岩剣合戦軍労交名
年月日未詳 / 冊子 919頁
天文二十三年十二月二日付の参考記録として、岩剣合戦に従軍し軍労を立てた者の名を列挙する。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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年月日未詳 / 冊子 919頁
天文二十三年十二月二日付の参考記録として、岩剣合戦に従軍し軍労を立てた者の名を列挙する。
年月日未詳 / 冊子 922~927頁
天文二十三年九月十二日から二十九日までの岩剣城攻防を日ごとに詳記する戦陣日記。十二日の出陣・陣取りに始まり、十三日以後の城兵の出撃、伏兵、民家への放火、火攻め、鉄砲・弓矢戦と、それに対する島津方諸隊の迎撃を追う。島津貴久・義久・義弘・忠将らのほか、伊集院・川辺・梅北・北郷など各隊の配置、船による援軍、使者の往来を記し、帖佐・焼山・白銀・岩剣城周辺で包囲線が形成・維持された経過を示す。敵味方の討死・負傷、捕虜、鉄砲の被害も日付ごとに挙げ、長期化した攻城戦の推移と各将の軍功を具体的に伝える。
年月日未詳 / 冊子 908~909頁
天文二十三年、島津貴久・忠親方と伊東方が岩剣城・白銀坂・蒲生方面で戦った経過をまとめる国史記事。諸将の布陣、城兵の出撃、鉄砲・弓矢を交えた攻防、双方の討死・負傷と退却を追い、岩剣城を中心に複数の戦場が連動した状況を詳述する。
年月日未詳 / 冊子 912頁
天文二十三年、加治木周辺の対立が長期戦へ発展した経過を記す年代記。西俣武蔵ら島津方が蒲生衆と交戦し、岩剣城・白銀坂・清水方面で陣地を移しながら攻防を重ねた。城兵の出撃と追撃によって双方に多数の死者が生じた戦況を年次記事としてまとめる。
年月日未詳 / 冊子 914頁
『島津貴久譜』が、九月十五日に貴久・義久・忠平らの軍勢が焼山付近へ陣取り、岩剣城を攻めた戦況を記す。城兵の出撃と火攻めに対抗して陣を維持したものの、双方に討死・負傷者が生じた攻防と諸隊の働きを伝える。
年月日未詳 / 冊子 914頁
『島津貴久譜』が、九月十八日に島津右馬頭忠将が大隅の兵と船団を率いて来援したことを記す。忠将勢は海路から帖佐・岩剣城方面へ進み、城方の兵と交戦して貴久方の攻勢を支え、陸海の諸隊が連携して包囲を強めた。
年月日未詳 / 冊子 915~916頁
『島津貴久譜』が、十月朔日の岩剣城攻防を記す。島津貴久・義久方が白銀陣から城兵の出撃を迎撃し、伊集院大和守ら諸隊も加わって接戦となった。敵味方に多数の討死・負傷者を出しながら、城の包囲と攻略を継続した戦況を示す。
年月日未詳 / 冊子 916頁
岩剣合戦で討死した有川新左衛門らの名と戦死の状況を列挙する。
年月日未詳 / 冊子 917頁
『島津義久譜』が、義久が大将として九月十二日の岩剣城攻撃を指揮したことを記す。伊集院大和守ら諸勢を配置し、帖佐・岩剣城兵の出撃に応戦して攻城を進めた一方、敵味方に討死・負傷者が生じた初日の戦況を示す。
年月日未詳 / 冊子 918頁
『島津義弘譜』が、天文二十三年九月十三日の岩剣城合戦を二十歳の義弘の初陣として記す。義弘は父貴久の軍に属して白銀陣の守備を担い、城兵の出撃に備えつつ攻城戦へ参加し、その働きが後年の軍歴の起点となった。
年月日未詳 / 冊子 918頁
『島津義弘譜』が、天文二十三年十月二日の岩剣城攻めで義弘らが伏兵を置いたことを記す。城兵の出撃を待って側面から迎撃し、敵を城内へ退却させた戦術と、白銀陣・攻城諸隊が呼応して包囲を維持した経過を示す。
年月日未詳 / 冊子 919~920頁
