最上家親書状
(慶長十五年)九月十二日 / 冊子 294頁
慶長十五年九月十二日、最上家親が島津家久に、先刻城中で対面したものの名残惜しかったと述べ、琉球国王の奏者を務めるにあたり、その夜に門前へ礼に赴けるよう内儀へ取り次いでほしいと頼んだ書状。
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(慶長十五年)九月十二日 / 冊子 294頁
慶長十五年九月十二日、最上家親が島津家久に、先刻城中で対面したものの名残惜しかったと述べ、琉球国王の奏者を務めるにあたり、その夜に門前へ礼に赴けるよう内儀へ取り次いでほしいと頼んだ書状。
四月十五日 / 冊子 56~57頁
市来家親が、京都御門柱に関する処置と日程について土持大膳亮へ相談した書状。関係者の到着・引き渡し時期を調整し、刑部左衛門尉とも内談したうえで日限を知らせるよう求める。
八月四日 / 冊子 183頁
市来家親が澁谷五郎に、たびたびの相談で望みが満たされたと喜び、荒河の件は自身が初めて申し沙汰したため、まず当該在所を知行できれば外聞・実益とも望ましいと述べた書状。ほかの在所についても總州方へ申し入れ、決して等閑にしないことを使節に説明させる。
年月日未詳 / 冊子 256頁
島津久豊が伊地知縫殿助を碇山へ派遣し、久世忠朝方との和睦を進めた経過を記す義天譜。市来備後守家親も提携を歓迎し、久豊・久世・市来方は伊集院頼久を共通の敵として軍勢を統合した。碇山・市来・吉田周辺で交戦して敵を退け、島津一族間の和解を反伊集院連合へ発展させた。
(慶長十五年)九月十二日 / 冊子 355~358頁/原整理番号 24
最上家親が島津家久に宛てた書状。城中での対面が短かったことを惜しみ、琉球国王の奏者を務めたため、当夜に家久の門前へ礼に赴きたいので内儀へ取り次ぐよう求める。付載記録には、琉球国王の上洛・駿府および江戸での拝謁、進物、饗応、帰途の経過が列記される。
永禄12年、天正6年11月11日、寛文5年 / 冊子 325頁/原整理番号 123
市来家氏流の家守以下を一頁に示す系図。新納忠元の妹を母とする家満は天正六年十一月十一日に新納院高城で戦死し、その子家繁は永禄十二年生まれで、頴娃・庄内・高城・伊作・蒲生などの地頭を歴任して多くの忠功を立て、宗友は蒲生地頭、家良は兵具奉行、家実は光久へ太刀・青銅を進上して御納戸奉行・穆佐地頭・御側御目付・鹿屋地頭を務めたとする。後代では、家張が高奉行、家的が三十六歳で大坂に死去し、家年が嫡宗家親の養子となったこと、家貞が兄二人の死後に家督を継いで江戸で死去したこと、家重が寛文五年に生まれ、兄二人の死により家督を継いだことなど、戦死・役職・養子・相続を記す。
年月日未詳 / 冊子 546~547頁/原整理番号 30
市来清十郎所持本として、倶漢―正邦―孝親―孝言―忠方へ続く惟宗氏祖系と、宗大納言・友兼・広言・康友らから市来氏諸流へ至る系線を図示した異本系図。広言には薩摩国鹿児島郡司・新田宮執印・藤内右馬丞、康友には島津豊後前司忠久とする注記があり、忠久―忠季―忠経の系、国分寺別当・国分太郎・市来院名主などの職掌を記す。友成を市来太郎・市来郡司大蔵とし、政家・資家・河俣・厚地・時家・家続・家親らへ分岐させる。別系では友清・友義・友重・忠友・友兼・友連から家保・清久・宗海らへ続き、備後守・右衛門尉・刑部丞・新左衛門尉などの官途、法名、出家、妻の出自を添える。末尾では家親の系に『この代より政家は惟宗氏、これより先は大蔵氏』との注記があり、左近将監・田口・来迎寺・植松などの分流も掲げる。
宝亀年間、暦応4年7月27日・8月14日 / 冊子 319~320頁/原整理番号 121
市来氏を後漢霊帝の流れ・阿知王の苗裔とし、大蔵政房から維房・三郎太夫・家房へ続く祖系と、河原・川上・上下角・中村・来迎寺・田口・櫨村・川崎・山野田・南・厚地などの一族諸流を示す系図。大蔵政房は宝亀年間に薩州へ下向し、市来郡司として鍋ヶ城に居住したとする。家房に実子がなかったため国分友成の二男政宗を養子としたとの説には『非ナリ』と傍注する。時宗(法名道尊)の代には、暦応四年七月二十七日に守護道鑑が市来へ出陣して城を攻め、道尊が降伏し、同年八月十四日夜に又五郎家郷・川上又次郎ら親類五人が戦死した。氏家(法名観意隆家)は蹴鞠の名人で禁中と将軍家の鞠会に列したといい、後段には守護忠国が市来を攻めて御手に入れた記事を記す。
