児玉利昌覚書
(寛永十年)二月廿五日 / 冊子 404~405頁
児玉利昌の覚書。御ひたいれ、籠手、弓懸、履物、下着の帷子などについて、色・文様・寸法・数量・仕立て方を列挙し、伊東仁右衛門・渕谷四郎左衛門へ伝えた。
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(寛永十年)二月廿五日 / 冊子 404~405頁
児玉利昌の覚書。御ひたいれ、籠手、弓懸、履物、下着の帷子などについて、色・文様・寸法・数量・仕立て方を列挙し、伊東仁右衛門・渕谷四郎左衛門へ伝えた。
年月日未詳 / 冊子 677頁
大永七年、加治木・野首原・帖佐などの戦いで戦死した山野助次郎、湯田仁右衛門、上井筑前守方秋、伊地知左近将監重貞らの没日と戦場を記す。
文化8年正月。前年11月廿二日届、外包当年正月10日受渡 / 冊子 360頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1123
白木御文書七番箱53番、口裏に右近殿から渡された書付の写。寛二郎(斉宣男注)が嶋津若狭の養子と命じられた件は先に申し渡したとおりで、去年11月廿二日、御用番牧野備前守へ届書を出し、受取った旨が返ってきたので、御記録奉行その他の関係先へ通知する。正月、右近(川上久芳注)署。包紙は文化8未正月10日、二階堂左門から福永仁右衛門へ渡し七番箱収納と記す。1089の養子決定・帳面記置指示に続く幕府への届出と受理通知として整理し、届出日・署月・収納日を分ける。
延宝2年8月10日 / 冊子 253頁/原整理番号 201
大久保右京亮・杉浦内蔵丞らから家来判形や親類縁者改帳について差し出された書付の扱いを記す連署書付。先規の三家の儀や屋敷での相談を述べ、延宝二年八月十日、伊勢平右衛門・相良仁右衛門の連署で結ぶ。
年月日未詳 / 冊子 596頁/原整理番号 654
黄門様御代の役務をめぐり、讒訴による処分や役儀・扶持の扱いを不当として、関係者の証言と過去の経緯を挙げて再吟味を求める訴状。
年月日未詳 / 冊子 889頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2406
川上右京久寛を琉球在番奉行に任じ、岩切仁右衛門ら四人を副役として琉球へ派遣し、四年間在番したのち元禄九年夏に帰任したことを記す記事。
天明五年三月六日 / 冊子 801頁/原整理番号 2195の12/整理ID 2195-12
三月六日の能組。翁・三番叟、難波(宝生太夫)、田村(幾衛)、巻衣(金剛太夫、五段神楽)、石橋(彌五郎)、祝言高砂(左織)を列記する。続く狂言は八幡前を八右衛門、内沙汰を仁右衛門、悪坊を伊兵衛と記す。各曲の配役・囃子方の名を併記する。
年月日未詳 / 冊子 489~490頁/原整理番号 490
三原重庸家臣元立院の覚書。三原家の御同心・御与力・伊集院衆・御家来など、島原へ供奉した者を役組とともに列挙する。十二月末に国元から使者として新納仁右衛門尉が派遣されたこと、遠方から来た者は元日の記事に載せることを付記する。
寛文二年十月十七日(純正没・辞世)、慶長十二年~元禄十年(後続系譜記事) / 冊子 494~496頁/原整理番号 21-7
