新納忠元勲功記
年月日未詳 / 冊子 410~411頁/原整理番号 147
天正七年春、天草紹白が来迎寺の使僧を介して忠元と交渉し、出水の義虎と和睦した経緯を記す。忠元は大友に従うことの不利を説き、将軍義昭の大友退治の沙汰を受けて肥後で活動した。鎌田寛栖とともに志岐・上津浦・栖本・大矢野ら五人の城主を出水へ招き、島津への奉公・降伏に導いた。肥後の領地拡大を忠元と寛栖の勲功とする。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
41 件 (全巻)/ 1–41件を表示
ページ 1 / 1
年月日未詳 / 冊子 410~411頁/原整理番号 147
天正七年春、天草紹白が来迎寺の使僧を介して忠元と交渉し、出水の義虎と和睦した経緯を記す。忠元は大友に従うことの不利を説き、将軍義昭の大友退治の沙汰を受けて肥後で活動した。鎌田寛栖とともに志岐・上津浦・栖本・大矢野ら五人の城主を出水へ招き、島津への奉公・降伏に導いた。肥後の領地拡大を忠元と寛栖の勲功とする。
年月日未詳 / 冊子 412頁/原整理番号 152
鎌田寛栖が忠元と謀り、肥後進出に先立って出水の義虎と密議し、志岐・上津浦・天草氏を招いた。天正八年には軍勢と多くの兵船を出水へ集め、天草島を経由して進んだ。矢崎城、次いで網田城を陥れ、筑前・筑後などへの進出に迫ったという。義虎と忠元の動きが大守の武勇を四方に広めたと評価する。右嫡家の系図にも見えると注記する。
「天正八年」四月十六日 / 冊子 412頁/原整理番号 153
頴孝が伊集院右衛門大夫へ、先日の質人に関し、下野守は守備に気を配り出勢を控えると報告する。鎌田寛栖と新納武蔵守の帰陣も伝える。城親賢の一家と城親顕を結び、隈本の番衆が分かる前に備えるよう求める。急な大勢の渡海にも懸念を述べ、先に和泉を遣わしたので、心得て取り計らい、さらに使僧で連絡してほしいと頼む。
年月日未詳 / 冊子 419~420頁/原整理番号 164
天正八年五月、忠元が大口に接する相良領寶川内を攻め、忠堯と城へ入った平田又次郎ら三人が討死した。忠元は重康・重賢を誘って伏兵を置き、敵を討った。城主らは城を捨て、朴野・岩年礼も領地となった。続いて隈本方への援軍と内通、阿蘇方との対立を記す。十月十五日の矢崎攻めで忠元が丸田ら敵を討ち、翌日網田が降伏した。十一月の合子戦では忠元父子らが働き、百三十余人を討ち取って帰陣したとする。
永禄十一年二月廿八日 / 冊子 194頁
永禄十一年二月二十八日、小苗代原で大口方の大軍と戦った経過を詳述する。肝付兼寛が諸軍を指揮し、新納久継が負傷、鎌田政年が敵中で下知を行い、面高真連坊が鉄砲で敵将牧野を倒した。新納忠元は白坂口で的場五藤と戦って数箇所の傷を負い、求麻方の勇士三名を守兵が討った後、貴久の使者から軍忠と市山在番への感謝を伝えられた。
永禄十一年二月廿八日 / 冊子 195頁
小苗代原合戦の別方面で、馬越・加治木・市来・伊集院・川辺勢が敵二千余騎を受け止め、肝付兼寛が軍配を執ったことを記す。新納久継が負傷する一方、鎌田政年が敵味方の間を駆けて指揮し、面高真連坊が鉄砲で八代の牧野次郎左衛門を倒し、田実右京亮がその首を取った。日暮れに双方が退いた。
永禄十二年五月廿五日~七月十四日 / 冊子 221頁
永禄十二年五月二十五日、祁答院長野城を攻め、守兵の激しい抵抗を受けた。比志島氏・鎌田政年らが奮戦し、仲俊坊・貴島源五郎・税所宮内少輔ら多数が戦死したが、各隊が死を顧みず攻めて勝利した。蒲生境でも敵数十人を討ったため伊東方は恐れ、七月十四日に飯野桶比良陣を捨てて退却した。
