島津久元外三名連署書下
元和七年八月廿五日 / 冊子 768頁
島津久元ら四名が大根占・小根占・川内・高城・出水・清敷の担当者へ、熊嶽勤について家中各所では毎年二度ずつ家衆を回しているのに当地では勤めがなかったため、今後は同様に勤めるよう下々へ申し渡すことを命じた連署書下。
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元和七年八月廿五日 / 冊子 768頁
島津久元ら四名が大根占・小根占・川内・高城・出水・清敷の担当者へ、熊嶽勤について家中各所では毎年二度ずつ家衆を回しているのに当地では勤めがなかったため、今後は同様に勤めるよう下々へ申し渡すことを命じた連署書下。
寛永十五年二月廿九日 / 冊子 775~776頁
二月二十八日の有馬原城本丸合戦について、出水衆の参戦者を挙げ、槍傷・刀傷・矢による負傷、敵首の取得など各人の戦功と被害を分類して記した注文。
十一月十日 / 冊子 149頁
出水において公方関係に用いる用途金を村別に割り付けた注文。御酒などを含む総額・用途額を掲げ、御内分・惣村分・東郷・車内・田海・烏丸・南瀬・斧淵・崎浦・宍野・藤河・山田などについて、町反数と負担額を列記する。出水郷内の費用調達と村別支配の実態を示す。
(永禄十一年五月以後) / 冊子 198頁
山野をめぐる和睦後、相良氏・菱刈氏が出水の感応寺を仲介者として、島津方へ改めて和議を求めたことを記す短い譜中記事。
〔慶長五年〕正月廿六日 / 冊子 709頁
新納忠元が樺山権左衛門尉へ、芦北方面から百姓を帰還させる件について、残留者は現地で不忠を働いた者で帰れないと申し立てていることや、出家まで百姓として日記に載せる扱いに疑問を呈した書状。出水・大口双方の縁者を調べ、境目の事情に即して帰還を相談すべきだとする。本文注は編年を誤り慶長五年の文書と指摘する。
年月日未詳 / 冊子 343頁
豊臣秀吉が出水義虎・島津家久・北郷時久を直臣に取り立てようとした際、時久は十一代にわたり島津氏へ仕えた旧約を捨てられないとして固辞した。秀吉はその忠節を認め、時久を島津義久の与力とする朱印状を与えた。旧主への忠義と豊臣政権による家臣団再編がせめぎ合う逸話である。
(慶長五年) / 冊子 729-730頁
島津義弘(惟新)が忠恒に示した領内統制の条書。出水で衆中を召集して周知し、家臣の出仕・番普請を励行する一方、大酒、党派的結合、私怨、一向宗の虚偽起請、喧嘩口論、情報漏洩、不義などを禁じ、風聞は役人へ速やかに届けるよう命じる。
寛永二年四月十二日 / 冊子 824~825頁
島津久元と比志島国隆が樺山美濃守へ、感応寺修理のため、出水野田村長谷山にある風倒木の松三本を、記載された長さ・太さの手形と相違がなければ引き渡すよう命じた連署手形。
年月日未詳 / 冊子 387頁
大仏造立用の唐金・地金を木食上人と相談する件、国役、伏見城番と供衆の人数、大刑少殿内の閑斎の弟の奉公、杵綱平六、出水瀬崎父馬への母駄給付など、複数の用件を列記した覚書。
八月廿九日 / 冊子 41頁
薩摩出水・肥後水俣の侍や百姓が男女を薩摩・大隅・日向などへ売買していると聞き、法度に従って元の居所へ返し、違反者は直ちに言上するよう命じた朱印状。
正月21日 / 冊子 770頁/原整理番号 826
黄門の容体が悪いため有馬・天草へ書状を遣わしたので、確認のうえ急いで送達するよう出水の曖衆中へ求める。署名はなく、正月二十一日付。
