川上久辰譜
(文禄元年)4月~6月15日 / 冊子 568頁
川上久辰が五月に渡海して王城へ向かう途中、六月十五日に山中で数千の敵兵に襲撃され、豪雨で火縄が使えなくなるなか久保城助ら十五人が戦死した経過を記す。 久辰は負傷者とともに清州の小早川隆景陣へ入り、乃美孫兵衛らの保護を受けて釜山から帰国した。島津勢の渡海・行軍・遭難と損害を個人の譜から追える貴重な記事である。
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(文禄元年)4月~6月15日 / 冊子 568頁
川上久辰が五月に渡海して王城へ向かう途中、六月十五日に山中で数千の敵兵に襲撃され、豪雨で火縄が使えなくなるなか久保城助ら十五人が戦死した経過を記す。 久辰は負傷者とともに清州の小早川隆景陣へ入り、乃美孫兵衛らの保護を受けて釜山から帰国した。島津勢の渡海・行軍・遭難と損害を個人の譜から追える貴重な記事である。
年月日未詳 / 冊子 527頁
慶長十九年五月、広津下総守常久の家臣岩元孫兵衛が、木下藤吉左衛門と同じく主君に殉死したことを記す殉国者の記事。
年月日未詳 / 冊子 527頁
島津常久が慶長十九年五月二十九日、広島上山城で疱瘡により二十八歳で死去したことを記す譜。法号とともに、瀬戸口兵右衛門・岩本孫兵衛・木下藤吉左衛門が殉死したことを載せる。
応安三年十月十四日 / 冊子 54頁
鎮西大将軍の下向を受け、一族・同心衆を早急に催して忠節を尽くすよう命じた足利義満の御教書。
享保二年四月廿二日 / 冊子 313頁/整理ID 812
観樹院・實相院の寺地の広さと石高を挙げ、帳面との差を調べて引き付けた旨を記す屋敷目録。菱刈孫兵衛ら四名が連署し、四月二十二日付。
宝暦九年七月朔日 / 冊子 728頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2204
宝暦九年七月朔日付の加冠仮名書出は、菱刈虎治の加冠に際し、孫兵衛と称するよう定める。本文に「御判」と記す。
寛永14年10月27日 / 冊子 287頁/原整理番号 244の2
熊本からの継飛脚を受け、島原で切支丹蜂起が起こり、松倉家中・侍衆が籠城していることを知らせる井上孫兵衛書状。熊本三奉行にも申し来し、急便で概要を報じる。
永正十六年九月廿日 / 冊子 622頁
山川郷に霧島御社一宇を造立する趣意と息災延命の祈願を記し、大檀那伴兼憲・大工助兵衛尉元吉らの名を列記した文書。
年月日未詳 / 冊子 75頁/原整理番号 3
伊地知新左衛門重昌は、光久の命により、家に伝わる五節供の祝いと椀飯に関する書を写すために差し出したと記す。万治三年八月二十八日に伊東孫兵衛の取次ぎで命を受けた事情を記し、万治三年正月吉日という日付を付す覚。日付の前後関係には原文上の疑問が残る。
享保二年四月廿二日 / 冊子 313頁/整理ID 811
四月二十二日付の南泉院寺地屋敷目録。寺地六反七畝十五歩、大豆六表二斗六升三合、高二石四斗六升一合四夕六才を記す。享保二年四月に郡奉行大迫弥兵衛・餅原十郎左衛門が調べて提出した帳面どおり、同十八日の家老衆の引付に従って支配させる。堀甚左衛門・嶋津主計・新納左京・菱刈孫兵衛が押印し、継目裏印も同じとする。
〈寛延四年〉十月四日〔目録:九月二十八日〕 / 冊子 332~337頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0983
