右兵衛督と中山前大納言の当職を免じ、別段の思召で御前日参を命じる
閏四月20日、末は新納嘉藤二の閏四月23日首尾書注 / 冊子 560頁/原整理番号 724の3/整理ID 724-3
右兵衛督・中山前大納言を名書し、当職を免じ、別段の思召によって今後御前に日参するよう命じる。日付は閏四月二十日。御仮建所から渡された趣の、新納嘉藤二による閏四月二十三日の首尾書があると末に記す。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
35 件 (全巻)/ 1–35件を表示
ページ 1 / 1
閏四月20日、末は新納嘉藤二の閏四月23日首尾書注 / 冊子 560頁/原整理番号 724の3/整理ID 724-3
右兵衛督・中山前大納言を名書し、当職を免じ、別段の思召によって今後御前に日参するよう命じる。日付は閏四月二十日。御仮建所から渡された趣の、新納嘉藤二による閏四月二十三日の首尾書があると末に記す。
八月十八日 / 冊子 12頁
日野町資将が、上洛後に会えず残念に思っていたところ書状を受けたことを喜んだ書状。丁子香二斤の贈与を重ねて秘蔵すると述べ、再会を願い、詳しいことは本庄右兵衛尉から伝えるとする。
九月廿六日 / 冊子 476頁
右兵衛督方への輿入れの祝儀として使者と三種二荷を贈られたことへ謝意を示した徳川義直書状。
(天正七年カ)六月十八日 / 冊子 638頁
飛鳥井雅継が北郷時久へ、前年に右兵衛督が急逝したが領元のことは引き続き織田信長から命じられているので安心するよう伝える。日向での時久の軍功が京都にも広く知られていると賞し、必要があれば申し付けるよう述べ、梶井門跡筆の歌と扇二本を贈った。
(慶長十一年)四月十四日 / 冊子 66~67頁
島津義弘が島津忠恒に、在京中の滞在・帰国時期、諸役人の任用、宿所や普請、材木・道路の手配について詳しく申し送った長文書状。福島正則らとの交渉、鹿児島方面の普請、山城の作事、使者や留守居の処置などを指示する。
記事成立日:未確認 / 冊子 190頁/整理ID TMP-P02-CONT-A52
右兵衛佐滿頼の在判書があるとして、以下に記す。 「大隅國本領者」として大祢寢・小祢寢・佐多・田代・邊津賀・姶良・大姶良・西俣・高州・鹿屋・百引・下大隅・大津村・種子島半分を掲げ、他州領地を略すと記す。
正徳四年四月廿八日 / 冊子 140頁/整理ID 343
島津吉貴が比志嶋藤次郎に加冠を許し、右兵衛の名乗りを与える。文末に吉貴の判を付す。
文政5年5月28日(覚の日付) / 冊子 616頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1850
白木御文書八番箱中四十五番の覚。家にあった三通の文書として、文和二年五月十一日付の尊氏将軍による知覧院宛行の下文一通、その付属の執達状一通、応永四年九月二十日付の渋川右兵衛佐満頼による本領佐多安堵の御教書一通を列記する。これら三通を焼失したため写しを願い出たところ、町田監物久視・新納内蔵久命と相談して上へ申し上げ、御記録所で写すよう命じられたので、後代まで全く保護するよう求める。文政五年午五月二十八日付、嶋津安房久備の判、嶋津本殿(久典と注)宛。包紙には書附写とある。本文は焼失後の写し作成・交付と保存指示を記す覚であり、中世文書の原文全文、焼失日や焼失の原因は本文に記されないため補わない。
辰五月20日、新納嘉藤二、主殿様宛 / 冊子 573~574頁/原整理番号 746の5/整理ID 746-4
今日午半刻に召され衣冠で参内し議定の詰席へ通り、八景間で岩倉右兵衛督から別紙の書付と議定職免の書付を渡され承知したと記す。外様一同と御学問所の御前へ召され、馬術を叡覧に供し菓子・包物を頂き、七半時過ぎに帰殿したと報じる。礼の扱いを尋ねたところ申し上げるに及ばない旨を松室土佐から承知したこと、私も供を務めたことを、書付写を添え辰五月二十日に新納嘉藤二が主殿へ知らせる。
記事成立日:未確認 記事内年紀(成立日と別):文龜三年癸亥十二月十六日 / 冊子 134頁/整理ID KW1-G000102
右兵衛尉に任じたことを記し、口宣案を左に付す。
年月日未詳 / 冊子 159頁
肝付譜所収。鎌倉政所・問注所・侍所などの職員名と役職を列挙し、右兵衛尉伴保久、給黎院郡司、泉庄弁済使等の名を記す記事。
