肝付兼政・兼直連署契状
永享六年六月廿四日 / 冊子 366~367頁
肝付兼政・兼直が山田殿へ、世情が変転しても島津好久のため一味同心して奉公し、無理な訴えには同調せず、境目所務などの紛争では互いに相談・協力し、大小の事を隠さず伝えることを神仏に誓った連署契状。本文年紀は『永享六年六月廿三日』。
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永享六年六月廿四日 / 冊子 366~367頁
肝付兼政・兼直が山田殿へ、世情が変転しても島津好久のため一味同心して奉公し、無理な訴えには同調せず、境目所務などの紛争では互いに相談・協力し、大小の事を隠さず伝えることを神仏に誓った連署契状。本文年紀は『永享六年六月廿三日』。
天正14年7月27日 / 冊子 212頁
前田兼政が当日の城攻めで高名を立て、武運長久を得ることを願い、願いが成就した場合には鵲戸で七日間参籠し、八幡宮へ連歌百韻を奉納すると誓った立願状。岩屋城攻め当日、武将が戦功と生存への願いを参籠・連歌奉納という具体的な宗教行為に結び付けたことが分かる。
文禄五年十二月廿一日 / 冊子 62~63頁
川上肱枕・新納旅庵・上井神五郎兼政が連署し、桂藤五郎へ薩州市来の大里和田之門などの土地を、名屋敷・加増分を含め合計百石充行った領知目録。
年月日未詳 / 冊子 75~76頁
上井仲五兼政が朝鮮渡海に備え、具足・武器・兵糧、従者と扶持、留守中の家政や知行の扱いなど、必要な措置を箇条書きで申し出た申状。
年月日未詳 / 冊子 517~518頁
高麗渡海に参加する者へ、志のある人物や技能者を主君に取り次ぎ、帰朝後の扶持を保証し、火箭を持参する者の功績も一途に申し立てると約した上井仲五兼政の請文。約束に違えば諸軍神の罰を受けると誓う。
(永禄四年)五月十八日 / 冊子 93頁
廻城への普請・陣役のため、役負担者だけでなく小者にも竹尻を一つずつ用意させ、五月二十七・二十八日に串良で受け取るよう命じる。また村人に廻城へ米を運ばせ、受取日記を提出するよう指示した連署状。
年月日未詳 / 冊子 411~415頁
『殉国名薮』は、慶長四年の庄内合戦で戦死した島津方の武士を、月日・戦場・所属や続柄とともに列挙する。六月一日の中田十郎をはじめ、山田城・恒吉・安永・高城・北郷・神田橋など各地で討死した町田新助忠玄、長野藤兵衛、平田三五郎、上井仲五兼政ら多数を掲げ、六月から翌年正月に及ぶ戦没者の記録をまとめる。
建武四年二月廿二日 / 冊子 682頁
藤原兼政が菱刈郡柿木原孫七兼政らを率い、曾於院御発向の間に大隅菱刈郡柿木原で合戦し、左腰を射られながら軍忠を尽くしたことを申告して証判を求めた軍忠状。
建武四年四月十九日 / 冊子 687頁
大隅国守護代森三郎次郎行重が、藤原兼政の軍忠を実検して証判した軍忠状。
寛永二十年正月二十一日 / 冊子 104頁/原整理番号 11-3
代官の岸良兼政が、飯野上江村の井手溝は前年秋の洪水で損なわれたため、曖衆・普請奉行に人員を出させて川除と溝掘りを先に進めるよう催促する。本人は別件を済ませて現地へ赴くと伝える。
天正十二年十一月一日~晦日 / 冊子 951~956頁
天正十二年十一月一日から晦日までの日記。宮崎帰着後、名護八幡・瓜生野八幡・海江田伊勢の延引した祭礼、狩猟、参詣、茶湯や連歌を記した。豊後勢が十月二十八日に撤陣すると約したとの帰国僧の報告、鹿児島での談合や諸役徴収にも触れる。月末に鹿児島へ赴いて島津義久・義弘・歳久らの饗応に列し、有馬から届いた水鳥二十羽と南蛮犬を進上した。