寛文二年十月十七日に八十歳で没した平田盛右衛門尉藤原純正の辞世と、純直・純音以下の後続系譜。純正は『今年今月今日今時今刻』と死の時を明記して歌を残し、法名を天心又玄庵主とする。孫の純直は外祖父壱岐加賀守幸則の養子となり、正保二年冬、遠流途中で谷山正泉寺に宿泊した島津大和守久章の警護を新納仁右衛門と担当した。久章が逃亡を企て、多数を斬って血刀を提げ堂前へ出た際、純直は急走して組み伏せ、左右の額・腕など三か所に深手を負いながら鎮圧した。承応三年に平田姓へ復し、万治元年から綱久に仕えた。清右衛門純音は吟味役・高隈地頭・光久納戸奉行・勘定奉行を歴任し、光久没後には遺物の紋付衣裳を賜り、平山元仲とともに遺骨を高野山蓮金院から墓所へ担いだ。鶴丸紋を連環形に略した純音の家紋、後裔の出生・婚姻・幼死・役職も元禄年間まで記す。
天明五年二月二十七日 / 冊子 793頁/原整理番号 2195の7/整理ID 2195-7
二月二十七日の能組。翁・三番叟に続き、弓八幡を観世太夫、羽衣を宝生太夫、祝言岩松を十太夫と記す。御跡として末廣かりを彌太夫、是界を金剛太夫、祝言金札を源五郎とする曲目を列記する。各曲の下に配役・囃子方の名を併記する。
年月日未詳 / 冊子 213~214頁/原整理番号 546
鹿屋仁右衛門家の系図。鹿屋周防介兼詮を起点に、天文元年に二十九歳で没し肝付祓川に墓を置く兼貞、兼秀・兼長・兼慶を経て、仁右衛門尉兼信・兼記・兼次らに至る系統を記す。各人の没年、法名、婚姻・養子、帖佐・加治木での出生や居住を示す。
年月日記載なし(安永四年十一月十三日の四手組の文脈) / 冊子 476頁/原整理番号 1310/整理ID 1310
前後の代初犬追物稽古の四手組に属し、独立した年月日はこの表には記さず、下手組の名簿を示す。名簿の列記順は嶋津又七郎(一の付記)、嶋津十太右衛門、伊勢新五郎、倉山藤覺(一の付記)、川上四郎(二の付記)、鎌田源八、後醍院八郎(一の付記)、喜入休兵衛、西左太郎(一の付記)、嶋津直衛、嶋津内匠である。検見・喚次欄には川上十郎左衛門、相良仁右衛門を記す。名簿の掲載人名は11枠で、検見・喚次欄の二名は別に保つ。一・二の付記は一疋・二疋を示す。付記のない者もいる。
安永四年十一月十三日 / 冊子 476~477頁/原整理番号 1312/整理ID 1312
論之犬稽古手組之事と安永四年十一月十三日を記し、論之犬稽古手組の名簿を示す。名簿の列記順は嶋津又六郎(一の付記)、嶋津十太右衛門(一の付記)、本田孫右衛門、喜入休兵衛、鎌田源八、後醍院八郎、嶋津彌市郎、倉山藤覺(一の付記)、蒲生正左衛門(一の付記)、川上四郎(一の付記)、嶋津又七郎(一の付記)、西左太郎(二の付記)である。検見・喚次欄には川上十郎左衛門、相良仁右衛門を記す。名簿の掲載人名は12枠で、検見・喚次欄の二名は別に保つ。末尾の包紙には安永四年未十一月十三日、代初稽古大追物の手組四通を帯刀殿から渡され、写し置いたことを記す。また白木御文書五番箱と百十中ニアリとの所在記載があり、箱の後の八/ハに見える字は原記載として留保する。
6月17日(目録文化9年)。包紙7月廿七日 / 冊子 385~386頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1210
寫。別紙の趣旨を左のとおり申し上げるとして、乘之助・蓬之進・豹治郎の実母は浪人杉浦作左衛門源政信の娘、富姫・壽姫・桃次郎の実母は御旗本松平藤十郎殿家来谷周右衛門藤原政相の娘と記す。政相にはスケの音注。6月17日、伊集院隼衛署、兼当の人物注。正文に独立年はなく目録の文化9年を採る。次頁の二通包紙は右近様(川上久芳注)宛、御本書と付書写を7月廿七日に将監から福永仁右衛門へ渡し、白木御文書7番箱へ収納したことを記す。二系統の母方情報、対象者の組合せ、本文6月17日と受渡・収納7月廿七日を分ける。各母の個人名は記さず補わない。
