島津久定申渡書
宝暦十一年十一月七日 / 冊子 884頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2594
若狭が十一月七日、九日に予定していた諸士からの膳進上と能を御覧に入れる儀礼を延期すると申し渡す。新たな日限は追って知らせるので、承知して漏れなく伝達するよう命じ、署名に島津久定の人物注を伴う。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
11 件 (全巻)/ 1–11件を表示
ページ 1 / 1
宝暦十一年十一月七日 / 冊子 884頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2594
若狭が十一月七日、九日に予定していた諸士からの膳進上と能を御覧に入れる儀礼を延期すると申し渡す。新たな日限は追って知らせるので、承知して漏れなく伝達するよう命じ、署名に島津久定の人物注を伴う。
明和元年 閏十二月九日(本文に月日、年は目録) / 冊子 38頁/原整理番号 129/整理ID 129
No.128の書状への御返答。女中方へ伝えて御聴き届けと御礼について先例を調べ、卯日付の役人限りの祝儀や六日付の浄岸院・重豪・御前様・真含院への御目付兼帯役人の祝儀、御一門・大身分と本人独礼を、従来の通達どおり取り扱うと述べる。女中方から祝儀を当人へ伝える先例も同日付で届いたので、その通り留守居へ指示し、御礼をしたことを佐土原へ先例通り知らせる。近隣国への通知跡が見当たらないため今回は知らせていないとする。長崎奉行宛の書状・祝物は追って問い合わせ次第手配し、女中方へ御礼の処置がよかったと伝えるとして結ぶ。末尾に御目付以上の役人は三田御奥にも祝儀を述べるという但書がある。閏十二月九日付。朱注は本文書がNo.128の行間朱書であるとする。目録は島津久定外三名の家老連署返書、明和元年閏十二月九日とする。
明和二年 正月八日(年・日の八は朱注) / 冊子 48~49頁/原整理番号 154/整理ID 154
年頭に太刀を進上する人のうち、在京中、使者として赴いている者、江戸往来の途中などで年頭に在府しない人は、今後の出府または帰着の際に太刀を納めるよう指示する。ただし、江戸で詰合せをしている人は従来どおり江戸で進上するとする。これを通達したので承知し、記録奉行にも申し渡すよう命じる。山城の署に島津久定の人物注。年月日朱注は明和二年正月、日は八を囲む注記。右白木御文書五番箱中ニ有之という保管注がある。出典注は重豪公御譜中・写正文在文庫。
明和二年 三月廿一日(年は目録、月日は朱書) / 冊子 52~53頁/原整理番号 164/整理ID 164
No.163の官位に伴う恩赦の書状に対する行間朱書の返答。本文で申し越した趣旨を承知し、大御目附へ伝えておいたと答える。朱書日付は三月廿一日、年は目録の明和二年。目録は島津久定外四名家老連署返書とする。原状の二月廿九日付や、黒字の恩赦対象・除外条件の詳細は原状に属する。原状署名の髙橋此面に朱の上、末尾の菱刈藤馬・川田伊織・島津主鈴三名には朱の下という注がある。
〈寛延二年〉宗信中陰(目録日付記載なし) / 冊子 195~196頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0550
又六郎久定が慈徳院殿宗信の中陰に献じた祭文。病のため府城の寝室で亡くなり、七月二十四日に福昌寺で葬礼を行った経緯を述べ、天命と短い生涯への無念を記す。詩句では仁による政治、礼にかなう行い、国を支える徳をたたえる一方、医療も役立たず国の要を失った悲しみを表す。残された一族とともに霊に供物を捧げ、守護を願う。末尾に久定の献納注がある。
元文二年五月二十一日 / 冊子 439頁/整理ID 1040
