新納忠元知行坪付
慶長十一年十二月廿二日 / 冊子 102頁
慶長十一年十二月二十二日、新納忠元が大口の大田市兵衛尉に与えた知行坪付。篠原千束町・合田島の田地について、面積、分米、高、納入分および永代買得分を列記する。
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慶長十一年十二月廿二日 / 冊子 102頁
慶長十一年十二月二十二日、新納忠元が大口の大田市兵衛尉に与えた知行坪付。篠原千束町・合田島の田地について、面積、分米、高、納入分および永代買得分を列記する。
年月日未詳 / 冊子 318~319頁
平佐城が豊臣方の攻撃を受けた際、城兵が門・櫓・城壁の持ち場で応戦した経過を記す原田市兵衛の書。寄手の大将小出大隅守らに対し、少人数の守兵が鉄砲・刀で戦い、討死・負傷者を出しながら城を支えた。平佐城攻防の配置と被害を伝える実戦記録である。
(慶長七年)十一月三日 / 冊子 858-859頁
本多正信が島津義弘へ、大野市兵衛を通じて申し越された件を内府へ披露し、その趣旨が承知されたと伝える。山口直友からも連絡を受け、義弘の上洛に伴う苦労を察し、今後の取成しや諸用についても尽力すると約した書状案。
五月廿二日 / 冊子 45頁
原田市兵衛が、天正十五年の平佐城攻めにおける祖父原田帯刀の軍功を申し立てた文書。籠城戦で寄手の大将九鬼八郎を弓で射たこと、直後に和談となり、矢をめぐって小出大隅守方の家老らが確認した経緯を述べる。
十月廿一日 / 冊子 439頁/原整理番号 550
中條市兵衛は、夫丸二十八人を含む百六人が正月十日に出立した後、二月十九日に三十四人が呼び戻され二十二日に帰宅して各四十三日となったことを報告する。残る七十二人のうち三人は二月二十八日に江戸役へ付け替えられ、上津浦を出船して三月二日に帰宅し各五十三日、残る六十九人は三月十四日に暇を得て十七日に帰宅し各六十七日であった。本文署名は中條市兵衛だが、目録標題は中俣市兵衛とする。
(慶長五年)八月十九日 / 冊子 565~566頁
島津義弘(惟新)が少将殿へ、徳川家康から預かった鷹を返し、帖佐衆を他所の人数に遅れず急ぎ上洛させるよう伊勢平左衛門・本田六右衛門に督促させることを求める。七月二十九日付書状を垂井で受け、龍伯の上洛は今は不要とし、従来の動員要請に明確な返事がなく一人も差し上せられないことを厳しく問いただす。秀頼と家のため命を捨てる覚悟で美濃に在陣し、伏見戦の損害で人手が乏しく、東国勢が清洲へ到着して戦闘が迫るため、身分を問わず帖佐衆を上らせるよう重ねて命じる書状。
年月日未詳 / 冊子 662-663頁
関ヶ原敗戦後、伊勢平左衛門から島津義弘(惟新)の所在を聞いた今井道与は、住吉辺に潜む義弘を迎えて自宅で休ませ、厳しい落人改めを避けて夜に堺の塩屋孫右衛門宅へ移した。大坂川口の通行手形や船を手配し、義弘の船と夫人方の船を沖で合流させて帰国を助けた。この忠節により後に千石・無役を約されたと訴える願書である。
年月日未詳 / 冊子 915頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2489
河辺郡加世田郷大浦村の市兵衛・次郎兵衛・志摩右衛門は、母を養い助け合って暮らした。兄市兵衛の病死後、二弟が母と兄の遺児を養い、志摩右衛門は母を馬に載せ自ら轡を取って鹿府へ赴き、寺院を訪れて亡兄を弔い母の願いを満たした。元禄七年十月二十日、綱貴が母と兄弟を召し、二子の孝順を賞して青銅三千疋と耕田十斛の丁役免除を永く与えた。
