島津家久外十一名追悼和歌
年月日未詳 / 冊子 159~160頁
島津家久をはじめ十二名が、実窓芳真大姉を追悼して詠んだ和歌集。月・夢・春・野・仏跡などを題材に、故人への悲しみと供養の心を表す。
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年月日未詳 / 冊子 159~160頁
島津家久をはじめ十二名が、実窓芳真大姉を追悼して詠んだ和歌集。月・夢・春・野・仏跡などを題材に、故人への悲しみと供養の心を表す。
文久元年辛酉4月(重富家を辞する系図記事);後段年月不記 / 冊子 235頁/原整理番号 327/整理ID 327
斉興の御子久光についての御系図記事。文久元年辛酉四月に重富家を辞し、本氏へ復して和泉久光と改称し、その後居所を移したと記す。後段では内憂外患が迫って海内が動こうとするなか、久光がまず公武一和の基を開いて天下の紀綱を張ろうとし、京師・江戸へ赴いて周旋し王室に力を尽くしたと叙述する。これを斉彬の遺託を奉じたものとするのは系図の評価として扱う。移住先の原地名細字は留保し、後段の周旋時期を四月と一括しない。
3月(本文年日不記) / 冊子 247頁/原整理番号 346/整理ID 346
当時の情態を和泉久光が熟考し、別紙の御筆で仰せられたことを尤もでありがたいとする家老五名の申渡。趣旨を謹んで承知して各人の分を守り、士風を廉直にし、一統が和合して尊慮を安んじるよう誠実に働くことを求める。特に郷士以下の末々の者は分限に従った謹慎を第一とし、少しも越過の儀があってはならないとして、支配下の下役にも十分申し含めるよう命じる。本文三月、筑後・大蔵・摂津・但馬・式部。別紙の御筆正文は本切片に載せない。
文久2年戌3月(正文);包紙:戌3月12日 / 冊子 248~249頁/原整理番号 347の4/整理ID 347-3
先日の書取での申渡は遠慮を感じながらも世上不穏のためやむなく伝えたもので、熟考の結果、上威の軽さから群下が類を引くことを国主も自分も心痛すると述べる久光の御筆。非常時に一和して働くべきなのに、王朝を尊ぶ名目を唱えながら、若年者の容貌・振舞いが変わり放恣となっていることを戒める。武士は律儀廉潔を本意とし、武文を研究しても言行が正しくなければ武士とはいえないとする。郷士以下・家来末々も心得違いなく、奉行頭人が支配下へ丁寧に諭し、父兄・同郷年長者からも教えるよう求める。文久二年戌三月、久光の花押No.5。包紙に戌三月十二日御筆とあり、月日を拡大画像で確認した。
6月16日(本文);伝来注:文久2年戌6月16日於江戸 / 冊子 263~265頁/原整理番号 366の2/整理ID 366-2
脇坂へ送った三郎の内用書状写。以前役場を離れて面会し存慮を述べた際の厚意に礼を述べ、熟考したので同列とも相談してほしいとする。第一は久世上京の勅命を受けても停滞していること、一橋・越前を人心が頼りにしているのに大老等の名目・先例へ拘束して政務の協議が半年にも及ぶことを憂える。早く決定して公武一和・国内一致を実現し、人心疑惑や浪人蜂起を防ぐよう求める。次に長州側の上書と上京をめぐる回答が不明瞭で、長門守の出府と大膳大夫との協議が決まらず、措置を翌春まで遅らせれば国中の紛乱を招くと懸念する。叡慮を体して早く上京し是非を相談することを促す。自身は家督者でなくても亡兄の遺言と天下への志から身命を投げて周旋するので、功名栄利の意図ではなく公武一和・国家一致を願う趣旨を汲んで取り扱ってほしいと結ぶ。六月十六日。末注は文久二年戌六月十六日に江戸で三郎が老中脇坂へ内々に出した書付とする。希望・懸念と政策実施を分ける。
本文年月日不記 / 冊子 271頁/原整理番号 378/整理ID 378
松平肥後守が京都守護職を命じられ警衛が行き届くことを安心する一方、一藩だけの奉職では人心の居合がどうかと懸念する沙汰。三郎久光が公武一和の基本を周旋し皇国の誠忠の者であると評価し、今後の公武のためにもよいとして、別段の叡慮による守護の命と、大樹家へも叡慮が貫徹するよう肥後守と相談して務めることを進めたい旨を記す。本文年月日・発給者姓名は不記。「断然守護職被命」の主語の読みは留保し、この書付だけで三郎が幕府の京都守護職に就任したとは認定しない。
元治元年4月11日(御系図記事) / 冊子 356頁/原整理番号 505/整理ID 505
御系図「玉里久光公」の記事。元治元年四月十一日に召しに応じて登闕し、天皇に拝謁して天盃を賜ったとする。伝奏野宮中納言を通じ、帰国を告げられ白布等を賜ったこと、壬戌以来の参預・廷議に努め官武一和の基礎を立てた功を評価する勅語を伝え、従四位上・左近衛中将へ叙任したと記す。参預の功績評価と叙任は系図の叙述であり、壬戌以来という起点は原記載のまま示す。
4月三署;去11日拝謁、甲子4月14日申渡・同日四ツ時祝儀 / 冊子 361~362頁/原整理番号 521の1/整理ID 521-1
少将が去る十一日に帰国の暇を受けるため参内し、装束で鶴の間にて甘露寺頭辨らの対面を受け、天盃を賜ったと報告する。虎の間で伝奏野宮中納言から、帰国許可と扇子三本・白晒五端の拝領、公武一和の基礎を開き昨秋以来の参預に尽力した功による従四位上・左近衛権中将の宣下を伝えられたという。通知到来を受け、一門・嶋津又六・大身らが月次礼の席で、明十四日四ツ時に登城して家老・太守・中将へ祝儀を述べるよう命じる。四月丹波・摂津・但馬の三署、甲子四月十四日の申渡注。拝謁・拝領の報告と官位官職・祝儀指示を分け、少将と昇進後の中将の呼称をそのまま示す。
慶応3年卯10月19日の命令注 / 冊子 421~422頁/原整理番号 597の2/整理ID 597-2
一大隊の上京に際して出船前の直諫、役筋への諫訴、出船後の封書があり、国家を憂い保安を望む赤心として称える。一方、君臣の交際の一字に拘り、小事を大局より先にするような判断を戒める。先帝崩御と若年の今上、藩の置かれた時節を踏まえ、中将の上京・三藩との会議や建言、滞京と療養の事情を述べる。禁闕警衛の人数を差し留めるのは行動の遅速・緩急の判断によるとして、人数の進退が瓦解や難を招く危険も説明する。朝廷も藩も信義と正義を失わず国家を維持し、君臣一和のうえ急変時に力を尽くし、無益な動揺と紛擾を避けるよう熟考を求める口達覚。末尾に慶応三年卯十月十九日に命じたとの注がある。諫訴への評価と危険の見通しは発言者の政治的判断として示す。
万延2年酉正月廿五日 / 冊子 233頁/原整理番号 319/整理ID 319
「雑抄」と題する訓示。寄合以上は将来重役も命じられる身柄であり学問が第一だと、御両殿から繰り返し仰せられ承知しているはずなのに、旧弊が改まらないことを戒める。本職はもちろん文武の道に励み、平日の言行を省察し、礼譲によって和合して放逸を避けるよう求める。弊風を一洗し、先祖の勲功による家名を失墜させず国家の用に立つことを肝要とする。万延二年酉正月廿五日、山吹之間詰人数を二之丸御茶屋へ呼び出した際の仰出と記す。