文化12年4月11日(年は目録) / 冊子 456~457頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1417
重豪公御譜中・扣正文在家老座。近衛様高輪御屋敷からの招請時の御能組を掲げ、翁(千歳・三番叟・面箱の表示)、高砂・経政・熊野・綾鼓・亂、三本柱・宗倫を列記する。表には大膳大夫様・高砂、啓之助様・経政、御隠居様・熊野、大御隠居様・綾鼓、肥前守様・亂の見出しと、七郎右衛門・権左衛門、新之丞、萬作、才次郎、八右衛門、権之丞らの名及び伴演者を配列する。続く甘露寺様高輪御屋敷招請時の別能組は、肥前守様・右近、御隠居様・八島、大御隠居様・井筒、大膳大夫様・山姥、啓之助様・祝言岩船、鼻取相撲・居杭、八島之間那須を掲げ、新之丞(源次郎注)・宗也、萬作・次八郎・四郎、金之助・甚太郎・傳之助、仁右衛門、八右衛門、権之丞等を配列する。末尾は別紙番組の通り命じられたので届ける旨、4月11日、御能方肝煎中西十郎左衛門署。二系列の演目・御方呼称・配役表を区別し、近衛等を全演目の演者とせず、御隠居と大御隠居を同一呼称へ統一しない。役名のない伴演欄から囃子方等を補わない。
弘化元年十二月廿三日(本文辰年)。弘化二年正月十八日(蓋紙の到来日) / 冊子 65~66頁/原整理番号 105の1/整理ID 105
廣大院の法号を国元の菩提所へ安置し法事を行いたいとの願いについて、赤松主水と調所笑左衛門が五名へ経緯を知らせた書状。御用番阿部伊勢守からの伺に関する指示を踏まえ、法号等は久世出雲守に承合うよう求められた。十二日に礼をもって渡し、十四日に留守居付役淵邊仁右衛門から法号の別紙を受け取ったことを報告する。二殿・貴間・大奥その他へ申し上げ、御記録奉行にも伝えるよう求める。宝鏡院にも報告し、寺社奉行・福昌寺への伝達を取り計らうよう求め、伺書写等を添え、法号を一箱に入れて送ると記す。辰十二月二十三日付。前の蓋紙には、弘化二年正月、廣大院法号の国許菩提寺安置一件として、伺書一通・留守居首尾書三通・江戸詰家老衆の問合書一通写をまとめ、正月十八日に急飛脚便で到来したと記す。
元禄16年10月22日(末尾日付) / 冊子 506頁/原整理番号 44-1
元禄四年に肥後仁右衛門盛香とともに御記録所見習を命じられ、古記録・系図・文書の探索と諸所への出張、記録奉行への差出を記す。元禄十六年十月二十二日付。
享保十四年十二月廿二日 / 冊子 1008頁/整理ID 2462
十二月廿二日の御能組として、翁・高砂・東北・祝言の演目と三番叟を含む役者名を列記する。
享保十四年十二月二十六日 / 冊子 38~40頁/整理ID 35
竹姫に附属する御同朋・御台所人・小間遣・小姓・中居など多数の奉公人について、役職・氏名と石高・扶持人数・薪・油・湯之木・五菜銀等の給付額を列記した書上。
〈宝暦五年〉正月五日(目録・原本主書末尾) / 冊子 511~512頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1552
平田靱負が正月五日、嶋津主殿・鎌田典膳へ、御手伝普請の工程・検分と人員引取の首尾を報告する。一~四之手の追加目論見により工事が進み、二・三之手は旧臘二十三・二十四日に幕府役人立会いの検分を受け、完成した工事の小屋返却と人員引取を求める。油嶋から松之木村まで百九十間の水分切は指示がなく、油嶋側五百五十間・松之木側百五十間の築留には見積変更で約五十間を加え、大榑川二百六十五間の切り・洗堰も未決とし、石田・八神の石寄せを急ぐが難場では三月までかかり得ると述べる。江戸の御馬廻・新番・御歩行・足軽からの派遣について、現場では足軽約四十人が不足すると伝え、太田新田の小屋は返却して人員を元木屋へ引き取り、早春の小屋返却・人員引取を年内に申し渡したこと、引取人数の不要分を吟味して追って差し下す旨を報告する。