天保4年3月22日~4月27日(年次目録、月日本文) / 冊子 970~971頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2704
重豪公御譜中の記事。三月二十二日に奥平昌高の使者黒瀬市兵衛が下町会所へ、四月四日に松平美濃守斉溥の使者山内仁太夫ほか計三十四人が上町会所へ来館した。重豪葬送の日、両方の使者が福昌寺に香奠銀を献じて焼香し、斉興は各使者に銀十枚を贈って労をねぎらったと記す。使事の後は各々の本府へ帰った。四月十三日から二十七日まで福昌寺で中陰仏事を行い、初日は斉興が島津安藝忠喬、斉彬が島津啓之助忠剛を遣わして祭文を献じ焼香・拝礼し、斉宣も家老を遣わし白銀十枚を献じた。十五日夜の儀礼と宮崎成市の法筵への助力、十六日の諸有司、十七日の諸士・組与力による献祭文と木主への礼を記す。末尾には松平刑部大輔の代として土岐平太夫政守が焼香し、銀十枚を附して木主を拝したことが続く。来館・弔問、褒賞銀と供え、各代参者と法事の順序を分ける。後続の無番号附属祭文は別行として扱う。
天保4年4月18日(年次朱書、月日本文) / 冊子 981頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2706
諏訪治部が調所笑左衛門へ送った、重豪への代香使者と香奠・謝礼の取扱いについての書状。奥平左衛門尉の使者黒瀬市兵衛は上下三十人で先月二十二日、松平美濃守の御番頭山内仁太夫は上下三十四人で去る四日に到着し、上町・下町会所に旅宿を付けて会釈等を先例通りに申し渡したと記す。八日の葬送では、奥平左衛門尉から香奠銀二枚、九八郎から同一枚、美濃守から同十枚を進め、代香を済ませた。太守の指示により馬廻の使者それぞれへ白銀十枚、そのほか幸領・足軽等にも先例による金子等を与えた。仁太夫は九日、市兵衛は翌十日に出立し、挨拶と途中の供奉に関する申渡を使番が行い、後便の取計らいも使番が書付を添えて連絡する旨を伝える。四月十八日付、朱書天保四年、諏訪治部武兼署。人数・到着・旅宿、香奠の二・一・十枚、謝礼の各白銀十枚とその他の金子、各使者の出立日を分ける。
年月日未詳 / 冊子 27頁/原整理番号 42-1
伊地知季安が、島津久賀・喜入忠政は前日、鬼塚源太左衛門尉を島原へ派遣し、島津久元・山田有栄へ相談したい事柄を伝えたが返報がなかったため、この日さらに今井市兵衛を派遣したと記す記事。
正月廿九日 / 冊子 28頁/原整理番号 42-2
喜入忠政・島津久賀が山田有栄・島津久元へ、前日に鬼塚源太左衛門尉が渡海した際に書状を出しており、さらに事情を伝えるため今井市兵衛を派遣したので、返答と口頭説明を聞くよう求める。「かう袮」の衆は、小舟による繰り越しを手配しにくいため、まだ当地へ来ていないと報告する書状。
二月十二日 / 冊子 118~119頁/原整理番号 188
二月十二日、川上久国・三原重庸が南来院左衛門尉へ、今井市兵衛が有馬から使者として帰国し、七日に島津久元が松平信綱へ赴いたところ、薩摩守の有馬出陣は不要との意向が示されたと伝える。追而書で、御手回り道具・兵具・代官・振舞奉行・包丁人・その他の役者・文箱持を渡海させるよう指示する。
二月十二日 / 冊子 119頁/原整理番号 189
川上久国・三原重庸が島津久元・伊勢貞昌・山田有栄へ、七日に久元が松平信綱を訪ねた際、薩州様の有馬行きは不要との意向が示され、今井市兵衛の口上として東郷肥前守から聞いたと報じる。その意向なら加勢を強く申し入れず、黄門様へ報告するよう求める。