年月日未詳 / 冊子 111~113頁/原整理番号 22-1
舒明天皇・天智天皇・大友皇子を起点に伴姓の祖系を示し、兼経・兼益以下の肝付氏と庶流を配する系図。萩原・救仁郷・安楽・検見崎・北原・和泉・岸良・野崎・川南・鹿屋・小野口・山下など各氏の分出を明記する。兼尚が鎌倉在府中、兼重が留守・番代を務め、その子秋兼が兼尚の養子となって嫡家を相続した経緯を載せる。後段では兼続(法号省釣)の永正八年誕生、永禄五年の松山・志布志知行、永禄九年十一月十五日の志布志での死去、良兼・兼勝・兼樹・兼包・兼政らの続柄を記す。兼政は早世した良兼の娘を妻として嫡家を相続し、慶長五年九月十五日に美濃国関ヶ原で戦死したとし、兼元の島津元久上京供奉や兼忠の頴娃拝領にも触れる。
系図全体は無年次(天正7年の飫肥移住・同14年7月27日の戦死を記載) / 冊子 598~599頁/原整理番号 102
加世田士前田茂右衛門家の系図。祖先の前田兵部左衛門尉兼政が加世田に住み、天正七年に日州飫肥へ召し移され、同十四年七月二十七日に飫肥で戦死したと伝える。家伝では三代前まで肝付を称したが、家が盛んでなかったため前田を名乗ったといい、兼政の弟兼定は谷山へ移り、弟兼長は加世田に住んだと分けて記す。後続の兼昌・兼逸・兼通・兼明・兼治らの系線には、日向から母と姉妹が加世田へ移った話、幼くして知行を受けた記事、宮原・若松・河野・相徳武などへの女子の婚姻と早世も添える。
系図全体は無年次(正保2年・元禄6年の没年などを記載) / 冊子 601頁/原整理番号 104
加世田士前田軍八家の系図で、前田兵部左衛門兼政の三番目の弟兼長が加世田に住んだ系統をたどる。兼長の子兼高は主膳と称し、母を宮原吉兵衛の娘と記すほか、兼申・兼明・兼吉らの名乗り、正保二年の兼長と元禄六年の兼明の没年・法名を載せる。後代には医師となって元養と改名した兼周、兼貞・兼西・兼次郎らをつなぎ、河崎・加藤・樋渡・河野・堀之内の家との女子の婚姻も記す。前項の兼定から谷山へ移った前田宇兵衛家とは、兼政の別の弟を起点とする加世田居住の枝筋である。
年月日未詳 / 冊子 147頁/原整理番号 491
樋脇の肝付市郎右衛門家系図。武蔵介兼賢の五男で隼人入道道庵を称した兼里を祖とし、天文十八年の出生、河内守兼久の二男兼親を養子とした由緒、寛永九年正月廿三日の死去を記す。以下、兼政・兼綱・兼明・兼有らの系統、女子の婚姻、南雲氏からの養子を列記する。
年月日未詳 / 冊子 165~166頁/原整理番号 509
谷山の肝付伊左衛門家系図。古い系図は縫殿助の代の類火で焼失したため、それ以前は不明として略す。兼佳(縫殿助)は谷山で奉公し、島津大和守に従って正保二年十二月十一日に戦死、福昌寺戦亡帳にも記載されたという。男子のなかったため伊集院古左京亮の弟久兵衛尉の嫡子兼政を養子とし、兼政の子女、兼英・兼武・兼寛らの出生年月日と母方・婚姻を列記する。
年月日未詳 / 冊子 156~157頁/原整理番号 40
小野太郎家綱を起点とする江田源助家の系図。家綱は文治三年、源頼朝が惣追捕使として諸国の国人を御家人に補した時に日置地頭となり、島津忠久の命により内裏大番を勤めた。家重は父の譲りを受け日置を領し、京都大番・筥崎警固に従事した。家長は兄に男子がないため跡を継ぎ日置を領して大田を号し、家氏は大田を退いて江田へ改称し、肥前松浦の湊村・同国移万名等の地頭として居住した。家房は松浦を退き日州三俣へ移り、家貞は三俣領主肝付兼重が畠山式部に攻められた際、兼重を山林へ逃がして肝付八郎兼重と名乗り身代わりに討死した。両家は一方が絶えれば他方が継ぐと誓約し、兼重は遺児兼政に伴姓と『兼』字を与えたとする。後半は兼盛・兼房・兼行、兼尭・兼秀、兼賢・兼廣・兼乗、兼年らの系線、官途・通称を掲げる。
