安弥左衛門尉書状
(慶長三年)十一月三日 / 冊子 274頁
安弥左衛門尉が(慶長三年)十一月三日付で伊勢弥九郎へ出した書状。初めて和泉と同陣した際に受けた懇意と言葉への感謝を述べ、各方面から出た唐人を時を移さず討ち取った働きは日本中に隠れのない比類ない手柄だと称える。帰朝の折には図書頭殿のもとへ参上して直接祝意を述べたいとする。
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(慶長三年)十一月三日 / 冊子 274頁
安弥左衛門尉が(慶長三年)十一月三日付で伊勢弥九郎へ出した書状。初めて和泉と同陣した際に受けた懇意と言葉への感謝を述べ、各方面から出た唐人を時を移さず討ち取った働きは日本中に隠れのない比類ない手柄だと称える。帰朝の折には図書頭殿のもとへ参上して直接祝意を述べたいとする。
(慶長五年)正月三日 / 冊子 495頁
伊那令成が島津中書の側近へ新年を祝う。前年暮れに中書が内府徳川家康へ小袖を贈り、家康が喜んで直書を発したこと、令成自身も小袖一重を受けて感謝していることを伝える。西郷弥左衛門・山口勘兵衛・伊勢兵部を派遣するので、領内を安全に通して確実に到着させるよう頼み、惟新へは大坂から直接参るため別状を出していないと述べる。
(寛永七年)十一月廿八日 / 冊子 179頁
琉球へ派遣する川上又左衛門尉・菱刈伴右衛門尉に付ける人数、京都で調達する銀子、帖佐弥左衛門尉の知行召上げ、比志島宮内少の嫡子の屋久島での出家、種子島にいる宮内少の女性と子二人の移送、息女を吉利下総守へ預けることなどを指示した覚書条書。
寛永十五年二月廿八日 / 冊子 767頁
有馬春之城の本丸石垣に取り付き、塀を越えて城内で首一つを取ったことを、是枝喜右衛門・井尻三郎右衛門の証跡を挙げて届けた平田弥左衛門の戦功証文。
寛永十五年二月廿八日 / 冊子 768頁
寛永十五年二月二十八日、有馬城本丸で首一つを取り、木佐貫半右衛門尉を首主、川田弥左衛門を合討者として、坂元四郎兵衛・福崎覚兵衛を証跡人に挙げた連署の戦功証文。
永禄十年十一月廿四日ほか / 冊子 170~171頁
永禄十年十一月二十四日の馬越城攻めを中心に、同月二十五日・二十九日などの戦闘で戦死・負傷した将兵を列挙する交名抄。辻大蔵左衛門尉、有馬軍弥左衛門尉、村田右衛門尉、町田忠継、市来家利、伊集院久慶らの名と戦死・負傷等の注記を載せる。
天明五年冬 / 冊子 832頁/原整理番号 2280/整理ID 2280
伊佐郡山崎郷白男川村の農夫弥左衛門は、幼時に父を失って母を養い、結婚せず孝養を尽くした。同郷山崎村の農夫五郎左衛門の妻は弥左衛門の姉で、舅姑を孝養した。久富木村の農夫七左衛門の妻は弥左衛門の妹で、七十余歳の姑を孝養した。天明五年冬、重豪がそれぞれに品を与えて賞した。
年月日未詳 / 冊子 320頁/原整理番号 363
木佐貫半右衛門と川田弥左衛門が、寛永十五年二月二十八日、有馬城本丸で首一つを取ったことを連署で証する文書。首主は鹿児島衆木佐貫半右衛門、合討は曽木衆川田弥左衛門とし、証跡人に曽木衆坂元四郎兵衛尉と福崎覚兵衛尉を挙げる。本文に宛所はなく、目録年月日欄は空欄。編者注は『旧記雑録後編五』二一四九号文書と同文とする。
永禄十年十一月廿三日~廿四日 / 冊子 171頁
永禄十年十一月二十三日からの馬越城攻めに従軍した将兵を、義弘・歳久の指揮下に分けて列挙した交名。戦功を挙げた者に加え、辻大蔵左衛門尉、村田右衛門尉、町田忠継、新納九郎らには戦死の注記を付す。
年月日未詳 / 冊子 481~489頁