文政5年12月15日(末尾年は朱注) / 冊子 642~643頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1897
十二月十五日、吹上御庭拝見が滞りなく済んだ内祝として、亀之甲舞台で能を催し、有馬玄蕃・水野甲斐(忠実注)・有馬臺作を招いた記録。能組には岩船・俊成忠度・綾鼓・船弁慶・海士・乱を挙げ、虎之助・又三郎・玄蕃頭・桃次郎・甲斐守・豊後守などの名を各曲の下に配列し、狂言・間として末廣・宗八・福の神および船弁慶間の幸之助を記す。「乱」の欄には溪山の名がある。囃子方や地謡等に当たる名列もあり、曲ごとに出演者の名列を添える。夕暮れまで無事に済み、赤羽からの供頭へ初めて見せ、装束所に二、三人が来たため甲斐の仕なども一緒に見せたと結ぶ。名列の役割の細分と、卯太郎・覺次郎と読める二名の第一字は未確定。この記録の十二月十五日と、次の贈答覚書の十月十五日とは月が異なる。
年月日未詳 / 冊子 102頁/原整理番号 70の4
北郷久加が慶安四年二月十一日に病気のため家老・異国方・宗旨改方の辞任を願い、十八日に上聞への取次報告を受けたと記す。承応二年十二月十五日の再度の申し出に続き、光久が家老職を免じ、他の二役は後任決定まで勤めるよう命じた経緯を記す。後段で島津久通、新納久了・町田久昌への担当引継ぎを伝えるが、その日付は「同十四日」とあり前後関係に疑義がある。
延宝2年8月10日 / 冊子 251~252頁/原整理番号 200
公儀へ差し出す家来の名・印相を究める次第書。御三家・諸大名家来の判形、切支丹宗門の親類縁者改帳、先例との照合、留守居・家老の名判などの手続きを列挙し、関係者との折衝と書付の留置までを記す。
寛永15年正月15日 / 冊子 704~708頁/原整理番号 734
加世田士人相徳新介蔵本による人数賦。仁禮右京亮以下の主従人数を次第不同で列記し、追加申出や乗船勤務、夫丸の割付、小松原・出水米之津での飯米支給を注記する。途中に軍士156人・外117人夫と記す。末尾では正月十二日以来二十日分の飯米として真米15石・赤米10石7斗を出水六月田御蔵から受け取り、人躰一人に真米一斗、夫丸一人に赤米一斗ずつ渡したと記す。寛永十五年正月十五日付。
寛永十五年二月朔日 / 冊子 47~50頁/原整理番号 69-2
寛永十五年二月朔日の島原出陣に際する人員賦帳。乗馬衆13人と御陸衆49人を石高付きで列記し、定衆6人、御中間8人、諸役人32人、大工5人、茶湯坊主3人を合わせて惣計116人とする。別に詰夫丸21人を記す。日高十兵衛は御陸衆に含まれる。
年月日未詳 / 冊子 122~123頁/原整理番号 24
床波佐次右衛門を起点に、嘉左衛門以下の床波氏諸流を配した系図。佐次右衛門は元禄三年生・安永四年五月没、嘉左衛門は享保元年生で、助兵衛を養子とし、女子は久木田覚助に嫁いだことを記す。兵次郎は次右衛門へ、与助は武右衛門へ、正助は勘介から、権左衛門は佐次右衛門へ、権助は清右衛門へ改名した。仁兵衛が兄次右衛門の後嗣となった例、養子・婚姻・母方、男女の子女を系線で示し、元禄・享保から宝暦・明和・安永・天明・寛政・享和・文化・文政期までの出生・没年を列記する。