寛喜元年十月六日 / 冊子 159頁
関東が右兵衛尉伴保久に対し、亡父伴忠久の譲状に任せ、島津庄薩摩方内泉庄弁済使・給黎院郡司職を安堵し、先例どおり所務を行うよう命じた下文。
応永七年七月九日 / 冊子 290頁/原整理番号 102
右兵衛佐渋川満頼が島津元久へ、上総入道久哲との確執が上聞に達したことを甚だ望ましくないとし、まず和睦させたうえで上裁を仰ぐよう命じた書下。
記事成立日:未確認 記事内参照年紀:同四年丁丑六月十五日 補記(正文と別層):應永 / 冊子 120頁/整理ID KW1-G000077
大隅国本領安堵の件について、鎮西探題渋河右兵衛佐満頼の証帖を後に付すと記す。
現行年紀:永正元年三月廿日 / 冊子 134~135頁/原整理番号 237/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0237
右兵衛尉建部尊重を大和守に任ずる口宣案。 右中辨藤原宣秀が奉じる。
現行年紀:未確認 / 冊子 138~141頁/原整理番号 244/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0244
権中納言雅縁の三十首を、春・夏・秋・冬・恋・雑の題に分けて収める。 霞・梅・雁・月・風・紅葉・千鳥・雪など季節の景物を詠み、恋では契り・逢瀬のなさ・つれなさへの嘆きを表す。 雑には富士の煙、夢から覚めた後の世、敷嶋の道への思いを詠む。 末尾で祖父卿の詠歌一巻を祢寢右兵衛尉尊重に授けると記す。
文書末尾日付:延文五年卯月五日 / 冊子 599頁/原整理番号 九六/整理ID TMP-P04-NIKAIDO-D0096
二階堂隠岐右兵衛丞行門が軍忠を申告する。 今年二月四日の松原城御発向時に田河郡河崎の御陣へ馳参し、宿直・警固をした旨を記す。 三月廿三日・同廿四日の合戦を挙げ、松原城への合戦・忠節を記す。 「若此条偽申候者、八幡大菩薩御罰於可罷蒙候」の起請句を置き、御披露を求める。延文五年卯月五日付。
元治元年4月(礼物書末尾) / 冊子 359~361頁/原整理番号 520/整理ID 520
島津大隅守源久光の従四位上・左近衛権中将昇進に係る礼物の書付。従四位上成と中将成を別欄とし、禁裏御所、上臈・長橋御局、大御乳人と執次、親王御方、高松御局と乳人、准后御方、於八百・於五百御方、内侍所、上卿・職事、位記・御請印・中務省等、主鈴・副使・雑掌・傳奏へ贈る礼物を列記する。例えば叙位の禁裏には黄金一枚、中将任官の禁裏には太刀馬代黄金二枚を記す。黄金・銀子・白銀を枚・両・目・文目で表し、右同断や宛の指示、本マの注を持つ。末尾に請取って差し上げるよう求め、元治元年四月と、各公卿殿家の担当名・印形表示、川上式部宛名を収める。品目・単位と対象を個別に示す一覧で、実際の支払済額は確定できない。
守護沙汰本文三月(日不記)、首尾書辰三月18日・昨17日午刻召出しを報告 / 冊子 537~538頁/原整理番号 696の1/整理ID 696-1
親征で二十一日に出輦するに当たり、京都は列聖の山陵と桂宮准后の所在があり、浮説・不穏と民を害する者を憂慮するとして、京都守護を薩摩・前田・蜂須賀の三藩へ委任し、民の安堵に努めるよう求める。続く内田の十八日付首尾書は、昨十七日午刻に太守・加賀・阿波の重役が参内して学問所で承知し、菓子を頂戴して岩倉の取次、近藤との面会、御留守居への依頼を受けたと報じる。太守側が中ノ京、加州が上ノ京、阿州が下ノ京を担い、三藩が協議して浮説・不穏を鎮めるよう伝えられたという。追記は、二条通北側より上を上ノ京、同南側から松原通北側までを中ノ京、同南側より下を下ノ京とし、巡邏・取締持場は本営で吟味されると考え、加州・阿州の留守居と相談し裁判所への案内や市中への伝達も掛け合ったと記す。
辰三月26日嶋津主殿・嶋津伊勢、去る17日午刻参内等を報告 / 冊子 539~540頁/原整理番号 698/整理ID 698
