神明宮の社領三十石を抱真院へ付す寄進状
宝永六年己丑十一月十四日 / 冊子 879頁/整理ID 2880
島津吉貴が神明別当抱真院へ、神明宮建立に伴い社領として高三十石を寄進する旨を記す。前年までの神明宮造営を述べるNo.2879に続き、社領の額と管理先を明示する寄進状。
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宝永六年己丑十一月十四日 / 冊子 879頁/整理ID 2880
島津吉貴が神明別当抱真院へ、神明宮建立に伴い社領として高三十石を寄進する旨を記す。前年までの神明宮造営を述べるNo.2879に続き、社領の額と管理先を明示する寄進状。
宝永六年己丑十一月十四日 / 冊子 879–880頁/整理ID 2881
島津久輝ら六名が神明別当抱真院へ、神明宮建立に伴う社領三十石を、川辺郡小野村・日置郡田布施池邊村・姶良郡帖佐松津村から寄進する旨を記す。No.2880の吉貴花押付き寄進状と異なり、具体的な村名と石高を列記する。
元亀元年七月十四日以前 / 冊子 232~233頁
広済寺の由緒として、同寺が泰定山南禅寺派で寺領三十石を有したこと、七代雪辱和尚が義久の時代に琉球使僧として渡海し、七月十四日に出帆したことを記す。使節を忠実に勤めた賞として、旧来の末寺を寄附された置文が伝わるとする。
天正21年正月4日 / 冊子 663頁
安藤二介に関する算用として、三十石を勝田源左衛門尉へ遣わすことを入来院重時が認める。 百石・屋敷用土地の宛行状と同日に出された一通で、受給者と石高の違いを比較できる。
文禄2年2月7日 / 冊子 668~669頁
薩州隈城内の城岡之門をはじめ、屋敷・田畠・山畑などの所在と面積を列挙して長谷場越前守へ与えた領知目録。 新知三十石に九石一斗を加え、先知行と合わせて六十石の役を勤める条件で付与したことを明記する。三奉行が連署し、給付地の内訳と軍役負担を結び付けた家臣知行文書。
文禄五年八月九日 / 冊子 38頁
伊集院右衛門入道幸侃が、隅州桑原郡吉松の般若寺領のうち、般若寺村内の右田島屋敷分について、米高百三十石余を記して与えた署判領知目録。
元禄十四年八月廿三日 / 冊子 300~301頁
児玉利昌の孫・児玉利言が、祖父の朝鮮役での奉公を申し立てる。文禄元年、義弘の渡海時に自費で船を用意して朝鮮へ渡り、雑兵を多数討ち取ったため、帰朝後に褒美として知行三十石を与えられたと記す。本文は複数条のうち一条のみを掲げ、ほかは省略されている。
慶長五年五月四日 / 冊子 540頁
島津忠長と平田増宗が連署し、加増高二千七百三十石のうち、庄内下川路有水の高千石を北郷作左衛門尉に与えることを示した加増目録。
年月日未詳 / 冊子 591-592頁
義弘一行が九月二十七日に芸州を出船し、二十九日に細島へ着いたことに関連して、薩摩船三艘が豊前・豊後沖で黒田如水方の船勢に追われ、捕獲されて男子は討たれ、女性・子供は生け捕られたとの風説を記す。続いて柚木崎丹後の子・次郎右衛門へ父の勇敢を賞して三十石を与え高岡に居住させたこと、関ヶ原敗戦後に蒲生新城を築き赤塚源太左衛門を城番としたことを記す。
慶長五年十月十日 / 冊子 595頁
島津義弘(惟新)が、関ヶ原合戦で奮戦し、伊勢・近江・伊賀・大和・河内・和泉を経る帰国路でも片時も側を離れず奉公した者を賞し、知行三十石を与える。本文には宛所がない。
慶長五年十二月十一日 / 冊子 722-723頁
伊勢貞成が、大隅国菱刈横邊村内の田畠について、地名・面積・分米や耕作者を列記し、合計分米・大豆三十石を本田勝次郎の領知として示した目録。