永禄十二年十二月廿八日~永禄十三年正月五日 / 冊子 222頁
川内方面を島津方へ入れるため、鎌田政年・宮原景種・猿渡大炊入道が密談し、東郷重尚を通じて入来院・祁答院を味方へ誘った経過を記す。永禄十二年十二月二十八日に訴願させ、翌永禄十三年正月五日の帰順につなげた。
永禄十二年十二月廿八日~永禄十三年正月五日 / 冊子 224頁
真幸・菱刈が征服され、相良氏も多くの兵を失って退いたため、渋谷一党は孤立を悟った。鎌田政年・宮原景種・猿渡大炊入道が東郷重尚を説得し、祁答院能重・入来院重豊も同心して忠節を申し入れた。永禄十二年十二月二十八日の訴願を受け、前科を許して各氏には居城だけを残し、その他の領地を差し出させた。
天正七年 / 冊子 634~635頁
耳川敗戦後、大友方の威勢が衰えて筑前・筑後・肥後の諸勢力が離反し、熊本の城親政も島津方への帰属を望んだ。義久は遠国支援を評議し、鎌田政年の進言で島津義虎を介して天草五人衆を味方につけ、政年・田尻荒兵衛尉ら足軽二百余人を熊本へ派遣して城親政・伯耆鑑高と連携した。
天正七年春 / 冊子 635頁
天草鎮尚から旧来の隣好回復を申し入れられたため、新納忠元が出水の島津義虎と天草を和睦させた。さらに大友宗麟から離反する勢力を取り込むため、忠元・鎌田政年が天草・志岐・上津浦・栖本・大矢野の島衆五人を出水へ招き、島津家へ奉公するよう説得して降伏させ、肥後進出の端緒を開いた。
天正七年五月中旬~十月十五日 / 冊子 635~636頁
天正七年五月中旬、菱刈両院の衆三千余騎が新納忠元の計略で水俣の宝川内を忍び取り、岩牟礼に城を構えて守備した。肥後宇土・熊本への通路が塞がれたため、忠元・鎌田政年を大将として十月十五日に矢崎城を攻め落とした。
天正八年 / 冊子 642~643頁
新納忠元と鎌田政年が肥後を島津義久の支配下へ入れる計画を立て、出水で島津義虎と密談し、志岐・上津浦・天草の諸氏を招いて協議した。天正八年に軍勢と多数の船を整え、天草へ渡って矢崎城・網田城を攻略し、豊前・肥前・肥後・筑前・筑後方面への進出の端緒を開いたとする。
天正八年閏三月吉日 / 冊子 653頁
伯耆顕孝が伊集院忠棟へ、島津方への人質差出しを準備していたが、鎌田政年・新納忠元が途中から帰陣したと聞いて一旦留めたと伝える。城親賢の子は阿蘇家と縁組したが島津への疑心は不要とし、島津の総勢が渡海する際は事前に知らせてもらえば和泉まで人質を送ると約した。
天正八年閏四月十六日 / 冊子 653頁
鎌田政年と新納忠元が肥後を島津義久の支配下へ入れる計画を立て、出水で島津義虎、志岐・上津浦・天草の諸氏と協議した。天正八年、軍勢と船を整えて天草へ渡り、機を見て矢崎城を急襲・攻略し、豊前・肥前・肥後・筑前・筑後方面への進出の端緒を開いたとする系図記事。
天正八年十月十五日 / 冊子 656頁
天正八年十月十五日、新納忠元・鎌田政年・伊集院久治を大将とする島津軍が肥後国の矢崎城などを攻略し、熊本城も島津義久の旗下へ降ったことを記す。
天正八年五月十三日~十一月 / 冊子 656~657頁
天正八年の肥後進出に際し、事前偵察、宝川内城攻め、熊本番手、矢崎城攻め、合志方面出陣に参加して軍功を挙げた者を日付・戦場別に列挙する交名。鎌田政年ら足軽三百余の派遣、新納忠秀らの偵察、忠元・忠尭らの攻略、佐多久政・伊集院久治らの合志戦を記す。
年月日未詳 / 冊子 661~662頁
