島津歳久譜
年月日未詳 / 冊子 2頁
蒲生北村の敵が帰順を装って島津軍を誘い出し、弘治元年正月二十二日に貴久・義久が吉田から出陣したところ伏兵に遭った。弟子丸播磨守・指宿丹後守以下十八人が戦死し、十九歳の歳久も負傷したと記す。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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年月日未詳 / 冊子 2頁
蒲生北村の敵が帰順を装って島津軍を誘い出し、弘治元年正月二十二日に貴久・義久が吉田から出陣したところ伏兵に遭った。弟子丸播磨守・指宿丹後守以下十八人が戦死し、十九歳の歳久も負傷したと記す。
年月日未詳 / 冊子 2頁
弘治元年正月、蒲生・菱刈・渋谷方の偽降によって北村城戸口で島津軍が伏兵に遭った際、川上久朗が入来の寺尾左衛門と長刀・鑓で戦った経緯と、折れた鑓が後世に伝わったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 40~41頁
弘治三年三月の軍事動向を日次で記す。北村・新梓・蒲生方面で敵兵と交戦し、火を放ち、馬や武具を分捕ったこと、梅北宮内左衛門尉らの働きと双方の損害を伝える。
年月日未詳 / 冊子 473頁
慶長四年十二月八日、新納久宣が庄内高江の大手口へ進み、黒田友右衛門尉とともに敵兵の北村友仙と鑓を合わせたことが、世間で美談として称えられたと記す。
宝暦十年八月十一日 / 冊子 781頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2395
重豪が八月十一日、幕府領の日向国児湯郡穂北村の百姓男女三百三十九人が牛馬を連れて逃散し、六月十九日から順次、島津領を頼って高岡の境へ来たと届ける。領内へ入れぬよう指示し、高岡の役人と城下から遣わした役人が帰村を促したが従わず、野原で長雨に濡れて病人も出た。食料を持たず餓死に至るほかない状況を黙止しがたいとして、高岡の内に置き、飢えに及ばぬよう申し付けた。なお帰村しない状況を代官揖斐十太夫へ家来から知らせ、朱書は新野清兵衛が堀田相摸守へ持参して受理され、後日に代官へも伝えるとの返答を記す。
宝暦十年八月日付不記 / 冊子 781頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2396
幕府が八月、松平薩摩守重豪へ、揖斐十太夫支配の穂北村百姓の処置を申し渡す。前年四月に秋月佐渡守領の椎木村へ逃散した百姓は秋月方に捕らえられ、揖斐・遠藤兵右衛門へ順次引き渡されて吟味を受け、当年六月に高岡陣屋へ引き取られたという。百四十人余りが八代・北俣村の六之原へも逃散し、人数が増えているため、散乱を防ぐ手当をして、断りがあり次第引き渡すよう命じる。朱書は八月十二日晩、岩下佐次右衛門が堀田相摸守のもとへ出向き、御用人鈴木次郎右衛門を通じて別紙の書付を受け、即日使者を通じて受け答えした経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 17頁
弘治元年八月の日記として、帖佐・吉田・郡山・新梓周辺での敵兵の討取り、伏兵、出兵、放火、横尾口への進出などを日付順に記す。
年月日未詳 / 冊子 34~35頁
弘治二年十二月の蒲生城周辺の軍事動向を日次で記す。島津方の陣替え、敵兵の出撃と討取り、火矢・放火、使者の往来、松山口や新梓方面での攻防を伝える。
(建武四年)十月廿九日 / 冊子 699~700頁
加木県城に残る凶徒の追討を比志島彦次郎らへ命じた沙弥誓念書状。十月十八日に軍勢を率いて発向し、北村諸三郎範清の親類右衛門六郎が射られた夜戦、同十九日の城攻め、軍奉行下の軍勢配置を記し、退散した敵を追って軍忠を尽くし後日の恩賞に備えるよう促す。
大永六年九月廿四日 / 冊子 288~289頁/原整理番号 19
大永六年、梅北村の神柱社司が神柱宮の再興を勧進する疏。南郷益貫村の古廟と社地の荒廃を述べ、戦乱で失われた社殿を復興するため寄進を求める。末尾に九月二十四日付と大工・小工の名を記す。
年月日未詳 / 冊子 290~291頁/原整理番号 23