庄内軍の戦場ごと・日付ごとの戦果を改めた日記。高城口をはじめ各戦場について、蒲生衆・加久藤衆・限城衆・清敷衆・高城衆・志和池衆などの所属別に、分捕、手負、戦死、鉄砲・弓・鑓・刀の使用や取得、参加者名と人数を列挙する。十月から翌正月に及ぶ複数の戦闘記録をまとめ、各隊の働きと損害を具体的に示す。
(明暦三年)五月十四日 / 冊子 340頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0729
島津中務久茂が国元の役人へ、当地の上々の機嫌がよいこと、昨日公方から薩州様へ上使石河弥左衛門を介して御鷹之鴨五が給されたと報じる。松平美作守・下野守も同時に鴨を拝領し、親側から軽い礼使を送る件を留守居衆で相談しているという。本文五月十四日、封面六月朔日飛脚持下。
年月日未詳 / 冊子 18頁/原整理番号 21
『寛明日記』の記事。同頁の日次見出し「二十八日壬辰」のもと、二十八日に上使の石川弥左衛門・宮城越前守が有馬へ到着したと記す。
正月廿八日 / 冊子 23~24頁/原整理番号 38
川上久国が三原重庸・山田有栄・島津久元らへ、以前江川弥左衛門尉を長崎へ借銀に遣わした際、有馬屋休庵へ二十貫目の借状を出したので、その写しを借銀帳に添え、帰宅時に帳面へ記すよう求める。琉球から唐糸船が来ないため消息を聞く小船を出す予定で、相良権兵衛尉は御物銀百貫目または五十貫目ほどを下すよう申し上げたと伝える。大山九郎兵衛尉を長崎へ借銀に遣わす案は、長崎には従来借銀がないと聞いて中止した。唐向けの銀も当地の用銀も調わず難儀しているため、借銀の有無を照会する書状。
年月日未詳 / 冊子 53頁/原整理番号 77-1
『平塞録』二日条。上使の宮城越前守・石川弥左衛門が諸大名へ、板倉内膳正重昌の討死を踏まえ、城を静かに包囲して兵糧攻めとし、味方の損害を避けて邪宗門を断絶するよう幕府の意向を伝えた。個人の抜駆け・高名争いを禁じ、諸大名は判形して承諾した。
年月日未詳 / 冊子 146頁/原整理番号 254-2
小原織部の取払帳米払方。今村之弥左衛門、長前之清右衛門、荒武弥五右衛門尉の三人について、それぞれ真米一斗五升七合五夕を、正月十六日夜から二月十七日夜まで三十一日分の一かたけ分として記す。以下は十九日条に載せるとの注記がある。
二月廿八日 / 冊子 319~320頁/原整理番号 362
平田弥左衛門宗宣が、寅二月二十八日、有馬春之城本丸の石垣に着き、屏を越えて城内で首一つを取ったことを届ける差出。是枝喜右衛門と出水衆井尻三郎右衛門が証跡を知るとし、差出改衆中に提出する。編者注は『旧記雑録後編五』二一四七号文書と同文とする。
年月日未詳 / 冊子 166~167頁/原整理番号 510
末吉の肝付孫七家系図。上世の出所は不明で、肝付左近の実名・法号も不詳とする。左近に男子がなかったため、大山弥八左衛門の子を弥左衛門として養子に迎え、法名を潤心識屋禅定門と記す。以下、弥八左衛門・弥七・太郎兵衛・七郎らの分岐、養子、母方、婚姻を列記する。
元禄十一年十月十七日 / 冊子 84頁/整理ID 285
川村少左衛門が伊野波親方・仲田親方・北谷按司へ、右之通の件は伊地知八右衛門の取次で近江殿方へ伝えられ、近江殿の差図によって知らせたものなので、そちらで実否を糺し来春便に報告するよう求めた十月十七日付書状。
年月日未詳 / 冊子 573~574頁/原整理番号 593
『藤掛集書』所収の書。原城絵図を附寄し、江戸からの上使警固衆と諸役人の配置を報告する。翌日、武江へ罷帰る予定にも触れる。