熊本の城親賢父子が商人を介して島津義久への帰属を申し入れたため、鎌田政年が支援を進言し、島津義虎を通じて志岐・栖本・上津浦・大矢野・天草を味方につけた。鎌田ら足軽三百余を熊本へ派遣し、さらに佐多久政ら番手を送った。阿蘇方の甲斐宗運や矢崎・青田・合志勢と対立する中、新納忠元・伊集院久治らを加えて矢崎城攻めを決定するまでを記す。
年月日未詳 / 冊子 662~663頁
鎌田政年の報告を受けて島津家中が肥後支援を評議し、佐多久政を大将として川上忠智・上原尚近・宮原景晴らを熊本へ派遣した。城親政父子と家臣、周辺勢力の帰趨を探り、阿蘇方の甲斐宗運、矢崎・青田・合志・大津山勢と対立する中、秋月・高橋・草野・星野勢の内応も得て、新納忠元・伊集院久治・鎌田政年らが矢崎城攻撃を決めた経緯を記す。
年月日未詳 / 冊子 677頁
矢崎城主中村一太夫と網田城主中村二太夫が阿蘇惟前と結び、宇土・熊本および薩摩への往来を遮断したため、新納忠元・鎌田政年・伊集院久治らが数万の兵を率いて出陣した。天正八年十月十五日に矢崎城を急攻し、中村一太夫は自害、島津方にも市来備前守ら多数の戦死者が出た。翌日網田城を攻めると二太夫が降伏し、二十九日に全軍が熊本へ入った。
永禄十二年八月十八日~九月十八日 / 冊子 221頁
永禄十二年八月十八日、島津方が大口城を包囲すると、武器・兵力の尽きた守兵が降参を願い、貴久が許した。九月十日に相良方と島津方が人質を交換し、十四日に敵兵が球磨へ退去、十八日に貴久・義久が入城して凱歌を唱えた。約束により新納忠元を大口地頭に任じ、武蔵守へ改めて功績をたたえた。
永禄十二年五月六日・廿五日 / 冊子 217頁
永禄十二年五月六日の大口戸神尾・稲荷山伏兵戦に参加した島津一門・諸将を列挙する交名。島津義久・貴久・家久、新納忠元、肝付兼寛、大野駿河守、宮原景種、前田豊前守らを掲げ、同月二十五日の祁答院長野城攻めで勇功を挙げた比志島氏、新納久鏡、鎌田政年らも付記する。
永禄十二年五月六日~九月十八日 / 冊子 220~221頁
永禄十二年五月六日、羽月・大口境の戸神尾で島津方が勝ち、敵百六人を討ち取ったとする。初秋から相良氏と和平を協議し、九月十日に双方が人質を交換した。十八日巳刻、貴久・義久が大口城へ入り、鎌田政年を役者として太平の祝宴を催した。
天正八年五月~十二月 / 冊子 654~655頁
天正八年五月、忠元らが宝川内城を攻め、忠尭が先駆けして鑓を合わせ、平田又次郎らが戦死する中で攻略し、柊野・岩牟礼も島津領とした。六月以降は熊本の城親賢救援を進め、鎌田政年らを派遣。十月に矢崎城を焼き攻めて落とし、翌日網田城を降伏させた。十一月には合志領へ進み、大津山越前守以下百三十余人を討ち、十二月に帰陣した。
永禄十一年正月廿日~三月廿三日 / 冊子 186頁
永禄十一年正月二十日の羽作瀬合戦で戦功を挙げた将兵を中心に、その後の大口・曽木方面の戦闘参加者を併記した交名。義弘・歳久の退却を支えた遠矢良堅、財部盛弘、入来院筑後守、伊集院久治ら、二月二十八日の小苗代原で戦った忠元・兼寛ら、三月二十三日の曽木城防衛・永福寺口守備の人々を列挙する。
永禄十一年二月廿八日 / 冊子 192頁
永禄十一年二月二十八日、島津忠長と肝付兼寛が馬越城から市山城へ赴き、新納忠元と大口城攻略を相談した後、小苗代原で敵の偵察兵と遭遇した経過を記す。忠元・兼寛・忠長らが応戦し、新納久継が負傷、面高真連坊が鉄砲で敵将を倒した。忠元は白坂で戦って左脇を刺されたが城へ退き、城壁を越えようとした敵三人を守兵が討って退散させた。
永禄十二年八月十八日~九月十八日 / 冊子 221頁