正月18日(寛永15年か・傍注) / 冊子 567頁/原整理番号 68
川上久国が出水喧嘩衆中へ、松平伊豆守からの書出しを受け、長嶋で調える楯板を二、三千枚、長さ四尺四、五寸・幅三尺四、五寸・厚さ二寸内外で用意するよう伝える。枚数はでき次第順に調達し、急用なので板を削らないままでも差し支えないという。正月18日付で、寛永15年とする年次は本文外の『か』付き傍注にとどまる。
永禄十一年八月十九日~永禄十二年三月十八日 / 冊子 200~201頁
永禄十一年八月十九日、大口勢が堂崎の通路に陣を構え、伊東勢も桶比良に進出して加久藤・馬関田の村々へ放火した。貴久・義久は菱刈表から援兵を送り、伏兵で誘い出そうとしたが大雨で失敗した。のち大口方が田中河内に伏兵を置き、番替え中の川上丹波守・堀之内某を討ち、救援した是枝大膳坊も戦死した。長陣に疲れた相良方は出水感応寺の僧を介して和議を求めた。
享保五年正月 / 冊子 429頁/整理ID 1125
種子島久基が、出水の賀志久利大明神を従来の薩州の宗廟から今後は薩州の総社と称するよう申し渡す文書。
安永八年冬十二月(本文冬十二月・目録年記) / 冊子 589~590頁/原整理番号 1658/整理ID 1658
重豪公御譜中の記事。出水郡出水郷の郷士肱黒助兵衛の僕は平八といい、畳刺を業としていた。助兵衛の家が甚だ貧しかったため、平八はその業をやめて力耕し、手厚く助兵衛を養ったという。助兵衛はその志に感じ、二、三年の歳入を与えようとしたが、平八は固く辞して受けなかった。そこで冬十二月に廩米十五苞を与えて褒賞したと記す。本文に独立の命令書署名や宛名はなく、忠僕の奉仕と謝礼辞退を称えて米の褒賞を述べる御譜記事である。
8月式部;子8月17日北條織部取次注 / 冊子 373~374頁/原整理番号 535の6/整理ID 535-4
原の6の通知。出水麓町人松野次兵衛が去夏の英船渡来時、出水御備組の出陣に軍用料金百両を差し出し、以前にも度々品物を施行したこと、今回の急変でも別に寄付したいと申し出たことを聞き、太平布十足を賜うとする。地頭が宅で本人へ伝え、品物の渡し方は御勝手方へ知らせるよう命じる。八月式部、子八月十七日北條織部取次の申渡注。太平布の原単位を保持し、軍用料百両と今回の金額不記の寄付申出を合算しない。
二月廿九日 / 冊子 334~335頁/原整理番号 377
寅年二月二十八日、有馬之城本丸で戦った出水衆の軍功・手負を列記した注文。鑓を働かせた衆、刀討の衆、弓で射通した衆に分け、阿多六郎左衛門尉らの人名と、鑓疵・刀疵などを記す。寺領衆の池亀伝左衛門尉は鑓疵、本田蔵右衛門尉は刀疵として別記する。末尾に頭数百三十八、二月二十九日と記す。本文に差出・宛所はない。編者注は『旧記雑録後編五』二一六七号文書と同文とする。
七月七日 / 冊子 461頁/原整理番号 581
出水代官は、武元与32人・六月田与9人・野田与9人・庄村与2人の夫丸計52人について、各地域から割り付けた相中夫をあらかじめ引き渡して待機させ、到来次第すぐ渡せるよう下代衆へ手形を出し、立衆にも事前に知らせるよう御曖衆へ命じる。
年月日未詳 / 冊子 312~313頁/原整理番号 55-2
出水氏所蔵の忠久出生記事は、丹後局と頼朝の関係、母子の移動、忠久の養育と後年の家筋を記す。『古今戦』と重なる伝承を持ちながら、人名・行程などの別伝を示す。