『新納忠元譜』が、岩剣の陣で城方が出撃した際、新納忠元が前線で応戦したことを記す。忠元は敵兵と接戦しながら陣を崩さず、貴久方の諸隊が態勢を整えるまで攻撃を支え、激戦で示した働きを個人の軍功として特記する。
年月日未詳 / 冊子 340頁/原整理番号 33
十三日の辰刻から午刻にかけて、川辺・鹿児島の足軽が脇元の人家を焼き、出てきた敵を痩五郎坂で迎えたと記す日記。味方の足軽大将は梅北宮内左衛門と宅間与八左衛門で、川辺衆が交替して戦い、兄弟の隊も坂口へ向かった。敵が八つの群れで登るとの報告を受け、谷山衆などが弓で坂を追い下して、味方は支障なく引き上げたという。
年月日未詳 / 冊子 913頁
『島津貴久譜』が、九月十二日の加治木・岩剣城方面の戦闘を記す。貴久・義久方の陣へ本田彌六ら使者と援軍が往来し、島津忠将ら諸将が配置を変えながら、敵の出撃に鉄砲と火攻めで応戦した一日の進退をまとめる。
年月日未詳 / 冊子 918~919頁
箕輪伊賀の覚書が、岩剣合戦を中心に、蒲生・祁答院方との交渉が決裂して戦闘へ移る過程を記す。加治木・清水・帖佐方面での陣替え、使者・援軍の往来、放火・鉄砲を伴う連日の攻防を、箕輪伊賀の見聞に即してまとめる。
年月日未詳 / 冊子 919頁
『新納忠元譜』が、天文二十三年九月に新納忠元が貴久方として加治木・岩剣方面へ出陣したことを記す。城兵の出撃に対して先陣で敵陣へ攻め入り、味方諸隊とともに押し返した働きが、忠元の軍功として後世に伝えられた。
年月日未詳 / 冊子 920頁
天文二十三年十月十九日、貴久が二男又四郎忠平を岩剣城へ移し、城の守りと法度を任せたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 920頁
『新納忠元勲功記』が、天文二十三年の肝付兼演方との戦いで忠元が加治木・岩剣方面を転戦した経過を記す。敵の出撃や伏兵に応じて先陣・追撃を務め、味方の劣勢時にも踏みとどまって敵を退けた複数の働きを勲功としてまとめる。
年月日未詳 / 冊子 920~921頁
『貴久公記』が、天文二十三年の加治木・帖佐・岩剣方面における蒲生・祁答院方との戦争を記す。貴久方諸勢の集結、陣所の移動、城兵の出撃への迎撃、使者を介した交渉を追い、攻城と退陣を重ねながら包囲を進めた経過をまとめる。
年月日未詳 / 冊子 921頁
樺山玄佐が自ら、加治木・帖佐・岩剣方面での従軍を記した戦闘記録。島津貴久方が陣所を移して攻撃と退却を繰り返し、敵の出撃に鉄砲・弓矢で応戦したこと、諸隊に多数の負傷者が生じたことを挙げ、前線での判断と損害を具体的に伝える。
年月日未詳 / 冊子 921~922頁
箕輪伊賀の覚書が、天文二十三年九月十三日以後、貴久方が平松から帖佐・岩剣方面へ軍を進めた経過を記す。陣取り、斥候・使者の往来、城方との矢戦、民家への放火、討死・負傷者の発生を日を追って述べ、長期化した攻城戦の実態を伝える。
九月廿三日 / 冊子 928頁
島津日新斎が又三郎に、岩剣方面の戦況を踏まえ、船の手配や陣中での働きに万事油断なく対処するよう伝えた書状。
年月日未詳 / 冊子 11頁
町田氏庶流の系図記事。町田三郎五郎が弘治元年四月朔日、隅州帖佐岩剣城の戦いで十九歳にして戦死したこと、兄の死後に新左衛門忠継が家を継ぎ、永禄十年の馬越城合戦で二十九歳にして戦死したことを記す。
天正六年十一月十三日 / 冊子 558頁
島津義久が島津義弘へ、先年の大隅岩剣合戦以来、昼夜にわたる軍忠が比類なく、今回の高城境での大友軍着陣にも連日才智を尽くし名誉の奮戦をしたと賞した感状。本文年紀は天正六年十一月十三日と読める。
年月日未詳 / 冊子 57頁/原整理番号 52