八月十八日に大口城を四方から包囲して作毛を払い、守兵の兵器・弓弦が尽きると降参を許した。九月十日に双方が人質を交換し、十四日に球磨勢が退去、十八日に貴久・義久が入城した。新納忠元を大口地頭・武蔵守とし、諸城へ守兵を配置、菱刈氏には降参を許して平城を与え、軍を解いた。
永禄十二年五月廿五日~九月廿日 / 冊子 222頁
五月二十五日の祁答院長野城攻めで下城を破ったが、島津方にも多数の戦死者が出た。桶比良の伊東陣撤退後、八月十八日から大口城を包囲し、諸将自ら秋作を刈って兵糧を断った。相良・菱刈方は度重なる敗戦で和睦を願い、九月中旬に球磨兵が撤退した。大口城で太平の祝宴を行い、菱刈氏に平城を残し、他城へ地頭を配置して貴久・義久が凱旋した。
永禄十二年五月廿五日~九月廿日 / 冊子 223頁
五月二十五日の長野城攻めでは下城を破ったが多数が戦死し、いったん退いた。その敗報で伊東方が桶比良陣を撤収すると、八月十八日から大口城を包囲して秋作を刈った。相良氏は島津への旧恩を思い和平へ傾き、九月に球磨勢が退去した。大口城を受け取り、相良の請願で菱刈氏に本城一所を残し、新納忠元を大口地頭・武蔵守として諸城へ地頭を置いた。
天正八年十月十五日~十一月九日 / 冊子 678頁
天正八年十月十五日、島津方の兵船数百艘が矢崎城下へ着き、鬨の声を上げ火矢で放火して攻め上った。中村一太夫ら城兵は妻子を殺して切り出て戦い、島津方も市来備前守ら多数が戦死した。翌日青田城を和議で開城させ、城兵を阿蘇領へ送り、宇土で負傷者を養生し戦死者を弔った後、二十九日に熊本へ陣替えした。
天正八年十月十五日 / 冊子 678~679頁
天正八年十月十五日、島津方の兵船百余艘が矢崎城下に着き、四方から鬨を作り火矢で城を焼いた。中村一太夫以下の城兵は妻子を殺して切り出し、島津方にも多数の戦死者が出たが城は陥落した。翌日青田城が和議で開城し、鴻浦と合わせ三百町を伯耆鑑高へ与え、二十九日に全軍が熊本へ移った。
天正八年十一月十三日~十四日 / 冊子 679~680頁
十二月十三日に島津軍が熊本を発って河尻へ下り、翌十四日早朝、順風を得て兵船三百余艘で出航し、一夜で出水米之津へ着いた。島津義虎は戦功を賞して酒肴を送り、翌日出水城へ主要な将と数百人を招いて饗応した。軍勢はその後本国へ帰り、領国の人々が祝った。
天正十一年五月二十四日 / 冊子 755頁
天正十一年五月二十四日、上井覚兼が出仕すると、島津義久から忠平を八代へ移して名代とし国政を裁判させる構想について意見を求められた日記。老中・使衆・地頭衆を必要に応じ八代へ移す案を協議し、あわせて宇久純玄の使者貞方右衛門佐が書状・太刀・織物を持参したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 215~224頁
上井覚兼が八月朔日から晦日までを記した長大な日記。岩屋城攻めで負傷した覚兼は帰路と療養の様子を記しつつ、立花・宝満・筑紫方面の処置、豊後出兵をめぐる評定、諸将・使僧・寺社との面会を続ける。書状や使者の往復、降伏者・人質・知行の扱い、兵糧・酒・贈物、医師の治療や負傷者への見舞いまで日々記録する。北部九州攻略後の占領統治と次の豊後侵攻準備が、覚兼自身の傷の痛みや日常生活と並行して進む様子を伝える陣中・軍政日記である。
年月日未詳 / 冊子 224~233頁
