島津忠広一流系図
年月日未詳 / 冊子 738頁
島津忠広が義弘の長女御屋地の所領を受け、朝久の二男でありながら延宝五年に光久の命で豊州家を離れ忠朗の次男に準じられ、元禄十六年に没して萬山孤峯大居士と号したこと、および子孫を示す一流系図。
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年月日未詳 / 冊子 738頁
島津忠広が義弘の長女御屋地の所領を受け、朝久の二男でありながら延宝五年に光久の命で豊州家を離れ忠朗の次男に準じられ、元禄十六年に没して萬山孤峯大居士と号したこと、および子孫を示す一流系図。
年月日未詳 / 冊子 738頁
島津光久譜中、忠広が元和六年十二月十八日に生まれ、光久の同母弟で、初め忠弘と称し、東市正を経て入道後に萬山と号したことを記す系譜記事。
七月十九日 / 冊子 452頁
豊州家の養子となったものの知行が少なく、当時は私領扱いで別知行がないと聞いたため、黄門へ伺ったうえで光久の持高から五百石を与え、当面の知行とすることを認めた島津光久判物。
年月日未詳 / 冊子 877~878頁
天文十八年四月五日、飫肥をめぐる伊東方との戦いで豊州島津忠広・北郷方が応戦し、敵方に損害を与えた経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 785~786頁
天文九年、長倉上総介・能登守兄弟が伊東氏に背いて川南を押領したため、伊東義祐が北郷忠相らの加勢を得て討伐した経過を記す。島津忠広の援助、両軍の布陣、戦闘と長倉方の処置に及び、地域領主の離反が伊東・北郷・島津各勢を巻き込む戦役となったことを示す。
年月日未詳 / 冊子 786~787頁
天文九年、長倉上総介・能登守兄弟が伊東氏に背いて河南を押領したため、伊東義祐方が北郷忠相へ援軍を求めた合戦を記す『庄内平治記』。島津忠広も長倉方を支援し、清水城周辺で両軍が攻防を重ねた。各勢の布陣と進退を追い、長倉兄弟が敗北して地域支配を失うまでを詳述する。
年月日未詳 / 冊子 787~788頁
天文九年頃、伊東氏に背いた長倉上総介・能登守兄弟が島津忠広へ援軍を求めた事件を記す。北郷方を含む諸勢の出陣、清水城周辺での攻防、双方の戦死者と部隊の退却を追い、伊東領内の内紛が島津・北郷勢の軍事介入へ発展した経過を示す。
年月日未詳 / 冊子 787~788頁
伊東氏と長倉上総介・能登守兄弟の争いに際し、島津忠広方が福島・志布志などの諸勢を集めて出陣した経過を記す覚書。清嶽・鬼山周辺での兵配置、城攻め、戦死者、援軍到着、撤収までを追い、伊東方支援に動員された大隅・日向国境軍の実態を示す。
年月日未詳 / 冊子 796頁
天文十年、島津忠広の臣日置美作守が伊東義祐勢との戦いで討死したことを記す。日付を九月三日または三月三日とする異説や、同族新納氏の戦死者も挙げる。
年月日未詳 / 冊子 797頁
同月晦日、島津忠広が肝付領蓬原を攻めるため北郷左馬介らに出陣を命じたが、二家の勢がそろわず敗走し、園田将監らが討たれたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 798頁
天文十一年以降の北原・本田・北郷諸氏の抗争をまとめる国史記事。溝辺玉利・高松城・生別府の戦闘、養子縁組による同盟と離反を追い、島津忠広・種子島時堯らの動向を記す。諸氏が最終的に島津貴久方へ帰属していく過程を示す。
年月日未詳 / 冊子 877頁
天文十八年三月廿二日、伊集院忠朗・豊州島津忠広らが飫肥方面へ進み、諸将を率いて攻城・防戦したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 789~790頁
島津忠朝の系譜と事績をまとめ、忠広方と伊東義祐方の戦争を記す。長倉上総介・能登守兄弟をめぐる争いから忠広方が出陣し、清嶽・鬼山などで戦闘を重ねた経過、島津貴久らの仲介を含む交渉を追い、最終的に伊東方との講和へ至ったことを示す。
年月日未詳 / 冊子 813~814頁
伊東方の鵜戸烏帽子形城攻撃をめぐり、豊州忠広への援軍要請、油津からの出船と東海への着岸、修理大夫義鑑との対面、帰津までの経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 57頁
後掲の島津久元・伊勢貞昌連署書状に見える「加治木之大隅守」は、島津市正忠広の幼名に当たると考証する短い系譜記事。
(寛永五年)四月三日 / 冊子 57~58頁
