島津久慶書状
「寛永十八年」十月廿三日 / 冊子 168~169頁
島津久慶が新納仲左衛門へ、送られた書状・書立を夜に灯火のもとで読み、これまで知らなかった事柄が判明して疑念が晴れたことを伝えた書状。近年の文書の造成や人物・屋敷拝領の由緒について慎重に検討し、野州老・秘書老にも示したこと、使者が上るため清書へ追記したことを述べる。さらに島津忠恒が家久と名乗るようになった年号を確認できず困っているとして、調査を求めている。
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「寛永十八年」十月廿三日 / 冊子 168~169頁
島津久慶が新納仲左衛門へ、送られた書状・書立を夜に灯火のもとで読み、これまで知らなかった事柄が判明して疑念が晴れたことを伝えた書状。近年の文書の造成や人物・屋敷拝領の由緒について慎重に検討し、野州老・秘書老にも示したこと、使者が上るため清書へ追記したことを述べる。さらに島津忠恒が家久と名乗るようになった年号を確認できず困っているとして、調査を求めている。
四月十九日 / 冊子 66頁
川口重昌が新納仲左衛門尉に、向町與三右衛門尉による禁制違反の処置について返答した書状。横目衆が披露したため公儀から詳しい裁定が出るのを待ち、その際に相手の書状内容を申し入れ、年行司へも通達するとする。
八月二日 / 冊子 67頁
島津久元が新納仲左衛門尉に、八朔の太刀進上をめぐる玄蕃との先後争いについて知らせた書状。又八郎から届いた書状を確認し、御殿の丁寧な意向を承知したとして、関係者へ適切に披露するよう求める。
二月廿八日 / 冊子 68頁
川上久國が新納仲左衛門尉に、川野内記の申し分に関する談合への出席を求めた書状。江戸から示された意向に基づき、武部様から参会を命じられていること、公儀から別件の御用も仰せ付けられるため必ず来るよう伝える。
二月十二日 / 冊子 68頁
川上久國が新納仲左衛門尉に、新春の祝意と近況を伝えた書状。又八郎が上洛するため相手方が寂しくなるだろうと察し、すでに出船したかを尋ね、武庫様への書状の取次も頼む。
十月朔日 / 冊子 69頁
島津久慶が新納仲左衛門尉に、家譜へ記載するため過去の贈答・拝領記録を捜すよう頼んだ書状。関ヶ原後の伏見で黄門様が拝謁した際の進上・拝領物、惟新様病中の上使と拝領物、医者三官関係の書物などを詳しく調査して書き付けるよう求める。
十一月廿一日 / 冊子 72頁
島津久薫が新納仲左衛門尉に、旅先で無事に勤め、薩州様の御前で遺漏なく奉公している近況を伝えた書状。相談事も少なくなり安堵していること、翌夏初めには帰国して相談する意向、内儀方の無事を聞いたことを述べる。
二月三日 / 冊子 72頁
島津久薫が新納仲左衛門尉に、悪天候のなか遠方から勘負を遣わされたことへ謝意を示した書状。上洛人数の賦課が減少したため武庫様が鹿児島へ赴き、相手も供をして苦労したこと、従前どおりの人数賦で上洛できるとの報に満足したことを伝える。
五月廿六日 / 冊子 73-74頁
山田有榮が新納仲左衛門尉に、薩州様が暇を得て十五日に江戸を出立するとの報を伝えた書状。若君様から袷五十と銀子千枚を拝領し、馬も給わったとの情報を付記し、帰着の折には兵庫頭様へ申し上げるよう促す。
三月十四日 / 冊子 74頁
山田有榮が新納仲左衛門尉に、江戸から下着した大井二右衛門が携えた武庫様より又八郎様宛ての書状を送付した書状。前日に当地へ届いたため差し上げるので、適切に披露するよう頼む。
閏五月二日 / 冊子 74頁
島津久通と山田有榮が新納仲左衛門尉に、加治木西町の次右衛門の下人が小船で逃走し、頴娃川尻へ漂着して舟を乗り捨て、山川で潜伏していたところを探索・捕縛され、こちらへ差し出されたと報じた連署書状。逃亡者を在所の関係から新納方へ送り届けるので、受け取るよう求める。