天文二十三年九月十二日酉刻の岩剣合戦出陣次第を記す。若殿義久を大将、伊集院大和守忠朗を軍配者、本田弥六を太刀役、梶原新兵衛を番役、瀬戸口藤兵衛を幡指とし、御屋形貴久の太刀役を鎌田甚五郎とする。後評では、永禄十一年正月二十日の菱刈羽作瀬での義久・義弘の危難と梶原の不手際・御内追放を挙げ、御旗役を三原氏に代えたのではないかと耳川合戦の記録に関連づけて考える。
弘治元年、天正6年、天正15年4月17日 / 冊子 19~21頁/原整理番号 6
本田氏十二代兼親の二男・親貞(初名親成、又五郎、刑部少輔、因幡守、入道一恕)を祖とする系図。家嫡董親の背命・悪虐をたびたび諫めながら聞き入れられず、守護に属して忠義を守った由緒を記す。後裔では友親の大隅州西原での戦死、盛親の弘治元年岩剣城攻略、親治の加世田地頭と天正六年新納院高城での大友軍との戦死、親秀の義久家老・出水地頭、親光の朝鮮での軍功、親智の忠恒奉仕と背命による誅殺、親盛の目白坂戦死、甑島・湯之尾・禰寝・高江・馬越・野田などの地頭職、婚姻・養子関係を収める。
天文23年9月、天正6年、天正14年12月8日、文禄4年7月18日、慶長元年5月23日、慶長4年12月8日、慶長6年8月9日、慶長14年、慶長19年、承応2年6月5日、元禄4年 / 冊子 23~26頁/原整理番号 8
出自不詳ながら、信濃守重宣の孫・丹波守実親の弟である部左衛門親行の法名ではないかと考証される古簾(道号越岩、異伝では越山永超居士)を祖とする本田氏系図。親尚は日新公に奉仕して戦功を重ね伊集院地頭となり、親吉は日新公・貴久公に仕えて感状を受けた。親貞は兄の死後、太守の命で正嫡を継ぎ、義久の家老、吉田・加世田等の地頭となり、吉野・磯を領して家臣を配置し、岩剣城攻め、大友氏の日州侵攻、九州征伐で軍務を担った。後裔について、豊後戸次城下・瀧ヶ水・庄内安永での戦死、九州・高麗・庄内役、琉球征伐・大坂の陣、曽木・福山等の地頭職、大坪流馬術の相伝、婚姻・養子関係を記す。
元弘・建武年間、天文2年(頭注:天文3年8月14日なるべし)、天文23年9月晦日 / 冊子 173~175頁/原整理番号 54
三原氏の系図。大職冠流の遠江守経重の男・経義から経俊へ続け、経義を三原兵部太夫とする一方、菊池領主将監則隆の三男または太郎経隆の四男とする異説も掲げる。後醍醐天皇から三原城を与えられた経俊が筑後国三原城に居住して氏としたと記すが、元弘・建武期の人物とすれば世代数が長すぎるとの考証注を付す。経重・為重・直重、正重・延重、朝重・正重・経由、重尭・重武・重国など多数の系線と官途を列挙する。後代の直重は藤八郎・左衛門督・入道泰安を称し、その代に初めて薩州へ下り、子孫は伊作家に仕えた。各系には枝岸・桜岸・渭釣・閑林・即心・無塵・雪領・青山などの道号・法名を付す。重秀は天文二年に永吉で戦死したとするが、頭注は天文三年甲午八月十四日であろうと訂正する。重益は日新・貴久・義久の加判に列し、法名昌安。末尾の重次は天文二十三年九月晦日に帖佐岩剣で戦死した。
年月日未詳 / 冊子 211~216頁/原整理番号 76-1
比志島元祖上総介重賢(入道法橋栄尊)の二男盛忠を祖とし、重賢から譲られた薩摩国満家院内西俣名主職を後裔が相伝した源家西俣氏の系図。久盛・義時の筑前笠崎異国番、義定への貞和四年道鑑公御書、義光への応永十八年久豊公御書など、名主職・所領・軍役を証する文書の伝来先も記す。義村に実子がなかったため蒲生彦太郎清冬の二男を猶子とし、その後に蒲生で永秀庵・観音院(泊瀬山長谷寺)を建立した由緒を載せる。天文二十三年、蒲生茂清が加治木城の肝付兼盛を攻めた際、蒲生氏の類族であった武蔵守盛家父子は岩剣城へ加勢し、池島ヶ原で敗れて同年十月二日に自害した。幼少の清房は母に匿われて菱刈へ逃れ、成長後は島津氏に奉公して諸軍役・大坂出陣に従い、島津家久から鎧一領を与えられ、のち家督を清昌へ譲って清敷地頭となった。後代には瀬口重明二男の盛友を清房妹の遺跡へ入れて西俣氏を称させたこと、孫太郎遺跡を姉が八、九年支配する間に家伝の証書・重物が散逸し、孫兵衛が島津光久から跡職を命じられて万治二年に清敷から鹿児島へ移ったため、所領・跡職だけが安堵されたことを記し、盛武以下の子女・婚姻まで続ける。