十七日午刻に太守が重役を召し連れて参内し、衣冠で伊勢を伴い、加賀・阿波も同様に学問所で別紙の趣旨を承知したと報じる。菓子を頂戴し岩倉前中将の取次を受け、近藤との面会や留守居中への依頼を経て帰殿したという。さらに伊勢と加州・阿州の重役が岩倉ほか二卿から、御留守中の京都警衛と三藩の協議を命じられたと記す。加州上ノ京、太守側中ノ京、阿州下ノ京の区分で浮説・不穏を鎮めることを伝え、中将が承知した上で東園中将・坊城侍従へ飛札で礼を申上げる意向と、留守居から出す書付を右筆頭が吟味し飛札・日積で差し出す取扱いを求める。大奥其外にも申上げ、許しの伝達等を取り計らってほしいとして勅語・留守居首尾書を添え、二十六日に主殿・伊勢が家老ら五名へ報じる。
辰六月5日、新納嘉藤二の主殿宛報告 / 冊子 569~570頁/原整理番号 741の3/整理ID 741-3
天杯、錦御旗一流、御剣一振、扇子一本、反物一疋、勅筆御写一通、御直衣一領、御襯袖(ママ)一領、書付を添えた金三万両、達書一通の一覧を掲げる。当初は六月五日の辰刻に参内し、そのまま東征へ出馬して南門で軍列を叡覧する予定と承知していたとする。細袖細袴の軍装で議定職の席へ通り、天杯を頂き、中山前大納言を通じ賜品を受けたと報じる。勅筆は拝見後返上して御写を受け、酒肴を頂いた後、江戸大総督府の急報により太守の進発は追って沙汰し兵隊だけを直ちに出す旨が伝えられたとする。南門で軍列叡覧が済み七ツ時に帰殿し、賜品の礼を岩倉側が取り次ぎ奏聞したこと、中将側の礼も重臣と雑掌を通じたことを記す。私も供を務めたとして、辰六月五日に新納嘉藤二が主殿へ報告する。
原2:慶応4辰六月六署と五月御名免職書付、原5:辰五月28日辰半の進発日限、第五項末は辰六月・備後 / 冊子 581~582頁/原整理番号 753/整理ID 753
通達留の原1~5を一行に収める。第一は先月十七日の重臣呼出と太守東行の内命拝承、同二十日の参内・議定職免、関東鎮定の書付二通、乗馬叡覧と菓子・包物を報じ、向々と大奥へ知らせ、中山王にも琉球館を通じ承知させるよう指示する。第二は内閣役・仮屋守へ伝えることを慶応四年辰六月の六署で命じ、御名宛に五月の議定職免除を伝える短書付も掲げる。第三は739の2と同文のため正文を略す。第四は東行の朝命を受け近日に進発するので、一統に忠勤を求める。第五は辰五月二十八日辰半刻の関東進発日限が届いたとして向々へ知らせ、広敷御用人・附小納戸を通じ大奥等にも伝えるよう命じる。叡覧・受領等は通達の報告として、進発は日限の指定として記す。第五項の末には辰六月、備後と記す。
朱記:慶応4辰六月15日、去る5日参内・8日帰国命の報 / 冊子 583~584頁/原整理番号 759の1/整理ID 759-1
太守が去る五日辰刻の参内後に東征する予定と軍列叡覧を承知し、軍装で参内して天杯、錦旗一流・剣一振・扇一本・反物一疋を中山前大納言の取次で受けたと報じる。勅筆の拝見後に原本を返し写を受け、御直衣・御擣帛各一領と金三万両、酒肴を賜った記事を続ける。総督府急報により本人の進発は追って沙汰し兵隊を直ちに出すと伝えられ、軍列叡覧後七ツ時に帰館、兵隊は嶋津伊勢が率い即日出軍し礼も奏聞したとする。去る八日に非蔵人口の呼出で留守居が大原左馬頭から帰国・海路東行の書付を受けたことを伝え、御兩殿への祝儀を向々に求める。末は朱慶応四辰六月十五日、備後と外四人を略す表示。経過・受領は通達の報告として示す。
六月15日六署、報告対象は去る5日参内と8日帰国書付 / 冊子 585~586頁/原整理番号 761の2/整理ID 761-2
去る五日辰刻に太守が参内し東征する予定と軍列叡覧を承知していたところ、軍装で参内し天杯、錦旗一流・剣一振・扇一本・反物一疋を受け、勅筆を拝見後返上して写を受け、御直衣・御擣帛各一領と金三万両、酒肴を賜ったと報じる。総督府急報で本人の進発は追って沙汰し兵隊を直ちに出すとされ、軍列叡覧後七ツ時に帰殿、兵は嶋津伊勢が率いて出軍し礼は奏聞したとする。去る八日の非蔵人口の呼出で帰国・海路東行の書付を大原左馬頭から受けたことも知らせる。身分に応じて家老へ祝儀を述べ、大奥では京都への飛脚で随真院・お盛にも伝え、地頭は書状とするなど一部を略して掲げ、御兩殿への祝儀を周知する。六月十五日、備後ほか六署。受領・進発変更は通達の報告として記す。
寛永9年8月12日 / 冊子 24~25頁/原整理番号 30の4
加久藤衆の指出帳(文書30)の資料群に属する人数留。自分鉄炮衆と御物鉄炮衆を区分して人名を列挙し、御物鉄炮衆を十四人と集計する。末尾に申八月十二日と「茄へ参候留」を記す。
年月日未詳 / 冊子 440~442頁/原整理番号 416