元和元年 / 冊子 206頁/原整理番号 70
祢寝山城坊の女子から亀山又兵衛妻へ至る関係と、岡村伊織家の由緒を記す系図・由緒書。女子は近衛信輔公の側に召し置かれ、上京に供奉したのち、岡村伊織との縁組を命じられたとする。伊織は元和元年に豊臣秀頼方へ味方し、落城後は牢人として籠居したが、のち松平下総守に召し仕えた。伊織の子は十六歳の時、国許にいた母を見舞うため岡村新左衛門を伴って下り、亀山又兵衛宅に滞在した。その後上方へ戻ったところ父伊織が死去したため、母を介抱する目的で再び国へ下って居住し、札改めの際には亀山家の預りとして親類札に登録されたという。系線には岡村新左衛門―岡村市兵衛も掲げる。
十二月七日 / 冊子 817頁/整理ID 2739
駒木根肥後守・別所播磨守が十二月七日、薩摩家老五名へ、百姓藤兵衛・携行者と阿波国船頭市兵衛・水主らを吟味したところ疑義がなく全員に暇を与えたと知らせる。五代助大夫を召し出して伝え、昨日帰った旨を承知したと述べ、江戸の薩摩守吉貴へ詳細を知らせるよう依頼する。昨日を一行全員への帰郷命令の日付としない。
十二月十八日 / 冊子 817–818頁/整理ID 2740
駒木根肥後守・別所播磨守が十二月十八日、薩摩家老五名へ、屋久島異国人発見者の藤兵衛・携行者と阿波国船頭市兵衛・水主らを吟味して疑義がなく全員差し返し、五代助大夫に詳細を伝えた件について、薩摩側の承知した書状を受領したと答える。
明和三年龍集丙戌七月廿二日 / 冊子 135頁/原整理番号 317/整理ID 317
大磯荘内に稲荷社一宇を新建した際の棟札。中央に上棟と新建稲荷社一宇、右に従四位上左近衛中将源朝臣重豪、左に明和三年龍集丙戌七月廿二日と記す。家老菱刈藤馬、側用人兼近習役伊地知新太夫、普請奉行喜入佐司右衛門、検者伊東勘助・磯永團七・牧市兵衛、総大工副役荒田甚兵衛を、それぞれの氏・諱とともに列記する。図の形を伴う棟札の記録で、「在雑抄」と朱注する。
明和八年二月二十五日~十一月(記事所載日、原日付に異同留保) / 冊子 275~276頁/原整理番号 739/整理ID 739
明和八年の任官・拝領・服章と、帰国途中の長崎見学、帰国後の役職変更を日付順に記す。二月二十五日、島津栄女を若御年寄とし、新納次郎四郎久儔を大御目付として内蔵の称を賜った。四月十六日、大家の使松平周防守が物を賜り、公は邸で受け、帰国を命じられ、西丸からも阿部豊後守を使いとして例どおり物を賜った。十九日に朝して拝恩し、大家が懇ろに諭し馬を賜った。二十一日、閣老の承旨により使人が馬を牽いて邸に届け、公が玄関へ迎えて敬拝した。二十六日、服章の制を定め、十字の章は世子に限り、翁主も用いてよいとし、他の公子は桐または牡丹を用いるという。二十七日、國老樺山左京が公の首途を祝う記事があり、二十九日、民部卿の使い田沼能登守が賜物を届けた。家治の真筆を望み、二幅を一橋を通じて賜り、謝恩したことを記す。注には女松島による取次、太公望・伝説図という二幅の題と六月十五日説があり、月日の誤りを疑うとする。五月三日、閣老を訪ねて賜書に礼を述べ、三家へ告別した。二十八日に邸を発ち、六月五日伏見邸、二十一日大坂邸に至った。今月八日、信解君が西田館で卒去し、二十二日に訃報が達したため、中村早太を先に進香へ遣わした。二十七日に大坂を発ち、七月朔日に坂越、八日に大里に至ったと記す。