親方書状
十月廿八日 / 冊子 903~904頁
親方が本田弾正忠に、書状を受け取ったことを述べ、義鎮から仰せられた件などについて返答した書状。
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十月廿八日 / 冊子 903~904頁
親方が本田弾正忠に、書状を受け取ったことを述べ、義鎮から仰せられた件などについて返答した書状。
十月廿八日 / 冊子 904頁
親方が本田弾正忠に、贈物を拝領したことへの謝意と、道具一領を進上する旨を伝えた書状。
弘治四年戊午六月十四日〔永禄元年相当〕 / 冊子 60頁
樺山幸久(善久・入道安藝)が肝付弾正忠に対し、今回の雑説について、以前神判をもって始終申し合わせた趣旨に変わりはなく、今後も互いに申し開くことを専一とすると誓った契状。偽りがあれば梵天・帝釈、四大天王、堅牢地神、熊野、彦山、霧島、正八幡、諏訪、稲荷、天満宮など諸神の罰を受けるとする。
年月日未詳 / 冊子 267頁
近衛信尹が肝付弾正忠へ、禁裏近辺へ堂上衆が戻ったことなどを述べ、家門に関する用向きへの馳走・助成を依頼し、詳しくは進藤筑後守が伝えるとした書状。本文・宛所に島津義久の実名・法号はない。
〔天正14年〕12月13日 / 冊子 267頁
進藤長治が肝付弾正忠へ、使者として古川主膳入道宗以を下向させたことを知らせ、近衛家の御殿が禁裏近所へ移されたものの諸事が整わず難儀しているため、この機会に援助してほしいと依頼した書状。使者の取次と財政的支援を島津家臣に直接求めた内容である。
天正16年2月16日 / 冊子 380頁
土持弾正忠との誓約を末永く疎略にせず、異心なく守ることを約束する。 もし誓いに背けば魂魄まで罰を受けるとして、梵天・帝釈・四大天王、九州の神々、霧島六所権現などへ神罰を誓った島津義弘の起請文。
文禄4年9月28日 / 冊子 915~916頁
大隅国桑原郡栗野の上村・御前野村・石作などについて石高を列挙し、土持弾正忠へ給与する領知目録。 新知分を確定し、加増がある場合は伊集院幸侃・本田三清の判断で配分すると定め、同日付証状に対応する具体的な土地明細を示す。
十月廿八日 / 冊子 281頁
親方が、書状を頂戴したことを謝し、義鎮へ申し遣わされた条々を了承し、宗綱も承知しているので内容を披露してほしいと本田弾正忠へ伝えた書状。
十月廿一日 / 冊子 403~404頁
佐々木宗綱が本田弾正忠へ、上国時の厚意に謝し、各国の宿老が上意を承知したことを報告する。日州への派兵は豊前の合戦のため延引しているが、豊州・肥州の諸勢を残らず差し立てるとの情報や、霜台についての噂も伝えた書状。
十月廿一日 / 冊子 404頁
佐々木宗綱が本田弾正忠へ、月次山城守から具足一領が進上されたことを伝え、現地で格別に配慮してくれたため重ねて書状があり、祝着の旨が伝達されたとして、互いに披露するよう求めた書状。
(永禄六年)十月廿一日 / 冊子 126頁
佐々木宗綱が島津方からの要請を大友氏の重臣へ伝え、各人が了承して上聞に達したことを報じた書状。日向へ一軍を送る予定は豊前の戦争で遅れているが、終結後は豊後・肥後勢を残して派遣すると伝える。
(永禄六年)十月廿一日 / 冊子 126頁
戸次山城守から具足一領が進上され、当地でも特別に心を添えているため、重ねて書状を送り、その厚意を祝着として披露するよう求めた佐々木宗綱書状の追而書。
十月廿八日 / 冊子 281頁
差出人が、段子一端の拝領に謝意を述べ、返礼として具足二領と糸毛を進上した短い書状。
二月五日 / 冊子 15~16頁