平田靭負正輔・市来左中政方が六家老へ、太守・隅州の有徳院遺物拝領後の御礼について、江戸での相談と書状・使札の提出経過を報告する。加賀守から名代御礼についての照会がないため、留守居を通じて御用番酒井左衛門尉へ申し上げ、山澤小左衛門を取次に遣わした。国元在住の拝領者には名代御礼の例がなく、上使の差図もないまま、有徳院の隠居祝いの拝領例だけで処理するのは不足があるとして、堀田相模守へ内談した。留守居が御用人浅井八兵衛から、御用番の出勤を待って礼使札を差し出す扱いを聞き、赤松甚右衛門にも申し合わせた。甚右衛門は病気で参上できず、小左衛門が佐久間源太夫へ事情を伝え、先月十五日に相模守へ内談する手はずを整えたが、浅井八兵衛の内用のため進まなかった。そこで倉次甚太夫にも相談し、十七日付の手紙と十九日の来訪を経て、御用番の差図どおり名代で勤めることになったと報告する。 名代が登城して御礼するのか、廻勤で済むのかについても堀田側と相談した。隅州が病中のため、在府の加賀守が両丸へ登城し、老中へ廻勤する扱いとし、似寄りの例書を添えるよう八兵衛から伝えられた。当分出勤しない酒井左衛門尉・秋元但馬守への御礼は差し控え、出勤後に改めて勤める。大納言への御礼も御用番へ申し上げて済ませるという。有徳院遺物の両殿への拝領について本多伯耆守へ提出した書付一通と例書一通、隅州から大納言への御礼についての書付一通と付紙の扱いを挙げる。加賀守父子の名代については先に願い、御用人を通じて登城を要しない廻勤の差図を受けた。先月二十五日の書状提出、翌二十六日の加賀守の老中・上使側への廻勤、若年寄への菱刈孫兵衛の使者、側衆への表方・隠居方それぞれの使者を記す。 太守・菊姫の遺物拝領に隅州から謝礼する連署書状一通について、本多への提出と受け取り、秋元宛書状が西丸用務のため登城しなかったこと、西尾隠岐守宛書状の提出、元で整えた連署書状と御右筆の案文を挙げる。太守・菊姫の拝領に対する奉書一通、隅州から大納言への謝礼に関する同一通、本丸の老女五人から隅州への返事六通も報告する。隅州の公方・大納言への御内証の御礼は名代使札で決めにくく、国元で文面を整えるよう伝えられた。八月二十一日付の御文と御案文、御礼文の八月九日・九日付、使札の八月二十一日付に相違があるため、御文を案文として扱い、双方を相談して調え直した。先月二十六日に御守殿から提出した御文はその日に返事が下り、女使の口上と春井の取次を経た。二十七日には春井から添文付きの御文六通を提出したという。 太守の御頂戴がまだ済んでいないため、七月十日の拝領として差し出す御礼文の扱いを佐々木に尋ね、差し支えないとの返答を得た。隅州の御礼文は御右筆が提出し、国元の御案文も添える。日付の異なる案文と調え直した文面を送って、国元の心得とする。京都諸司代・大坂城代への通知は、隠居祝いの拝領時の例に従って調えるよう使番へ申し渡したが、先例が見当たらないため、近衛その他への通知とあわせて相談する。日光宮・御三家・御一門への通知は、太守の御礼が済んだ時に使番へ申し渡すよう求める。隅州の御礼が済んだことも伝え、別紙九通を送るとして結ぶ。末尾に十月四日の朱記と、平田靭負・市来左中の名義、六家老宛名を掲げる。
安永七年戌七月 / 冊子 553頁/原整理番号 1552の2/整理ID 1552-2
花火については火用心を第一に考慮し、人家廻で行うべきことは前年以来繰り返し申し渡してあるので、改めてこの申渡しを忘れず心得るよう支配中へ伝えることを命じる。安永七年戌七月、孫兵衛。孫兵衛には大目付菱刈實興との原注を付す。「人家廻にて可仕」という原の場所表現を保持し、人家から遠く離れた場所へ改める命令として言い換えない。具体的な火災・被害、花火の品種や打上げ時刻、違反者の人数・処罰は記されない。