十六日長崎邸へ至り、十七日、今村政十郎を無役中通とし、十八日、奉行所を訪ね大家の起居を伺った。十九日、林市兵衛宅で「陣所」を見て市人を召見し、二十日、福済寺・聖王寺を訪れた。二十一日、針鹿太左衛門宅で「前裁」を見て、福田十郎右衛門宅も訪れ、二十二日唐人館、二十四日聖堂・聖堂預の向井齋宮宅、興福寺・宗福寺、二十五日出島館を見学した。出島では小鷹丸・御橋の記載と、紅毛船に乗ってしばらく見た旨を伴う。二十七日平野善次右衛門、二十八日今村源右衛門の茶亭を訪れ、紅毛人を呼んだ。訪問時の帷子・上下・羽織裃・御道具などの服装注もある。八月九日、大波戸から出帆し、長崎邸には凡そ十八日滞在したと記す。十四日、阿久根所在の大島に着き、十五日、阿久根に至って大島を再び狩り、十八日府へ至り、末川織衛久中を江戸へ謝恩に遣わした。二十一日、山岡齋宮久容を家老とした。九月二十一日、家老桂織部久中を病のため免じ、まだ老齢でないので慎んで療復を待てと諭した。十月十日、松峯山で淨國公(吉貴)の二十五年諱辰に謁し、長上下を着た。十三日、尾畔へ行き十五日に還った。十一月の記事は、近習役が従来使番下と同級だったのを進格し、「御近習役次席」を置き、職禄九十石を給する命令を記す。出典は近秘野艸。
年月日未詳 / 冊子 69~70頁/原整理番号 60
天正六年頃の島津義久代について、川上久時・伊集院忠棟ら老中八人と、新納・鎌田・本田・伊地知ら使衆八人を分けて列挙する。加治木衆大村市兵衛重頼の旧記から原文どおり写した交名である。
年月日未詳 / 冊子 113~116頁/原整理番号 22-3
兼清治右衛門を起点とする肝付氏庶流系図。兼清は没年月・法名不詳とし、志布志士永山主計の二男兼陳を嗣子がないため養子に迎えたことを記す。兼陳は慶長二年生、万治三年没・六十四歳、法名亭月陳長上坐。兼林・兼高以下についても、寛永・明暦・寛文・天和・宝永・享保・宝暦・明和期の出生・没年、法名、母方を列記する。志布志士川野・久保・愛甲・瀬戸口、皿良・大脇・平田・大迫・吉国・坂元などとの婚姻を示し、別家、肥後源五左衛門・河野佐市兵衛・吉国次郎右衛門への養子、女子の嫁家を系線で整理する。末尾は兼典四郎の明和九年五月二十九日出生記事で終わる。
年月日未詳 / 冊子 398頁/原整理番号 127
大林市兵衛重頼の自記に収める忠元の和歌。「詠月前郭公」の題で、明るい月に郭公の一声が響く趣を花や紅葉に重ねて詠む。清書には全文を入れるようにという付記がある。
年月日未詳 / 冊子 135~136頁
松平石見守・生駒壱岐守の家中で切腹を命じられた者を列挙した書立。伊木野伊織以下の家臣を、相馬大膳・仙石越前守・丹羽左京・真田伊豆・京極丹後守・松平出羽守・森内記らの預け先ごとに掲げ、切腹者のほか追放・仕置に関わる者も記している。張紙・墨書で『此名書ハ御譜中ナシ』との注記があり、本文135頁から136頁上段まで続く。
二月三日 / 冊子 57~58頁/原整理番号 85-2
島津久賀・喜入忠政が島津久元・山田有栄へ、薩州様が日向筋から鹿児島・出水・獅子島を経て渡海する予定と、御陸衆を留める指示を了承したと返答する。伊地知杢右衛門らの参着、外城衆の人数調整、帰還者と船の配分、兵糧消費を報じ、不要な人衆を早く帰すことと船の処置について下知を求める。
二月十一日 / 冊子 119~120頁/原整理番号 190
川上久国・三原重庸が島津久元・伊勢貞昌・山田有栄へ、薩州様の船が八日に出たものの風波で未着のため到着見込みを尋ね、東郷肥前守へ渡した絵図・書状や陣道具の受取りを指示する。江戸屋敷無事の報知を伝え、早い渡海と後報を求める。追而書では中間五人・道具衆十人を直ちに上らせるよう命じる。