〈寛延二年〉八月六日~三十日 / 冊子 191頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0545
八月六日から三十日まで福昌寺で宗信の中陰の梵儀を修し、法式に従って弔祭した。至親の大家親戚は、それぞれの家格と従来の先規に従い、日を定めて祭文を献じた。各人の祭文を以下に掲げると記す。
元弘3年~正徳5年(系中) / 冊子 532~546頁/原整理番号 29-1
惟宗姓市来氏について、政家・家房から近世の政香・政武らへ至る系譜と家伝を収めた長大な記録。冒頭で市来院郡司・郡司職、母方の大蔵氏、国分・河上・橋口・角・河俣など諸流との関係を示す一方、政家の出自や市来院郡司職の伝承は諸家系図・注進文書だけでは確証できないとして異説を検討する。元弘3年には家親が渋谷・相良両家と結んで植松城を拠点に戦い、伊作大隅守勝久らとの市来院争奪では射戦・城攻め・訴訟・所領処分を重ねたとする。至徳2年には氏久が久豊へ追物射を命じた際、市来右京亮が射手を務め、のち筑前博多へ派遣された記事がある。家清は文明7年に大明神社を再興し、家保は天文7年12月29日に加世田城を守って今泉川で戦死、家利も加世田城防衛で大軍と戦い、西原川窪の奮戦で味方を退かせたと記す。文太郎忠辰は文禄元年から朝鮮へ従軍し、家尚は弓馬・飛弾・連歌・書画に通じ、久豊以来の家伝や国老衆の譜牒を調査して著述を残した。近世部分は家幸・家通・家親らの御目付・小姓・地頭職、知行・扶持、江戸・国元奉公、寺院葬送、改名・家督、複数の妻子・養子・分家を詳細に記し、記録館・史館勤務や文書編纂に携わった政香、家督と家名を継いだ政武までを載せる。
年月日未詳 / 冊子 301~302頁/原整理番号 138
久豊譜が、久豊は伊地知縫殿助と市来家親、本田安久を碇山へ送り、久世と和睦し頼久を討つ協議をしたと記す。久豊は満家・川田から平等寺へ進んだが、久世・忠朝は市来宮園にとどまり、久世は約束を変えて兵を出さなかった。頼久は千騎ほどで平等寺へ攻め寄せ、数日間の戦闘で久豊方は吉田・肝付と退陣を相談し、双方が退いた。夜の帰路、郡山の庶卒らが諸物・兵具・馬を奪って逃げたため、川田・比志島などに兵を置いた。久世は川辺を受け取り忠朝は隈城へ帰り、市来家親は久世らの不参を非難したという。
文安3年、天文23年、弘治3年4月19日、永禄2年6月16日、永禄9年10月26日、天正6年11月12日、文禄元年7月18日、慶長5年9月15日、慶長13年9月29日 / 冊子 13~17頁/原整理番号 4
本田氏十代家督・重恒(又二郎、信濃守、法名義翁)を祖とする系図。兄元親から家督を譲られ、島津忠国に仕えて家老となったが、国親の讒訴で家督を奪われ、文安三年の上洛中に清水城を攻略され、のち曽於郡で国親に殺された経緯を記す。後裔について、隅州菱刈院・穂北・伊集院・湯之尾等の地頭職、親貞の養子相続と関ヶ原後の新納旅庵との周旋、高城・蒲生・滝ヶ水・牛根・三之山・関ヶ原での戦死、朝鮮出兵・川辺地頭、婚姻・養子による諸家への分岐を収める。
至徳2年12月15日、暦応4年7月27日・8月14日、文安3年、宝徳3年9月8日、嘉吉元年12月12日、寛正3年、天文17年、永禄10年、天正8年、寛永元年、寛延3年1月12日、貞享5年 / 冊子 320~324頁/原整理番号 122
市来小四郎家と次左衛門・千左衛門・左中・勘左衛門などの諸流を、慶頼王の後裔とする祖系から近世まで示す長大な系図。広言が晩年に島津忠久へ従い、その子友成が大蔵家房の娘を妻として市来郡司家へ入り、政家が父家と祖母から市来院郡司職を受けて惟宗・大蔵の二姓を兼ねた経緯を記す。氏家は歌道と蹴鞠に優れ、忠家は至徳二年の犬追物で射手を務めた。久家は幼少時に島津久豊の葬送へ従い、嘉吉元年には薩摩守持久らと島津忠国に供奉したが、後に守護島津立久へ背き、寛正三年に市来城を攻められて没落した。後代では、家保が加世田で戦死し、家永が永禄十年に市山で戦死したこと、家政が天文十七年の日新公による加世田城攻撃で御剣を持ったこと、別家の家政が竹内兵部少輔を称して竹内隠岐守の養子となったのち市来氏を再興したことなど、各流の軍功・戦死・養子・役職・法名を列記する。忠家の一支については次左衛門家系図に見えず、本宗にも忠家がいないとの異説を付記する。
正月29日(写) / 冊子 337~338頁/原整理番号 130-22