安永八年春二月(記事の今茲春二月、年は目録) / 冊子 565頁/原整理番号 1597/整理ID 1597
鎌倉右大将頼朝公と先公得仏公の石塔は、昔から相州鎌倉の相承院にあると記す。得仏公には島津忠久との小注を付す。今春二月、重豪は有司に命じて石垣・石燈籠・石盥盤・神道の石を新たに建て、東都の龍湖親和にその文字を書かせたとする。龍湖親和には俗名三井孫兵衛との注を付す。既存の石塔の所在と、二月の新設物及び揮毫の依頼を記す。
文化13年7月26日(本書・年は蓋紙)/8月18日(到来) / 冊子 496頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1510
白木御文書八番箱中十三番。蓋紙は文化十三年子八月、御記録所宛で、順姫誕生月日と閑姫生母の仰出の問い合わせを標題とする。朱書は「順姫様御誕生月日・閑姫様御生母被仰出付而之事」、八月十八日到来、肝付孫兵衛ほか二人便と記す。本書では順姫の誕生日を文化十年酉十二月十二日と掲げ、但し御内実は同年十月十二日と区別する。閑姫の生母は佐藤氏女と記す。この通り以後間違いのないよう帳面に記し置くよう仰せ出され、承知するよう申渡し、御記録奉行へも申渡したことを伝える。智姫様・お八百の御方に申し上げ、その元でも申し渡す件を取り計らうよう求める。七月廿六日、新納内蔵から川上右近・町田監物・嶋津安房・鎌田典膳へ。右二通を一冊とする末注がある。順姫の記録上の生日と内実日を統合せず、既読1310・1322の母系記載との違いも留保する。
延徳4年11月13日 / 冊子 255~256頁/原整理番号 98
延徳四年十一月十三日、島津忠昌が肝付をめぐる時儀について、前日に上原藤左衛門尉を遣わし、さらに伊地知周防守重貞を派遣したため、両人から詳細が伝えられるはずだと知らせた書状。当地の時宜を伝えるため相良方にも書状を送り、周防守が申し述べる趣旨に従って細部を伝えるよう求め、二度申し送ったので重言はしないと結ぶ。写本は伊地知越右衛門家蔵で、上原休兵衛家にあったものを、菱刈孫兵衛の文書らしいと聞き、休兵衛へ懇望して書写したとの伝来注記を伴う。『旧記雑録前編二』一七一三号文書と同一とされる。
〈寛延四年〉七月二十四日 / 冊子 278頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0790
菱刈孫兵衛実詮が寛延四年七月廿四日、御国元御側御用人衆へ、竹姫から下賜された阿弥陀像の送付について知らせる。二階堂森右衛門便で送る旨は春井から申出があり、打付箱に入れて差し越すので、森右衛門から差し出された際は家老へ申し上げ、そこから国許へ引き渡す段取りを求める。家老から問合せがあるかもしれないため間違いなく差し上げ、さらに結果を知らせるよう依頼する。御打敷壹ツの記載もある。移送完了の報告とはせず、受取・家老への報告・引渡しを求める書状である。
〈寛延四年〉七月十日以降 / 冊子 313頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0925