11月22日 / 冊子 400頁/原整理番号 362の2
十一月二十二日、小松原から立てた弥左衛門・平兵衛尉・惣左衛門と、小湊から立てた太郎作・善七・半介を列記する。商買船に雇われ小湊へ来ているので受け取るよう、三原源右衛門・永山覚兵衛尉へ命ずる。本文に合計三十二人との記載はなく、列挙されるのは六人である。
年月日未詳 / 冊子 450~451頁/原整理番号 562-1
若君の四月元服に伴う奉行衆の振舞いへ西弥左衛門ら五人を召し寄せること、秋目地頭には港務に通じた者を置くことを求める。また従来は高三百石以上を乗馬とした軍役を、今後は二百石以上を乗馬、百石以上を小荷駄とする旨を申し渡す。本文は正保二年正月十八日付の新納久詮・北郷久加連署書状だが、目録は年月日空欄・標題を児玉利実覚書とする。
(明暦三年)八月十日 / 冊子 347頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0744
島津久茂が国元の役人らへ、石川・坂井・永井各氏の書状を取り次ぎ、将軍への挨拶、江戸屋敷の女房衆・奉公人の召寄せ、家臣の出仕・留守居と人員配置について指示した書状。
11月23日 / 冊子 404~405頁/原整理番号 368の2
片浦から出す五枚帆一艘・四枚帆三艘(水手計三十二人)と、小浦から出す五枚帆一艘・四枚帆三艘について、船主・上乗・主取を列記する。さらに小松原三人・小湊三人の加子六人をそちらの船に早く乗せ、残る十一人は片浦から送ると伝える。十一月二十三日、小湊庄屋佐藤大炊左衛門宛。六人は商買船に雇われ小浦へ来ているが、船は他国船なので加子だけを小湊船へ乗せると付記する。
年月日未詳 / 冊子 682頁/原整理番号 691
北郷久加世が自分の人数をそろえ、都合四百六十七人を召し連れて同月十三日に出水郡米津へ到着したことを記す。役人・軍政や留守中の地域支配に触れ、出兵準備と在国統治の状況を述べる。
年月日未詳 / 冊子 710~711頁/原整理番号 740
正月十五日を中心に島原出陣者の主従人数、米之津・久見崎などへの到着日、乗船勤務と飯米支給を記録する。福崎らの主従人数、御道具衆49人、兵具持の夫丸11人などを列記し、既支給分や僧侶から出された夫の内訳を付記する。末尾に三原五郎兵衛20人・平山七兵衛15人の有馬到着を記す。季安は次の記事を十六日に分け、十五日到着者の追記を加えたと説明する。
年月日未詳 / 冊子 712~713頁/原整理番号 746
正月十六日を中心とする島原軍衆の人数差出留。前日到着の本田らの主従人数、始良衆・佐多衆・新納らの軍衆と夫丸、乗船勤務・到着地を記し、頴娃御蔵からの米受領、各人への米支給を注記する。季安は以後を十七日条へ分けたと説明し、十六日に米津へ到着した二階堂家中・敷根・福山・須木の人数を追記する。
寛永18年2月12日 / 冊子 718~720頁/原整理番号 747の5
加久藤の検地寺領衆と一向宗寺領衆が自力で有馬へ出陣した名簿・日数差出。萩原藤介以下を帰還日別に列記し、正月十六日から二月八日・十八日・十九日、三月八日までの日数を計上する。寛永十八年二月十二日付、伊地知・谷口連署。後半には「合4人・一人53日」に対し「合106日」と記すなど、人数と延べ日数が一致しない箇所があるため原記載を保持する。
年月日未詳 / 冊子 733~736頁/原整理番号 772