閏七月十二日 / 冊子 74頁
鎌田政統が新納仲左衛門尉に、御姫様の誕生について忠平様の書状の趣旨を受け、奥方が喜んでいることを報じた書状。その様子を機会をみて披露するよう依頼する。
十月十五日 / 冊子 74頁
島津久元・川上久國・喜入忠政(のち忠続)が、新納仲左衛門尉・市来備前守・比志嶋掃部助に、薬師寺内蔵丞が養子となって当地の役儀を勤めているため、水引へ移すよう伊東二右衛門尉から申し入れがあったと伝え、支障がなければ相談するよう求めた連署書状。切り抜きにより、別掲されていた島津久元の署名を含む三名連署と確認した。
九月廿日 / 冊子 75頁
川上久國が新納仲左衛門尉・市来備前守に、大脇主馬丞の子息舎人佑へ肥後内膳正の知行の一部を分け与え、当地へ移すよう御老中が命じたことを伝えた書状。山田民部少輔が使者を務め、詳細は主馬丞から伝えるとする。
七月二日 / 冊子 75頁
喜入忠政(のち忠続)が市来備前守・新納仲左衛門尉に、又八郎様に奉公する局が近頃ことに患い、老齢のため当地での養生が難しいと伝えた書状。意向を得てこちらへ帰し、永吉などで療養させたいので、病中のうちに早々に暇を与えるよう取り計らうことを求める。
閏七月七日 / 冊子 75頁
高崎能乘が新納仲左衛門尉に、相手の書状の趣旨を披露し、祈念入具の件を物奉行へ申し渡したと知らせた書状。使者を待機させておくこと、八左衛門が当朝出仕しなかったため自ら返答したことを伝える。
正月廿八日 / 冊子 75-76頁
山田有榮が新納仲左衛門尉・比志嶋掃部助に、切米取の者へ琉球米を支給してほしいとの依頼に回答した書状。琉球米が未着で、手元の米にも用途があると説明する。No.196切り抜きとの照合により、従来混入していた永吉・病人への暇に関する記述を除外した。
五月廿日 / 冊子 76頁
伊地知重時が新納仲左衛門尉に、兵庫様が無事到着し登城・目見得を済ませたことを伝えた書状。自身は十三日から中務殿と加治木で御道具改めに従事し、村田平右衛門尉へ家中の件を申し渡す予定であること、親族も無事であることを報じる。
正月七日 / 冊子 77頁
新納弥七郎が新納仲左衛門尉に、新年を祝うとともに吉松衆中の入組問題を報じた書状。刑部大輔の依頼を受け、上使方へ説明する際は一人では首尾を述べにくいため自ら同道すること、刑部殿からの返答後に使者を送ることを伝える。
六月十二日 / 冊子 78頁
島津久元・伊勢貞昌・比志嶋國隆が、新納仲左衛門尉に縣へ使者として赴くよう命じた連署書状。当日には間に合わないため翌朝早く参上して意向を承り、本田源右衛門尉・比志嶋掃部助と相談して出発するよう指示する。
七月十二日 / 冊子 78頁
島津久元が新納仲左衛門尉に、又八郎様から五月二十三日付の書状を受け取り、当地が無事であるとの知らせを喜んだ書状。黄門様が長く患い、とりわけ近頃は衰弱していて心配であること、詳しくは本田新右衛門尉が口上で伝えることを述べる。
十月廿三日 / 冊子 78頁
伊勢貞昌が新納仲左衛門尉に、両寺中への反銭・段米を差し置くことや老母の無事を伝えた書状。京都へ送る土産の取次、二十二日に出立する旅庵への同行準備を頼み、船賃は不要で、上下五十日分の兵糧と遣銭二貫文が任世から支給されると知らせる。
五月十八日 / 冊子 107頁
任地に詰めている新納仲左衛門の苦労をねぎらい、担当案件がどの程度進展したかを案じて状況報告を求めた短い書状。
八月廿日 / 冊子 68頁
北郷三久が、普請関係の藤右衛門に相談したところ三日以前に諸所へ出たと聞いたため、呼び寄せて普請・地頭所の件を相談するよう依頼する。割付を受けた場所に呉儀があるとも述べ、現地での処置を求める。
三月廿八日 / 冊子 70頁