二月十四日 / 冊子 134~135頁/原整理番号 223
新納二右衛門尉が有馬へ使者となる際に渡された覚。先に出水へ派遣された南戸衆、伊豆守方に留め置かれた高岡・穆佐・相良の衆、江戸南戸衆の欠員補充、小番衆・大番衆の稽古、御番帳、病欠時の補充などについて、現地で事情を確認し報告するよう求める。
万治2年6月2日~天保7年正月8日(寛文・元禄・正徳・享保・寛延・宝暦・明和・安永・天明・寛政・文政・天保期。年紀不明墓を含む) / 冊子 258~259頁/原整理番号 103
別紙として上原氏関係の石塔を調べ、法号・没年月日・俗名または親族関係を列記した書上。万治二年六月二日から天保七年正月八日までの年紀を含み、上原源右衛門尚益の法号「正岩祖覚居士」と、その妻「梅屋姓芳大姉」・妹「実峯妙相大姉」、尚治・尚清・尚伝・尚真・尚績・尚方ら本人および母・娘などの墓碑情報を収める。久圓妙長大姉の脇の石塔一基は損壊して法号等が不明とし、ほかに地蔵形の墓二基を早世者かと推測する記載、所在不明の墓もある。末尾では『上原氏譜牒』にみえる五郎左衛門尚盛を余家の次門とし、子孫を見ず、本府興国寺中に古墓があるとの考証を付す。
年未詳3月27日、延享4年4月12日、宝暦9年2月28日ほか / 冊子 275~277頁/原整理番号 107-17
三月二十七日、上原休兵衛が大峯彦兵衛へ、先代上原源右衛門は高麗渡海の際に島津義久の側へ召し置かれて渡海せず、帰朝後、渡海衆への加増とは別に『雨之御旗』に関する使者役の加増として五十石を与えられ、兵具方を勤めたとする家伝を伝え、由緒調査の際には関係文書を見せてほしいと求めた覚書。伊作田を上原氏の本名とする伝承も掲げるが、系図がないため実否は不明と明記する。付属系図は尚益・尚清・尚傳・尚志・尚賢・尚續・尚方らをたどり、延享四年四月十二日に尚益が養子尚清へ家職を譲ったこと、宝暦九年二月二十八日に尚傳が家督を継いだこと、平田家への養子、上原林悦の別家、松元・岸・餅原各家との婚姻などを記す。
延宝二年七月二十四日 / 冊子 633頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1561
島津光久が新納又左衛門へ、伏見で申し渡した屋敷調達を野中市兵衛と相談して進めるよう命じるとともに、帰国航海中の難風、出水脇本への着岸後に負った怪我、鹿児島帰着と快復の見込みを報告し、縁辺交渉などについて指示した書状。
十月十五日 / 冊子 810–811頁/整理ID 2720
種子島久時・新納久珍・島津久當・島津久輝・島津久明が十月十五日、長崎奉行駒木根肥後守・別所播磨守へ、屋久島異国人の取扱い指示を承知したと伝える。阿波国から漁猟に来た船頭市兵衛・水主六人、発見に関わる藤兵衛ら五人も異国人と共に長崎へ送る予定だが、異国人は悪風のためまだ地方に到着せず渡海が遅れているので、着船次第速やかに送ると報じる。諏方甚右衛門が到着し、詳しい書面を承知したことにも触れる。
十月廿二日 / 冊子 811–812頁/整理ID 2724
種子島久時・新納久珍・島津久當・島津久輝・島津久明が十月二十二日、長崎奉行別所播磨守・駒木根肥後守へ、屋久島湯泊村の異国人を見つけた百姓藤兵衛・携行者が別紙名書のとおり到着したこと、阿波国船頭市兵衛・水主も警固五代助大夫を添えて長崎へ送ることを報じる。