十二月七日 / 冊子 399頁
島津家久の袖判条書。内談衆の協議、人事・知行、仁礼蔵人・山田民部少輔らの配置、沙汰の手順、検地・立野・南蛮宗などの案件を条項ごとに定める。
八月十四日 / 冊子 491頁/原整理番号 624-3
高尾野から出水の御曖衆へ、瀬之浦から届いた廻状を送る。相手方では用件が済んでいると思われるが、所次で回って来たため、確認のためそのまま次送すると述べる。
正月15日 / 冊子 708頁/原整理番号 735
有馬陣から立板の手配を求められたため、長嶋にある松のうち舟の楷木となるものを確保し、ほかに節松なども伐り立てるよう出水の噯衆へ指示する。こちらから遣わす大工・大鋸へ引き渡すよう求める。正月十五日付、久国署名。
正月15日 / 冊子 709頁/原整理番号 738
山田民部少輔が有馬にいることに触れ、出水の曖衆に文箱を開け、物奉行などへ遣わした書状を渡すよう求める。御老中の書状は有馬へ早く届けるよう指示する。正月十五日、次飛脚で送付。欠字のある奉行名・前後の語句は推補しない。
正月16日 / 冊子 726頁/原整理番号 753
川上久国から出水噯衆中へ、文箱三つを見分し、それぞれの送付先へ油断なく届けるよう指示する。正月16日付で、次の飛脚は紫尾筋へ遣わすと記す。送付先等の欠字は補わない。
正月18日 / 冊子 746頁/原整理番号 774
松平伊豆守信綱の書出に基づき、攻城用の柵板二、三千枚を調達するよう出水曖衆へ命じる。長さ四尺四、五寸、幅三尺四、五寸、厚さ二寸内外を目安とし、何でもよいとする。長崎の表記に嶋の校注があり、板が調い次第送ること、急用なので削らないままでも差し支えないと指示する。引用の書出は正月十四日、久国の達書は正月十八日。
正月18日 / 冊子 749頁/原整理番号 786
野尻・綾・高岡・穆佐・倉岡・高城・山之口、財部・都之城・末吉・松山・志ふし・恒吉・百引、串良・始良・大姶良・鹿屋・高山・根占・佐多の書付を添える。島原・天草宛の書状は到着次第急送し、島原宛は当地に滞在する野州老の使者に早速持たせるよう指示する。正月十八日付、出水曖衆宛。
安永七年冬十二月(記事の今茲冬十二月) / 冊子 559頁/原整理番号 1577/整理ID 1577
出水郡出水郷村の市人喜兵衛は、市中の火災で数百戸の家が焼けた際、私財を出して救済したため、この年の冬十二月に青銅五百匹を与えて賞した。また、甑島郡上甑島平良村の農民彌兵衛・千助と、同郡下甑島手打村の浦人善六は、その年の飢饉に皆が私蔵の米穀を出して村中の窮乏者を救済したため、冬十二月に賞し、彌兵衛には青銅千匹、千助には同三百匹、善六には同五百匹を与えた。
壬申9月鹿児島県庁 / 冊子 897頁/原整理番号 1113の2/整理ID 1113-2
出水野間原その他の道路番所を撤去し、番人も廃止するよう命じる。
寛永14年11月7日 / 冊子 313~314頁/原整理番号 282の2
島原一揆に際し、山民少出水の者が召し連れられ、働き次第では役立つ旨を述べる三原重庸書状。江戸から人数が派遣された場合の対応と取合を頼み、十一月七日付で児玉筑州宛に結ぶ。
年月日未詳 / 冊子 764頁/原整理番号 814
同二十日に出水衆中と参会し、山に登って五、六日ほど人狩を行ったことを記す。山名や対象者の具体的記載はない。
正月廿九日 / 冊子 28頁/原整理番号 42-3