寛延四年七月十日、上使若年寄小出信濃守英智が江戸芝邸へ来て、有徳院吉宗の遺物脇刀を継豊と重年へ各一腰賜った記事。継豊には尻懸則長作、長八寸三分半、護摩梵字、銘なし、代金二十枚、重年には信國作、長八寸七分半、剣・三鈷・梵字などの装飾、代金二十枚という元注が付く。両者は薩摩にいたため、島津加賀守忠雅が代わって上使を迎え、大書院で上旨を承り、薩摩で二刀を拝戴して謝恩する旨を上使へ述べた。忠雅は馬廻川上喜藤太親毗、新番荒武蔵右衛門祐壽、軽士・歩卒を遣わして刀を護送させ、一行は七月十六日に江戸を発ち、八月十三日に薩府へ着いた。二十一日に継豊が恩賜の宝刀を謹んで拝戴した。拝戴の日が延びたのは、継豊の女子が同月十一日に死去したためという注がある。九月二十六日にその報告が江戸へ届き、忠雅が継豊に代わって執政各位と上使英智の邸で謝礼し、番頭菱刈孫兵衛實詮も若年寄各位の邸で謝礼した。
〈宝暦四年〉閏二月二日~八月十九日 / 冊子 466~467頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1418
重年夫人が病を得て床に伏し、湯薬による治療を受けても効なく、宝暦四年閏二月二日に江戸芝邸で死去した記事。法諱は智光院殿心顔貞鏡大姉で、芝の大圓寺へ葬った。三日夜に入棺し、六日夜に霊柩を芝邸東門から出して同夜大圓寺へ入れ、九日夜に葬礼を営んだ。島津主殿久鴻が神主を護持し、側用人菱刈孫兵衛實詮・財部孫之丞盛興、留守居赤松甚右衛門則正、使番本田六左衛門親相、代納殿役人白井猶右衛門昌住・郡山嘉右衛門貞雄・貴島幸右衛門國在らが供奉した。ほかの代納殿役人以下も葬場に列し、導師は大圓寺海卯和尚であった。閏二月十日から十四日まで中陰の梵儀を修した。同月二十日に訃報が薩府へ届いた。六月二十六日早朝、遺髪を大圓寺から国元へ送り、田中源之丞國盤と新番代納殿役、奥横目以下の軽士らが護送した。遺髪は行列では駕物と呼び、国元へ着いて営む際には髪と称するとの元注がある。東海道・伊勢路を進んで大坂から船で西海を航行し、薩州向田へ上陸、八月十九日に福昌寺へ入り、その日に廟所へ遺髪を納めた。出典は重年公御譜。
明和八年六月二十日・二十一日(編年記事所載日) / 冊子 291頁/原整理番号 768/整理ID 768
この年夏六月二十日、大家が東叡山で有徳院殿(徳川吉宗)の二十一回忌法事を営んだため、二十一日に重豪が番頭兼用人菱刈孫兵衛實祐を遣わし、香奠銀十枚を献納して拝礼した記事。出典は重豪公御譜中。
明和八年八月二十日~十月二十日(編年記事所載日) / 冊子 293頁/原整理番号 780/整理ID 780
この年八月二十日、大樹家治公の正妃閑院氏が薨じた記事で、閑院宮直仁親王女・従二位などの注を伴う。九月十日未刻、遺骸を東叡山へ移して葬り、同二十三日に中陰の梵儀を行ったため、番頭菱刈孫兵衛實祐を上野へ遣わして香奠銀五枚を献じた。十月二十日、心観院殿の遺命により古今和歌集一匣を賜ったと記し、光廣卿の親筆との注を伴う。別注は、老女から浄岸院へ渡された後、浄岸院が受けて「余」へ届けたことを説明し、本文は在国中に拝受し、その後に女使を城へ遣わして恩を謝したという。同日、浄岸院へ屏風一双を賜ったことも記し、書牘を差し上げて謝したとする。末尾に、この遺物の件は明和九年正月に主馬からの達しがあり参照すべきとの注を伴う。出典は重豪公御譜中。
安永七年閏七月十四日・七月(各枝の日付) / 冊子 553頁/原整理番号 1552/整理ID 1552
三枝に分かれる申渡書群。第一枝は往還での貝吹を止め、稽古場所と寺社奉行・与頭等への伝達を定める帯刀の書。第二枝は火用心と花火について従来の申渡しを忘れず心得るよう支配中へ伝える孫兵衛の書。第三枝は若年の者の鶏合を戒め、親や身近な親類にも言い聞かせ、組中・支配中・諸外城・私領へ漏れなく伝える帯刀・仲の連署の書。第一枝は閏七月十四日、第二・第三枝は七月とする。各枝に独立した本文と差出表示があり、主番号を重ねた第四の本文とはしない。