新納忠清・高崎能乘・山田有榮が、伊作中之里名の門内屋敷・加治屋屋敷・西中間屋敷の三人付について、會木新左衛門尉へ尋ねたいことがあるため、急ぎ参会させるよう求めた連署書状。延引しないよう念を押す。
七月十三日 / 冊子 71-72頁
新納忠清と高崎能乘が、鍛冶・番匠衆の知行に関する依頼へ回答した連署書状。御老中衆が聞き届けるべき案件であり、自分たちの支配所はすでに離れているため、直接御老中衆へ申し上げるよう勧める。
閏七月廿八日 / 冊子 77-78頁
島津久慶と川上久國が、上様の下向に備えて当地から御道具衆二十人を御舟本まで差し上げたと知らせた連署書状。相手方にも手持ちの御道具衆を今晩から順次差し上げ、油断しないよう命じる。
三月廿五日 / 冊子 114頁
前年の国分下馬で起きた衝突を江戸へ報告し、関係者の処分を伝えた連署書状。本田蔵人ら五人は知行・屋敷没収と遠方への追放、下馬始の中間隼人ら三人は死罪とし、市来・左衛門への処置も命じる。
五月七日 / 冊子 106~107頁
殿の無事下国を祝い、又八郎の弓術師匠を東郷長左衛門へ頼んだことを喜び、老齢の川上因幡に代えて東郷肥前から兵法を学ばせるよう相談し、兎山の風聞にも注意を促した書状。
八月廿一日 / 冊子 66頁
新納忠清・肥後盛行・大寺政安が、大脇舎人佑の知行高十四石の算入先について連署した書状。当初は相手方の高へ籠めるよう伝えたが、改めて山田民部少輔を通じて当地の高へ算入せよとの命が出たため、その処理を通知する。
八月二日 / 冊子 67頁
島津久慶と島津久元が、八朔に献上する太刀・馬の先後争いについて連署した書状。玄蕃頭との席次・進上順を黄門様が先例に基づいて裁定すること、双方が証文を提出し、東郷肥前守を介して決着させることを伝える。
正月十一日 / 冊子 72-73頁
島津久慶・川上久國・伊勢貞昌が、根占殿の御蔵入方を會木弥兵衛尉と黒葛原吉左衛門尉へ命じたことを知らせた連署書状。吉左衛門尉は病気で参上が遅れたが当日出仕したため、その事情を披露するよう求める。
九月廿七日 / 冊子 76頁
島津久茂らが、兵庫守領内から有馬・天草へ移す百姓について、家族人数・牛馬・農具をどの程度伴わせるか回答した連署書状。国元から出す百姓頭百三十人の賦課を示し、詳細は御蔵入奉行三原左衛門尉と御家老衆が定めるため、直接協議するよう促す。
二月十四日 / 冊子 77頁
島津久慶と島津久元が、羽嶋蔵人家の事情により、その子一人を当地へ置く願いが認められたと伝えた連署書状。蔵人の宗領の子へ知行四十五石を付け鹿児島へ召し置くため、相手方の高から分けるよう求める。
年月日未詳 / 冊子 435頁
花盛り、紅葉、朝霜、呉竹、梅、祝盃、花入れ、忘れ草、仏法と霊鷲山などを題材に、各家へ伝来した短冊・書状所載歌を集めた島津家久詠草。
永禄十一年正月廿日 / 冊子 183頁
永禄十一年正月二十日の大口合戦で、義弘・川上久朗らの戦況が不利と聞いた歳久が、伊集院久治とともに急行して強敵と戦ったことを記す。別路から敵兵が押し寄せ、長野仲左衛門尉・下島甚左衛門尉が戦死したが、伊東右衛門尉・有川貞員らの働きもあって義弘を曽木城へ退かせた。歳久は戦功により河原毛の馬を与えられた。
永禄十一年正月廿日 / 冊子 185頁
永禄十一年正月二十日の大口・羽作瀬合戦で戦死・負傷した将兵を列挙する交名抄。川上久朗、西郷新八、長野仲左衛門尉、下島甚左衛門尉、蒲地越中守、有馬又次郎らの名を掲げ、一部には所属・死去日・馬越での戦死などの注記を付す。
文禄五年閏七月廿八日 / 冊子 35~36頁
町田存松久倍・新納旅庵長住が安宅三川守へ、加治木衆新納仲左衛門に関する米三千六百余石をはじめ、船賃米、銀への換算額と一石当たりの換算率などを示した算用証状。
慶長十六年六月廿五日 / 冊子 339~340頁