熊本勢の接近を受け、一揆勢が天草上津浦を退き、島原側と合流して原城へ籠る経緯を記す。伊勢貞昌の本月十五日の江戸状も引用し、薩摩への出兵指示や肥後勢の進出を伝える。続いて天草四郎を本丸大将とする各郭の大将・番頭・鉄砲大将、武者・旗・鑓・使武者・夜廻・普請などの担当者と配置人数を詳記する。兵糧・兵器の取り込み、夜回り、防火、布製小旗、石積み・堀裏の穴など籠城防御の実施状況を述べ、総人数や一部の人物・日付には他史料の異説を併記する。
(寛永15年)正月17日 / 冊子 729頁/原整理番号 759
加久藤衆の島原立人数として人躰五十人、内衆四十二人等を記し、残る二十九人を伊地知弥右衛門ら十一名の人数に分けて列記する。十七日夜に米津へ到着したので飯米を引き渡してほしいと求める。伊地知杢右衛門尉から村田郷左衛門尉・猪俣猪右衛門尉宛。副本は加久藤地頭役屋に所在すると注記する。
現行年紀:應永四年六月十五日 / 冊子 120~121頁/原整理番号 204/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0204
大隅国本領地の知行に相違があってはならない旨を、祢寝山城守殿に示す。
〔寛文七年〕九月廿六日 / 冊子 538頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1223
尾張大納言義直が松平薩摩守へ、右兵衛督(光友傍注)の所への輿入れについて、祝儀の使者と三種三荷を贈られたことを喜び、詳しくは後の便りの折に述べると返答する。
〔寛文七年〕九月廿八日 / 冊子 538~539頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1224
徳川右兵衛督光義(光友傍注)が松平薩摩守御宿所へ、祝儀の使者と太刀・馬代黄金十両・小袖十を贈られたことを喜び、遠路の懇意に謝し、詳しくは島津中務方へ伝えると返答する。
年月日未詳 / 冊子 261~262頁/原整理番号 106
『系図抄』として上原康基を起点に、康忠・貞安・康時・惟康・康宗・尚康・尚宗・康続以下の諸流を縦系図で示し、各人の官位・官途・法名を付記する。康基は右衛門督・蔵人頭・従五位上、康忠は右兵衛督・長官・蔵人・従四位上、貞安は右兵衛督・従四位上とし、尚康を兵部少輔・従五位上・法名大全、尚宗を刑部大輔・従四位上・安房守とする。信康は若狭守・法名窓鑑で「始遷薩州」と記され、康純は大学頭・大和守で日州へ移住したとされるため、上原氏祖系の薩摩・日向への移動を示す。後段には治尚・尚定、安成・安常、行安・康高・康将、康元・康輔・康保、康衡(号尚永)などを掲げ、尚弘を上原美作守、尚重を上原清右衛門と明記し、尚純(主税助)を含む末流へ続ける。
現行年紀:文龜三年十二月十六日 / 冊子 134頁/原整理番号 236/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0236
建部尊重を右兵衛尉に任ずる口宣案。 右中弁藤原朝臣宣秀が奉じる。
九月八日 / 冊子 6頁
重陽の祝儀として小袖二重が到来したことを喜び、詳しくは長谷川右兵衛尉守知と玄旨細川藤孝から伝えるとした朱印状。
年月日未詳 / 冊子 160~161頁/原整理番号 43
菱刈氏嫡家十二代の家督重時から始まる略系図。重時を左兵衛佐、重衆を右兵衛佐とし、女子が肥州阿蘇惟永、島津出羽守忠明、相良伊勢守長皎へ嫁いだ婚姻関係を示す。重副は大和守で両院を知行し嫡家を継いだ。重政は次郎・伊勢守を称し、父重時の命で大口地頭職に補され大口に在城、法名を徳翁道盛居士とする。重根は兵庫頭で大口地頭職を相続し、法名天真道龍居士、天龍寺葬。重清は右衛門太夫で花北氏の猶子となり、肥州久木野で戦死した。重昌は四郎・越後守を称し、嫡家の大和守重猛が所知を島津義久へ献じて降った際に同じく旗下へ入り、曽木一所を賜ったのち花北へ替地され居住した。末尾は、この処遇について国老伊集院忠金・川上忠克(意釣)・三原重秋が新納忠元へ送った書簡を次文書として導く。
元暦一年八月十七日 / 冊子 559頁/原整理番号 2
元暦元年十一月廿八日の三井寺への寄進状。平家没官領で院から給わった若狭国の所領一か所を、寺の仏法を崇めるため寄進する。下司職は鎌倉が沙汰すると定め、前右兵衛佐源朝臣(頼朝)が署す。