慶長六年十月廿一日 / 冊子 785-786頁
島津忠長ら四名が連署し、薩摩国祁答院の大村にある楠原弥七右衛門尉屋敷三十石二斗三升を、井尻伝次へ加増として宛行った目録。
慶長六年十月廿四日 / 冊子 786頁
島津忠長ら四名が連署し、薩摩国川内山田村の鹿地門三十石五升を、満尾越中守へ加増として宛行った目録。
慶長七年十二月廿四日 / 冊子 868頁
島津忠長ら四名が連署し、祈願成就のため日向国諸県郡加久藤栗下村内の三十石を加久藤二宮社へ付与した証状。公役は他の寺社領と同様に免除し、正式な目録は京都から帰国する際に交付すると定める。
慶長十三年十二月廿四日 / 冊子 199頁
慶長十三年十二月二十四日、日向国大崎今田村内の浮免三十石を、渡海時の軍役と高麗退治での働きに対する加増として児玉四郎兵衛尉へ配分した連署知行目録。
年月日未詳 / 冊子 199頁
児玉筑後譜の記事。慶長十三年、児玉四郎兵衛尉が軍功によって十二月二十四日に大崎今田村内三十石を与えられ、喜入久正・平田宗親・山田理安から知行目録を受けたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 58頁
比志島国隆の所領・家財は没収されたが、父国貞が島津義久・義弘・家久に忠勤したことを家久が追慕し、没収財産から祭田三十石を買い求めて国貞の神主寺へ付した。また国貞の未亡人の所領は没収せず、そのまま与えたと記す。
寛永六年十一月廿一日 / 冊子 124~125頁
吉祥寺松岳が、島津義弘の渡海祈念に伴う法華一万部読誦の成就、寺領三十石の寄進と寺社領改め後の扱いを述べ、後継者のため知行の継続を願った覚書。
(寛永八年)五月九日 / 冊子 211~213頁
琉球・唐との取引奉行を務めた川上忠通と、航海中に公銀を救出した町田勘解由へ各知行百石を加増し、留守奥方に勤める東郷肥前守へ年米三十石を与えるよう伝える。父子で奉公する家々への扶持、上知行に伴う知行米半減の共通扱いも指示した伊勢貞昌の書状。
年月日未詳 / 冊子 404頁
家久在府中、児玉利昌が始良(姶良)の地頭職と給米三十石を受けたこと、納殿役として近侍し現地へ赴けないため、三十二歳の子利実を遣わし、児玉吉兵衛らと支配に当たらせたことを記す児玉利昌譜の記事。
寛永十年正月三日 / 冊子 405頁
児玉利実が、寛永十年十二月初七日付の江戸書状を翌十一年正月二日に受け取り、筑後守が始良(姶良)の地頭職と毎年八木(米)三十石を拝領した旨を確認した記録。同夜の兵法初めは式部大輔邸での実施が延期され、仁礼蔵人の宿所で若衆によって行われた。寛永十一年正月三日付で藤原氏利実が署名し、追記では同月二十三日・二十五日の市来八右衛門らによる地頭拝領関係の連絡・進物を記す。本文日付は寛永十一年正月三日で、索引の寛永十年正月三日とは相違する。
寛永十一年六月廿九日 / 冊子 432頁
伊地知左衛門の弟弥右衛門尉を羽月衆として召し移し、当初の二十石ではなく京都からの指示どおり三十石を支給するよう奉行衆へ達した連署達書。
年月日未詳 / 冊子 3頁
北郷久直が島津家久の位牌を龍泉寺に安置し、香華料として高三十石を寄進したことを記す譜記事。
明暦四年六月十九日 / 冊子 370頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0794
鎌田政昭が新納右衛門へ、苦労銀の賦課方法と、身上が行き詰まった平田九郎左衛門・鎌田勘兵衛の各三十石の知行を公儀が買い取り、代銀返済後に返す処置を記した覚書。