神柱大明神が伊勢内宮に由来するとする伝承と、梅北への鎮座、社殿の建立・修営の履歴を記す。万寿三年の創建に始まる年次を挙げ、梅北村祝子家に伝わる社殿記録として収める。
(慶応二年)四月五日 / 冊子 9~10頁/原整理番号 8-5
伊地知小十郎が有馬衛守へ、前日代人の北村直右衛門に伝えた母衣の件について、約束の日になっても返答が届かず御用に差し支えるため、この書状を受け次第自宅に知らせるよう催促する。四月五日付の達書である。
年月日未詳 / 冊子 341~342頁/原整理番号 37
北村の内通に応じた城入りと、その後の戦いを詳しく記す覚書。北村地頭播磨守と三度協議し、正月十一日に少数の案内で城へ入ったが、蒲生勢が横から攻め、味方は大きな損害を受けた。岩陰や狭い道で戦いながら退き、播磨守は退却を相談した。新納忠元は主従三人ほどで大太刀を持って防戦し、貴久のもとへ参着して木脇・大炊介らと敵に当たったという。後には福嶋秋月への給付のため一時無知行となったこと、河辺野間の知行と永吉の地頭職を与えられたことも記す。
寛永13年4月18日 / 冊子 245頁/原整理番号 192
前年離別して田代に潜んでいた内儀らを、切支丹宗門であるため立野(永春尼)同様に種子島へ渡す旨を伝える。摂津内儀・越州内儀と、主水入道に同道させる娘が難儀しないよう保護を依頼する。詳細は主水入道が伝えるとする、島津久慶ら四名から種子島左近太夫への連署書状。
年月日未詳 / 冊子 747頁/原整理番号 780
蒲生有馬氏に正文が所在する覚書。谷口助右衛門らの氏名を三段組で列記し、随所に下人の名前や本人名の訂正・異記を添える。末尾の合計は人躰八十人、小者四十九人。文書独自の日付・宛先・作成者は記されず、名簿の対象集団や出陣先は、この覚書単独からは断定しない。旧切り抜きで774~782へ分散していた名簿を、本文の連続する三つの全高切片に復元した。
年月日未詳 / 冊子 291~292頁/原整理番号 24
都城の名勝として、梅北の神柱両社・妙見大菩薩の本地、伊勢からの遷座伝承、梅北家の由緒、鳥居や社殿の造営を記す。寛文六年二月付の梅北正兵衛の差出文書で、神社の縁起と祭祀の継続を伝える。
元中四年十二月日 / 冊子 138頁
比志島立阿が嫡子河内守へ、比志島名内の所領を少しずつ譲った仮名書き譲状。『をきのくほ』二反、『つゝみの丸』『ゆのきの丸』『みねさき』など計七反、北村から契約した薗一所、河田女しやうにあてた『いしり』三反、ひくに(比丘尼)にあてた『かきの木山』一反などを列挙する。御公事は分限や作人に応じて勤仕すること、ひくにを扶持して安穏に暮らさせることを定め、後日の証とした。
応永八年十二月廿三日 / 冊子 204頁
大山道賢が、弟子丸名内新田北村の水田二段を、父母道通・妙祐の菩提のため惣勝寺へ寄進した寄進状。本主が請け戻す場合は米六石で追善供養を行う条件を付す。
天文四年四月廿九日 / 冊子 734頁
日州梅北村神柱神社の修造にあたり、国主・朝臣の武運長久、領内泰平、万民豊楽などを祈願した棟札。修造関係者と願文を記す。
年月日未詳 / 冊子 1頁
弘治元年の島津氏関係事績を編年で記す。正月、北村で島津勢が敵の伏兵に遭い歳久が負傷し、溝辺では鉄砲で六人、太刀で一人を討つ。三~四月に帖佐本城・新城・山田を攻略し、七月には蒲生・渋谷勢と戦う。九月、伊東義祐が飫肥へ侵攻し、白濱城・白井城が陥落、新納忠正・忠照が戦死。十月の改元、琉球王尚清の死去も記す。
年月日未詳 / 冊子 1~2頁
島津貴久が嫡男義久、弟忠将、子の歳久・家久を率いて北村を攻めた際、敵の伏兵に遭って歳久が負傷。翌日、北原氏の軍勢が溝辺に出たため大隅衆が迎撃し、鉄砲で敵六人を射殺、太刀で一人を討ち取った。
年月日未詳 / 冊子 2~3頁
弘治元年正月、範清・良重らが北村勢と謀って降参を装い、島津貴久・貴明を誘い出した。敗退時に貴明が危難に陥ると新納忠元が駆けつけ、敵を退けて無事に退却させ、感賞を受けたと記す。
年月日未詳 / 冊子 3頁
弘治元年正月、蒲生範清・祁答院良重らが北村勢に偽降させ、島津貴久父子を誘い出した。敗退時に新納忠元が御太刀を持って貴久に従い、さらに危急の世子を救うため殿軍を務めて奮戦し、感賞を受けたと記す。
年月日未詳 / 冊子 3頁