喜入忠政・島津久賀が山田有栄・島津久元へ、平田民部少輔が当地へ来ておらず、そちらへ渡ったとの風聞が事実なら当地へ送るよう求める。「かう袮」の衆も船の配分不調により未着で、当地ではすでに四か所へ陣替えしたのに船奉行が不在だと訴え、山田にも暇ができ次第の来着を求める。また、命令なく有馬へ渡った者には兵糧・船を支給せず、後日処罰するとの鹿児島からの命令を伝える。鹿児島衆の出立総数は本文に「三□□十人程」と欠字を含み「百」の補記があり、割当中56人が当地へ来て少人数が「かう袮」に残ると報告する。出水衆約300人は渡海希望があるものの当地に置くよう命じられているため、その通り伝えたとする覚書。
二月五日 / 冊子 71~72頁/原整理番号 113-2
北郷久加・喜入忠政・島津久賀が山田有栄・島津久元へ、出水衆を残らず戻す件を回答する。亀之川から荷物だけを船で、人は陸路で移し、三百人を渡す迎船を求める。平田宗直の衆は千五百人のうち四百人が帰り約千百人が残るため、大船十艘ほどを要望し、悪風で五日間滞留して米がさらに必要なこと、薩州様供立ての関船・荷船は出水へ回すことを伝える。
二月八日 / 冊子 100頁/原整理番号 159
川上久国・三原重庸が市来宗友へ、国分十右衛門尉が有馬へ赴くため、獅子島で鹿を捕らえて肴料とし、猪も出水・高尾野・阿久根などで調達して持参させるよう命じる。本文後の『九日癸卯』は次日条の見出しで、この書状の日付には含めない。
年月日未詳 / 冊子 172~175頁/原整理番号 293
出水士山本甚左衛門蔵本の「味方手負・死人之覚」。二月二十一日夜寅刻の原城方切出しに際する寄手側の討死・手負を、松平右衛門佐、黒田甲斐守、黒田市正、寺沢兵庫頭、鍋島信濃守らの家中別・人名別に列記する。味方損害の惣合は二百七十五人で、内六十九人を死人とする。続く「きりしたん首数目録」は松平・黒田・寺沢・鍋島・立花各手の戦果を掲げ、合首数二百九十二・合生捕七人と記す。味方損害と敵方の首数・生捕を別集計として扱う。
年月日未詳 / 冊子 457頁/原整理番号 572-1
季安は、右の南蛮船渡来時に出水地頭山田昌岩へ諸所の手当が命じられ、その問合書などの本書が出水地頭仮屋にあるとして、以下に掲げる文書群の由来を説明する。目録年月日は空欄である。
年月日未詳 / 冊子 462頁
和泉忠氏の譜伝。島津道義公の子女、長子貞久以下の兄弟姉妹と各分流を挙げ、次郎忠氏が薩摩国出水郡を拝領して和泉氏を称した由来、幕府・北条氏との関係、官途・所領継承を記す。
文保二年三月十五日 / 冊子 464頁
島津道義が二男忠氏へ薩摩国出水郡を勲功の賞として譲与し、先例どおり沙汰するよう命じたとする文書。本文は人名を後世に填入した疑文書との注記がある。
天正十二年 / 冊子 968頁
島津忠隣が天正十二年、十六歳で猶子となり、出水から祁答院へ移ったことを記す。
正月18日 / 冊子 749頁/原整理番号 785
兵糧が不足するため、別紙で示す外城衆を天草へ渡さず、出水に留め置くよう命じる。すでに渡海した分はやむを得ないが、まだ残っている者は留め、その様子を追って知らせるよう求める。正月十八日、出水の岩切六右衛門・川上彦左衛門宛。
二月四日 / 冊子 69頁/原整理番号 109
川上久国・三原重庸が各筋の継所へ、次飛脚の付状を物奉行衆の用務の際には物奉行衆から出すので、遅滞なく次へ渡すよう命じた廻状。高岡筋・加世田筋・出水筋・祁答院筋ごとに鹿児島から各地を経る継送経路を列記する。