天明四年九月(日付なし) / 冊子 748頁/原整理番号 2113/整理ID 2113
島津家の位牌を大円寺に安置するにあたり、蓮心院・青林院・妙心院などを含む位牌の仏餉について、従来の支給に三十石を加えて年三百石とし、すべての位牌の仏餉に充てると申し渡す。今後の位牌安置には米を別に付けず、位牌の先例や位格に応じて銀二十枚・十枚・七枚の範囲で吟味して支給する旨も伝える。九月付の二階堂主計行旦の申渡書。
天保十五年十二月廿八日(本文年号)、同年三月十八日(京都拝領) / 冊子 64頁/原整理番号 102/整理ID 102
田中善左衛門へ高三十石を与える知行目録。伊集院麦生田村、帖佐住吉村福元門、谷山五ヶ別府村浮免の内を列記し、名寄帳は別冊とする。改革開始から担当し、十八箇年にわたって京都・大坂へ詰め、抜群の骨折りと精勤で御用に役立ったことを賞して、特別の思し召しで付与する。同年三月十八日に京都で拝領したことを付し、天保十五年十二月二十八日付で尚敏・久備・隆観・久浮・久宝が署判する。包紙には同日に石見殿から東郷半兵衛へ渡したと記し、十八年をさかのぼると文政十年に当たるとの後注がある。
正月廿四日 / 冊子 441~442頁/原整理番号 552
阿久根蔵からの真米二十七石八斗四升二合と天草で受け取った二石六斗、計三十石四斗四升二合のうち、十石九斗五升九合を田上九郎兵衛・小幡主膳正へ返納し、残りを十九石四斗八升三合とする。支出は人躰八十九人の三千三百二十七人日分十六石六斗三升五合、小者・夫丸十六人の四百十八人日分二石九升、大石小監物主従二人の九十二人日分四斗六升、勝目郷左衛門尉ら主従三人の六十人日分三斗で、計十九石四斗八升五合と記す。残額と支出計には原記載上二合の差がある。
三月二日 / 冊子 323~324頁/原整理番号 171
児玉四郎兵衛が、筑州老から受けた四百五十斛の配分について児玉新四郎へ書き置く。四十八石は母の隠居分とし、母の庶子分として三十石を萬兵衛に渡すことを相談したが、同意の返事が得られなかった。母の勘忍分七十石や出物の扱い、庶子が籠もった事情も述べ、世間の物沙汰がどうであっても萬兵衛の意向に任せ、その時の公儀の判断にも従うとしている。
寛永十二年七月九日 / 冊子 484頁
島津家久が三与に、父藤四郎の知行から以前に与えた二十五石に加え、今回五石を加増し、下屋敷の土地などを配した知行目録。
天正20年9月6日 / 冊子 604頁
広済寺領として、田方五町・分米五十石、畠方四町・大豆二十石、山畠十五町・大豆三十石などを列挙する寺領目録。 田・畠・山畠の面積と収納高を対応させ、寺領安堵の対象となった広済寺の経済基盤を数量で示している。
文禄4年12月12日 / 冊子 926頁
大隅国帖佐舟津村内の大園門・蒲生久徳村浮免などについて、米・大豆合わせ三十石を本田助丞へ給与する。 田畠の配分は現地で相談し、法に反する者がいれば申し出るよう定めた、川上胘枕・新納旅庵らの領知目録。
年月日未詳 / 冊子 590-591頁
慶長五年十月十日、関ヶ原からの帰陣後に島津義弘(惟新)が感状を与えた人数と給付石高を列挙する。頴娃弥市郎・山田民部少輔の各二百石、本田源右衛門百石をはじめ、諸士へ五十石・三十石などを与えた記録である。
慶長十九年七月廿三日 / 冊子 532~533頁
慶長十九年七月二十三日、薩摩国入来院浦名内の下大根田門・平ノ門など高三十石と二十八石余を肝付氏へ知行として宛行い、公役を勤めるよう命じた町田久幸ら四名連署の知行目録。