年頭を祝い、祝儀として使者・書状・太刀・馬が到来したことへの謝意を述べ、今後の交誼を願った書状。
二月八日 / 冊子 16頁
年頭を祝い、書状・太刀・馬の到来を喜び、返礼として太刀一腰と緞子一端を送った書状。
正月十四日 / 冊子 16頁
改年を祝い、恒例の賀書・太刀・馬が到来したことを喜び、今後の交誼を願った書状。
十一月十八日 / 冊子 16頁
見舞いのため遠路から飛脚を寄越した厚意に謝し、当地は当面異状がないことを知らせ、詳細を伊勢弥八に託した書状。
文禄2年後9月23日 / 冊子 726頁
諸県郡の逃亡・没収地を久保の蔵入地とする処置は、久保が死去しても変更せず、従来どおり収納するよう命じる。 給人や鎌田杢助が替地を理由に収納を拒む場合は、その旨の墨付を取って証拠を残すよう指示した、久保没後の所領管理に関する義弘書状。
文禄2年後9月廿二日 / 冊子 746頁
諸県郡の逃亡・没収地を久保の蔵入地とする処置は、久保が死去しても変更せず、従来どおり収納するよう島津義弘が命じる。収納を拒む給人がいれば、墨付を取って証拠を残すよう指示する。 No.1181と同文のため本文を省略した、久保没後の所領管理に関する義弘書状の重出。
年月日未詳 / 冊子 122頁
『肝付兼氏譜』の記事。永徳二年六月七日、公使の大寺弾正忠保音入道幸阿らが、北原主計入道に姶良荘末次の田中寺寺務職を命じたことを記す。
明徳五年四月九日 / 冊子 153~154頁
伊予守が楠橋対馬守・設楽駿河守に、薩摩国山門院内の田地などを市来崎弾正忠へ付すよう命じた宛行状。
(永禄九年)六月十日 / 冊子 146~147頁
島津義久が義弘から軍事行動と日取りについての書状を受け、詳細を了承して必ず勝利するであろうと応じた書状。肝付弾正忠へ申し付けることを伝え、求められた薬種を少量ながら送る。
(慶長四年) / 冊子 400頁
島津義久が前田久右衛門尉に、旧主肝付弾正忠の武勇は広く知られており、その家跡を取り立てるべきだと述べる。前田家が代々重ねた比類ない戦功と忠節を評価して召し出し、高四十石を宛行う。
(慶長五年) / 冊子 495頁
島津義久が起請文の前書として、伊集院幸侃成敗後の三郎五郎の進退は上意に従うと誓い、古弾正忠の奉公一筋を理由に家が断絶しないよう願う。富隈・鹿児島・帖佐三か所で忠貞を尽くし、親子・兄弟・縁者・知音であっても背反に同意せず、異変があれば直ちに報告すると誓約する。
年月日不詳 / 冊子 114頁
島津義久が、古肝付弾正忠の武勇と、その家中の田代八の比類ない戦功を賞し、忠節への恩賞として高四十石を宛行った文書。本文には年号月日欠と明記される。
卯月十四日 / 冊子 223頁
一色藤長が、織田弾正忠の行為が積み重なって足利義昭が前年京都を退き紀州へ移ったこと、諸口を催して入洛に向けて行動していることを伝え、島津方に忠功と奔走を求めた副状。
年月日未詳 / 冊子 414~415頁
差出人不詳の覚書。公儀からの呼称や大坂での座次、阿州衆・木朝倉への書面、越州・丹州への下向、織田弾正忠の扱い、前年以来の公儀との交渉、島津貴久への弔使僧、日向国など、複数の交渉・儀礼事項を箇条書きにしたもの。
明徳5年4月9日 / 冊子 659頁/原整理番号 137
明徳五年四月九日、伊与守が楠橋対馬守・設楽駿河守に、薩摩国山門院針原内の高柳一町三反・桃木田五反と、市来崎内の薗一か所などを沙弥市来崎弾正忠に付するよう命じた書下。二名は文書の宛所で、市来崎弾正忠が土地を付与される対象者である。伊与守が花押を据える。既存概要の合戦出陣・軍忠の命令は本文にない。
年月日未詳 / 冊子 715頁