(明暦三年)八月十日 / 冊子 347頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0744
島津久茂が国元の役人らへ、石川・坂井・永井各氏の書状を取り次ぎ、将軍への挨拶、江戸屋敷の女房衆・奉公人の召寄せ、家臣の出仕・留守居と人員配置について指示した書状。
記事 / 冊子 270~271頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0776
寛延三年夏、重年が宗信の遺髪を紀州高野山へ納めるため使者を遣わした。四月十九日暁、福昌寺で島津久亮が継豊の代わりに焼香し、覺門・覺淵らの読経、遺髪の護守と送り出しを行う。総監鎌田政昌、側用人菱刈實詮ほか一行を列挙し、五月朔日出帆後の風波による津々の滞泊、二十八日兵庫港着、二十九日難波着を記す。六月九日に大坂を発ち、十一日に高野山蓮金院で遺髪を仏壇に安置した。十二日は僧衆五十口の勤行と政昌の重年代焼香、十三日は五十口の大曼荼羅供を行い、奥院へ遺髪を納めた。銅製の遺髪箱を木箱に入れ、石の供檀に納めたとの注がある。同日の空輪堂で僧二十口三昧・供養・誦経を行い、霊塔を建立して銘を記した。
11月23日 / 冊子 405~406頁/原整理番号 368の5
十一月二十三日、十三端帆三艘・十一端帆二艘・十端帆一艘・六端帆一艘、計七艘の運賃船を列記する。加世田・鹿児島などの上乗衆と小湊・泊・小松原などの船頭を記し、七艘を片浦から出水へ差し遣わした旨を是枝喜右衛門尉へ伝える。六端帆船は鹿児島町芝屋太兵衛尉の大坂行商買船と記す。
年月日未詳 / 冊子 440~442頁/原整理番号 416
熊本勢の接近を受け、一揆勢が天草上津浦を退き、島原側と合流して原城へ籠る経緯を記す。伊勢貞昌の本月十五日の江戸状も引用し、薩摩への出兵指示や肥後勢の進出を伝える。続いて天草四郎を本丸大将とする各郭の大将・番頭・鉄砲大将、武者・旗・鑓・使武者・夜廻・普請などの担当者と配置人数を詳記する。兵糧・兵器の取り込み、夜回り、防火、布製小旗、石積み・堀裏の穴など籠城防御の実施状況を述べ、総人数や一部の人物・日付には他史料の異説を併記する。
年月日未詳 / 冊子 445~447頁/原整理番号 423
原城一揆籠城の記録。寛永十四年十二月朔日から原古城を修築し春か城と称したとして、各郭の大将・軍人衆・奉行・使番・防火担当などの名と配置人数を列記する。兵勢二万三千余に童女一万余が加わったとし、防壁・銃眼・石や武器の配置、交替警備、矢文と火矢の警戒、四郎の巡回と法度伝達を詳述する。巻尾には高来郡などの村名を付し、一揆衆が在村の名を名字として名乗ったと説明する。
(寛永15年)正月より3月まで / 冊子 654~668頁/原整理番号 673
寛永十五年正月から三月まで、鹿児島衆から有馬へ出陣した諸士について、一人ごとに主従の内訳、従軍期間、延べ日数を列記した人数究帳。末尾で総人数五万七千七百四十一人、その内訳を人躰三千七百五人・小者夫五万四千三十六人と集計し、寛永二十一年正月二十六日に一日賦として照合した旨を記す。
年月日未詳 / 冊子 747頁/原整理番号 780
蒲生有馬氏に正文が所在する覚書。谷口助右衛門らの氏名を三段組で列記し、随所に下人の名前や本人名の訂正・異記を添える。末尾の合計は人躰八十人、小者四十九人。文書独自の日付・宛先・作成者は記されず、名簿の対象集団や出陣先は、この覚書単独からは断定しない。旧切り抜きで774~782へ分散していた名簿を、本文の連続する三つの全高切片に復元した。