系図全体は無年次(寛文11年・延宝6年・元禄6年などの没年を記載) / 冊子 599~601頁/原整理番号 103
前田兵部左衛門兼政の弟兼定を祖とする前田宇兵衛家の系図で、兼定が加世田から谷山へ召し移されたことを記す。家伝は、兼定が高麗出陣で本田六左衛門の手に付き、陣中に詰めて帰陣時に伏見へ上り、感状を受けたが、のち平田盛右衛門に文書を差し出して返却されたという。子孫の兼長・兼延・兼家・兼倍・兼貞・兼賢らには加世田居住、官職・法名・没年、藤崎・馬場・島田・岩切・吉井・有馬などへの婚姻を付し、寛文・延宝・元禄期の記事と末代の出生までたどる。前項の前田茂右衛門家系図とは、兼政の弟兼定から分かれた谷山移住系統である。
記事成立日:未確認 / 冊子 582頁/整理ID TMP-P04-NIKAIDO-A030
尊氏卿が九州成敗職を置いたとして、その任に関わる人々を列記する。 高尾張権守師泰、島津前豊後守実忠、斎藤彌四郎左衛門尉利泰、平兼政を挙げる。 師泰・実忠・兼政の連判奉書写一通を掲げ、正文は家蔵とする。 兼政の家名は不詳とする小字などを本文叙述とは分けて残す。
記事成立日:未確認 / 冊子 613頁/整理ID TMP-P04-NIKAIDO-A074
庚子の秋に文書の写一通を得たと記す。 紹介句は高尾張守師泰・島津前豊後守實忠・平兼政を挙げ、「連署與二階堂紀伊權守行仲執達狀也」と記す。 建武三年三月十七日の記載に続き、正文を御用に進上したと述べる。 島津因幡忠郷・和泉家・伊勢兵部貞〔知/矩候補〕を挙げ、賜・臨摹・見贈・付與證文・回翰の句を記す。
12月20日、天正4年2月彼岸日 / 冊子 161~164頁/原整理番号 43-1
二つの文書と菱刈氏系譜記事を現行一件に収める。第一は十二月二十日付で、伊集院忠金・川上忠克(意釣)・三原重秋が新納忠元へ送った連署状。菱刈四郎が曽木を差し上げた後も在所が定まらないため、従前の奉公に報いて花北一所を与え、追って加扶持する上意を伝える。続く隆豊の伝記は、文禄元年に島津義弘・久保に従って朝鮮へ渡り、江原道・南原・唐島番船で軍功を挙げ、慶長三年の交戦で負傷して壱岐から帰国したこと、慶長四年の伊集院忠真による庄内の乱、同五年の関ヶ原で義弘旗下に戦ったことを記す。帰国後は重秀の家督代を務め、重栄を後嗣として花北へ戻り、慶長十五年には琉球へ渡航し、元和四年に没した。重種は島原の乱・上洛に供奉し、大口衆頭、鹿児島城下勤仕を経て加久藤で養老した。第二は本文中に『43の2』とある天正四年二月彼岸日付の菱刈一族並他門交名注文で、菱刈・曽木・長池・入山・藤島・井手籠・得光・柿木原・花北等の一族・他門名を列挙し、菱刈大膳亮隆商が証判する。
年月日未詳 / 冊子 161~163頁/原整理番号 506
古系図と注記された伴姓肝付氏の系図。天智天皇・大友親王から伴姓へつながる起源説を掲げ、伴善男の官位・流罪記事を経て、河内右馬頭兼遠・兼行らから肝付氏諸流へ系線を展開する。多数の諱・通称・官途、出家名、女子、庶流を記し、末尾は兼清・兼宣・兼基・兼季・兼右・兼左・兼政・兼連らへ至る。