島津義久の通称・官位と、天文二年二月九日の出生、母が入来院弾正忠重聡の娘であることを記す。
年月日未詳 / 冊子 734頁
島津義弘の初名忠平、通称中務少輔・又四郎・兵庫頭、位階・官職と、天文四年七月二十三日の出生、母が入来院弾正忠重聡の娘であることを記す。
(永禄十一年)正月三日 / 冊子 181頁
島津氏老臣三名が、前日に菱刈方面への出立予定を伝えたものの、球磨領内に逆乱が起きたため、典厩様に軍勢を率いて時を移さず飯野へ赴き、境目の様子を確認するよう強く申し入れた連署状。敷根殿・肝付弾正忠にも同様に伝えたとして、川上・町田両名に心得を求める。
年月日未詳 / 冊子 4~5頁
天正十三年二月六日から十八日を中心に、島津義久が諸方の使者や上使を迎えた際の応接を日次で記す。宇都氏・土持弾正忠・北郷弾正忠らから賀札や贈物が届き、毛利殿の使僧五戒房が上使の到着を予告した。上使柳沢新右衛門尉元政の摩島往復、宿所の手配、義久との対面、席次をめぐる礼譲、太刀・段子・馬などの贈答、伊集院忠棟ら家臣の陪席までを詳述する。戦況報告ではなく、島津家が外来使節を迎える際の儀礼・座次・饗応・贈答の実務を具体的に伝える記録である。
宝治二年七月十九日 / 冊子 199頁
薩摩国宮里郷益□名主新大夫正持が、当名内の田五反について地頭代から濫妨を受けたと訴えた件。弾正忠宗□が地頭御代官本田五郎兵衛□に、寛元三年七月十六日付下文に従って承知・処理するよう命じた下知状。
(天正二年)四月九日 / 冊子 338~339頁
相良方の老臣が、久しく無沙汰となったことを詫び、隅州方面が島津方の勝利となったとの知らせを祝う。今後も親密な関係を望み、詳細は福田寺が口頭で伝えるとする連署状で、差出人らの花押と裏書を伴う。
宝治二年七月十九日 / 冊子 39頁/原整理番号 253
薩摩国宮里郷益口名主新大夫正持の訴えにより、益口名内の田五反と園二か所に対する地頭代の濫妨を、寛元三年七月十六日付下文に任せて停止・処理するよう命じた下知状。宝治二年七月十九日付。
年月日未詳 / 冊子 813頁
九月二十八日の金隈合戦で伊地知弾正忠季随が討死したことを記し、異説の日付にも触れた殉国名藪の記事。
天正九年十一月廿日 / 冊子 702~703頁
八木正信が土持弾正忠らへ、先年の親成と相州の懇切を後代の証とし、両家に諸役が命じられる際は親成・久綱の一筋を左、正信の一筋を右に置き、他の土持名字より公儀上の上位とするよう求めた書状。
(天正13年)12月13日 / 冊子 136~137頁
近衛信尹が北郷弾正忠(時久)へ、禁裏近辺と近衛家をめぐる事情を知らせ、従来どおり奉公するよう求めた書状。禁裏の移御や家門に関する難題への対応を述べ、扇子三本を贈っている。京都の公家と島津一門が直接書状・贈答を交わした関係を示す。
貞和三年八月十八日 / 冊子 113~114頁/原整理番号 431
永成が鶴一丸代に、春日社兼一乗院領島津庄日向方飫肥北郷の収納使・弁済使職について、水間栄証法眼・子息忠政らが武家御教書等を称して押領する件を伝え、調査で根拠がないと判明したため、所務を回復して年貢を進納し、なお従わなければ与力人の交名を注進するよう命じた奉書。貞和三年八月十八日付。
(寛永十四年)六月廿五日 / 冊子 662頁
六月二十一日付の書状を拝見し、二十五日に島原で申し渡す予定の件について、三原左衛門佐と行き違いで面会できなかったため、詳細は三原から伝えるとして要点のみを知らせた書状。
七月廿八日 / 冊子 16頁
鑑法が、先春の申し入れに対する丁寧な返書と内々の取り成しへ謝意を述べた書状。遠国のため音信が滞ったとし、真光寺の使節が出国する機会に書状を託し、その寺が当地の事情に不案内なので万事支援してほしいと頼む。別紙で贈られた二品も受領したと伝える。
