大猷院の代、大隅守光久が家伝犬追物の上覧を願い、正保4年11月13日に武州王子村で行った旧記を、享和元年5月にまとめる。前年4月7日には試しとして老中・大名・旗本を芝屋敷へ招き二手組で実施。正保3年4月18日の国元への暇と帰国挨拶、翌年3月射手参府、9月12日の上覧命令・13日光久登城、18日会場普請の命令と家老・地引担当、28日の上覧許可再通知、11月3日射手の修行、10日の酒井讃岐守による図書召出しと13日実施決定を記す。光久側の膳進上願は不要とされ、射手は12騎ずつ三手に分け計36騎、別に射手以外の検見・喚次ら12騎と記す。会場は竹垣、東西42間・南北40間、三か所の口。烏帽子・素袍・小刀・籠手・鞢・行縢・沓、馬上弓・蟇目矢、奉行・記録役と二童子の装束を記す。己上刻、尾張・紀伊・水戸父子らが桟敷、光久・又三郎が御目見・献上、12騎ずつ三手組の犬追物を開始。一手組の追加希望も叶い、終了後は茶亭で再召、光久へ脇差、又三郎へ腰物、射手・掛役へ膳と時服を賜った。申上刻過ぎ帰還、16日に父子・家老・射手が登城謝礼し太刀等を献上、時服を頂戴、12月2日にも上覧御礼、二丸大納言への御目見・献上・腰物拝領を経て本丸へ登城した。各準備日、人数、寸法、当日の進行と複数回の謝礼を分ける。
3月式部;17日申付・20日子刻発足/甲子4月2~3日到着注 / 冊子 354頁/原整理番号 501の3/整理ID 501-3
樺山市郎・鎌田郷左衛門・川上平九郎・有馬藤太・井上直次郎ら、帰国を許可された者の名書。御用があるため来る廿日に急いで当地へ差し立てるよう命じる三月式部の書付で、名書は三列に二十六名を列記する。続く注は十七日に命じ、廿日子刻に発足するよう申し合わせたことと、甲子四月二日・三日に追々着いたことを記す。有川十左衛門には右かという原注がある。許可、急派の指示、発足時刻の取決め、到着の後記を分け、御用の具体内容や勤務地は補わない。
(寛永9年)12月14日 / 冊子 36~37頁/原整理番号 39
山田七郎右衛門尉ら三名が川因幡守へ、本丸・二之丸の間を埋める普請、堀や出入口、五つの口の守備配置と昼夜の巡回を報告する。紀之国様・尾張様の不和や兵具用意の風聞、江戸飛脚、伊東殿の帰宅、秋月殿の福島到着予定も伝える。八郎ヶ野番衆の海老原源助から孫六へ状況を伝え、急変時に連絡する段取りを記す。
年月日未詳 / 冊子 341~344頁/原整理番号 311
夜明けに海手・山手から小嶋子の一揆勢を攻め、上津浦へ追撃した経過と、味方が本戸・富岡へ引き取った戦況を記す。富岡籠城後の足軽配置、火矢・鉄砲による応戦、討死者と防備の混乱まで詳述する。
年月日未詳 / 冊子 346~347頁/原整理番号 314
十四日未明、一揆勢が小島子へ押し寄せ、油断していた唐津勢が敗走した戦況を記す。富岡へ退いた残兵と筒城を守った人数、三宅藤兵衛以下の討死者・守備者を列挙する。
年月日未詳 / 冊子 394~395頁/原整理番号 359
二十二日、天草四郎ら一万余の一揆勢が富岡城を再攻撃した経過を記す。十九日の退却後に攻撃を予告した一揆勢は志岐村で竹束などを準備して押し寄せ、城兵は鉄砲・大木・大石で防戦する。攻撃が水口へ回ると原田伊豫や島田・並河らの指揮下で諸士が出撃し、岡原・上月の戦死、古川の負傷と十六歳の九郎市による救出などを列挙する。多勢に圧迫された守備側が本丸内へ引き入るところまで叙述する。