年月日未詳 / 冊子 752~755頁/原整理番号 794
村田市助家蔵の模本から、三原喜太郎・里村十左衛門や谷山・加治木・財部・末吉・大崎・志布志・頴娃・指宿・飯野・高原などの人躰、卒者・夫丸、個人別の随伴人数と着津日を記す。飯米は十日または二十日分を渡し、長嶋ふくら蔵元と米津で分けて支給する例もある。末吉衆中の検見崎兼堯について、家系・移住と島原出陣時の行動を元禄七年の系図申出により補注する。末尾は二十三日条へ続く旨の注。
慶安四年六月二十九日 / 冊子 194頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0384
孫兵衛の罷越しや通手形、肥後熊庄町を経由する使者の往来について事情を伝え、必要な取次ぎと返答を求めた加久藤衆の連署書状案。
寛永十五年四月九日 / 冊子 239~241頁/原整理番号 333-24
二月二十七日の城乗りで、河喜多九太夫正重が本丸海手角と升形の間にある、蓆を掛けた塀の破口下の崩れた石垣(高さ三尺五寸ほど)に取り付き、砲石の激しい攻撃にも退かず、そこから乗り込んだ経過を嶋少右衛門へ申し出たもの。山田新九郎ら近傍の者を一番乗りの証人に挙げ、乗込み後は槍を合わせて敵二人を仕留め、前田忠左衛門・大村孫兵衛から証拠状を取ったと述べる。
宝暦六年正月二十二日~十二月四日 / 冊子 603~604頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1790
国目付の二使への接遇を記す記事で、正月二十二日の禰寝孫左衛門の若年寄への改称、二十五日の芝邸での二使饗応を述べる。二使は四月五日に出立して五月二十三日に鹿府へ着き、継豊・忠洪からそれぞれ太刀一腰・馬代金一枚・二種各千疋などを贈られた。六月には登城、先公小祥での福昌寺進香と接伴を受け、七月以降は谷山・城南の士街・寺院・家老の屋敷・桜島などを見分し、十一月十六日に府城を辞して帰路に就いた。末尾には十一月八日の伊集院織部久東の死去と、十二月四日の樺山左京久智の家老任命・菱刈孫兵衛實忠の大目付任命を添える。
年月日未詳 / 冊子 287頁/原整理番号 244の1
『平塞録』の記事。細川忠利らの江戸勤めと、十月二十七日に米田監物宅で島原急変を相談した経緯を記す。肥後郡代方からの飛脚が島原一揆を告げ、井上孫兵衛らへ急報したことを述べる。
年月日未詳 / 冊子 211~216頁/原整理番号 76-1
比志島元祖上総介重賢(入道法橋栄尊)の二男盛忠を祖とし、重賢から譲られた薩摩国満家院内西俣名主職を後裔が相伝した源家西俣氏の系図。久盛・義時の筑前笠崎異国番、義定への貞和四年道鑑公御書、義光への応永十八年久豊公御書など、名主職・所領・軍役を証する文書の伝来先も記す。義村に実子がなかったため蒲生彦太郎清冬の二男を猶子とし、その後に蒲生で永秀庵・観音院(泊瀬山長谷寺)を建立した由緒を載せる。天文二十三年、蒲生茂清が加治木城の肝付兼盛を攻めた際、蒲生氏の類族であった武蔵守盛家父子は岩剣城へ加勢し、池島ヶ原で敗れて同年十月二日に自害した。幼少の清房は母に匿われて菱刈へ逃れ、成長後は島津氏に奉公して諸軍役・大坂出陣に従い、島津家久から鎧一領を与えられ、のち家督を清昌へ譲って清敷地頭となった。後代には瀬口重明二男の盛友を清房妹の遺跡へ入れて西俣氏を称させたこと、孫太郎遺跡を姉が八、九年支配する間に家伝の証書・重物が散逸し、孫兵衛が島津光久から跡職を命じられて万治二年に清敷から鹿児島へ移ったため、所領・跡職だけが安堵されたことを記し、盛武以下の子女・婚姻まで続ける。