河上氏文書のうちから正月二十九日に写した別紙の某覚書。大隅国の吉内左衛門尉家長に関わる山城守の許可、松山地頭となった人物が和泉から日新斎へ供奉して中村に居住した由緒、羽月居住者と貴島常陸一族、南郷氏との争い・永吉での討死、薩州時代に小湊を領した人物、市来助次郎の曾祖父山城守の妹婿にあたる和泉の市来氏など、一族・姻族の関係を伝える。付随系譜は九代家政が次郎左衛門尉・山城守を称し、法名を長盛としたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 301頁/原整理番号 136
伊地知季豊譜が、応永十九年、久豊は季豊を久世・忠朝・市来氏へ使いに出し、碇山で協議して伊集院氏を攻める計画を立てたと記す。久豊軍は平等寺で三氏の兵を待ったが、伊集院頼久が攻撃した際に急いで招いても三氏は来ず、不利となって退いた。その後、川田・比志島・郡山などに備えを築いたという。
年月日未詳 / 冊子 443~444頁/原整理番号 2-14
相馬氏の古系図として、頼朝の下に頼家・實朝・忠久を親王とする図を載せ、別本では忠久を法師房丸・豊後守などとし、その子忠義へ結ぶ。注は白河法皇による獅子の定置と征夷将軍の宣旨、母の系譜、忠久十八歳の高倉宮からの祝を述べる。さらに文治二年六月一日の関東からの出立・上洛・西国下向の伝承を載せ、季安が元暦元年の義仲任官と忠久の年齢を照合して誤りを指摘する。
宝暦十一年(日付不記、目録年次) / 冊子 832~833頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2490
賜贈・献上や吉凶の問合せについて、老女が宮中の内旨を伝える連状を奉文と呼ぶ。史官が御譜に転載するため右筆へ照会したところ、後の参考にならない奉文は焼いていたと回答された。将軍家の奉文や親藩・旧知の書札は右筆に預けて国元へ送り史館に収めるが、諸家書札も後用のないものは選んで焼くと記す。長年を経た口伝の誤りが伝わっているため、この編では現存する奉文を写し、その他は簿牒の記載や右筆所に残る提出書稿・案文を用いて記事を補った。
安永元年辰十二月(日なし) / 冊子 348~349頁/原整理番号 976の10/整理ID 976-10
浄岸院の京都の内縁を列挙した親類書。実父は清閑寺前大納言、伯母は寿光院で、寿光院を清閑寺前大納言の兄弟とし、常憲院の「御部屋」となって死去し、上野大慈院へ納められたと記す。伯父の万里小路権大納言は清閑寺家から万里小路家の養子となり、すでに死去したという。このほか清閑寺中納言、冷泉侍従宰相、藤波三位、勘解由小路権大夫を「御娚」「御又娚」の呼称で挙げる。従弟女の宝寿院は万里小路権大納言の娘で、勧修寺権右中弁の祖母、従弟の甘露寺前大納言は万里小路家から甘露寺家への養子と記す。これら以外には京都・当地とも内縁の由緒を持つ人はいないと結ぶ。朱付記は、書付内の実名が不明なため知譜抽記と照合して記録したこと、御守殿から公儀へ提出した書付を後年の参考に留めるよう沙汰され、島津登の取次で交付されたため留置したことを記す。最後に清崎の名がある。
文政4年4月23日(辛巳。前年11月からの招請経緯を含む) / 冊子 600~601頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1798
斉宣公御譜の記事。文政四年辛巳4月23日、斉宣が招きに応じて田安邸へ赴いたと記す。前年庚辰11月、田安中納言斉匡が竹中定廬を遣わし、本文の田橋一位卿との親戚関係と、まだ招請の機会がなかったことに触れ、別日に招きたい旨を伝えた。田橋には一橋家の注がある。斉宣は謝意を述べ、定廬は帰った。翌年4月14日、定廬が再来し、21日に斉宣と樂翁を招きたいと告げる。16日には法眼一甫の書状が届き、客宴と一旦辞退して別日を求める事情を記す。20日の定廬の再報では翌日の招請予定を、登朝の都合で23日へ延期したとする。書状中の辞退・登朝に関する「卿」の具体的な指示対象は留保する。23日辰後に斉宣が田安邸へ出向き、樂翁も来た。邸内の景物と会宴の興を記し、後に示すため記を作ったとする。末注で樂翁を奥州白川侯松平越中守定信とし、老中を勤めて致仕後に樂翁と号し、多才博学で和歌に優れ、斉宣と交わりが深いと記す。斉宣の座右の筐中には樂翁の詠歌数首を収めるとし、宗高謹誌と結ぶ。