二月十二日 / 冊子 124頁/原整理番号 197-2
三原重庸が出水から派遣された忍衆十人へ、帰陣後は音信できなかったが、その後の状況を尋ね、各人の苦労をねぎらう。現地で首尾よく帰郷できることを待ち、加勢に充てられた場合は参陣するので、その時に詳しく語り合いたいと伝える。
二月十八日 / 冊子 152頁/原整理番号 269
島津久元・川上久国・伊勢貞昌・三原重庸が川上久康と出水衆中へ、市来宗友宛にも書状を送り、有馬へ渡海する場合は御道具衆を速船で渡すよう命じたと伝える。川上久康が帰っている場合は、地元の衆で相談し、御道具衆を早々に渡海させるよう求める。
七月四日 / 冊子 458頁/原整理番号 575
山田民部少輔が出水瀬之浦から隼人之迫川口まで赴くため、同所から人数を求める連絡があれば夜昼を問わず急ぎ参集するよう、出水・高尾野・阿久根の役衆へ回覧する。本文署名は北郷久加・川上久国・島津久慶だが、目録標題は島津久度外二名連署廻状とする。
七月四日 / 冊子 458~459頁/原整理番号 576
島津久慶から、瀬之浦へ赴く山田民部少輔の乗船として二艘ほどを送るよう命じられたため、人数を確認して船賦する意向を伝える。しかし近辺の水手は長崎へ出て不在なので、出水諸浦の水主を残らず久見崎御船手へ急ぎ集め、乗船を米之津へ回すか別所へ回すか山田民部少輔に確認して返答するよう求める。
七月朔日 / 冊子 466頁/原整理番号 591
長崎への南蛮船来航に伴い、出水地頭山田民部少輔へ軍衆を賦課する。高30~99石、100~199石、200~299石、300石以上の各層で主従人数を定めた50人と、高29石以下の51人を合わせ人躰101人とし、29石以下には4人ごとに御蔵入から夫丸を出す。武具は鉄炮32丁・弓10丁・鑓10本。出立日は家老衆が指示し、人数帳を向田の市来五兵衛へ渡して飯米を受けるよう命じる。
七月朔日 / 冊子 468~469頁/原整理番号 597
南蛮船の件で、荒木嘉左衛門その他、長崎から鹿児島へ御用で通行する者を宿次で滞りなく送り届け、少しも遅延しないよう命じる。各宿の通過時刻・印を記した廻状として出水まで送達する。
七月朔日 / 冊子 469頁/原整理番号 598
長崎への黒船来航により、隠岐守・馬場三郎左衛門・高木摂津守・日根野織部からの連絡次第で人数を差し出すため、遠方の南潟衆を来る五日に向田へ集合させるよう命じる。山田民部少輔は出水へ赴き、高奉行から人数賦書立が届くので各人を見分して受け取るよう付記する。
七月朔日 / 冊子 469~470頁/原整理番号 600
京泊・西方・阿久根・出水の御曖衆に、管内の三枚帆から八反帆までの船を差し出し、昼夜を問わず至急久見崎御船手へ送るよう命じる。廻状を順次下へ回し、通過時刻を付けて差出地へ返送させる。
七月二日 / 冊子 470~471頁/原整理番号 602
東郷重方・川越重昌は、長崎へ多数の船が集まり水手が大量に必要なため、出水御曖衆に管内の雇水手を調べ、確認できた人数を速やかに久見崎御船手へ送るよう命じる。特別の急用なので遅延を禁じる。
七月二日 / 冊子 472頁/原整理番号 606-1
長崎奉行は薩摩の人数を召し寄せる意向であったが、島々・浦々で不慮の事態があり得るため派遣せず、各地で最寄りの浦を固めるよう命じる。この時点では人数を出立させる必要はないとし、出水・高尾野・阿久根などを継飛脚で回覧する。