島津久元・伊勢貞昌が、加治木大隅守と川上式部大輔の官名変更を提案し、吉日を選んで改めるよう求める。また国中の飢饉で米価が高騰し民衆が困窮しないよう、適正価格を示して違反者を処罰すること、家久の暇が近い見込みであることを伝える。
二月八日 / 冊子 323~324頁
文箱を贈り、先に頼んだ竹は加治木から届くと思っていたがこちらにもあるため、先方から送ってほしいと求め、当日の用件の様子も尋ねた島津家久書状。
年月日未詳 / 冊子 540頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1231
島津家久の四男である島津忠広が、寛文七年十二月十四日に家老職へ任じられたことを記す記事。
延宝三年九月二十七日 / 冊子 655頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1646
島津忠広と新納久了が伊地知権左衛門へ、子が男女いずれでも御台所で養育し、乳母と女房を付け、養育・仕置の担当者や取次を定めることなどを、島津光久の意向として急ぎ申し達するよう命じた連署書状。
延宝三年九月二十七日 / 冊子 655~656頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1647
新納久了・島津忠広が御台所役の伊地知権左衛門へ、出産を控える子について、男子でも女子でも台所で養育し、乳一人と女房衆を付け、中将光久方の幼少の子と同様に養育する旨を伝える。中将の子分として万事を軽く扱わず、両殿の意向として詳細を早急に報告するよう求める。
正保四年十一月十三日 / 冊子 92~93頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0174
正保四年十一月十三日、王子村の犬追物で忠広が射手に列し、将軍家光の台覧に備えた。十六日に登城して奉拝し小袖三襲を賜り、十二月二日には二丸で家綱に拝謁して小袖二重を拝戴したという市正忠広譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 686頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1757
市正忠広譜中に、忠広が初め御屋地の養子となり豊州家の二男家として一家を立てた後、延宝六年二月十六日に光久の命で豊州家を辞し宗室の庶流へ復帰して、平兵庫忠朗の次弟として三男家に準じ一家を立てたと記す。延宝七年四月六日に家老職を辞し、元禄十六年八月三日に死去する。
年月日未詳 / 冊子 404~411頁/原整理番号 66の1
瀬戸口壱岐入道の自記。日向の南之郷・福島之院・志布志・梅北や大隅末吉などをめぐる島津忠広らの動向を起点に、伊東方との抗争、城郭・所領、軍勢の移動、攻防と退却を物語る。文書冒頭は前段から続く形で、末尾は水之手郷から退く場面に至る。
延宝七年三月十一日 / 冊子 690頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1775
島津久胤ら六名が、御自分家の知行相続と女性の跡目、久四郎家からの名字相続に関する系図と関係者の年齢を掲げ、その由緒と相続方針を証した連署証状。
元禄二年十月十七日~元禄十年十二月十五日 / 冊子 51頁/整理ID 161
島津久白の出生、母、元服、加冠、脇刀拝領などを記す系譜記事。
(寛文十一年)十月十一日 / 冊子 584~585頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1418
光久譜所収の肝付兼方・島津久馮・島津忠廣・島津久通四名連署状が羽地按司へ、去年夏に金武王子が襲封謝恩使として薩府へ来て、今年夏には太守光久が王子を伴って江府へ赴いた経緯を伝える。王子は七月二十八日に幕下へ拝謁して国司の謝礼を献じ、八月九日に再び暇を賜り、国司への白銀・精綿と王子以下従官への品物をそれぞれ下賜されたとする。威儀・法度にそぐう応接を喜び、国司以下は太守への忠誠を尽くし、朝聘を怠らず、職務と仁政に努め国人を安んじるよう勧める。
(寛文十一年)十月十一日 / 冊子 585頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1419
肝付兼方・島津久馮・島津忠廣・島津久通が三司官へ、去年夏に襲封謝恩使金武王子が薩府へ来て、今年夏に太守光久が王子を伴い江府へ赴き、七月二十八日の拝謁・謝礼献上と八月九日の再拝謁・暇、国司への白銀精綿と従官への品物下賜を得たと伝える。威儀と法度にかなう応接を喜び、国司以下の忠誠、朝聘・職務・仁政と国人安堵を勧める。