寛文3年6月19日、寛文3年1月18日、延宝6年2月15日、元禄2年3月6日、享保3年9月、享保17年閏5月23日、元禄5年4月20日、享保3年11月24日、享保8年11月8日、元文3年8月20日、宝暦13年4月25日、明和元年8月、安永7年7月8日、延享3年4月16日、宝暦10年8月28日、安永8年10月14日、寛政3年8月、寛政12年12月10日、明和7年7月1日、天明3年12月13日、享和元年4月24日・12月1日、文化3年9月4日、寛政5年11月16日、文化3年6月28日 / 冊子 314~317頁/原整理番号 119-37
寛文三年六月十九日、新田社家の権執印・大検校・千儀が肝付伴兵衛兼屋へ連署して提出した請文。執印休左衛門との相論で、休左衛門は新田社家の主取を前々から一人で務めてきたと主張し、三名は休左衛門と同役で諸事を勤めてきたと主張したが、双方の口上と古来所持する証文が吟味され、休左衛門に理があると裁許されたため、以後はその下知に従い難渋しないと請け合い、この旨をしかるべく上申するよう求める。付随系譜は第十八代友幸から友賢までを掲げ、友幸の島津綱貴への御目見・継目御礼・新番参勤供奉、友為・友中・友宗がそれぞれ太守へ太刀一腰・馬一疋を献じて御目見または祭祀継承の恩を受けたこと、友為・友中・友宗が指付新番として琉人を江戸へ護送したことなどを記す。
万治2年8月18日(1659)の覚書・慶長6年(1601)~明和4年7月(1767)の系譜記事 / 冊子 437~445頁/原整理番号 13-7
冒頭に『高麗人諸事問条記一通、但十五ヶ条』と掲げ、平田清右衛門が淵辺量右衛門へ、ほかにも覚えている事柄を詳しく書き付けて提出するよう求めた万治二年八月十八日付覚書。御記録方で使用するための聞取であり、朝鮮軍記の提出控えは別紙にあると注記する。続いて元貞以下の淵辺家系譜を収め、元貞が寛文元年に七十九歳で没して柿本寺へ葬られ、元辰・元隆・元智・元錦・元能・元苗・元儀・元詮・元長・元彬・元甫・元休・元堅・元伴・元次・元敏らの出生、幼名・通称・法名、母方・婚姻、早世・没年・墓所を各代ごとに記す。元辰は六歳で家久に召し出されて仲兵衛の名を受け、元隆は太守光久の目見を得て加治木の花堂・藤原重俊女を妻とし、元錦は太守光久への御目見、武州品川稲荷大明神への祈願成就、家督勤役と知行百壱石余を記す。元詮は天和三年に太守綱貴の初参勤供を務め、元苗は元文四年の清女産神・太田大明神参詣、元儀は綱貴・吉貴への御目見と町田・川上両家への奉公、元堅は太守継豊の初参勤供、元甫は島津小平太の供、元休は太守綱貴・重年への奉公、元詮系では太守吉貴・継豊の家督礼や島津家諸役を伝える。末尾は明和四年七月朔日、太守重豪への初而奉拝記事まで続き、近世淵辺家の奉公・婚姻・家督・墓所を世代順にまとめる。
年月日未詳 / 冊子 169~171頁/原整理番号 128-1
鹿府稲荷鏑流馬の射手日記・記録奉行調書。延宝二年以降の御旧例と、天和・貞享・元禄年間などの上馬射手、光久公の御不例時の例を年代順に列記し、家系・役職名を付して射手人数の先例を示す。
明和四年十月日 / 冊子 45~47頁/原整理番号 10
記録奉行は、宝暦八年に命じられた御家譜編集が明和四年になっても完了せず、従来の四ツ時から八ツ時までの勤務では進捗が遅いと訴える。先例の勤務時間・賄いの扱いと現在の費用負担を比較したうえで、奉行と筆者が当面は自弁で夕方まで長詰し、作業量と完成までの年数を試算する許可を求めた。
宝永二年十二月廿日 / 冊子 76~77頁/原整理番号 7
伊地知重昌は、宝永二年十二月、正月の椀飯と五節供の調製を、伊地知家に伝わる古式の書を基に御包丁人頭が行うことになった経緯を記す。それまで鎌倉流と称して担当した重信家には古い書がないと判明し、伊地知家の書を御包丁人頭へ示し、写本を提出して返却を受けたという。