寛永五年四月十二日 / 冊子 58~59頁
比志島国隆の妻子の居所、後室の知行、国隆と親密な者の調査、家財中の金銀・米の算用と借銀返済、寺への三十石寄進、福昌寺住持、知行替えなどを指示する。さらに御蔵入百姓の調査、高岡への命令、書院普請、唐船来航時の取扱い、作事奉行の人選など複数の行政事項を列挙する。
(寛永五年)四月十七日 / 冊子 61頁
亀山家の兄弟に五十石・三十石、藤野に五十石を与え、町田勘解由次官は加増して計三百石とする。弟子丸越後入道を真幸吉田へ移して五十石、村田刑部少輔を穆佐へ移して旧知行から三百石を返付するなど、知行配分と移住を定める条書。
寛永五年十二月十五日 / 冊子 75~76頁
島津久元・喜入忠続が、市来備前守への加増知行百石、鎌田播磨守の本高三百九十石、恵灯院五十石、月江院三十石、新納刑部太輔の大口方面の替地二百五十石余について支配を命じる連署書下。
寛永十一年十二月朔日 / 冊子 462頁
包丁役に関係する三名の知行について、切米返地として十五石・三十石・二十一石を割り当て、役替わり時の返還を前提としつつ、当時の知行逼迫を理由に二十五石を加えて合計五十石を支配させる旨を記した覚書。
〈延享五年〉四月十五日 / 冊子 89頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0241
島津久甫ら五名が、鶴田村・志布志月野村などにある高三十石の地を慧英寺の寺領として寄附した知行目録。村ごとの土地と別冊の名寄帳を示し、後年も違失なく収納させる旨を連署で定める。
〈延享五年〉四月十五日 / 冊子 89~90頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0242
島津久甫ら五名が、志布志月野村・清水姫城村などにある高三十石の地を小根占安楽寺の寺領として寄附した知行目録。村ごとの土地と別冊の名寄帳を示し、後年も違失なく収納させる旨を連署で定める。
嘉永元年申八月・九月、九月十五日等(条項別日付。安永二年の指示を引用) / 冊子 98~105頁/原整理番号 147/整理ID 147
軍役人数・飯米・馬・旗印と東西海岸防禦の手当を定める本文群。知行百石につき従卒二人・主従三人を出役させ、端高や一人前に不足する引足は小高無高の諸士へ配当する。病気幼少の高持や寺領からも家内の者が出役する。陣中飯米は五十石以上三合、四十九~三十石二合、二十九石以下は御物御構とする。寄合以上から無格小番以下は二百五十石から馬一疋、千石二疋、千五百石三疋、万石は賦で定め、役料高や役職による例外も記す。安永二年の乗馬登城の指示と節倹を引き、改正した旗相印等を別冊図形で確かめ定めどおり準備するよう求める。佐多等の東目海岸・西目海岸の異国船来着、長崎への加勢に備え、物主・小頭・御使番・御目付、兵糧玉薬・小荷駄、諸郷・各番組の配置名簿を載せ、早く出役し用意するよう命じる。東西岸への大砲十挺一組、長崎加勢の六挺一組、御奉書到来後の迅速な出役を定める。西岸打方の物頭六人は一ヶ月二人ずつ繰廻で定め、家来を差し出す場合の人数割と図の場所の固守、急変時の無遅滞と後年の継続を求める。八月・九月等の近江・笑左衛門の署と家老座印を付し、十二の内容区分に分けて記録する。
当月初比(閉門の伝聞、年月日不記) / 冊子 268頁/原整理番号 372の2/整理ID 372-2