延久2年1月10日、永保元年8月7日、天文23年9月27日、慶長18年、元和6年、寛永9年、万治2年12月6日、元禄6年ほか / 冊子 290~293頁/原整理番号 113
三原氏の系譜を、藤原鎌足・不比等・房前以下の藤原北家から、道隆・隆家・経輔・政則を経て菊池則隆へつなぎ、菊池氏から分かれた経隆・経俊・経重以下の諸流として示す。経俊は筑後国三原城に居して三原を氏とし、経重は源頼朝から鞍馬と長光の御剣を賜ったのち筑後国三原城へ移住したと記す。後代には伊作・高城・曾於郡・大口・川辺・伊集院・加世田などの地頭歴、日新公・貴久公・義久公への歴仕、加判役・家久公家老への就任、国分移住後の三百石から元和六年四百五十石・寛永九年五百七十六石への石高推移を載せる。重次(一名重尚、平田左房介宗茂の二男)は天文二十三年九月二十七日に岩剣城で戦死し、重宗は朝鮮で病没、重種は朝鮮出陣・大坂役を経て神祖に謁し家久公の家老となったとする。婚姻・養子・法名・没年のほか、慶長十八年の知行高、万治二年の御勘定奉行記事、元禄六年生まれの重次までを収める。
至徳元年11月26日~慶安元年9月28日(犬追物記録)/後続系譜は元文4年まで / 冊子 469~479頁/原整理番号 15-1
島津氏久・忠国・立久・忠昌ら歴代当主の時代から、至徳元年十一月二十六日以降に行われた犬追物について、実施日、飫肥・福島・志布志・鹿屋・江戸王子などの会場、平田氏と伊地知・島津・北郷・本田・種子島氏らの手組を年代順に列挙し、慶安元年九月二十八日までを記録する。平田家が本名字『小松』を称さなかった事情、丸内二つ引を陰陽に見立てた陣幕紋として太郎左衛門代まで用いた由緒も付す。後半は平田氏諸流の系譜で、渋谷勢退治・平松岩剣・新納山城・高麗陣などでの戦死・戦功、知行・地頭職、婚姻・養子、没年・法名を記し、御記録所の照会に応じて旧記・系図・聞書を突き合わせた系図改訂記事を経て元文四年まで続く。
年月日未詳 / 冊子 479~480頁/原整理番号 17
日新公以来の平田家一族の奉公を人物別に列挙した家伝。谷山倉良城主・平田備中守宗秀が蒲生岩剣の陣で形見の刀を宿元へ送り、主従とともに戦死したこと、弟の田布施城主・豊前守宗貞が高城籠城中に城内へ忍び入り、敵中三里を切り抜けて情報を伝えたことを中心に記す。さらに安房介・新左衛門・次郎四郎重辰・宮内少宗鑑・尾岐守・左衛門宗鉢・兵衛宗吉らの召出し、家老役、肥後・豊後・京都伏見での奉公、戦死・病中の逸話、女子二人の伊地知家・帖佐家への婚姻を掲げ、末尾に肥後新左衛門所持本からの写しであることを記す。
天文六年八月七日~慶長十七年四月二十六日(系譜中主要記事) / 冊子 483~487頁/原整理番号 20
桓武天皇―葛原親王―高望王から貞盛・維衡・正度・忠盛・清盛を経て、小松内大臣重盛の後裔を平田氏諸流へつなぐ庶流系図。平田安房助悦山を加世田龍徳院に葬ったこと、谷山吉幸城主・平田民部少輔宗秀が隅州平松の岩剣合戦で戦死したことを記し、宗貞・宗祐・宗位・宗如らの官途・没年・法名へ続く。宗清は天文六年八月七日に阿多宮崎本地河原で戦死し、宗張は天正十五年三月十五日に豊後坂梨で戦死、平田新七光宗は実父を宗秀とし、慶長十年十二月二十六日に七十七歳で没した。さらに妙谷寺・福昌寺住持となった宗徳、増宗まで続く家老役、宗次の野尻での被討、行宗の筑前航海中の船破損に際する切腹、宗親・宗朋・宗房らの没年と葬地を載せる。村田雅楽頭経宣の三男・宗敏は子のない宗房の猶子となり、九歳で義久の近習、十三歳で家久の幕下に奉仕し、十四歳の慶長四年には伊集院源次郎の庄内一揆に従軍したところまで記す。