正月十二日 / 冊子 16頁
津興が、前年夏の上洛後に音信が途絶えていたことを詫び、国中の静謐を尋ねた書状。長年の大望に関わる用事が多いため帰国を延ばし、来春から夏ごろの下向を見込むと伝える。御屋形様父子・典厩様への取り成しと、寺家の修理・諸役・公事を怠りなく処理し、老齢の報忍寺にも配慮するよう求める。
年月日未詳 / 冊子 347頁/原整理番号 43
伊東家と二十余年争っていた島津家に、将軍義輝が和談の仲介として伊勢備後守貞運を下向させたことを記す。貞運は末吉で大中に接見し、新納忠元・樺山幸久・肝付弾正忠兼實が命を受けて応答したという。
年月日未詳 / 冊子 347頁/原整理番号 44
年譜が、伊東の侵入から長く対立した島津と伊東の間を、幕府が伊勢備後守貞運を派遣して和解させようとしたことを記す。十月に貴久は末吉で貞運を賓客として迎え、忠元・樺山幸久・肝付弾正忠兼實・川井豊前守らが応対した。忠元らに功が多かったという。
享保十九年十月五日~十九日 / 冊子 335頁/整理ID 783
十月五日、麻布邸の火災が田町邸に延焼して茶亭・普請方などが焼失した。防火のため門や櫓を設けるなど、十月十九日までの対応を記す。
天正五年十一月十三日 / 冊子 147~148頁/原整理番号 87
天正五年十一月十三日、鹿児島の馬場で御祈祷の犬追物を行った手組。島津兵庫頭九疋、島津左衛門督十二疋、島津上野介五疋など射手別の配当を記し、喚次を本田因幡守とする。
「永禄三年」十月七日 / 冊子 347~350頁/原整理番号 45
伊勢備後守の下向に伴う島津・伊東間の和議交渉を、十月七日から十七日にわたり記す筆記。貴久らは上意への奉公、所領の沙汰、日向の和平、飫肥の境界と退陣を話し合う。伊東方が三国守護職を受けたとの説に対して、島津側は守護職の証文と先例を示し、仲介者が理解するまで応答を重ねた。酒宴・衣服の交換・刀剣や道具の贈答、境界料所の扱いも記す。末尾では縁組の風説を否定し、伊東との和平と所領問題を扱う調法を備後守に依頼する。
(永禄三年)十月廿八日 / 冊子 350頁/原整理番号 46
伊勢貞運が新納・樺山・肝付に、帰国後の和議の取りまとめを依頼する書状。和議が延期しているため飛脚を出し、伊東方の請書と入道殿種々の件を厳重に扱うよう求める。料所の件では意向を承り、召集する住民にも通知したいとする。下知などの調整を受けて貞運が飫肥へ向かい、豊州側も来ること、双方の年寄衆を派遣して大方で取りまとめる会合を相談する。
年月日未詳 / 冊子 358頁/原整理番号 60
菱刈家の継承と島津への内談から、大口・馬越をめぐる争いまで記す。菱刈側は新知行の所領を献上する約束をしたが、求麻との境界や大口の住民の用心について相談した。貴久が飯野へ向かった後、兵庫頭・新納・肝付らは菱刈へ先に派遣され、伊東への内通を知って馬越を攻めた。羽月・平泉・山野との通路と守備を確保し、羽月は島津方へ進上された。終わりには番替と帰還、絶通路にしたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 361~362頁/原整理番号 65
馬越から一山を見廻った時、大口の四千人ほどが二手に分かれて襲来したことを記す。小苗代原では肝付が諸隊に指示し、弓と鉄炮で戦った。一山地頭の忠元は白坂口へ出て的場五藤と戦い、大太刀を振るったが、五藤は負傷して退いた。続く諸隊の働きと忠元の鎧の損傷、敵の撤退を記し、三原・長谷場を使者として軍労に礼を述べたことを伝える。