弘治元年正月、屋形様父子が吉田まで出陣したが、北村勢の偽計により味方が敗軍した。弟子丸播磨守が退かずに討死し、指宿丹後守・敷根源八兵衛らも戦死したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 3~4頁
島津貴久勢が北村で北原氏の偽装退却と伏兵に遭い包囲される。指宿右馬允と竹若丸が殿を務めて戦死し、弟子丸らも討死する一方、北原忠辰が追撃勢を攻め、貴久は退却した。翌日、北原勢が加治木・溝辺へ進出すると大隅衆が迎撃し、敵およそ二十人を討ち取る・生け捕るなどしたが、味方の足軽にも戦死者が出た。
年月日未詳 / 冊子 4~5頁
天文二十四年から弘治元年にかけ、帖佐・吉田・北村・蒲生などの戦闘で討死した島津方の者を、日付・戦場・所属とともに列記する。個々の戦死状況や『蒲生山本氏日記』による異同注記も含む。
年月日未詳 / 冊子 36~37頁
弘治三年の島津氏関係事績を編年で記す。四月十五日、貴久父子らが北村の菱刈陣を攻め、忠平が先登して楠原某を討ち、火矢で塁壁を焼いて陥落させた。忠平は重傷、菱刈左馬権頭は自害。十七~十九日、蒲生範清が降伏し、貴久は降人を殺さず祁答院へ送った。蒲生・松坂・帖佐・山田の地頭配置、後奈良天皇崩御・正親町天皇践祚、南林寺建立も記す。
年月日未詳 / 冊子 44~45頁
蒲生を救援して北村境に築かれた菱刈氏の陣を、弘治三年四月十五日に島津軍が攻めた経過を記す。忠平(義弘)が楠原某と一騎討ちして首を取り、陣を攻め落としたが、自身も刀傷を負って退いた。
年月日未詳 / 冊子 45頁
弘治三年四月十五日、島津忠将が尚久とともに副将として蒲生北村の菱刈氏陣攻めに参加し、軍務を励ましたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 47~48頁
菱刈勢が蒲生を救援して北村表に陣を構えたため、弘治三年四月十五日に島津軍が攻め破った経過を回想する。忠平が荒平に陣を進めて蒲生城を攻め、蒲生方が降伏・退城した後の地頭配置まで記す。
年月日未詳 / 冊子 48頁
弘治三年四月十五日に北村の菱刈陣を攻め崩し、菱刈・祁答院・真幸・東郷・蒲生方に多数の戦死者が出たこと、同月十九日に蒲生城が明け渡されたことを記す。
天正八年閏三月吉日 / 冊子 652~653頁
大隅国蒲生の久末名・北村名などにある公田・浮免、合計一町三反余を御重恩として浜田民部左衛門尉へ宛行った坪付。確定版年月日は『月間三月』だが、本文年紀は天正八年閏三月吉日と読める。
慶長五年正月廿一日 / 冊子 500~501頁
島津忠恒が白鳥山金剛乗院光巌に、飯野の正原村・島田村の内七十六石余、加久藤の川北村の内十八石余、ほか四十八石余、合計百四十三石五斗一升三合余を与え、公役を免許した領知目録。
年月日未詳 / 冊子 119頁
島津久茂の出生、元和二年の元服(島津家久が加冠、伊勢貞昌が理髪役)を記し、寛永六年十一月十二日に始羅郡蒲生の北村を賜って北田を家号とし、後に村号を改めて島津姓へ復した経歴を記す譜記事。
慶安元年 / 冊子 122~123頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0221
北郷久常の家督・所領について、弟又次郎忠昭へ庶子分として梅北村内など千石を分与し、家老衆と相談のうえ忠昭が拝領したことを記す記事。
元禄十四年 / 冊子 316–318頁/整理ID 1037
島津綱貴が国絵図担当者へ、村高を村形上の張紙に記す方法、花ヶ島町を枝村でなく新村とするか、宮崎郡大田村内古城村など五枝郷や穂北村内畑江村の記載、郡違・村居違・変地・難読村名の仮名・道法の処理について回答と指図を求めた覚書。郷帳と絵図の相違、佐土原側地下人との出合吟味も記す。
年月日未詳 / 冊子 227~232頁/原整理番号 333-11
細川勢・長岡佐渡勢・黒田勢・黒田美作勢・有吉頼母組などの原城攻めを、多数の個別武功、負傷・討死、証人、進退命令とともに記す長文記事。冒頭では細川勢の北村甚十郎・財津市兵衛らの敵討ち取り、長岡佐渡勢の働きなどを列挙し、諸勢が二の丸・本丸方面へ進む過程で、鉄砲・石火矢・火攻め・柵などを用いた激戦と、先走りや隊列混乱を抑える命令を記す。各隊は攻撃と退却を繰り返し、深手・討死を出しながら城内へ押し入った。末尾では、長岡佐渡の備えが三の丸へ動くのを見た有吉頼母組が、米田与七郎らを先頭に組勢を残らず乗り込ませ、この時に三の丸一番と差し出した者たちがいたとして、後続文書へつなぐ。