正月十七日を中心に米津へ到着した各郷の軍勢を、人躰・卒者・小者・夫丸・玉薬持夫に分けて記す。都之城八十人と小者夫丸七十一人、吉松三十人と夫丸四十二人、栗野七十人と夫丸三十一人、国分八十五人と卒者夫丸百三十四人などを載せ、人物別の負担人数も列記する。後半には十八日条へ分載する旨を注し、十七日到着の大姶良・頴娃・飯野・高原・小林・清水・蒲生・高山などの士と従者を続ける。
二月朔日 / 冊子 46頁/原整理番号 67-2
二月朔日に鹿児島へ参る衆28人の覚。四位与四郎以下、北原吉左衛門尉までを列挙する。文書67-1が出発を記す蒲生衆28人に対応する。
寛永13年9月 / 冊子 80~81頁/原整理番号 17-8
寛永十三年九月の鹿児島衆中屋敷帳から、松崎采女正について『下屋鋪四せ』『下々屋敷四せ廿三分』と記す抄録。続いて松崎貞悦の慶安五年以降の奉公歴を掲げる。慶安五年に上洛を命じられて三月六日に鹿児島を立ち、四月二十五日に江戸へ着いた。承応二年には琉球からの将軍継目祝使である国頭王子に関わり、島津光久に召し連れられて日光参詣へ供奉した。万治二年には進上用の腰物を選ぶため、堀尾正宗・貞宗・左文字・兼光・則光などを江戸へ持参した。寛文三年とみられる光久の上洛には道中跡払いとして供奉し、大坂・江戸の御番割に入った。六月には国許への急用使として江戸から鹿児島へ往復し、九月に再び江戸へ参着した。同年十二月には島津綱久から将軍への寒中伺候使者となり、酒井雅楽頭や老中阿部豊後守・稲葉美濃守・久世大和守を訪ね、江戸城で七島鰹節を進上した。その後も寛文四年の下向供奉、同五年の秋月佐渡家来欠落事件に関する使者、延宝二年の大坂町奉行石丸石見守への使者を務めた。
慶長五年、慶長七年、寛永十四年~延宝七年(後続系譜記事) / 冊子 487~489頁/原整理番号 20-1
慶長五年・七年の諏訪大明神祭会について、御頭屋・御頭人、左右の居頭、初献・二献・三献、相伴、御幣、敷皮などの勤役者を列挙した書上。高城・寺山・国分・新納・平田・加治木・本田・猿渡らの人名と、嫡子・二男・内衆などの続柄や立場を具体的に記す。後半は平田氏の後続系図で、伊東肥後守祐辰女を妻とした人物の没年・葬地に続き、内田才右衛門正重の嫡子・宗宣が宗敏の婿となって家を継いだことを記す。宗宣は寛永十四年の肥前有馬におけるキリシタン一揆で軍使を務め、翌年二月二十八日の原城攻めでは自ら枝書右衛門を召し取り、分捕りの証状を得たとし、その後の宗模・宗貞・宗明・宗喜らについて妻の出自、出生・没年、幼名・通称を延宝年間まで載せる。
年月日未詳 / 冊子 355~356頁/原整理番号 58
菱刈方の背反を受け、島津方が進路を変えて馬越を夜襲した経緯を記す。義久は徳辺の岡へ上り、諸隊が競って攻め、負傷者・死者を出しながら城を落とした。義弘や各地の兵も働き、城戸で村田右衛門尉が戦死した。その後菱刈方は複数の城を捨てて大口へ籠もり、島津方は残る城へ守備隊を配置した。
年月日未詳 / 冊子 356~358頁/原整理番号 59
横川から来た者が島津方の情勢を菱刈・伊東・相良へ知らせ、背反が起きたことを記す。菱刈は大軍の進路に気づかなかったといい、島津方は馬越へ急襲した。先鋒が多数の損害を受けながら攻め、義久・義弘の隊や諸隊が戦って落城させた。諸城が放棄され大口に籠城されると守備隊を置いたが、相良頼房の加勢もあり、求麻・八代・芦北の兵や住民が集まって、大口は攻め難い城になったという。
宝永二年十二月廿日 / 冊子 76~77頁/原整理番号 7
伊地知重昌は、宝永二年十二月、正月の椀飯と五節供の調製を、伊地知家に伝わる古式の書を基に御包丁人頭が行うことになった経緯を記す。それまで鎌倉流と称して担当した重信家には古い書がないと判明し、伊地知家の書を御包丁人頭へ示し、写本を提出して返却を受けたという。