永禄四年七月十二日、寛永十五年、宝永元年三月三日~宝永五年閏正月十六日(主要記事) / 冊子 498~501頁/原整理番号 22-2
酒匂氏左衛門尉家の系譜・軍歴・伝来什物の家例を記す。新左衛門尉から治部少輔へ続き、日州目白坂で戦死した人物を置く。源左衛門尉は鎌田尾張守政年とも称し、島津義久に仕え、伊集院忠朗・島津忠将の移動に従った後、永禄四年七月十二日の竹原山合戦で忠将とともに戦死し、配下三十余人も討死した。景宗は義久から正嫡と認められ、肝属郡串良など八町を知行したが、肝属一郡が伊集院幸侃へ与えられると子らは蒲生、のち出水へ移った。景政を猶子、景明を婿養子とする家督継承、後裔の婚姻・早世・地頭職も載せる。酒匂家伝来の観音像と『天之御母衣』は、家督者が千日潔斎・七か月別火を行って一度拝し、太刀・樽肴を献じて藩主へ披露する家例であった。景明・景義の代に中断したが、景安が旧例復興を訴え、宝永元年三月三日に儀礼を再興し、宝永五年閏正月十六日には忠久伝来什物を収めた筥蔵の小番を代々務めるよう命じられた。
系図全体は無年次(天正7年の飫肥移住・同14年7月27日の戦死を記載) / 冊子 598~599頁/原整理番号 102
加世田士前田茂右衛門家の系図。祖先の前田兵部左衛門尉兼政が加世田に住み、天正七年に日州飫肥へ召し移され、同十四年七月二十七日に飫肥で戦死したと伝える。家伝では三代前まで肝付を称したが、家が盛んでなかったため前田を名乗ったといい、兼政の弟兼定は谷山へ移り、弟兼長は加世田に住んだと分けて記す。後続の兼昌・兼逸・兼通・兼明・兼治らの系線には、日向から母と姉妹が加世田へ移った話、幼くして知行を受けた記事、宮原・若松・河野・相徳武などへの女子の婚姻と早世も添える。
明和七年十月 / 冊子 313~314頁/原整理番号 15-1
播磨国に住む島津源兵衛の願書。先祖の系譜と感状を根拠に島津家との同族関係を訴え、困窮した家筋を取り立てて奉公を許してほしいと薩摩の役人に願い出る。明和七年十月付。
文保元年五月廿二日 / 冊子 451頁
大隅国肝付弁済使入道殿尊阿が申す富郷飯熊別当并同扶持人彦兵衛尉兼村の船間事について、訴状どおり糺明し、早く権進・論人らの状を取るよう救仁郷地頭代へ命じた書下。
十二月廿六日 / 冊子 544頁/整理ID 1868
吉貴が十二月二十六日、若松彦兵衛へ、公方の機嫌を喜び、今月十一日に少将任命を仰せ出されたことに謝す。口宣等の奉書を受けて使者を差し上せるので、その扱いについて指図を願い、祝儀品として太刀・馬代黄金十両・時服十を進覧すると伝える。細事は使者の口上によるとする。
宝永六年十一月二日~四日 / 冊子 877–878頁/整理ID 2874
十一月二日、家宣が西丸から本丸へ移徙した。吉貴は四日、在江戸の家老島津大藏久明を使者に、塩鶴一箱・鰯一箱・昆布一箱・樽三荷を献じて祝う。御台君には二種干疋子を贈り、若松彦兵衛久亀が使者となって二丸で納めた。
年月日未詳 / 冊子 143~191頁/原整理番号 0-1
郡山遜志が調えた薩摩藩士諸家の由緒・系譜・奉公履歴の抄録上巻。冒頭に家名をいろは順に掲げ、市来新左衛門・岩切彦兵衛から名越斧右衛門まで、同姓の別家・庶流も個別に記す。父祖・子孫・養子・婚姻、家督継承・別立・改姓を軸に、知行・移住・地頭職、納戸・右筆・奉行・番役、江戸や京都での勤めを追う。朝鮮出兵・関ヶ原・琉球渡海・島原等の軍役、戦死・帰参・処罰・赦免や出家も収め、系図・伝授系統、調書・朱書等の異説・未詳注を伴う。