十月廿七日 / 冊子 812–813頁/整理ID 2726
駒木根肥後守政方・別所播磨守常治が十月二十七日、薩摩家老五名へ、屋久島異国人に阿波国から漁猟に来た船頭市兵衛・水主六人、発見した藤兵衛と携行者らも同行させ長崎へ送るという報告を承知したと答える。異国人は悪風でまだ地方へ到着せず渡海が遅延しているが、着船次第早速送るという連絡を受領したと伝える。
十一月二十九日 / 冊子 816–817頁/整理ID 2737
駒木根肥後守・別所播磨守が十一月二十九日、薩摩家老五名へ、屋久島異国人を見つけた百姓藤兵衛・携行者と阿波国船頭市兵衛・水主らが、別紙名書のとおり五代助大夫の警固で無事到着したと伝える。吟味に疑義がなく拘束の必要もないため全員を差し返したと知らせ、詳細は助大夫へ伝えたとする。
年月日未詳 / 冊子 227~232頁/原整理番号 333-11
細川勢・長岡佐渡勢・黒田勢・黒田美作勢・有吉頼母組などの原城攻めを、多数の個別武功、負傷・討死、証人、進退命令とともに記す長文記事。冒頭では細川勢の北村甚十郎・財津市兵衛らの敵討ち取り、長岡佐渡勢の働きなどを列挙し、諸勢が二の丸・本丸方面へ進む過程で、鉄砲・石火矢・火攻め・柵などを用いた激戦と、先走りや隊列混乱を抑える命令を記す。各隊は攻撃と退却を繰り返し、深手・討死を出しながら城内へ押し入った。末尾では、長岡佐渡の備えが三の丸へ動くのを見た有吉頼母組が、米田与七郎らを先頭に組勢を残らず乗り込ませ、この時に三の丸一番と差し出した者たちがいたとして、後続文書へつなぐ。
年月日未詳 / 冊子 248~250頁/原整理番号 333-36
細川方大先手の長岡佐渡勢が本丸へ突入した経過と、諸士の働きを列叙した記事。旗奉行西垣庄太夫が前日に鉄砲で討死したため、子の西垣太右衛門が父に代わって旗を支配し、佐渡備を抜けて二之郭へ入り、砲石・火矢を受けながら本丸内の高所へ旗を立て、後続の目印としたという。続いて式部配下や諸士の進撃、槍戦・討死・負傷を記し、長岡右馬助が耳際を槍で深く突かれながら敵を突き伏せ、家来下田市兵衛に首を取らせた後、深手のため本陣へ退いたこと、津田三十郎が組の小姓を率いて佐渡備へ加わったことなどを述べる。
酉十一月廿五日 / 冊子 509頁/原整理番号 87の2
真清が、加治木住の大村市兵衛重頼の古戦書付をもとに書写したことを記す覚書。酉十一月二十五日付で、前文書『大村重頼古戦書付写』の書写由来を示す。
酉十一月廿六日 / 冊子 515頁/原整理番号 88の5
真清が、加治木衆大村市兵衛重頼の旧記をもとに書写したことを記す覚書。酉十一月二十六日付で、88-1~88-4の諸外城地頭衆・老中等書上の書写由来を示す。
年月日未詳 / 冊子 122頁
兵庫頭忠平が二十八歳のとき飯野へ移り、その後に義弘と名乗ったことを記す大村市兵衛重頼の短い自記。
十月九日 / 冊子 809–810頁/整理ID 2718
駒木根肥後守・別所播磨守が十月九日、薩摩家老五名へ、屋久島異国人は順風がなく、まだ薩摩本土へ船が着いていないため、到着次第速やかに送るという報告を承知したと答える。阿波国から漁猟に屋久島へ来ていた七人が自船で八月十八日出漁して唐船に出会ったこと、その口問別紙二通と異国人の居所付名などが諏方甚右衛門から届いたことにも謝する。本通に船頭市兵衛の名はなく、No2720と区別する。
年月日未詳 / 冊子 171頁/原整理番号 68
『大村市兵衛重頼古戦書』の記事は、本文書集の四十五号とほぼ同文であるとして、ここでは本文を省略している。