中院前侍従通繁七十四歳、押小路遠江権介三十六歳、中山大納言忠能五十歳、岩倉三位貞慶五十六歳、千種左少将有文四十五歳を、官位と御家領・高、居所の表示とともに掲げる一覧。末尾に、この方々が当月初め頃に閉門を命じられたと聞いたとする文を付す。中院の御家領五百石、押小路の高百三十石、中山の二百石、岩倉・千種各百五十石の原単位を維持する。押小路の名はサネキヨとの注を取り、漢字細字は留保。閉門年月や具体的罪状・期間は補わず、聞いた処分内容として扱う。
慶長20年4月2日 / 冊子 172~173頁/原整理番号 87
勝部志摩丞に対し、三百三十石余の高に応じた人数九人、乗馬・馬取・甲持・鉄砲・弓・人足などを割り当てる書下。道具を整え、触日に遅れず二か月分を自賄いして出陣するよう命じる。
年月日未詳 / 冊子 456~457頁/原整理番号 570
正保四年七月一日、南蛮船二艘が長崎へ着いたとの報で、五日に川内衆を揃え、加世田から百三十人を賦課した。高百石以下三十石まで、二十石以下、無足衆で人夫・飯米・兵具負担を分け、各地の兵を召集して長崎方面へ遣わした。その後八月九日に帰還したが、沖の黒船を警戒して麓衆を小松原浜辺へ集め、磯辺・浜辺に一町ごとに篝火と番を置き、十四日に番衆を解いた。番衆の飯米は一人一升三合、真米は一石二十目の相場と記す。目録年月日は空欄である。
2月20日(年未詳、同文参照)~万治元年(1658)の記事 / 冊子 431~437頁/原整理番号 13-5
冒頭は『諸家系図文書』10の7号文書と同一のため島津忠国書状を省略する。参照先は忠国が牛屎へ、菱刈方から詳細を聞いて早く来訪・決断するよう催し、対面を望んだ二月二十日付書状である。久元(牛屎越後守・法名光久)は永享十年の福昌寺仏殿造営勧進で、羽月元忠・山野頼元・北原久兼ら八十七人とともに馬一疋分の代銭を奉加した。歓元(同越後守・法名光秀)は文正二年梅雨吉日に牛屎家系図一巻を作り、薩摩守陳元から元親までの系譜を収め、文正元年から文明九年までの島津家系図・覚書も伝えた。応仁元年、牛屎院の兵乱で一門が日向真幸院へ移り、北原家との親族関係を頼ったこと、元親が大隅守・法名梅岳源春を称したこと、重元が永正六年に六十余歳で鷹書一冊二十五枚を書いたことを記す。天文十二年三月二十七日、実元は牛屎家先祖を覚書や本朝の大家系図と照合して記し、宗実兄弟が源頼政嫡子・仲綱の娘を母とし、建久七年に頼朝の恩免を受けて遠流先の薩摩へ下向し、羽月・山野・平泉を与えられ、子孫が牛屎・淵辺を称したとの家伝を載せる。元継の女子は兄弟不和のなか系図・文書を保持し、国分御前様に仕えた後に加藤金右衛門へ嫁いだため古文書が加藤家へ伝わり、頼朝御教書は公用のため提出されたとする。淵辺主計元継は慶長・元和の上地や宮越との田地争論で知行を減らし、寛永頃には約十石となった。弥兵衛は家に凶事が多く繁昌しないため母方の淵辺へ名字を改め、肥後の聖山伏を氏神として正宮・荒神宮に祀ったとし、元亀三年五月四日の真幸院における義弘と伊東家の合戦で五十四歳で戦死した。元秋は栗野に生まれ、父の戦死後に飯野・栗野を移り、伊東・大友との戦いを経て天正十五年豊後で戦死した。重綱は井手石氏の養子となり川上忠智に仕え、肥前深江・筑州岩屋城・朝鮮で戦い、朝鮮で左手を負傷して退き、加治木・鹿児島へ移って八十四歳で没した。元貞は父元秋の戦死後、十三歳で義弘に召し出され、吉松鶴丸村二十五石と栗野木場村三十石、計五十五石を与えられた。十五歳で義弘に従って朝鮮へ渡り、忠恒に近習・小姓として仕え、良右衛門の名、包清の脇指や衣裳を拝領し、のち帖佐・平松・加治木・鹿児島へ移住して、万治元年に百二十三石を持って隠居した。