慶長十六年六月二十五日、大窪仲左衛門尉ら三名が、知行地から一石につき五分の割合で徴収した銀子について、村別の高・銀額と合計を記した連署請取状。
(寛永八年)正月廿八日 / 冊子 249頁
山奉行の内田仲左衛門・大窪半兵衛が、島津又八郎の武芸鍛錬のため竹子鹿倉山を猟場とする願いについて、又八郎の家系と実父島津家久の朝鮮・琉球での軍功などを挙げ、国政への参与を願い上げた上申状写。
八月晦日 / 冊子 73頁
喜入忠政が比志嶋掃部助らに、初鷹を届けるので新納仲左衛門尉の奥方へ進上するよう依頼した書状。三日後に江戸へ向かう早便があるため、その件もあらかじめ申し入れておくよう求める。
十二月三日 / 冊子 451頁
本田仲左衛門尉が評定所の秘密を知って申し出た件について、老中衆の議題を誰から聞いたのかを徹底して究明し、隠せば処罰すると申し渡すよう命じた島津光久書状。捜査できなければ老中の一人と仲左衛門尉を直接対決させる方針も示す。
慶長七年四月十七日 / 冊子 809-810頁
大工大夫が公文所へ提出した注文で、家中・御老中・諸国から下された馬・太刀・金銀・反物・食料・装身具などの品目と数量を列記する。贈答・下賜品の受納記録。
(貞享四年)七月廿八日 / 冊子 793頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2086
伊地知八右衛門重興が是枝治部右衛門・新納仲左衛門へ、五月十六日付状を受けた礼を述べ、虎徳誕生の祝儀について葉瑞孫六が江戸に登り、使者の役目が首尾よく済んだことを喜ぶ。内匠の御子方と又八も堅固である旨を喜び、自身は現在大坂にいると伝える。
永禄十一年正月廿日 / 冊子 189~190頁
永禄十一年正月二十日、馬越から出た島津勢が大口方と羽作瀬で戦った経過を詳述する。川上久朗が飛田瀬で奮戦して戦死したと伝え、義弘は弓で敵先手を退けて味方を渡河させ、自ら殿を務めた。追撃兵の長槍を甲に受けながら多数を討ち、義久・貴久の援軍到着によって敵が退いた。長野仲左衛門尉・下島甚左衛門尉らの戦死や梶原某の追放も記す。
永禄十一年正月廿日 / 冊子 190~191頁
永禄十一年正月二十日の大口・羽作瀬合戦を詳述する。川上久朗が飛田瀬で敵を支え、義弘は弓で応戦しながら殿を務め、難所の大河を渡った。追撃兵に囲まれた義弘は甲に多数の鑓を受け、家臣に助けられて渡河し、長野仲左衛門尉・下島甚左衛門尉らが戦死したが、義久・貴久の援軍到着により敵は退いた。
(慶長三年)十月六日 / 冊子 256頁
竹内実吉が(慶長三年)十月六日付で池田六左衛門尉らへ出した書状。敵首三万人を揃え、ほかに切り捨てた者は数知れないと戦果を報じ、治介が七人、島津義弘(武庫)が五人を討ったことを伝える。出陣時の厚意に謝し、源五や伊福小内記・町田仲左衛門らにもこの内容を知らせるよう求める。
寛永十年十二月六日 / 冊子 417~434頁/原整理番号 213-1
新納仲左衛門忠雄日記の抜書。元和九年から寛永十六年まで、主君への出仕や江戸・鹿児島での行動、移動・宿泊、茶・酒・刀・馬などの拝領と贈答、家中の出来事を日付順に記す。
九月 / 冊子 321頁/原整理番号 168
池田仲左衛門が、向井市之丞の取り次ぎで小納戸役に任じられたことに礼を述べ、同月十二日には酒肴を献上し、御能が行われたと記す。碇山次右衛門を頼って北郷右衛門八殿へ目録を差し出し、役儀の祝いを献上したところ、翌十一日にも北郷を通じて献上するよう伝えられたとしている。
年月日未詳 / 冊子 431~432頁
飯野士壱岐七右衛門家に伝来した写本をもとに、飯野衆中の諸士名を列挙した別系統の名書上。 冊子431~432頁にわたり、No.562と重なる家名を含みつつ人名の配列・収録範囲が異なる。飯野家臣団名簿の異本比較、同名人物の識別、系譜調査に利用できるが、細字のため個々の人名は要照合。