上井覚兼が九月朔日から月末までの動静を記した長大な日記。療養を続けながら出仕・宿所移動・帰陣を重ね、立花・筑紫・秋月方面の処置と豊後侵攻の進発計画を諸将・使者と協議する。書状・起請文・使僧の往復、船・兵糧・武具の手配、降参者・人質・知行をめぐる判断、戦死者遺族や負傷者への対応を日々記録する。茶・酒・贈答、寺社参詣、病状など私的生活も併記され、北部九州攻略後の軍政と次期作戦を支えた情報伝達・家中調整の実態が分かる。
年月日未詳 / 冊子 372~374頁/原整理番号 82
羽月で守備隊が不足したため忠元と肝付兼寛が派遣され、五月六日の伏兵戦では家久らと計略を合わせた記事。敵を挟撃して百三十六首を得た後、大口を包囲し、相良の質人を受けて和睦した。忠元は大口地頭と菱刈両院の支配を命じられ、長年の働きを賞された。平泉で季久の家臣らが難戦したこと、季久家の知行と家族の処遇も記す。末尾は、市山在番中の忠元に飛来した鎌を諏訪大明神として祭り、郡の区分と役所の運営を伝える。
巻二/冊子 19~20頁
永禄七年に貴久が陸奥守、義久が修理大夫へ任じられた宣旨と、貴久の剃髪を掲げた後、真幸院・菱刈方面の戦いを記す。伊東氏が三山に要害を築いて飯野の忠平を圧迫し、島津方はいったん攻略に失敗して戦死者を出した。続いて菱刈氏が恩に背き相良氏と結んだため、貴久・義久父子は栗野へ出陣し、忠平は飯野から馬越へ進む。稲荷神の瑞火を吉兆として攻撃を開始し、忠平や新納忠元らの奮戦で馬越城を落とした。菱刈方は大口城へ退き、相良の援軍も入ったため、市山・羽月・曾木などに守兵を配置する。官位と宗教的権威を示しつつ、大口攻略へ向かう軍事的足場を築いた記事である。
巻二/冊子 20~21頁
永禄十一年、忠平が大口勢を誘い出すため伏兵を置いたが、戦況が不利となった一連の戦いを記す。忠平は敵将別府安芸守を弓で射倒したものの、川上久朗らが戦死し、自軍は退却を余儀なくされた。歳久・伊集院久治らの援軍も交戦し、忠平は辛うじて曾木城へ入る。その後、忠長・肝付兼寛・新納忠元らが市山から大口城をうかがい、鉄砲と伏兵を交えた戦闘を行う。忠元は負傷中にもかかわらず兵を指揮し、市山へ退却した。勝敗だけでなく、忠平の殿軍、将兵の死傷、鉄砲の使用など戦場の具体像を伝える。
巻二/冊子 21~22頁
大口勢が和議を破り、伊東氏も飯野・桶比良へ陣を築いたことから再戦となった経緯を記す。島津方は伊東陣を揶揄する狂歌を送り、貴久も出陣を図るが、長雨や兵の動揺のため作戦は進まなかった。その間に大口勢が守兵を襲い、双方に死者を出す。同年十二月、島津忠良が死去し、法号・称号が記される。翌年、忠平の弟家久、新納忠元、肝付兼寛らは二段の伏兵を設け、家久が大口城下で敵を挑発して神尾方面へ誘い込み、大勝して多数を討った。さらに祁答院長野城を攻め、補比良の伊東陣も撤退させる。大口城は兵器・糧食を失って降伏し、相良方から人質が出され、貴久・義久が入城した。忠良の死という家中の転機と、伏兵・鉄砲を用いた大口平定を一体として記す。
年月日未詳 / 冊子 521頁
文明十七年三月三日以降、本田兼親が忠廉の催促を受けて上井城などの戦いに参加し、戦功・合戦と一族の動向、のちの戦死を記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 681~682頁
天正八年十一月二十三日の合志合戦を記す。島津軍が久保田千町を焼くと、大津山源左衛門ら約四千騎が追撃した。伊集院久治が太刀始めで源左衛門を討ち、顔に傷を負いながら諸将の支援で戦い続け、佐多久政らの総攻撃により合志勢百三十余人を討った。鎌田政年が凱歌を挙げ、十二月十三日に全軍が熊本から薩摩へ帰った。