年月日未詳 / 冊子 336頁/原整理番号 22
樺山玄佐の自記が、入来院は岩剣の戦いに備えたため敵がまとまったこと、以前郡山を攻め取られたことを恨んでいたことを記す。岩剣の上にある高山へ居住したという。
年月日未詳 / 冊子 339頁/原整理番号 31
肝付兼演が加治木で祁答院良重・蒲生範清らと対抗するため、蒲生方の西俣盛家を岩剣城の守りに置いたと記す。八月に加治木へ攻め寄せると、九月には大中と義久が救援に出た。忠元が脇元付近の放火に応じて痩五郎坂で戦い、高名を挙げたという。
年月日未詳 / 冊子 339~340頁/原整理番号 32
年譜が、天文二十三年に祁答院・蒲生が肝付兼演の降伏に不満を持ち、岩剣城へ西俣盛家らを置いたと記す。貴久と世子義久は九月十二日に出兵して加治木で兼演を救い、忠元も従軍した。十三日に兵を出して脇元へ放火すると城兵が出撃し、痩五郎坂で戦って忠元が功を立て、宮原源太左衛門らもそれを見届けたという。
巻一/冊子 12~14頁
加治木・帖佐の反島津勢力が再起し、蒲生・渋谷・祁答院・入来院・菱刈・北原らが連携して肝付氏の加治木城を攻めたことから、貴久父子が平松・帖佐方面で長期戦を行った経過を記す。天文二十三年、網掛川、平松、岩野原などで戦闘が続き、貴久は尚久・忠平(のち義弘)らを配置した。十月二日の平松合戦では島津方が大敗して五十余人を失うが、その夜に岩剣城が放棄され、その後平松城も陥る。弘治元年正月、貴久・義久は吉田へ進むものの敵の謀略で再び敗れ、弟子丸播磨守らが戦死し、歳久も負傷した。以後、溝辺・帖佐別府川・山田などで戦いを重ね、忠平・尚久らが奮戦する。四月二日夜、敵は帖佐・新城・山田城を捨てて祁答院へ退去し、北郷・肝付・禰寝らも凱歌を挙げた。従来概要のような一貫した大勝ではなく、複数の敗戦と損害を経て敵方の拠点放棄に至った戦役である。
年月日未詳 / 冊子 912~913頁
『島津貴久譜』が、天文二十三年に大隅国加治木・帖佐周辺で蒲生・祁答院・肝付方との対立が深まった経過を記す。島津貴久が諸方へ動員を命じ、敵方の城と交通路を押さえるため軍勢を進め、岩剣城を含む戦線形成へ至った。
年月日未詳 / 冊子 913頁
『島津貴久譜』が、天文二十三年九月十一日に島津軍が加治木へ進んだ戦況を記す。貴久方は清水・帖佐周辺で肝付・蒲生方の兵と交戦し、敵兵を討ち取る一方で味方にも戦死者を出し、翌日以後の岩剣城攻撃へ向けて陣を整えた。
年月日未詳 / 冊子 915頁
『島津貴久譜』が、九月二十六日に義久が白銀陣へ進み、帖佐方の敵兵を迎え撃った戦況を記す。城方の出撃に対して鉄砲・弓矢を交えた射撃戦となり、双方に負傷者が出る中、義久方が陣を維持して岩剣城包囲を続けた。
年月日未詳 / 冊子 917~918頁
『島津義久譜』が、九月十三日に義久方が脇元方面へ進んだ戦況を記す。梅北宮内左衛門・川辺衆らが民家へ放火して帖佐方の兵を誘い出し、出撃した敵と交戦して退けた過程と、諸隊が岩剣城包囲を続けた動きを伝える。
年月日未詳 / 冊子 918頁
『島津忠将譜』が、天文二十三年秋に忠将が隅州勢を率いて来援したことを記す。海路・陸路から加治木・清水方面へ進み、肝付三郎五郎方や城兵の動きに対処しながら、貴久方の岩剣・帖佐攻めを支援した経過をまとめる。