島津継豊の妹徳姫が元文二年五月二十一日に生まれ、のち島津出雲久定の室となったことと母・没年を記す。
天明四年正月~二月(後日の追記あり) / 冊子 720頁/原整理番号 2038/整理ID 2038
宗信の実母妙心院が前年臘月から病み、薬療も効かず、天明四年正月二十一日に本府山下邸で七十四歳で死去したことを記す。於嘉といい、継豊の次妃で、継豊没後に妙心院と称したとの原注を伴う。法名は妙心院殿実法道徹大禅定尼。参勤途上の重豪へ、同日急使二人を防州花岡駅に追遣して凶報を伝えた。二十四日に遺体を棺に納め、二十六日夜に山下邸を出棺し、一門、島津久定・久当、家老・若年寄・大目附らが焼香して従い、福昌寺客殿に安置した。二十九日には宮之原通直が重豪の代理で焼香した。島津久起が木主を奉じ、肝付兼満・島津久備・入来院定馨・定代・渋谷貫風が棺に従って紼を執り、福昌寺住持円山の引導で、同夜良英寺に葬った。良英寺の境内が狭く参列者を収められないため、闍維の儀は福昌寺で行ったと注記する。二月八~九日に福昌寺で中陰の法要を修し、木主・影像を良英寺に納めた。冥福のため米五石・銀十枚を寄附し、後にそのうち米三石・銀五枚を妙心院に、残り米二石・銀五枚を良英寺に配した。理由は「餘靈不齊」と記すが、具体的な事情は明記されていない。重豪公御譜所収の葬送記事。2045号書状は二十三日付で本文に今日午ノ刻とあり、2038記事の正月二十一日死去と日付の異同がある。
明和元年 閏十二月十四日(年は朱注) / 冊子 42~43頁/原整理番号 142/整理ID 142
島津土鈴・樺山左京・島津山城が連署し、嶋津左中・髙橋此面に宛てた問い合わせ。官位についての城からの仰せを使番が持ち出したところ、白書院の縁頬で老中から、琉人を伴う参府の喜びと従四位上中将への任官を告げられたことを承知し、喜びを述べる。官位のための出仕に際して先例による相違はなく、喜びは同じながら、琉人を伴うため、通常の参府とは少し事情が異なるという先達の問い合わせ書に、官位昇進に際して琉人を召し連れた旨が見当たらないと指摘する。後年の先例となる書留と家譜編集に関わるため、前の問い合わせ書を抜き出して渡し、御城坊主の書出しと食い違いがないか、いま一度説明するよう求める。年は朱注明和元年、閏十二月十四日付。目録は島津久定外二名連署状。出典注は重豪公御譜中・扣正文在家老座。
宝暦五年八月 / 冊子 563~564頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1689
島津出雲久定が重年に奉じた祭文。六月十六日に江戸芝邸で没し、八月二十一日に国元の福昌寺へ葬られたと述べ、久定が食邑の校侶を通じて供物を捧げる。清和の祖から続く家系、国を鎮めた仁慈、明懿と武威、猛きに過ぎない寛度をたたえ、まだ白髪に至らぬうちに命が絶えたことを嘆く。続く韻文では、喪失から食事も進まない心境を述べ、酒と供物を献じて亡霊が誠を受け取るよう願う。
宝暦十年日付不記(祭文) / 冊子 803~804頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2445
島津若狭久定が継豊の中陰に献じた祭文で、病が治らず九月に府城の便殿で亡くなり、十月に火葬されたことを述べる。久定は深く追慕し、領地の頭院の大乗寺の寺主を招いて祭壇を整え、供物を捧げる。韻文では文武の働きと君臣の心の通い、生前に受けた厚い恩を振り返り、主君を失った悲しみを秋の景物に託す。祭の供物は薄くても誠意を汲み、霊がこれを受けるよう願う。
年月日未詳 / 冊子 369~370頁
出典見出し「綱久公御譜中」の系譜記事。綱久の子女として女子三人と久統を掲げる。久統はのち久定と称し、又作次郎・左衛門と名乗った。正保元年十二月二十二日生まれで、母については島津美作久憲室と同母と記す。家臣北郷式部大輔久直の後嗣となり、寛文二年七月五日に早世した。