年月日未詳 / 冊子 267頁/原整理番号 336-4
寅年二月二十七・二十八日の黒田右衛門佐家中の討死・手負者を記した覚。討死者として濱田五郎兵衛、松岡作右衛門、梶川作左衛門、八田仁左衛門、林与左衛門、勝野伊右衛門、戸田角兵衛、丹野七右衛門、高館源左衛門、大石庄右衛門、立花弥兵衛、南畝太左衛門、野口万右衛門ら計17人を掲げ、続いて黒田三左衛門・井上半兵衛・黒田太郎介・北村頼母介ら手負者の氏名を列挙する。本文の日付は目録年月日欄へ補入しない。
正応二年二月十日 / 冊子 100頁/原整理番号 381
建部氏女が老衰して不自由となったため、息女まつ御前に、大隅国祢寝院南俣北村内の田丁職などを、将軍家御下文・池某証文とともに永代譲与した仮名書きの譲状。正応二年二月十日付。
嘉元二年三月十五日 / 冊子 100頁/原整理番号 382
平氏女が老衰して不自由となったため、嫡子四郎親政に、大隅国祢寝院南俣北村内の田丁職などを、将軍家御下文・池某証文とともに永代譲与した仮名書きの譲状。嘉元二年三月十五日付。
文保二年十二月十日 / 冊子 100頁/原整理番号 383
建部親政が祢寝弥二郎に、大隅国祢寝院南俣北村内の重代相伝の田丁職を、将軍家御下文・六波羅施行状などの証文とともに代銭三十五貫文で永代売却した沽却状。文保二年十二月十日付。
文保二年十二月十日 / 冊子 100頁/原整理番号 384
建部親政が養子祢寝弥二郎清種に、大隅国祢寝院南俣北村内の重代相伝の田丁職を、将軍家御下文・家の証文とともに永代譲与した仮名書きの譲状。文保二年十二月十日付。
暦応五年九月二日 / 冊子 102頁/原整理番号 393
尼ねんほうが祢寝弥二郎に、大隅国祢寝院佐多村内の田七反、北村内の田七反・屋敷・山口の薗などについて、預かり持っていた権利を退き渡した仮名書きの避状。暦応五年九月二日付。
康永四年四月五日 / 冊子 107頁/原整理番号 411
大宰府使の随泉と同二郎三郎が、祢寝院南俣内の池縁殿の代草五郎から、大宰府料物の用途銭合計三百五十四文を請け取ったことを証した請取状。得富五分一内や岡山本村内の田、北村内の女子二人分などの負担内訳を記す。康永四年四月五日付。
万延元年4月(目録) / 冊子 61~62頁/原整理番号 72
季安は三月四日に出頭し、称名墓志の差出しを求められた経過を記す。続く「蒲生北村差出」では屋敷地・持高・高直の扱いと申渡しの文案を列挙し、八月の高奉行所の記載へ続く。
年月日未詳 / 冊子 340頁/原整理番号 34
勲功記が、弘治元年正月に蒲生・祁答院方が北村の者と謀って偽降し、大中が吉田から北村へ向かった時に不意の合戦となったと記す。敗れて引く中、忠元は大中の大刀を持って防いだが、奪われて弟子丸播磨守らが取り返して討死した。義久も危険な状況にあったため忠元が救援に駆けつけ、引き取られた後に特別の賞を受けた。その難儀は北村歸忠の報告として世に伝わるとする。
年月日未詳 / 冊子 340~341頁/原整理番号 35
年譜が、弘治元年正月に蒲生・祁答院が北村の住民を偽って降伏させ、兵を潜ませたと記す。貴久と世子は二十五日に吉田へ進み、二十七日に北村へ入ると攻撃され、味方は不利となった。忠元は大太刀を持って従い、弟子丸らが引き返して戦い討死した。世子も危険となり、貴久が忠元にその救援を命じ、忠元は奮戦して敵を退けたという。
年月日未詳 / 冊子 341頁/原整理番号 36
忠清の弓箭覚が、北村帰忠の際に伯囿の大刀を持っていた時の扱いと、龍伯の軍勢に関する首尾を記す。事の前後を知る立場から伝えた覚書。
天文廿三年二月六日 / 冊子 4頁
島津貴久が出陣は私事ではなく国務と防戦のためであると述べ、神威による敵の退散、武運長久、息災延命、将兵の安穏を祈願する。敵城を速やかに制圧できれば神領を寄進すると誓う願文。
慶長十九年八月九日 / 冊子 542頁
日向国飯野名内の原田村・榎原之門・小蘭屋敷および加久藤西郷川北村内の浮免を列挙し、合計九十石余を宛行った連署知行目録。