二月廿九日 / 冊子 768頁
寛永十五年二月二十八日、有馬城本丸の内へ入ったことを、木佐貫半右衛門尉・川田弥左衛門尉を証跡人として記した福崎覚兵衛・坂元四郎兵衛尉連署の差出。
慶安三年八月八日 / 冊子 173~174頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0324
八月五日、上使石川弥左衛門によって御鷹の雲雀を拝領し、登城御礼も整ったことを報じる。国元からの御礼や、暇に際する祝物を受けたこと、人員を国元へ差し出すこと、返答の書状・飛脚の相談を述べる。島津中務は前日に首尾よく登城したと記し、奉書が出れば急いで知らせるという。
年月日未詳 / 冊子 242頁/原整理番号 333-28
本丸での軍功者を記した記事。歩行使番都合太兵衛は塀の破口から乗り込み、一番乗りと名乗り、一揆と組み合って押さえ首を取り、これを本丸の一番首とする。池永源太夫は槍で一揆を突いて負傷し、後藤権右衛門は一揆を斬り伏せて首二つを取ったという。さらに足軽十人として山内五兵衛・平井十兵衛・岩尾数右衛門・齋藤庄蔵・品川六兵衛・志賀安之丞・村上弥左衛門・加藤安太夫・速水忠兵衛・江口弥左衛門を列記する。
年月日未詳 / 冊子 317頁/原整理番号 352
寛永十五年二月二十八日未時、肥前国有馬原城本丸で討ち捕った首の注文。立会人は平田弥左衛門尉・出水衆伊尻三郎右衛門尉。家名不知の首一つのほか、是枝喜右衛門快温の被官春田九兵衛、同道具之者才蔵、定加子与次右衛門尉、市作、権介について各首一つを掲げ、合計六首となる。目録年月日欄は空欄である。編者注は『旧記雑録後編五』二一五四号文書と同文とする。
年月日未詳 / 冊子 321頁/原整理番号 368
曽木衆坂元四郎兵衛尉と福崎覚兵衛尉が、寛永十五年二月二十八日、有馬城本丸の内へ入ったことを連署で証する文書。鹿児島衆木佐貫半右衛門尉と曽木衆川田弥左衛門尉を証跡人に挙げる。本文に宛所はなく、目録年月日欄は空欄。編者注は『旧記雑録後編五』二一五〇号文書と同文とする。
年月日未詳 / 冊子 328~330頁/原整理番号 371
寛永十五年二月二十八日未刻、肥前有馬原城本丸で鑓を働かせた大口衆を中心に、手負、首取得、射撃、屏越、戦死などを列記した注文。高城七郎左衛門尉、肱岡左近丞、松下惣左衛門尉、濱川西市丞らの手負と各証跡人を記し、続く『首注文』では松木平兵衛、小城弥左衛門尉、寺師刑部左衛門尉、帖佐喜兵衛、原田新兵衛らについて首一つずつと証跡人または無証跡を区別する。さらに敵への弓射、敵の鑓・道具の取得、屏越、加賀守鑓場・本丸での戦死を記す。本文に作成者、宛所、差出日はなく、目録年月日欄も空欄。編者注は『旧記雑録後編五』二一四三号文書と同文とする。
寛永十五年二月廿八日 / 冊子 343頁/原整理番号 381-7
寛永十五年二月二十八日の有馬原城本丸城乗における鹿児島衆の軍功帳。新納加賀守・市来八左衛門尉の鑓合、三原五郎兵衛・村尾源左衛門尉の弓射通、是枝喜右衛門尉・福崎新兵衛らの鑓合・刀討・首捕を記し、日高十兵衛には受傷を付す。ほか有馬九郎左衛門尉、大野監物、友野七郎、有馬久右衛門尉、平田弥左衛門尉を列挙する。
年月日未詳 / 冊子 167~168頁/原整理番号 511
末吉の肝付弥八左衛門家系図。上世の出所は不明とし、肝付石見の実名も不詳とする。兼重(弥八左衛門)は肝付弥左衛門の次男で、八郎兵衛の養子となった。後裔の母方・婚姻を記し、別系の八郎兵衛は井之前半左衛門の次男から養子に入り、法号を教心善阿信士とする。