弘化元年十二月三日・十二日・十三日(印刷枝番3~5の各通) / 冊子 66~68頁/原整理番号 105の3/整理ID 105-2
廣大院法号の国元安置に関する三通を収める。印刷「の3」は半田嘉藤次が辰十二月三日付で主水へ宛てる首尾書。阿部伊勢守・御用人山岡衛士の表示を付し、御勝手へ書付を持参して服部九十郎と相談し、御用人へ提出、帰宅後に結果を知らせる旨を伝え、西筑右衛門がその夕方に勤めたと報告する。「の4」は同じ半田が十二日付で主水へ報告する。御用人中の切紙により本日中に一人が出向き、付札のある御書付を阿部伊勢守の御用人町野平助を通して渡すこととなり、半田らと留守居付役川崎四郎左衛門が勤めた。追記で、その夜と翌朝の御請、御目付家への出向き、留守居付役名簿の備中守への提出、久世出雲守への法号承合も述べる。「の5」は十二月十三日付で留守居付役勤淵邊仁右衛門が半田へ宛てる首尾書。浅井傳八郎と出会い、久世への伺と前夜の付札を説明し、法号一枚を受け取って差し上げると報告する。追記では表方の使者を通した御請に加え、自分も勤めて帰ったため、別の御請使者は不要と伝える。
年月日未詳 / 冊子 630頁
寛永十四年の家久の療養経過を記す。久志本式部少輔が江戸へ帰った後、将軍家から外科の祐慶法印が遣わされ、伊東仁右衛門祐昌らが受け入れに当たり、児玉利昌や東郷重位らが昼夜近侍して治療を支えた。
九月十七日 / 冊子 797–798頁/整理ID 2703
種子島久時・新納久珍・島津久當・島津久明が九月十七日、上村権兵衛へ、屋久島の異国人を長崎へ護送する船中警固・引渡しを指示する。吉田六兵衛・川西仁右衛門ら警固人、医師馬場長軒を随行させ、望む食物は医師と相談し、酒は望んでも与えず、病気治療に努める。もし病死した際は死骸を塩詰めにして長崎へ送る。出船日和・他船接近禁止・他出抑止・刃物取扱い・口論と見物の禁止・所持品引渡しを定める。
至徳二年十二月十五日 / 冊子 129頁
加治木鹿屋仁右衛門文書に伝わる犬追物手組として、至徳二年十二月十五日の参加者を組別に掲げ、各人の得点を列挙した記録。
〈宝暦四年〉九月十四日 / 冊子 497~498頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1514
平田靱負が宝暦四年九月十四日、義岡相馬・鎌田典膳へ、水行御普請関係役人の出立と笠松到着を報告する。勘定頭倉橋武右衛門京平、勘定衆勝谷次兵衛・三木伊左衛門・宮川小十郎・荻田仁右衛門、普請役今井勘助・鶴岡幸助・渡邊傳之助・柑木左兵衛・猪又要右衛門・田村銀八郎・今泉又三郎・笹川雲四郎・和田清助・楢原與左衛門を列記する。江戸留守居が聞き、先月二十七日の飛脚便で伝えたところ、九日に笠松へ到着したという。別の重立つ役人も出立予定で、内藤源八郎が江戸留守居へ連絡したが、まだ御場所へ着いていない。御目付吉田久左衛門住國は先月十五日に笠松へ着き、徒目付衆等も追って到着する見込みとする。到着済みと出立予定・未到着を分けて知らせる。
応永二年二月二十九日 / 冊子 118頁/原整理番号 2
応永二年二月二十九日の犬追物について、射手を組み合わせ、検見役を付した手組。加治木鹿屋仁右衛門蔵本により、島津・伊東・稲津・湯地・鹿屋らの参加を記す。
寛政四年十月十一日 / 冊子 184~185頁/原整理番号 153
同じ十月十一日の「論之犬稽古手組」。島津圖書・秩父十郎・枇山采女らを列記し、検見を川上庄八郎、喚次を相良仁右衛門とする。